『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#002[青]01

 かたまりのような男。かたまりの中から伸びる腕。腕の先で、手は小さな爆発のように広がり、虫を追うようだ。しつこい虫。顔の前、耳の後ろ、肩先と、舞う手。目は、しかし、見てはいない、手を、虫を。目は、本に釘付け。読者の意志を離れ、ひらひらと、手のひらの鳥。
 鳥の飛ぶ夕焼け空を見上げる子供がいたよな。あれ、誰だっけ。
 「あなたではありませんか」
 男の振る舞いを傍若無人と見る人もいよう。いや、この私がそう見るわけではないと、心の中で言いわけしつつ、Bは、通路を挟んで斜め向かいに座る、小太りの男を、見るともなく見ていたのだが、やがて、男の仕草よりは、男の見ている本に関心が移る。おやおや、あれほどまでに人を熱中させる書物が、まだ、この世に存在していたとは。タイトルを知りたくて、横目を使う。背を曲げ、首を肩の間に埋め、目を低くする。首を左右に曲げた。いかにも肩凝りで悩んでいるといった様子。ああ、肩凝りは本当だ。肩凝りも、たまには役に立つ。
 電車が地上に出る頃、いつものように混み始める。人の壁に遮られ、急に見る物がなくなる。本も、あの男も、窓ガラスも、窓ガラスに映る人々の姿も、そして、その中の一個体であるはずの自分の虚像も見えない。Bは、悪く使った目を休めようと、目を閉じた。閉じて、すぐ、開く。あの男の掛けていた眼鏡の色と、読んでいた本の表紙の色が、同じだったような気がした。そんなはずはない。いや、そうであって、なぜ、いけない。二つの考えが、浮き沈み。たまたま、同系色だったか。表紙の色が映っていた? 一旦は、その考えが採用されるが、光学的には、あり得ない。確かめるために立ち上がろうとする体を、よせよせと宥める、他人の声のような、声でない声。降りる駅が近付くのを、苛々しながら待つ。降りる駅の前でなければ立ち上がってはならないという規則を、自分で作って、自分に守らせている。いつ、作ったろう、そんな規則。自分が作った規則なら破るのも自分の勝手だと君達は思うかもしれないが、実は、そうはいかないのだよと、確か、法学の教授は言っていた。昔の話で、自信はない。
 やっと、車内アナウンスの告げる駅名こそ、それは自分の降りる駅の名なのでと、無言で周囲の人に知らせるふうに身を揺すれば、前に立つ人は、小さく畳んで顔の前で盾にしていた朝刊を、さらに小さく折り、インクの匂いで書かれている記事の信憑性を判じるかのように鼻先を擦り付けながら、実際、おまえなんかを通してやるために、ちょっとでも動いたりするのは業腹なんだがねと、どうか、そういうふうには見えませんように、でも、実は、そうなんだけどさ、だって、そうじゃないんなら、僕達、まるで、お友達になりたいみたいなんだものとでも言っているみたいな身の開き方をして見せる、ぎりぎりに。
 気付かれぬように挨拶し、気付かれぬように返礼されて、人々の肩越しに、あの男を捜す。見当たらない。そこら辺と見当を付けていた席には、年の知れない女が、大きな籠を抱いて座っている。籠の中には、色とりどりの毛糸玉。零れそうなのを、剥き出しの太い腕が押さえる。腕は籠の取っ手を潜り、太い手首で重なり、どちらがどちらの肩から始まり、どちらの肘を隠すのか、知れない。そのうち、搗き立ての餅のように、くっつくぞ。ふっと独り笑いし、目を逸らした瞬間、彼女の片方の手に眼鏡があって、それが本を読む男の物にそっくりだったと思う。青い眼鏡。本の青。どんな青だと聞かれても、言葉にはできない。漠然とした青。でも、普通の青とは、まるで違う、あの青。見れば、分かる。
 振り返ろうとしたら、電車が止まり、ドアが開いて、人に押され、前のめり。プラットフォームと電車の間の、異様に広い間隙を、いつもは、ろくに見もせず跨ぎ越すのに、つい、見てしまい、その深さ、暗さに竦みながらも、着地はしていて、どうやってここに立てたのか、思い出せない心細さに胸を弄り、ほ、溜め息、一つは落とす。と、どん! 後から来た学生風の男に、わざとのようにぶつかられる。どん。次のはOL風。人工甘味料の異臭。どん。次は、あなたか。
 「春だもんな」 聞こえよがしの声、細くなり、途端に、鼓膜を突き刺すホイッスル。取り残されるB。その淡い影の中で、ガムを踏み、若い駅員が眠そうな目をする。耳の奥で、ゆっくりと消えて行くホイッスルの余韻。
 春? ああ、春。(露骨に、季節が提示されている。あるいは、季節は、春ではないのかも知れない)
 歩いても、急いでも、人の流れに乗れず、売店で飲みたくもない牛乳を買う。牛乳は、一瓶は多過ぎた。喉にしこりがあって、物を通さない感じ。
 考えたくなかった。考えたら、町は歩けない。なのに、考えは独り歩き。あの男、本当に、虫を追っていた? 追われていた虫は、どんな虫? 彼は、どんな虫を追っているつもりだった? 虫は、自分がどんな虫だと思われて追われていると思っていた? 虫は、自分をどんな虫だと思って追われていた? 自分のことをどんな虫だと思っている虫を、男は追っているつもりだった? 虫などいないのではないかと、男は思ってはみなかった? 自分などいないのではないかと思われているのではないかと、虫は思ってみなかった? 自分などいないのではないかと思われているのではないかと思っている虫を追っているのではないかと、男は思わなかった? いない虫は自分をいないと思うことはできないから、いないかもしれない虫は自分はいないかもしれないと思うことはできないから、いない虫も、いないかもしれない虫も、自分はいるかもしれないと思うしかないとすると、いるかもしれない虫は、自分はいないのかもしれないと思うしかないのかもしれないから、虫の奴、いるのかもしれないぞと思われているなと思うと、自分はいないのかもしれないなと思い、いないのかもしれないぞと思われているなと思うと、自分はいるかもしれないなと思うのだろうかと、男は思うともなく思っていて、そして、いるかもしれないと思うとき、あたかも、いないかもしれないように、いないかもしれないと思うとき、あたかも、いるかもしれないように、虫を追っていたのかもしれないのだが、そういうことで、果たして、いいのか、彼は、そして、虫は? 
 クエスチョン・マークの形をした、うるさい虫。
 その日、会社の廊下で、同期の中村君とぶつかりそうになる。おおっとっとっと! 
 中村君は、本の天を片手で持って広げ、首を傾げつつ、やって来た。彼の抱えていた書類が崩れる。ばさばさばさ。かなりの量。屈むBに、「や」の一言は降って来たが、本から目が離れるまでに1/8秒はあり、ちょっとむっとして見上げると、彼が持ち直す本の表紙が、青。あ、あの青? 
 「あ。それ」
 「うん。ありがとう」
 ありがとうというのは、どのようにも受け取れる。うんというのは、薮から棒。尋ねようと指を立てると、部長が通り、二人は場所を開ける。頭を上げたときには、中村君は、すたすた、階段を上って行くところ。先を行く部長が、親指で、何もない空間を、ひょいひょい、押し上げている。本を受け取ろうとしているのか。二人の姿が踊り場で消えた後に、笑い声が手摺りを滑り降りた。
 昼間、本のことは忘れていた。笊蕎麦の山葵に涙し、後頭部を叩いていると、弁当箱を洗って戻って来た女子社員に、くすくす、笑われる。あ、そうだ。君、知ってる? 最近、青い本、はやってるよね。近頃、表紙の青い本が売れるらしいね。あの青い本、君、読んだ? 頭の中で作文しながら、つい、見詰めてしまい、笑ってくれればいいものを、髪を掻き上げられた。背を向けて座る女の、西洋の柩のような背中。マニキュアを乾かす手が踊るのに、背中は打ち付けられたように固い。
 帰宅して風呂上がり、電源を入れた途端、ニュース・キャスターが、立てていた本を、こんなもの、もう、片付けちゃいましょうねと片付けた。青かった。どきりとして、口に含んだビールを飲み忘れる。唾液と交ざって膨れる頬。もう、飲み込めない。さらに、画面には思いがけないものが映し出される。それが何であるか、今、ここで語る必要があるか。あるとしても、その意味までは、Bには了解されまい。躾の悪い子が、入って来るなり、チャンネルを変えてしまった。元の局を捜し当てた頃には、話題は変わっている。垂れ流しのマスコミのマスこきめ。
 子供の頃、TVの中に小さな人達が住んでいると思ったことはないか。小さな人達は、箱の中から、こちらの様子を窺っている。私達も、彼らを睨んでいる。睨み合いに負けて目を逸らしたら、負けだ。負けたら、TVの中に閉じ込められる。あちらがこちらになり、こちらがあちらになる。小人物共の垂れ流す情報なんか、私達は信じないぞ。私達は、奴らがこちらに出て来ないように、監視しているんだ。彼らは、ときどき、私達の目を盗み、こちらに出て来る。その出具合によって、私達の監視が、どれぐらい、行き届いているか、知る。TVなんか、信じない。私達が信じるのは、本だ。でも、どんな本? 
 寝室に入る。枕元が寂しいと思ったら、寝る前に読むことにしている本が、ない。しかし、考えてみれば、ないのは今夜だけではない。いつからか、ない。いつからか? 
 「いつから、なかったんだっけ」
 妻は聞いていなかった。聞いていなくてよかったと、反射的に思う。ごまかすみたいに、別の本のことを尋ねてみようか。枕元にあった本のことではなく、あの青い本。
 妻は鏡台に向かい、髪を梳かす。夫は枕の上で、首だけ、動かし、鏡の中の妻と目を合わせようと、工夫する。「本」と言えば、妻は枕元の本のことだと思うはずだ。そして、一旦、こうと思い込んだが最後、専業主婦の頭は、なかなか、切り替わらない。やがて、どうやら、自分の早とちりらしいと気づいても、今度は、男は女の頭の悪さを当て擦りするために話しかけるものだと、夫が[白状]するまでは口を利かないと宣言する。けれども、Bは、女を見下してはいない。妻を見下しているのだ。そのことを、妻は知らない。いや、知りたくないのだろう。知りたくないから、言っても分からない。だから、知られるのを恐れて、びくびくする必要はないはずなのだが、なぜか、Bは、妻の前で、びくびくする。
 妻は頭が悪い。Bは、そう思っている。そのわけは、夫がそう思っているということを見抜けるから自分は鋭敏なのだと、妻が思っているからだ。虫けら同然の鋭敏さ。いや、虫だって、もう少しは考える。私は知っている。虫は、自分が存在しているのか、あるいは、存在しているような気がしているだけなのか、一度は、考えてみたことがあるのだ。私の肌に触れようとして、私の周りを旋回する虫の羽音の、はしたないほどの自己主張に込められた、生存についての可憐な含羞を、私は…… 
 本と虫と私と、どんな関係がある? 
 何も言い出さないのに、妻の肩が小さく震える。Bは、今朝、飲み切れないと分かって買った牛乳のことを、後ろめたく思い出す。喉のしこりの感覚が蘇る。試すように生唾を飲み、首を起こすと、妻は鏡の中から目を合わせて来た。笑っている。
 「何してるの、さっきから」
 彼も、即席で笑顔を拵える。
 「また、肩凝り?」
 ブラッシングの手が止まる。動き出す。また、止まる。
 こういうふうでは、いけないのだ。いつも思う。しかし、どういうふうなら、いいと言えるのか。本のことなんか、どの本のことにしろ、どうだっていいんだと押え込む、その気分で、異性の体を押え込む。刺々しさの取れ始めた異性の体の横で、Bは、たった今思い出したことのように本の話をしようかと考える。ずっと前から好きだったという台詞が数秒前に思い付かれたものであったとしても、嘘のような本当だったのだから、たった今思い付いたことのように言うのも、あながち、悪い嘘でもなかろう。問題は、タイミングかな。そう思いながら、その夜は寝た。
 朝、選ばれた朝、そそくさと済ませてしまう会話のために、小分けされた、かつては食物だった物体をチンする音に、改めて目を覚まさせられる朝、シリアルの畦塗りを終えて、少年は解放される。Bは、ひやひやしながら、息子の朝の仕事ぶりを監査する。息子には農民の血が流れている。Bには赤い血が流れていない。妻が、何やら、零す。食べ残しのシリアルを零す。あるいは、息子が食べ残すことについて、愚痴を零す。何やらを零され、咄嗟に、反応するB。
 「近頃、はやりらしいね」
 「そうなのよ」
 「気にはしてたんだ」(してても、いいのかな)
 「他人事じゃなくて」
 「放っとていいのかな」(いいと言ってくれ)
 「一種の苛めよね」
 「えっ、そうなの」
 「いやあねえ。聞いてた?」
 「ああ、聞いてたさ。うん。そりゃ、大変」
 ああ、大変だ、大変だ。ついに来るべきものが来た。気弱さの罅割れを刷毛で塗り潰すようにして生きて来たのだが、とうとう、限界か。そう、思うのに、眠くなる。
 苛めは社会問題だ。そのことは知っていた。でも、社会問題が家庭に配達されるまでには、あらゆる新製品がそうであるように、その安全性が確認されていなければならない。そう思っていた。会社には会社の責任があるように、社会にも社会的責任というものがあってしかるべきだ。
 妻は、相手の親と会うことを提案する。Bは、ぽきぽきと枯れ木を折るように、詰まらないことを言う。自分でも、あ、俺って、今、詰まらないこと、言ってるぞと思いながら、止められない。いざとなれば、自分だって、出る所に出るさ。言ってみて、本当かなと思う。本当じゃないみたいだよ。「出る所」には、悪役レスラーのような、相手の父親がいて、ぐっと睨みを利かせている。暴力か。暴力には屈さないぞ。卑怯者め。その悪趣味なマスクを取れ。禿げてんだろう。
 夫の空想を察知したかのように、妻が笑う。
 「私がやるから、いいわよ」
 「しかし、まず、学校に相談して」
 「学校なんか」
 「でも、一度は」
 「手遅れになったら」
 「そんなに?」
 「だから、話すの」
 「でも、違ってたら」
 「そのときは、そのとき」
 「そんな乱暴な」
 「乱暴なのは、こっちなんだもの」
 「え?」
 苛められているのではなかった。Bは愕然とする。
 Bは、子供の頃、苛められた。なすり付けられる鼻水と汚名。白は灰色に、灰色は黒に塗られる。闇に溶け込み、盗むように息をした。吸うのはいいが、吐くなよ。大気汚染の元凶。自分(達)の子も、いつか、そんな目に遭うのだろうか。いろいろ、危惧されていた。いろいろ、気持ちの準備だけは、していた。気持ちの準備なら、ほかにも、いろいろとしてある。帳面に付けてある。見せてやろうか。ところが、苛める側だったとは! 
 「あいつがねえ」
 「やるもんよね」
 妻も苛められた。動作が鈍く、体育会系の教師から、明るく笑い者にされた。腹を見せて足掻く蛙に、太い眉の下、誇らかな目が細められる。その目は、いと高きものを映すためだけに付いているのだから、おまえらには向けてやるのさえ、汚らわしいんだよおおおっと。いと高きもの。例えば、決まり文句のように澄明な、雲一つない青空、爆竹、旗、ファンファーレ。ああ、オッフェンバハの『天国と地獄』が地獄の門を開く秋よ。
 息子に敵を討ってもらったような気がして、ほくほくしかける二人。が、そうもいかない。臆病の連帯が夫婦だった。互いがその事実に気づいていたことを互いに気づかせないために、早急に、犠牲の遺骸ごと、埋め戻し、社会悪を直視する、普通の人々の仮面の裏に、瞑る目の仮面のような素顔を埋めねば。


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