『いろはきいろ』について
執筆:2003/4/4−8/20

 この試作品にとりかかったきっかけは、1994年に、[青]という物語を構想したことにあります。これは、自分でも何のために書いているのか、わからず、物凄い勢いで書けてしまったものです。
 [青]の物語の主人公は、青い表紙の本を探しています。彼は、「青い本を読まねばならない」と思っています。この本を、誰もが読んでいるらしいのに、自分だけが読んでいないからです。しかし、本当に、そんなことがあるのでしょうか。気の乗らない探索が続き、最後に、この本は、もともと、自宅にあったことがわかります。『青い鳥』のように。
 ところが、見つかったはずの本を、彼は読もうとはしません。手に取ろうとさえしません。物語は、曖昧な終わり方をします。
 この物語を書き進めるうちに、私は、「この物語の主人公は、可能性としての自分だ」ということに気付きました。「過去のあるとき、実際にしたのとは別の選択をしていたら、私はどうなっていたか」という可能性を追求しているらしいということに思い至りました。そして、その結果、「青い本に象徴されるような、ある大切な何かが足りないままでは、どういう道を通っても、現在の自分と同じような苦況に落ちていたろう」という感想を得ました。
 [青]の物語が終わるとすぐに、この物語についての反省が始まりました。私には、この物語が失敗しているように思われました。ところが、どこがどう失敗しているのか、よくわかりません。主人公の生き方は失敗だったと言えます。しかし、失敗した主人公の物語としては、成功しているように見えます。だから、この物語は小さな成功を収めていると言ってもよさそうでした。
 どうやら、問題は、ここにありそうなのです。私の仕事は小さな成功を収めたけれど、それはあまりにも小さな成功なので、誰にも認められないのです。たとえて言えば、生まれて初めてシャボン玉を作るのに成功したようなものです。子供なら、喜ぶことでしょう。しかし、おとなには、喜べないのです。
 私には、小さな物語をいくつか作り出す能力ぐらいは、ありそうです。しかし、それらの作品はあまりにも小粒なので、「読んでやろう」という人が現れる可能性は、ないのに等しいのです。私は、自分が無力ではないという自信を得ると同時に、自分の能力の限界を悟りました。
 [青]の物語の主人公は、ある種の無知に囚われています。あるいは、そのように思っています。そして、「自分の無知を解消するために、青い本を読もう」としています。しかし、作者である私には、次のことが分かっています。彼が探しているのは、まさに彼が描かれつつあるところの物語を記載した本なのです。ところで、彼が彼について書かれつつある本を手に入れることは、論理的に不可能でしょう。だから、私には、「彼は彼の求めていた本を得る」という物語を作ることができないのです。
 この事実は、暗示的です。私は、私の書いた物語の主人公と裏腹の関係にあります。つまり、主人公が青い本を読めないのは、私が私自身の限界を突破できないことの比喩なのです。私が無知だから、主人公も無知なのです。
 私の無知は、少年時代に始まっています。私は、私の少年時代の一時期について、曖昧な記憶しかないのです。幼年時代の記憶はあり、また、思春期から後の記憶もあるのに、その間の数年間の記憶が曖昧なのです。その記憶の周辺に、靄か壁のようなものがあるのです。
 私は、靄か壁の向こうにあるものを思い出そうとしました。ところが、私が思い出したのは、ずっと昔に書いた童話風の物語[宿題]でした。
 [宿題]は、思い出そうとしても思い出せない記憶の断片を素材としたものです。私は、ある記憶を再生する代わりに、その記憶がはっきりとは思い出せないために創作という手段で表現せざるをえなかった物語を再生してしまったのです。
 私は、その原稿を引っ張り出してきて書写するという作業を始めました。その作業を終えると、また、反省が始まりました。すると、少しずつ、記憶が鮮やかになってきました。しかし、その記憶は、私の現在と直接に繋がるようなものではありません。
 私は、記憶がはっきりとしない時期よりもずっと前のことから思い出そうとしました。すると、そのこともすでに書いていたことを思い出しました。今度は、その[肉桂紙]と題する、自伝的な物語の推敲を始めました。
 [肉桂紙]の素材となった出来事について、私は、以前、何人かの人に語って聞かせたことがあります。語り終えたあと、みんなは黙っていました。やがて、一人が立ち上がり、「今の、作り話でしょう?」と言って、嘲笑いながら部屋を出て行きました。
 私は、この話が作り話ではないことを証明するために、当時の写真などを掲載しました。しかし、写真は、実は何の証明にもなりません。写真は、何も語らないからです。
 一方、こうした作業を続けている間に、現実の社会や私の周囲では、さまざまな出来事が起きました。そのことも書きました。自分の身に起きつつあることを記すたびに、古い記憶が連想されました。何かを思い出し、そのことを書き記すたびに、かつて自分の身に起きたことと、執筆時の自分に起きつつあることとが、微妙に連動しているように感じられました。何かを書くたびに何かが起きて、それを追加するという作業が続きました。終わりの見えない作業です。
 1995年、あの神戸の地震が起きました。私は、自分の感情が冷えているのに気付きました。人々は大騒ぎをしているのに、私は何も感じないのです。私は、人間嫌いになったことを自覚しました。ところが、不思議なことに、その直後、終わったはずの[青]の物語が再開しました。再開した物語のなかで、主人公は地震で死んでしまいます。厳密にいうと、複数の結末が構想されていて、その結末の一つが、「主人公は地震で死ぬ」というものなのです。
 私は、そのとき、幼い頃から考えてきた「自分の死」について、改めて考えました。そして、「自分はいつ死んでもかまわないが、私の書きつつあるものは、どうにかしなければならない」と思いました。
 すると、むくむくと湧き出すように、日本近代文学批判が展開しました。この主題は、私のような素人にとって、荷が勝ちすぎるものでした。しかし、私は、死ということを考えました。「たとえ、粗忽ではあっても、思っていることを表現しないまま死んでしまうのは、いやだ」と思いました。そして、若い頃に読みはしたけれど、ついに理解できなかった名作と呼ばれているもののいくつかが、実はかなり胡散臭いものであるということを証明しました。
 社会的余計者を自認する人々は、しばしば、文学や芸術に逃避するようです。私も、文学に逃避しようとしました。ところが、文学の業界も、私にとっては、世間と同じように理解しがたいものでした。人々の座談に加われないときの苛立ちと、日本の近代文学を理解できないときの苛立ちは、ほとんど、同質のものです。一般に、座談は平易で、文学は難解だと思われています。しかし、私にとっては、どちらも同程度に難解なのです。逆説的な言い方をすれば、日本の近代文学は、座談のように粗雑なのです。
 粗雑で難解なやりとりを成り立たせているものは、何でしょうか。それは、いわゆる「日本的な察し合い」というやつでしょう。しかし、なぜ、察し合いが、私をたじろがせ、苛立たせ、疲れさせるのでしょう。その察し合いが本物ではなく、虚構だからです。虚構だから、その虚構がいかなるものかについて無知な私は、「察してやろう、察してもらおう」とすればするほど、周囲から浮いてしまうのです。
 いまだからわかることだけれど、世間の人々は察し合っているような態度を見せながら、実は、必ずしも察し合うことに成功してはいないのです。察し合っているふりをしているようです。この習慣が文学にも浸透し、その結果、曖昧で不可解な文章が名文とみなされることになったのだと思います。読者は、文学作品を察しているかのようにふるまいます。理解しているのではありません。作家のほうでも、察してもらったような顔をしながら、おそらく、理解してもらえたという満足感は得ていないはずです。
 その一例として、私は、夏目漱石の『こころ』を解読してみました。その結果、この作品に登場する明治時代の青年たちが理解し合えなかったように、現実でも、この作品の作家と読者は理解し合えてはいないのに違いないという確信を得ました。夏目作品はもとより虚構だけれど、文豪夏目という評価そのものが、日本の出版業界が消費者を獲得するために捏造した虚構に過ぎないのではないのでしょうか。あるいは、長すぎる夏目ブームでしかないと思います。こうした現象は、外国人の目には、さぞかし奇異に映ることでしょう。
 私は、このような結論を得たとき、「ああ、自分は、もう、駄目だな」と思いました。「私の書くものを受け入れてくれる人は、この国には、いない」と、確信しました。私が夏目を読み破ってしまったからです。この国で文学に携わる積もりなら、夏目を読み破ってはならないのです。私は、ついにタブーを冒してしまいました。ここまでやってしまえば、「私の読解は、正解か、誤解か」という問題ではないのです。夏目を根底から批判してしまえば、もう、終わりなのです。
 あなたも、「漱石先生を批判するなんて、この人、気は確かかしら」と思っていることでしょう。そして、「こんな人の書いたものなど、どうせ、碌でもないものに決まっている。読んでやる必要はないな」と、頭から決めて掛かっているのに違いありません。もし、そうだとしたら、私の結論は正しいのです。
 いつからか、少なくない人々が、変なしゃべり方、変な書き方をしています。隠語でしゃべり、書いているかのようです。しかし、実は、それは隠語ですらないのです。一人一言語とでも言うべき状態にあるのです。「バベルの塔」の寓話で描かれたような、言語不通の状態にあるのです。人々は、おそらく、私と同じように、他人の発言の意図を理解できてはいないはずです。
 いま、これを読むという作業をなさっているあなたも、実は、言葉に対する不安を密かに抱えておられるのではありませんか? ここに書いてあることが、「わかるようで、わからない」のではありませんか。「部分的には理解できるけれど、全体として、何が言いたいのか、よくわからない」という印象をおもちなのではありませんか。そして、そのような印象のよってきたるところのものを、自分の読解力の不足に帰すべきか、あるいは、筆者である私の理性の欠落に求めるべきか、迷っておられるのではありませんか。
 私は、自分の抱いてきた不安と、日本人全体の抱く不安とは、どこかでつながっているのではないかと感じ始めました。私が孤独であるように、人々も孤独なのだろうと思いました。
 さて、拙著が終盤に至るころ、また、[青]の物語が始まります。今度は、それは、ささやかな断章として、泡のように現れて消えるだけです。それは、[青]の物語として提示されてはいるけれど、読みようによっては、執筆時の私に起きていることのようでもあります。また、私の少年時代に起きたことのようでもあります。
 このとき、私の過去の記憶と、現在の私の心境と、そして、私の想像の産物である物語とが、微妙に交錯し、そして、さっと乖離するように感じました。
 『いろはきいろ』は、現在、HPにおいて、漸次、増補改訂が進められています。この作業が終了する見込みは、いまのところ、ありません。増補改訂作業が長い中断に入るという事態はありましょう。しかし、完成する気配はありません。
 あるいは、削除を続け、いつか、それは消滅してしまうのかもしれません。そのとき、私の脳裏から、それを書いたという記憶も消滅しているのかもしれません。おそらく、そのとき、私は、自分の過去を忘れていることでしょう。いや、過去を失っていることでしょう。そして、そのことに気付かないで、まるで、生まれたときからおとなだったみたいな顔をして、口を「へ」の字に結び、とぼとぼと歩いていることでしょう。慢性的な疲労と分かちがたい怒りに身を蝕まれて、人間に似た猿のように、笑いながら怒っているのでしょう
 こうした覚悟が固まってから、やっと、私は、十五年近くも逃げていた母と妹に再会する勇気を得ました。2003年初夏のことです。母は一度死にかけたかどうかして、やっと歩ける程度に回復したところだと、妹は語りました。介護を押しつけられた妹も、病を得ていました。
 再会の後、母から手記が送られてきました。私が『いろはきいろ』で七転八倒している頃、母はすらすらと手記を執筆していたのです。
 私は、母の手記を読み、「私の苦悩の原因は、母親が自分の物語を根本的には隠蔽しながらも全体的な状況は察知させようとしてきたことにある」という推測に、確かな根拠を得ました。
 いまは、母の手記を要約できません。それは、信じがたい物語です。彼女自身にとっても理解しがたいはずの物語です。辻褄が合いません。
 ところで、私のための「青い本」とは、母の手記のことなのかも知れません。だとすれば、「青い本」は実在したのです。そして、私は、それを読むことに成功したのです。
 母の手記を読んで、私は、母に手紙を書こうとしました。しかし、できません。母に通じるような日本語を、まったく思いつかないのです。
 なれ親しんだ苦悩に身を任せていると、『暗くて何も感じないから』(未公開)が発生しました。しかし、これを誰が読みましょう。
 ところで、あなたは、あなたのための「青い本」の存在を信じますか。あなたは、あなたのための「青い本」を読みましたか。
 あなたは、本気で、あなたのための本を探したことがあるのでしょうか。


[ホームへ戻る]


© 2002 Taro Shimura. All rights reserved.
このページに記載されている内容の無断転載を禁じます。