戦国時代、文禄元年正月。幼名辰千代(忠輝)は徳川家康の側室茶阿の方を母として生まれた。しかし悪相だったために家康に疎んじられ城から出されてしまった。養育係の花井主水生(はないもんどのしょう)と共にすこやかに自由奔放な少年時代を送り、7歳で長沢松平家の家督を継ぎ9歳で松平上総介忠輝と改めた。忠輝は異国人や、市井の人すべてに分け隔てなく接し、勉強家で懐が深く可能性に溢れ人目を引く凛々しい若者に成長したのである。 家康は将軍職を既に秀忠に譲っていたことを悔やむほど忠輝は大器であったようです。 忠輝は外様大名の伊達正宗の娘 五郎八姫 と婚約していた。世話役の主水正も思いを寄せるようになる。 【戦国の世は様々な大名が自国を拡大し権力を増大し、国を支配する為に権謀術数混ざり合い複雑な人間模様が織り成しているので、余程の歴史家でなければ誰がこっち(徳川家)で誰があっち(豊臣家)なのか覚えられませんよね。】 伊達政宗は娘、五郎八姫が忠輝に嫁いだことにより、忠輝を担ぎ出そうとするが異国人から多いに学び開国思想を持っていた進歩的な忠輝は、罪の無い庶民を傷つけるばかりの戦ほど愚かで無益なことは無いと考えていた。豊臣家とは戦わないと宣言する忠輝でした。忠輝は秀頼とは年齢が近いこともあり、不思議と意気投合し、変わらぬ友情を誓っていたのである。 五郎八姫との婚礼の夜、忠輝は大坂城へ秀頼を訪ねる。2代将軍秀忠は豊臣家を壊滅させようとしているが、臣従の意があれば一大名として残しても良いという家康の意を伝える。しかし未だ豊臣家の威光を信じる淀君の苛烈な性質に阻まれてしまうのでした。 一方秀忠は忠輝を婿に迎え勢力の拡大を図ろうとする伊達政宗らキリシタン大名を封じ込めようとしていた。秀忠はキリシタン禁止令を発布して、南蛮病院を取り壊してしまう。宣教師にイスパニアへ五郎八姫とともに一緒に行こうと誘われた忠輝の心は揺れるが、、、。 秀忠の武芸指南役であった柳生宗矩一族に忠輝はねらわれる。が忠輝が人並外れて武芸に優れていることがわかり、秀忠は忠輝排除に躍起になる。これを知った家康は忠輝と五郎八姫をイスパニアへ送るようにとの、伊達政宗の進言を聞き入れるが、藩を捨てることになることの責を取り、花井三九郎が自害する。これにより、忠輝はイスパニア行きを断念する。 大坂冬の陣そして夏の陣がおこる。 忠輝は大坂城の攻撃を命じられても”不戦の誓い”を交わしたこの秀頼とは戦をしないという心情でいた。この気持ちを汲んだ主水正は影武者として戦場へ臨んでいく。 忠輝は戦場を抜け出して、大坂城で覚悟を決め静かに最期を待つ秀頼のもとを訪ね親しく酒を酌み交わす。忠輝の戦場不在を知った秀忠は家康にこのことを知らせ、忠輝の断罪を求めるが退けられてしまう。家康はこのことで、秀忠が一層忠輝追放に突き進むであろうことを察し、さらに我が子秀忠や忠輝を伊達政宗の野望から逃れさせる為に忠輝を10年間勘当すると言い渡し、主水正に生き形見として「野風の笛」を託した。それは忠輝を鬼っ子として見誤り、将軍職を選び誤った事への詫びであると同時に確かな親子の愛情の証しでもあった。 家康は秀忠によって柳生一族に狙われるが、忠輝とキリシタンたちに救われたことから、自分の命まで狙わせた秀忠を勘当し死ぬまで許すつもりはないと告げる。 家康はキリシタン達を地下に潜伏させ保護した。忠輝は五郎八姫が争いに巻き込まれないようにと、離縁を言い渡し、伊達家へ帰すのでした。 主水正は江戸城にて猿楽を舞う天女に紛れて踊るが、柳生宗矩に見破られる。そこで、秀忠に箴言する。忠輝にみだりに「野風の笛」を吹かせて強大な兵(キリシタン侍)を呼び起こすことの無い様にと。そして切腹し果てる。 柳生宗矩によって「野風の笛」を渡された忠輝は主水正の死を悼み、笛を手に一人佇む、、、忠輝の愛した人々は皆去ってしまった。毅然と面を上げ歩みだすのであった・・・・・。 幕 ☆「野風の笛」とは何か? 実際は、家康が忠輝を勘当した直後に、彼に生き形見として、茶阿局を通して渡していて、今も貞松院に残されているそうです。 一節切(ひとよぎり)という種類の30cm程の縦笛でこの種の笛は戦国時代の大名が珍重していた。尺八では長すぎて、琵琶では重すぎたので、戦場にもっていくにはちょうど良い楽器だったようです。戦場での物憂さを癒す為に武将は笛を持参していたようです。 現在ではこの笛を吹ける人は誰もいなくなってしまったそうです。 【惜しいですね。】 もともとは織田信長が使っていたもので織田家の紋が入っている。豊臣秀吉に渡り、さらに家康公が譲り受けたものでそれぞれの時代で天下一になった武将がバトンタッチしていた。それを忠輝公に渡した家康の心情は、、状勢上やむを得ず勘当し、(決して、悪相だったからではなかった)将軍職を秀忠に継がせてしまった詫びの気持ち、本心では忠輝を思いやっていたことの証しと言える。忠輝も家康のその意をきちんと感じていた。これが無く勘当されていたとしたら忠輝の心はもっと荒んだ心でいたかも知れず、この笛がその先67年間を生きる力を与えたのではないかという。 そこが大事なところなんです。≪貞松院第25代山田和雄住職談より≫ |
☆五郎八姫のその後は? そもそもこんな読みにくい名前をなぜつけたのでしょうか? 仙台に帰ってからどのように暮らしていたのでしょうか? 何歳まで生きていたのでしょうか? ネットの検索 天麟院 から詳しいことがわかりましたので、是非ご覧ください。 武田調略隊がゆく http://www9.plala.or.jp/takedagun/siseki/Miyagi/Kita/Tenrin-in/Tenrin-in.htm |