西丸震哉の世界



著作リスト(一部)


JK.クマを困らせた話(尾瀬)



 内地の山の中で熊に出会ったときはさすがにまいった。図体の大きな月の輪熊である。

 いやな奴に出くわしたな、と思ったが仕方がない、飛びかかってきたらこれを持って応戦しようと、ピッケルを握りしめたまま突っ立ていた。

 相手のほうでも“いやな野郎に合っちゃったな”と思っているにちがいない。すごい敵に出会っちゃったと感じていることは、警戒の目つきでわかるのだ。五メートルの間隔を置いて、双方が立ち上がったまま、お互いにすくみ上がったまま、どちらか一瞬でも動いたほうが負けだ。むかしから熊に出くわしたら死んだふりをしろなどといわれているが、私の場合は、そんな余裕などまったくなくて、出会い頭にぶつかってしまったのである。かりに死んだふりをしてみても、熊は相手がほんとうに死体かどうかを、転がしたりひっかいたり、匂いをかいだりして確かめるので、危険率は非常に高い。むしろ、にらめっこしたほうが得策なのである。そのかわり、何十秒でも何分でも、じっとにらんでいなくてはだめだ。

 そうしながら、頭の中で相手の出方とこちらの反撃の間合いを考慮したり、いろいろ考えをめぐらせる。そうすると、思考能力の点では、やはりこちらのほうが少しクマよりは上であろうから、相手としてはどうしていいかわからなくなるらしい。ただし、あまり相手の心情を追いつめると、絶望のあまりヤケッパチで飛びかかってくるおそれがある。

 そこで、ちょっとこのあたりでスキをつくってやろうと思い、まばたきしてほんのちょっと視線をはずした。

 その瞬間、“待ってました”といわんばかりに、もうれつないきおいで逃げて行った。

 北海道のヒグマの場合も、こうなるかどうかは知らないが、いつも警戒しているので幸いにしてヒグマと正面衝突したことはない。アラスカの灰色グマは北海道のヒグマと同族だが、ヘタをすると人間を見つけたとき、エサが来たと思われてしまう可能性があるので非常に危険だが、内地の月の輪熊と人間とは食い合いの関係がないので、悪さをすることはよほどのことがないかぎりあり得ない。

 四つ足の動物の目から見ると、人間はベラボウに大きい動物に見えるらしい。正面から見た場合、体の後ろがずうーっとつづいているように思えるもののようなのだ。

 熊といえば、尾瀬の山奥の原っぱの隅でテントを張って夜営したとき、おもしろい経験をした。おそらく向こうにとってもそうだっただろうと思う。

 テントの中でチビチビ酒を飲んでいると、近くのヤブからバサバサとすごい音が聞こえてきた。こんなところには人がくるはずはないので、クマにちがいない。まずいことになったナと弱っていると、次第に物音はテントに近づき、やがてグルグルと回りはじめた。

 ピッケルの用意はしていたが、テントの支柱につかってしまい、武器のかわりになるものがない。そうだ、ナタがあったな、せめてこれでもと、そっとナタを握りしめて、もしもテントに首でもつっ込んできたら、鼻っぱしでもたたいてやろうかなと考えていた。

 ところが、今までグルグル回っていたのが、急にパタッと静かになった。いったいなにをしてるんだろうと、そっと膝立ちになり、通気口の覆いを上げて外を眺めようとした瞬間、ワッとのけぞった。

 穴のすぐ向こう側で、やはりクマが内側をのぞき見しようとしていたのだ。私がのけぞるのと同じく、相手のクマものけぞったのが見えた。次の瞬間、クマはものすごいいきおいでパタパタパタパタ一目散にヤブの中へ向かって遠ざかっていった。まだ人を見たことのない若いクマだったのだと思うが、彼もよほどびっくりしたにちがいない。夜でもあんがいの星明かりで、相手の表情までよく見えた。

 腰は抜けなかったが、ヤレヤレと思ったらガックリし、あらためて酒を汲んで双方の無事を祝して乾杯した。

 きっと彼も、いい経験をしたと思っているにちがいない。彼には通気口にぬうっと映ったものが人間の顔だなんて知るよしもなく、目玉が一個だけの変にブワブワした不定形の動物がいきなりギロリとにらんだのだからほんとうにびっくりした、この世には恐ろしげな生き物がいるもんだなあと、つくづく安堵の胸をなでおろしたことだろう。



JY.幽霊には足があるという話(尾瀬・穂高)



 円山応挙の描いた幽霊は、おそろしく迫真力がこもっているというか、おっかないので有名だが、どういうわけか足がない。以来、日本の幽霊には、足がないことになっているが、これはたいへんな間違いであると私は思っている。同じ人間でありながらヨーロッパやアメリカや中国の幽霊には足があって、日本列島に出没する幽霊だけは足がないというのは、納得しがたい話である。
 それというのも、私がこれまでに出会った日本の幽霊には、すべて足があったからだ。それは女の幽霊でも男の幽霊でも同じだ。
 応挙の幽霊図には何故足がないか。理由は二つ考えられる。一つは、彼には足のあることがわかっていたのだが、足まできちんと描くとどうにも人間くささが出てしまって、あのゾッと迫る感じが表現できないということから、“芸術的省略”を試みたということ。もう一つの理由は、応挙だかだれだかは幽霊を見るには見たのだが、びっくりして足元までよく見るゆとりがなかったのではないだろうか、ということである。
 私は幽霊に出会うと、すぐ足元を見ることにしている。
 何度か山で見た男の幽霊のなかで、本州の最奥、尾瀬ヶ原北方の山中、私が岩塔盆地と名付けた湿原地帯で出会った例を紹介しておこう。
 私のほかに五人ほどの仲間で、テントを設営して泊まり込んでいたある日の夕方、まだ明るい時刻に、山の奥の側から一人の男が近づいてきた。こんな辺鄙なところに人がやってくるとはめずらしいなと思って見ていた。前にそのあたりのことを山の雑誌に書いたこともあるので、それを見てやってきたのかな、と思った。
 だんだん近づいて、水たまりの水をはねながらやってくる。彼は、私がはいていたのよりも立派な登山靴をはいていた。私たちはテントを二はり張って、ちょうど夕飯の炊事の用意か何かをしていたときで、みんな手を休めてその男を見ていた。
 かれは、十数メートルほどの近くにまで来ていながら、われわれの話し声にも知らん顔、全然こちらを見むきもせずにそのままスーとわれわれの横を通りすぎて行く。
 私は前に穂高岳の下、横尾谷の岩小屋で、完全装備をした若い男の幽霊に同じような無視のされ方を受けているので、また出たなと思ってすぐに男のあとを追いかけた。が、ちょうど原っぱの途中に張り出している林の角で一瞬のうちに姿を見失った。
 私も、すぐにその場所へ行って探したが、その向こうの原っぱにも姿は見えない。原っぱの中をあちこち駆けまわり、「オーイ」と呼んでみたけれども、何の反応もない。夕暮れどきだから、われわれの設営した場所をはずすと、そのあたりには泊まり場がないはずなのだ。もっとも、ヤブの中であろうと何であろうと、よほど自信のある人なら、どこでも寝てしまえるかもしれないが。
 山でお互いに出会えば、たとえ言葉は交わさなくても、相手を見てちょっと表情をくずすぐらいのことはするはずなのだ。
 人間一人もぐり込めそうな場所を、あちこち残らず探したがまったく人影も何もないのであきらめて帰ってきた。
 みんなを怖がらしてもいけないと思い、知らん顔をして戻ったところ、私が何も言っていないのに、仲間たちは真っ青な顔でガタガタふるえている。彼らも、おそらく察しがついたのだろう。
 「いや、心配するな、よくあることだよ」
 と、なだめたものだ。
 穂高にしても尾瀬にしても、われわれの目撃した幽霊には足があった。もちろん私がむかし出会って、しばらくの間つき合わされた女の幽霊にも足があった。
 日本の幽霊にもちゃんと足があるのだ。



JA.赤い鼻緒の下駄をはいた幽霊(釜石)



 戦後のドサクサがつづいていたころのこと。東北の港町・釜石の水産試験場に勤務することになり、一人でノコノコ出向いて行ったのだが、やがて幽霊が原因で東京に引き返す破目になるとは、そのとき、とうてい予想だにできないことだった。
 二か月ほど過ぎたころだった。土地の人とも親しくなり、夜、仕事を終えたあと、、しばしば麻雀にさそわれて出かけるようになっていた。住んでいた所が海に近い場所だったので、一勝負終えると、岸壁沿いの道をブラリブラリ歩いて帰るのだが、いつも真夜中になることが多かった。
 六月のある晩、いつものように岸壁通りを歩いていた。私の勤めている試験場の中にあるネグラへ行くには高さ一メートルほどの試験場のコンクリート塀の前を通っていく。そのコンクリート塀に、見慣れない女の人が寄りかかっていた。この塀は、昼間、買い出しの人たちがよく寄りかかって休む場所になっていたので、べつに気にもとめずに、その前を通り過ぎようとした。
 ちょうど、その人の真ん前を横切ろうとしたとき、それまではっきりと見えていた姿がフッと消えてしまったのだ。アレッ? と思って反射的に立ち止まってキョロキョロあたりを見回したが影も形もない。妙だな、とは思ったが、きっと麻雀で疲れているせいだろうと思い、そのままネグラにもどって寝てしまった。
 数日後、やはり麻雀によばれた帰り、同じ道を通って同じ場所を通りかかった。するとそこに、女の人が、やっぱり塀に寄りかかっている。二、三日前のことがあるので、今度はよく注意してみようと、前を通り過ぎるときその人から視線をそらさず、じっと凝視したままちょうど真ん前を通り過ぎようとすると、やはりフッと消えてしまった。
 年は二十六、七から八、九というところで、細おもてのなかなかの美人だったが、目の前で急に姿が消えてしまうというのは、やはり気持ちのよいものではない。どうやら“お化け”らしいとわかったが、どうして真ん前を通り過ぎると消えてしまうのか。
 今度出会ったときは、前を横切らずに、横から近づいてみようと思い、そのチャンスを待っていた。
 三度目。同じ場所を同じ時間に行ってみると、やはり例の女幽霊が塀に寄りかかっている。そこで横から彼女をじっと見ながら近づいた。思ったとおりすぐ傍まで行ったが消えない。お化けに足があるかないかよく見ようと思い、しゃがんで彼女の足元を見た。彼女には足があり、赤い鼻緒の下駄をはいていた。美しい素足にはウブ毛が生え、ちゃんと爪もある。
 一見幽霊とは思えないので、「今晩は」と声をかけた。だが、彼女は反対側の釜石湾のかなたを見つめたまま、一言も物を言わない。私が何を話しかけても黙っているので、「失礼ですが、ちょっと突っつかせていただきます」と断った上で、彼女の肩のあたりを指先で軽く突ついた。と、その瞬間、すぐ目の前の姿がスッと消えてしまった。私はとたんに、背筋にゾーッと寒気が走った。
 一度姿を消すとそれっきりだった。しかし私は、そのときはじめて、幽霊にはちゃんと足があることがわかったと同時に、その美人幽霊にいたく関心を抱いた。



JU.飢えと共存してきた動物(栃木)



 人間もふくめて、もともと動物というのは、いつも飢えと隣り合わせに生きている存在だった−とコトのはじめから言いだしたら、いま、なんでもあきるほど食べることができる飢えを知らない人たちは、自分にはなんの関係もない話だと、シラケてソッポを向くにきまっている。だが、動物は(人間も動物の一種だが)、残念ながら、飢えと共存していた。しかもそれが、ごくふつうの状態だったのである。
 たまには腹いっぱい食べることができた時期もあったかもしれないが、それはほとんど“瞬間的”なことで、すぐにだめになってしまった。なぜだろう。
 動物にはそれぞれある一定の“縄張り”があり、それが行動範囲だとすると、その範囲内の餌をとって食べる、その場合、動物が一種類であろうと何百種類であろうとかまわない。その範囲内にある可食物を考えるとき、かりに百ぴき分の餌があるときには、その餌を食べる動物は、あっという間に百ぴきになってしまう。
 そうなるまで、つまり百ぴき分の餌に対して動物が十とか二十ぴきの場合だと、食べたい放題なのだが、それはせいぜい数週間あるいは数か月のことにすぎない。
 かつて私は栃木県の山奥で次のような実験をしたことがある。まず一定区域内のウサギを全部消滅させて、そのあとどうなるかを観察する。するとその区域外にいたウサギが、縄張りの外に新天地ができたとばかり、たちまち入り込んで住みつく。
 そのとき、めすウサギの腹の中にいる子どもの数を調べてみると、平均七、八ぴき。つまり、食べものにゆとりがあると、すごい速さで増える。
 ところが区域内の餌にみあった数量に達したとき、めすウサギの腹のなかには一ぴきか二ひきしか子どもがいないのである。
 餌の絶対量が不足しているということをどうしてウサギが認識するのかまではわからないが、とにかく、ちゃんと調節できていて、無限には増えないようになっている。
 その増え方がちょうど収支とんとんのところでとどまれば、全員がてきとうに食べていけるわけだが、ときどき定量オーバーしたり、餌のほうが自然に減ったりすることはザラだから、そうなるととたんに飢えてしまう。だからうまくいってもトントン、だいたいがギリギリで生きていられるという限界すれすれの状態がつづく。
 このように自然界では、飢えるというのは当たりまえのことであって、ただ人間にとっても動物にとっても、飢えは非常につらいことであるから、できるだけ楽をしたいという“願望”がつねにあるといえる。


JK2.キツネははたして人をだますか(秩父)



 秩父の山で、ある夜、道のない稜線を歩いていたときのことである。
 谷を一つへだてて数百メートル離れた尾根筋を、ちょうど提燈でも灯したようなポッとした明かりが、あとからあとからつづき、全部で七、八個、ほぼ等間隔にゆっくりと登っていくのを見たことがある。
 “ハテのあの尾根には道はないはずなんだがな”と思って見ていると、途中でフッと消えてなくなってしまった。
 キツネの火というのが、そんな現象だというが、はたしてキツネのせいなのか何なのかわからないが、空間を飛んでいるのではなく、まるで提燈行列でもしているような現象があることだけは認識した。
 キツネが持っているという“宝珠の玉”と称するのは、実はウサギのシッポの食い残しで、これがキツネの巣などにころがっているうちに腐って燐光となって燃えるので、ほんの少しポウーッと明るくなる程度のものだ。秩父の山で見た明かりは、それとはまったくちがっていた。
 発光体にもいろいろあるが、私のいなかの木曾に泊まっていたとき、夜中に小便をしようと思い、別棟の便所にいった。ふいと見ると、軒先を直径三〇センチほどの火の玉がプワプワ浮いてとびまわっている。私はすぐに蝶をとる捕虫網を持って出て、サッとすくい取り、明るいところへ持って来て、そっと開いてみた。
 これは蚊柱だった。
 一匹のメスの周りを何十何百というオスの蚊がとり囲み、おそらく羽に発光バクテリアでも付着しているためだろうか、それが発光体となって光りながら動くため、まるで火の玉がプワプワ浮かんでいるように見えただけのものだ。しかし気持ちのわるさとしてはかなりのものだ。
 あるとき、山里で人の家をたずねる用件があった。前にも何度か訪問したことがあって、本道をまっすぐに行ったつき当たりがその家なので、非常に単純明快、なんの苦労もいらない。
 ちょうど月夜の晩で、私が向かっていく方向の斜め左後ろに月があった。途中に小さな橋があり、その橋を渡ってすぐ右手の山すそにお稲荷さんがある。遠くからは赤い鳥居が一つ見えるだけ。その鳥居を右に見ながらまっすぐに田んぼ道を行くと、その家に着くはずであった。
 さて、橋を越え、お稲荷さんが右にあるのを見て歩いていくと、また橋がある。
 ハテ、いま渡ったと思ったがな、たしか橋は一つしかないはずだが。
 とは思ったが、記憶ちがいということもあるので、その橋を渡って行くとお稲荷さんが右側にある。しばらく行くとまた橋があるのだ。いちばんはじめのは気のせいかな、ですんだのだが、今度はまちがいなくおかしい。こんなときは月の位置を見て確認すれば絶対に間違うことはない。長時間なら月の位置も変わるが、せいぜい小一時間とかからない場所だ。
 後ろをふり向けば、左後ろにちゃんと月がある。方向に間違いはないことを確かめて、一本道を進んだ。
 橋を渡ると右手にお稲荷さん。ところがまた橋だ。ちょっとしつこいなあと思いながらまっすぐに行くとまた……。五回も六回も橋とお稲荷さんがある。ヤケを起こしてももう少し行ってみようと歩き始めると、またである。もはや、物理的に解釈のしようがない。
 これはもう、どこまで行ってもキリがないと思い、あきらめてまわれ右をした。月が右手前方にある。左手にお稲荷さんが見え、ついで橋を渡った。そしてそれでおしまいだった。
 もう一度行き直したら、あるいはおもしろいことが起こったのかもしれないが、いいかげんバカバカしくなり、“もしかすると、おれは今日、アタマがおかしくなったのかもしれないから、早いとこ帰って一杯飲んで寝ちゃおう”と、スタコラ帰った。
 べつにおもしろがっていたわけでもないし、ボケていたわけでもなく、変だと気づいてからは緊張のしっぱなしだった。できるだけ客観的に自分の位置を確かめる目安として、月の位置を必ず確認して歩いた。にもかかわらず、そういう現象が起こったのである。
 お稲荷さんがあるから、それはキツネのしわざだ、と言ったほうがおもしろいかもしれないが、そうだと判定できる材料は何一つない。ただなんとも説明しようのない現象がそこにあったということになる。



WY.ヨガの聖者から伝授された雨やみの術(インド)



 二十年以上も前になるが、インドへ行ったとき、ガンジス川の源流に“生き神様”といって崇められているスリ・スワミ・シバナンダというヨガの聖者がいると聞き、訪ねてみることにした。
 ヨガの聖者は、もと医師をしていたのだそうで、ブクブク肥っていて、あまり聖者らしくも見えなかったが、世界各国から来た人が弟子になっていた。そのとき、八十六歳だということだった。
 「日本から来ました。三日ほどひまがありますので、いさせてください」
 といって頼むと、「よくきた、よくきた」と、喜んで承知してくれた。
 「ところで君は何か特別なことができるのかね」
 と老師が聞くので、“何か”というのはどういう意味かをたずねると、
 「今まで摩訶不思議な経験をしたことがあるか」
 というのである。
 摩訶不思議なこととは、はてどういうことかなと考えているうち、ふと思いだしたことがあった。
 かなり以前のことだが、あるとき、十人くらいのグループで富士五湖の西湖に行き、湖畔でブラブラ遊んでいた。すると、湖の向こう側ドス黒い雨雲がひろがり、バシャバシャと水しぶきを立てながらドシャ降りの雨が私たちのほうへ急速に近づいて来た。
 荷物は全部、かなり離れた茶店に預けてあったからだれも雨具を持って来ていない。
 しまった! と思ったがどうしようもない。あわてて茶店へ駆け戻ったにしても三十分近くかかる。それではみんなズブ濡れになってしまう。
 そこで、何とはなしに両手を上げ、待ってくれ! と思わず叫んだ。すると、とたんに、ぴたりと雨が待ったのである。ひとかたまりに集まったわれわれの二〇−三〇メートルくらい先でバシャバシャ猛烈に降っているのだが、そこで止まったままこちらへこない。
 「おい、いまのうちだ! 雨が待っていてくれるから、茶店まで駆けもどろう」
 といって、みんなで駆け出した。その後から雨足もどんどん追いかけてくる。後ろをときどき振り向きながら駆けているうちにへばってしまったのが出て、もう濡れてもいいやといって、走るのをやめてうずくまった。すると、今まであとを追いかけてきた雨足も、そこでまたピタリと止まっている。
 「雨が待ってくれているじゃないか、雨に悪いから早く行こう」
 ヘバッている仲間をせかして、ノロノロ歩き始めた。ところが、まるでわれわれの速度に合わせるように後ろから雨がついてくるのだがけっして追い抜かない。歩いたり小走りに走ったりしてようやく茶店にたどりつくき、店へ入り込んだとたん、ザァーッとものすごい雨になった。
 そのことを想い出したので、トツトツとこのときのことを英語で老師に話すと、「それでは、ここにいる間、雨やみの術をマスターして帰りなさい」という。「どういうことをすればいいのでしょう」と聞くと、「どうということはない、君のできる範囲のことを、ここで奉仕してくれればそれでよい」というので、翌日からそのあたりに住む人たちの中で奉仕活動をすることにした。
 ここには、ウミでドロドロになったライ病患者がたくさんいて、とても病院などとは呼べないようなそまつな建物で、患者の手当てをしている白人やインド人がいる。その中に入って私も包帯の取り替えなどをウミで手をベタベタにしながらやっていた。ライ菌というのは弱い菌で、空気中では三十分も生きていられないほどだから、ライ病はそんなにかんたんにうつるものではないという知識を持っているので、私は平気だった。
 まる三日がすぎ、あとの日程があったので、これで帰りますと言うと、老師は、
 「よくやってくれた。君は今後雨やみの術がマスターできるはずだ。自分の都合ではなく、人助けになると思ったとき、その術を使いなさい」
 というので、そうすればいいのかとたずねると、必要なときに心の中で思うだけでいいのだという。何が何だかわからなかったが、とにかく「ありがとうございました」と礼を述べ、三日間の奉仕活動で心が洗われたような気分になってアシュラム(修行場)を辞した。
 なにしろひどい場所で、泥で囲われた窓もない所で、南京虫がぞろぞろ出てくる。たまたま寝袋を持っていたので、目の部分だけ開けて周りに防虫剤を塗ってようやく侵入を防いだほどだった。
 それから五年ほどたった昭和四十年の一月二十九日のことである。その日は私の結婚式の日であった。くわしいことは省くが、インドへ行ったことがきっかけで結婚することになったのが現在の家内だ。結婚式の前日は、たまたま冬の嵐が九州から関西の方向にかけて時速四〇キロのはやさで東進していた。そのままだと、翌日はちょうど東京を通過することになり、とんでもない大嵐になってしまう。幹事役に当たっていた人たちが「よわったな、どうしよう」と心配していた。パーティー形式の結婚式で、出席者が百何十人か予定されており、お年寄りが多かったので、気が気でないらしい。私も、困ったなと思った。
 そのとき、私のことをよく知っている幹事役が、
 「そうだ、きみがよく話しているどこまでホントかわからない例の雨やみの術をひとつ使ってみたら?」
 と言いだした。
 あまり自信はなかったのだが、それではというので、その夜、寝しなにふとんの上に座り、“実は明日結婚式でいろんな人がくるのだけれど、大嵐の中を無理してきてもらうのは申しわけない。どうしていいかわからないけど、とにかくよろしく”とブツブツ言って寝た。
 そうすると、真夜中に大荒れになった。あとで調べてわかったのだが、関西あたりから時速七〇キロくらいにスピードを増し、はやばやと通過して行ったのだ。翌朝、目を覚ますと空は快晴。明け方、数センチばかり雪が降った。あたり一面、真っ白の銀世界。
 結婚式の始まる昼過ぎには、道路の雪はすっかり融けて乾き始めていて、普通の靴で歩いてもさしつかえないほどの無風快晴の上天気になったのである。
 幹事役が挨拶に立って、まず天候にふれ、雨やみの術の一件を紹介した。いきさつを知らない人たちは、幹事の説明をキョトンとした顔で聞いていた。
 それ以来、私は、いよいよ困ったときに何度も使って成功している。山の天気は非常に変わりやすいものだが、たとえばドシャ降りになる直前山小屋に飛び込み、いろいろ日程の都合があって困るのでその夜「どうか明日はよろしく」と頼むと、翌朝天気がよくなっている。偶然にしてはあまりにも的中してそのとおりになるので、やはりインドで授かった術のせいだと思うほかないようだ。
 ただ、ちょいと頼めばかんたんにいつでもそうなるといった自分勝手な都合ではよろしくない。それは究極的には悪意になってしまうからだ。たとえば、朝鮮半島の向こう側に低気圧が停滞している場合、なぜ停滞したかを考えると、実はその東側の高気圧が停滞したことでしかない。それをずっと迫っていくと、北半球全部が停滞したことになる。そういう状況でなおかつ「明日は都合が悪いのでよろしく」といったとすると、それは地軸の回転にまで影響するようなたいへんなエネルギーが必要であり、結果的にはどこかでたいへん苦しむ人が発生することになる。
 そうした体験を通してその後いろいろと気象状況を観察していると、ときたま妙なことに出くわす。
 たぶん十何年も前だったと思うのだが、ヨーロッパに“クリスマス寒波”と呼ばれる大寒波が来襲して、あちこちでバタバタと人が凍死したことがあった。二週間もすると、その大寒波が中国大陸を通って日本列島に押し寄せるだろうと予想され、気象関係者が大騒ぎしていたことがある。
 ところが黄海のあたりか、もっと日本に接近した所で、ストンと消滅してしまい、予報がまったくの空振りに終わった。
 そのあと、私のことを知っている何人もの人から「おまえ、やっただろう」といわれて困ってしまった。なかには電話までよこして「またやったね」というので、「いや、やってない」と答えると、「なにも隠さなくてもいいじゃないか、別に糾弾してるわけではないんだから」と言う始末だ。「いや本当にやってない」と一生懸命に弁解した覚えがある。 そのとき私が考えたことは、どうも天気をいじるというのか、気象エネルギーを変化させる力を持ったすごい人物が、どこぞにいるのではないかということだった。それがだれであるか、本当にそうなのかは知らないが、ともかく私のあずかり知らぬことである。
 もう一つだけつけ加えておくと、私はどちらかというと横着者で、むずから好んで苦しい状況に立ち至りたくないので、いつも逃げ道を探している。それが、自然に、さまざまな危険を前もって避けてしまうという自分でもよくわからないある種の能力というのか感覚というようなものが、どこかにあるらしく、「おまえにくっついていると安心だ」とまわりの人から思われている。
 山小屋であやうく災難を逃れたことがあったり、乗物での事故も何度か避け得たことがあるため、もしかするとそうかもしれない。だが、話はこれくらいでとどめておこう。書きだせばキリがなくなるし、経験の一部は他の書物でも書いておいた。もし、興味をお持ちなら、退屈しのぎにでも読んで頂きたい。



WN.ニューギニアの白いオウム(ニューギニア)



 ニューギニアの山地を歩いていたとき、体調三〇センチほどもある大きい真っ白なオウムが、そばの森の中からふいに飛んで出てくると、私の肩にひょいととまった。頭のてっぺんに黄色い毛のある野生の白オウムだ。
 人間を知らないわけではないと思うが、おそらく原地人も獲ったりしないためだろう、まったく怖がる様子がない。そればかりか、やおら片足を上げると自分の頭を指して、“ここをかいてくれ”という。といってもしゃべるわけではなく、そういう態度を示すのである。
 その指した頭の部分を見ると、丸く毛が抜けた個所があり、どうもそこがかゆくて仕方がないらしい。そこで指先でカリカリかいてあげると、気持ちよさそうに目を細めている。
 いくら相手が気持ちよくても、十分も同じことをくり返していると、いいかげんこちらだっていやになる。
 「さあ、もういいだろ」
 といって頭をなでてやって、かくのをやめると、とたんにオウムは怒ってバタバタ飛び上がり、近くをぐるりと回って戻ってくると、再び肩にとまり「もっとかけ」という仕草をするのだ。
 しょうがない、もう少しつきあってやろうかというわけで三十分も静かにかいてあげてから、  「おれはおまえの召使いじゃないんだよ、もういいかげんにして帰れよ」といって両手でつかんでポーンとほうり上げて帰してしまう。
 途中で邪険にあつかうと、相手はカッと怒って「もっとかけ」と命令してくるのだからたまらない。鳥のことばなんて知らないが、お互い、感情は通じ合うものである。
 ニワトリなど、あんがい人をバカにしているところがある。
 高知県で、身動きのとれないほど狭い囲いの中で飼われて見せ物になっている尾長鶏を、つくづくと眺めたことがある。尻尾をだらりとたれ流して、動くことができないからじっとしている。
 その姿を見ていると、つめたーい目で人のことをじいっと見るのである。それは物悲しいという目ではなく、“全然動きがとれなくて、もういやになっちゃった”という目付きだ。私はあわてて、「おいよせよ、そんな目で見るの。おれがやったんじゃないんだから」と言ってやったのだが、うらみがましい目の光というのではなく、なにやらつまらないものに生まれてきちゃったなあというあきらめの境地でじっと見つめられると、こちらとしてもなぐさめようがないのだ。
 こんなことを言うと、ますますもって擬人法にすぎないと一笑に付されそうだが、それ以外の何物でもないというしらけた目付きをして人を見るのだから、そう言うほかにたとえようがない。
 生き物はそれぞれ、自然の掟のなかで、定められた生を生き、弱肉強食のルールに従って生きなければならないが、それぞれ生のあるものはそれなりに、人間と似た感情、あるいは人間には測り知れない感情を持ちながら生きていると考えざるを得ないようなことが、自然の中に入ってゆけばゆくほど、強く感じられてならない。
 近年、にわかに自然を保護しようという高まりを見せている。たしかに、自然を害するよりはよりましであろうけれども、まかりまちがうと逆に自然に対して人間の尊大さを押しつけようとする危険を感じる。どうも人間は態度が大きくてセンエツなのである。
 自然を保護しようという考え方の前に、まず、人間は自然の中で保護されているのだということをよくよく反省してみる必要がある。人間が自然界の中で生かされているという根本的な事実をただ単に頭で理解するだけではなく、その事実に感謝しようとする心がはたしてどれだけあるのか。これ以上自然を壊すと自分たちの生活が危なくなるから保護しようではないか、という発想は、あまりにも自分勝手で尊大である。
 人間の万物の霊長で、人間以外のものはすべて人間の前にひれ伏すべきであるという人間優位の考え方が、いまの保護運動から抜け切れてはいない。
 まず自分が謙虚になりきれれば、草木虫魚、自然のなかのありとあらゆるものは、安心して語りかけてくる。「語りかける」という言い方がおかしいというのなら、同じ仲間として包み込んでくれると言ったほうがよいかもしれぬ。
 こういう状態になると人間は少しもイライラしないですむのである。
 自然の姿を本当に深く知るようになれば、人間の都合で考えて自然保護などというものが、いかにむなしいものであるかがわかってくる。それが十分にわかった上で、自然と共に協調して生きようとするとき、自然に対する新しい見方、すなわち新しい自然観が生まれてくるだろう。
 人間は、あくまでも大自然の中の仲間のひとりなのである。



WA.憧れのスタンレー山脈(ニューギニア)



 私はいつも桃源郷を求めているのだ。山のかなたに幸せがないかと思って行ってみるのだが、なにもない。それなら、もう一つ越えたらあるかもしれないと思ってまた行くのだが、やはりない。ただ、確実にわかることは、今までのところ、ここまでにはなかったということが一つ一つ確認できたということであって、行きもしないで何かがあるかないかなど思い患わない。
 例の尾瀬沼の蝶も、やはりいなかった。知識としてはいるはずがないことはわかっていても、頭からウソだと決めつけるのはよくないことだと考える。「いる」というのだから、いるかもしれないと仮定してみる。もしもいたら本当にすばらしいではないか。それなら行ってみようという発想になる。行ってみてはじめて、いないことが確認できると同時に、今度はそこで別な興味や関心をひきつけるような何かに遭遇する。
 中学二年のとき、地理の時間に教師が、ニューギニアにオーウェンスタンレー山脈というのがあって、赤道直下の船の上から雪に覆われた山容が望見できる、といった。
 これは結果的にはウソがまじっていたのだが、しかしその話が私の頭にこびりつき、私はひそかにオーウェンスタンレー山脈に憧れた。赤道直下に雪をいただいた山が海から見えるとは何とすばらしい眺めではないか。
 その話を聞いてから三十三年後にとうとうスタンレー山脈を実際に越えるというめぐり合わせになったのである。しかし、赤道直下の船の上からは雪の山脈を望見することは不可能だった。この山脈に雪はない。
 オーウェンスタンレー山脈越えは、太平洋戦争中の日本兵士にとって最大の苦しみを強いられ、思い山砲を背負って山をいくつも越え、弾薬も糧食もつき果てて再び山を引きかえし、全員が戦死した怨みの地だ。
 私はただ一人の弔い合戦として、ポートモレスビー側から二週間かけて対岸まで山越えしてやろうと思った。これは日本軍が撤退したときのルートである。
 道らしい道はないが、蛮路だけは通っているはずだ。ただ、一人だと二週間分の食糧など、とても背負っては行けない。そこで三日分ぐらいの食糧を持ち、一日にご飯を大さじ山盛り四杯と肉のかんづめ四分の一ずつ食べれば、なんとか二週間は動くことができるという計算で、私一人の“飢えの行軍”を敢行することにした。
 地図で見ると、スタンレー山脈が一本あるだけだ。いかにも簡単そうなのだが、行ってみておどろいた。枝尾根がやたらにあって、主脈に到達するまで全部で九本の尾根を越えなくてはならない。蛮路はあるのはあるのだが一直線で、尾根を直登すると今度は次の谷へまっすぐに駆け降りるという連続なのだ。毎日、一つ尾根を越しては翌日川をジャボジャボ渡って対岸にたどりつき、再び尾根をめざして直行する。
 心理的に非常によくないことは、尾根のいただきに立つと、今度はこちらよりも高い尾根を見上げながらみっしぐらに降りなくてはならないことで、それの繰り返しはたまらない。心理的にも肉体的にもつらい思いをしながら、ようやく主脈を越え、あと二つ尾根を越えると平地にたどり着くところまできた。
 さいごの沢を越えたあたりに原地人の部落がある。そこへ行くには、沢筋からほんのちょっとした登りになっているのだが、そのゆるやかな登りが登れない。二十歩くらい歩いてはバタンとひっくり返り、何十回も深呼吸しないと足が動かないのである。腹の力が抜けてどうにもならない。完全なシャリバテだ。
 ふらふらよろけながら、ようやく部落にたどりついた。そこは第二次大戦中のニューギニアの激戦地で、非常に見晴らしのきくところだ。着いたとたんに力が抜け、ハアーとひっくり返ったところへ、部落の人たちがあわてて出てきた。



WG.外界適応能力が衰えている現代人(ニューギニア)



 数十年前とちがって、いまは、子どもはみんな病院で生まれるようになった。一週間なり二週間なり、人工的に設置された条件のなかで新生児が生活する。とくに未熟児などの場合は一か月も二か月も哺育器のなかで暮らす。
 昔はとてもこういうことは考えられなかったので、弱い子どもは外界の厳しさに耐えられず、すなおに死んでいった。そのかわり、ふつうの子どもは、強い抵抗力を備えて生長していった。なにしろ隙間風の吹くような家屋のなかで、ぬるま湯に入れられたりしながらも、べつに風邪をひいて病気になることもなく育ったのである。
 現在、病院というのは施設が完備しているので、温度やら湿度やら、何から何まで調節管理され、つねに一定の条件で育てられる。虚弱児はただちに哺育器に入れられ、酸素補給から人工栄養補給をおこなうわけだから、よほどのことがないかぎり死なないことになっている。
 こうしてまず第一の段階を過ぎ、次の段階で外界に放り出されるというのが、一般のケースである。
 しかし問題は、生まれてから二週間という、その期間にある。新生児は、九か月の間に、人間としてこの世に生きるための生理上の準備を整えて生まれてくる。たとえば発汗に必要な皮膚の汗腺は、一平方センチメートル当たり平均どれくらい……というように、数百万年を通じて必要とされる数を持ち合わせたものが生き残され、それを子孫に伝え伝えて現在に至ったものである。
 ところが何百世代となく引きつづいて用意されてきた生理上の機構は、生まれてみたら、「なあんだ、こんなに準備する必要なかったじゃないか」ということになる。気温や湿度を、生まれてから二週間だけ調節されていると、不必要だと早トチリをした生理的機構の大部分は停止してしまう。
 いったん停止した機構は、一生の間、二度と回復はしないのである。外へ出されてみたら、だまされて機能を捨てたことに気がついても、前に持っていたからといって、機能回復しようと思っても、もはや不可能だ。退化現象といっては言い過ぎになるけれども、外界の条件に対して適応しにくい体になってしまっている。
 かりに生理的な自動調節機能が二割だけ残されているとすると、その二割の機能をギリギリいっぱい、外界の変化に対して作動させなければならない。したがって、真夏は非常に暑苦しくて仕方がなく、冬めっぽう寒さが身にしみてくる。
 現代人の生活は、病院で生まれたときの環境条件が、その後の日常生活でもだいたい継承されるパターンになっている。つまり、夏は冷房、冬は暖房という外界の条件を人工調節しながら生活しているので、ますます機能はおとろえていく。
 いまの若者は体が弱くなったというけれども、むしろ、本来備えていたものを人工的に捨てさられてしまい、わずかに残った機能で最大限の努力をしているのだといえる。本人は、そうしたことはまったく関知しないでいるが、自然の環境に適応しようと思ってもできないという生理的限界のせまさに苦しんでいるのだ。
 たとえばニューギニアの湿地帯に行ってみると、私などは、現地人とちがって汗をジャージャーかくけれども、なんとかがまんしていられる。反対に寒さにもわりと強くて、もちろん零下二〇度のところに裸で立っていろといわれてもそうはいかないが、一応の冬支度をした程度なら、ビュービュー風に吹かれても「気分がいいなあ」というていどで過ごしていられる。
 私は幸か不幸か現代文明の過保護をされそこなって育った人間なので、これくらいならガマンできる範囲内だな、と平気でいられるけれども、はたして今の若い人たちにそれができるかどうか。もっと狭い範囲内でしか適応できないという限界に、すぐぶつかってしまうのではないかと思うが、そんな条件のもとに出会ってみようともしていないと、さしあたっては自他ともにわからないですんでいる。
 近年の登山ブームで、冬山に登る若者がずいぶん増えているが、何かというと、トランシーバーでSOS、ヘリコプターなどが救援にかけつけると、来かたが遅いじゃないかと文句をいる連中がいて、救援隊がアタマにくる、といったことがしばしば起こる。
 文句をいうのは身勝手で礼儀知らずで反社会的だけれども、あながち彼らを、いまの若い連中はなっちゃいないと、いちがいに非難できないところがあるわけだ。
 かといって親が、子どもを弱くしてはいけないというので、生まれたらすぐ隙間風にさらしたり、冷たい水につけようとしたって、そうはいくまい。
 肺炎になったらどうするか。医者だって、頼まれたってウンとはいうまい。あとで責任でもとらされたのではコトだから。だいいち、設備が完備していない産院では、いまの若い人たちも、入院する気にはならないだろう。
 生まれてくる子どもを人工的に大事にしすぎて、結果的には、せっかく持って生まれた能力のかなりの部分を失わせて放り出し、あとはお勝手に、ということになっている。
 こうしたところに、概して人間を弱くする根本の出発点があるようだ。
 人間の他の能力は、その後の教育でどうにでもなっていくが、その前段階で、生理的には勝負がついてしまうのだ。
 生理的機能の問題点は、気がついてからでは人間の意志でどうにもならない面があるわけで、こうしたことが崩壊因子のひとつになるということも、考慮しておく必要がある。



WI.異常繁殖するアフリカのヌウ(アフリカ)



 アフリカのケニアの草原に、ヌウという動物が生息している。和名はウシカモシカという。ウシのように曲がった角がはえ、たてがみと黒く長い尻尾があって、一名ツノウマと呼ばれる。体は灰色をしており、肩の両側に縞があって、ウシとウマとカモシカを全部あわせたような、ウシを小型にしたような動物だ。
 何年か前の九月、私は、このウシカモシカの社会を調査しに行ったのだが、その結果、異常繁殖していることがわかった。
 ケニア草原に住むウシカモシカの集団は三つくらいあり、その一つの集団がざっと百万頭。見渡すかぎりヌウだらけで、真っ黒なかたまりになって草を食べつづけている。かれらの餌となっている草は、サイやシマウマが食べるのと同じ草である。
 ふつうヌウという動物は五十頭くらいで群れをなし、餌を求めて移動するとき数万の大群をなすといわれているのだが、百万頭の大集団は明らかに異常事態である。
 有史以来、こうした事態はしばしばあったのかもしれないが、今までは報告されていない。かれらの天敵はライオンやチーター、ヒョウ、ハイエナなどであるが、そうした天敵がいたにしても、ごくわずかにすぎないから、餌がまだあるかぎりほとんどが育ってしまう。妊娠期間は八、九か月、一産一子がふつうである。
 そこで、百万頭のヌウが百三十万頭になったときの餌の量はどうなるかという計算をしてみた。
 人間でもブタでも動物はだいたい、大ざっぱに言って自分の体重の四倍量の無水物換算の餌を一年間に食べる。かりにいま、体重が五〇キログラムならば、二〇〇キロの乾物の餌があれば一年間食べて生きてゆける。
 ヌウの体重を平均約三〇〇キログラムとすれば、百万頭の個体総重量は三〇万トンである。三〇万トンのヌウの一年間に食べる草の量は、無水物換算で一二〇万トン。ヌウが生息する中部アフリカないし東アフリカの気候風土の中での草のはえ方から、必要面積を割り出すと、だいたい一六〇〇平方キロメートルで、東京の平野部とほぼ同じである。
 中央アフリカの高地には雨期と乾期とがあり、乾期になると草は枯れてしまい何か月もはえない。そこで乾期には、草を求めて移動するわけだが、ケニアに住んでいた一集団百万頭のヌウが、一年間に食べていける草の量を、一応計算上有していなければならない一六〇〇平方キロの面積は、そこにはなかったのである。
 だから一年たらずで三割かた増えたあと、乾期が訪れて草が枯れ果てたとき、大移動が行われるにちがいない。そうすると、そこで問題になってくるのは、ちょうどイナゴの大発生で人間の食用とする穀物が被害を受けて全滅してしまうように、ヌウと同じ草を食べていた他の草食動物が絶滅の危機にさらされることになる。
 おそらくまずやられるのは、サイではないかと思う。
 最近になって、あわてて保護だなんだといっているが、いまだに密猟が絶えず、サイの最大の天敵は人間であるといっていいくらいのものである。そこへ、こんどは同じ自然界の仲間として共存していた他の動物の異常繁殖の結果、食物を奪われるというかたちで生存の危機に追いやられる。
 こうした自然界の大移動が、いつ、どのようなかたちで起こるかについて、人間はまだまだ気にもとえずに見すごしていることが多すぎるのではないだろうか。