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#001[虫] 何かしていて、耳元に羽音がうるさく、肌もちくちくするので、空いた手で払っていた。しかし、手応えがない。顔を上げて、虫を捜す。見当たらない。その瞬間、虫を払う男の姿が浮かんだ。 知らない男だ。色白で、小太り。眼鏡を掛けている。白いカッター・シャツの袖を捲る。脂性に違いない。ちょっと、お近づきになりたくないタイプ。腰から下は、とりあえず、灰色の霜降りということで、さて、彼は立っている、難しい顔をして。 (彼の立つのは、私が数年前まで住んでいた部屋の近くを流れる、大きな川の北側の土手ではないか。土手の小道には、両側から夏草が垂れ掛かる。虫が多いのだ、あの辺りは。川の合流地点で、整地されていない、三角の土地。河川敷は広く、丈高い草が繁茂し、下りると、人の姿が没した。蔓草が屋根になり、踏み均された跡は迷路のようで、面白がって歩いていたら、ぽっかり、開いた広間に出た。雑誌が散乱し、その中央は万年床のように凹んでいる。見開きに、裸体写真。どぎついカラー。逃げ出した。追われる気がした。堤に上がってからも、どきどきしていた。緑の草に、白いハイ・ヒールの片方が落ちていた) 知らない男は、眩しそうに、こちらを見ていた。こいつ、誰だろう。私も眩しそうな目をしたか。だったら、だからだろう、想像上のカメラは、[全体像を捕らえよ]と命じられたものと勘違いし、ぐっと引いた。顔がぼやけ、なおさら、誰だか知れない感じになる。ちょっと慌てた。すうっと消えた。 私は、彼ほど太ってはいないし、眼鏡は掛けていない。知人にも、彼のような人物はいない。映画やTVなどで見る人でもなさそうだ。 難しい顔をして彼が虫を払う姿を思い出すと、噴き出したくなる。ところで、[難しい顔]と言っても、[難しいことを考えていそうな顔]という意味ではない。 (夏の夕方、あの辺りには蚊柱が立ち、逃げると、蚊に纏わり付かれた。むしろ、胸を張って向かって行くがいいのだ。空気が割れ、道ができる。そんなことを、諭す気分で思った。紅海を渡るモーゼ。ハリウッド映画の醍醐味) 苦笑していた。なぜ? すると、唐突に、頭の中で物語が始まった。戸惑った。やりかけの仕事を中断してまで、物語に付き合う気にはなれない。[どうせ、これは、たいしたものにはなるまい]と思った。予感。追い払おうとした、物語の気分を、虫でも追うように。なのに、なぜだろう、体はぐらりと傾き、右手にペンを取り、左手で紙を引き寄せていた。 その日、買って帰った物を包んでいた紙が、その物の外形を残したまま、近くにあった。皴を伸ばしもせず、ペンを走らせる。途中、何度も止めようと思った。でも、下痢みたいで、止まらない。下痢とは違って、苦しくはない。手は痛くなるが。ほとんど、考えないで書いた。芋蔓式に言葉が言葉を連れて来た。ずるずる。紙は、すぐに書く所がなくなり、別の包装紙を引き寄せた。それも、たちまち、一杯になる。広告の裏。まだ、足りない。別室に紙を取りに行こうと考えたが、そんな余裕はない。この場を離れたら、もう二度と、[この物語のために何かしてやろう]という気になれないと思った。いや、そもそも、[新しい紙に書いてやるほどの物語ではない]と思った。その一方で、[こんな思いに支配されたくない]とも考えていた。[どうせ、たいしたことはない]と思って、一個一個、消していったら、私のやることは残らない。残るとしても、やりたくないけど、やらなきゃいけないことだけだ。 (やりたくないことばかりして来た。やらされたわけでもなかった。やるべきではないこともあった) 手が止まったのは体力に限界が訪れたからで、物語は衰えを見せない。胡座を解かぬまま、ごろんと倒れ、深々と息を吸う。腕が重い。背中の皮が、ベッタリ、畳に張り付くようで、無理に身を起こせば、剥がれて残る皮があり、その裏の酸っぱいような爛れを思う。 もう、よかろう。ここまで付き合ったんだから、勘弁してくれよ。ついに愛着は生まれなかったななどと、悠長なふうに気持ちを構えるが、物語は止まらない。むしろ、加速するようで、起き上がり、文にならない単語を書き留める。もはや、手は、物語のスピードについて行けない。録音でも無理だろう。言葉では無理だ。まるで拷問。 というようなことで、[青]ができた。 |