『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#090[雨]

  この悪夢は まだ 話が展開中だ/怪物を負かす方法はないの?/封じ込
 めるのさ/封じ込める? どうやって?/物書きの手でね 物語が怪物の本質
 を捉えれば―外に出られなくなる/魔法のランプね/その通りだ 物語
 が負ければ 奴は現われる 物語を売るために安易に作ったり―発禁に
 なって物語の価値を失えば―その時 奴は解き放たれる
  (ウェス・クレイヴン監督『エルム街の悪夢 ザ・リアル・ナイトメア』菊地
  浩司訳)
 [下駄の話]
 ある人、下駄を履き、踏切を渡ろうとして、下駄の歯がレールを噛み、動けなくなる。そこへ列車が来て、轢かれて死ぬ。だから、町を歩く時は下駄を履かないようにね。と、母が言った。
 その言葉がずっと頭に残っていて、下駄を履くとき、行く先で踏切を渡らないか、一応、考えていた。先日、踏切を渡ろうとして、いざとなれば下駄を脱いでしまえばいいことじゃないかと気づいた。
 [蒟蒻幽霊]
 これも、母から聞いた。
 後妻が先妻の子を苛めようと、夜中、白い着物で乱れ髪、蒟蒻を銜えて子供の部屋に入る。蒟蒻を舌のように使い、寝ている子供の顔を撫でる。子供は、朝、幽霊の話をする。おとな達は、真に受けない。子供は、次第に衰弱していく。このままでは、死んでしまいそう。
 話がそこで終わりそうだったので、私は息が詰まりそうになる。母は、顔を輝かせ、中空を見つめる。父が、その顔を一瞥し、ひっそりと後を受けた。
 何度目かの夜、蒟蒻を銜えて女が子供の部屋に入ると、誰かがいて、近所の鉄棒曳きか、ようがす、お任せなさいと、寝台の側に潜み、入って来た女の膝を目がけ、我武者羅にタックルする。この幽霊、脚があった。
 翌朝、警察が来る。近所は騒ぐ。白い着物、ざんばら髪のまま、車に乗せられ、二度と帰らない。正義は勝つ? 
 とりあえず、一息つく私。だが、承服できない。母は、父の語った結末を聞いていたのだろうか。まだ、顔をきらきらさせている。私を見て、分かるわよねとでも言うように、微笑む。何を分からなければならないのだろう。巨大化する母。その傍らで、なぜか、父は、卑屈な笑いを浮かべ、母の顔を、ちらちらと窺う。萎縮する父。彼の話は、作り話だったか。
 柱に寄りかかり、ひょろりと立つ、幽霊に扮した女の姿が目に浮かぶ。こっちを見ている? 
 [リン子ちゃん]
 これも、本当にあった話よ。
 ある若夫婦(生々しい印象)に男の子ができた。次は女の子がいいねと話していたら、本当に女の子が生まれた。命名、リン子。
 変な名前。いいから、黙って聞きなさい。
 両親の愛情は、赤ん坊に注がれた。男の子は嫉妬する様子もなく、妹を可愛がる。「いいお兄ちゃん」だ。(ボクと違って?)
 ある日の昼下がり、母親は買い物に出かける。田舎から林檎を送って来ていた。食べてもいいわよ。でも、皮を剥いてね。
 用を済ませて帰ると、赤ん坊の姿が見えない。床や壁に、べっとりと血。果物ナイフが、置いた場所にない。次の間で、母親は少年の笑顔に迎えられる。笑う彼の口元は、真っ赤。
 「リン子、おいしかったよ。ちゃんと皮を剥いて食べたよ」
 私は、妹を食べてはいけないと諭されているような気がした。しかし、「そんなこと、しないよ」と、わざわざ、言うのも、変。
 この話を思い出すたび、私は、惨劇が、当時、住んでいた家の近くで起きたこととして想像される。その区画の住宅はどこも同じ間取りなのに、なぜ、その家を思うのか。
 私のカメラは、買い物から帰った母親の目で玄関から入って行き、大量の血を映し出す。そこは、私の家ではない。似ているが、別の家だ。
 私の家も含め、周囲は二軒長屋だったのに、その家は、なぜか、一戸建てだった。その家には、10歳位の少年とその祖母らしき人が住んでいた。二人とも物静かだった。少年は、おとなびていて、新聞配達などをやっていた。子供達に一目置かれていた。しかし、リーダーの器ではなかった。
 彼に、一度だけ、遊んで貰ったことがある。その日、用があって、子供達は出払っていた。彼は、私を誘うしかなかった。私達は、ぎこちない遊び方をした。雨もよい。霧雨で、傘は差さない。母親が見たら叱るだろうと思った。
 彼は、鉛筆のキャップに2B弾を解して火薬を詰め、飛ばそうとした。近所の空き地に、土が盛ってあった。そこには、ちょっとした谷があり、斜面は草滑りなどに持って来いだった。その土でその谷を埋め、住宅を建てるらしい。子供達は、何が始まるのか、分からないまま、土の山に慣れかけていた。
 ほろほろと砕けやすい、黒い土の斜面に、針金で拵えた発射台が置かれた。発射台なんか、どうでもいいのにと、私は思った。ロケットは、飛ばなかった。私は、2B弾を、直接、突っ込んではどうかと、進言した。彼は、2B弾を解すプロセスをも楽しんでいるようだったから、思いついても、すぐには口に出せなかった。彼は、気が進まないようだった。が、唯一の観客の顔を立てる必要もあると考え直したらしく、私の意見は採用された。
 ロケットは飛んだ。私は誇らしかった。しかし、彼が自分の頭脳に引け目を感じるような雰囲気を見せかけたので、私は喜びを小出しにした。彼は、何だか、あっけないという顔をしていた。二度目の発射は、多分、なかったろう。彼は、一通り、私を褒めると、すぐに、帰ろうと言った。その場を去っても、火薬の甘い匂いは、服に付いて来た。
 ある日、おばあさんがいなくて、彼の家に子供達が集まった。近所の子供達が、ほとんど、来ていた。区画から外れた、持ち家の、医者の息子は別だ。彼は弱虫だった。彼の家に行くと、奇麗な母親が、お菓子を出して、遊んでやってねと言った。子供達は、お菓子に釣られて、「はい」と神妙な顔で答えるのだが、私は黙っていた。
 医者の息子は、小遣いを20円も貰っていた。20円というのは、途方もない額だ。普通は、5円。私は、最初、10円貰っていたが、周囲とのバランスを考え、恥ずかしいから、5円にした。そう申し出るとき、別の意味で恥ずかしかった。
 私達は、さまざまな貧しさの段階にあった。私の家には、ラジオはないが、TVがあった。TVはあっても、子供は二人しかいなかった。3人目はいつできるのと、近所の主婦に詰め寄られた。子供が二人しかいない家は、享楽主義であるかのようだった。
 暑い日、日陰でじっとしているしかなくて、塀に寄りかかり、好きな食べ物の話をした。子供達の憧れは、卵だ。ロケットの少年は、澄まし汁に溶き卵というのがいかにうまいか、力説した。日頃はおとなしい彼が、肩を怒らせ、腕を振り上げ、足を踏み鳴らしていた。話しながら、日陰から出てしまった。私は、卵掛け御飯を、そうそうはさせて貰えないという話がしづらくなった。私は、別に好きな食べ物はないと言った。子供達は、おまえは何だって食べ飽きてるんだろうと嫌みを言った。
 好きな食べ物がないというのは、嘘ではなかった。私は痩せていたが、空腹というものを感じたことがなかった。ある日、昼を食べ忘れた。空腹がやって来るのを待ったが、夕方になっても、それはやって来なかった。食べないと死ぬというのは嘘かもしれないと思った。晴れ晴れとした気分になった。
 あの日、子供達は、ロケットの少年の家で、異常な騒ぎ方をした。みんな、くらくらした。叱る人がいないので、はめを外した。大いに外した。外し過ぎだなという思いが、誰からともなく生まれ、全員に伝わった。特に悪いことをしでかしたわけでもないのに、これ以上は危ないという感じがした。軽い疲れも手伝い、反省の時間が訪れようとしていた。ところが、彼は違った。彼だけは、はぐれるようにして、鎮まりつつある輪から離れ、押し入れの扉を開いた。そして、布団の奥から、大きなキューピー人形を取り出して見せた。当時としては、珍しい大きさだった。人形の裸の体には、あちこち、釘で刺したような穴がいくつも開いていた。股間のY字型の窪みには、執拗に刺した跡があり、ぐしゃっとなって、人形の内部の空洞から、生ぬるい闇が漏れるようだった。
 子供達は、上げかけた声を呑んだ。が、次の瞬間、これを冗談にしてしまうことに全員の思いが一致した。私達は空騒ぎを再開した。しかし、それには、さっきまでの野放図な快活さが欠けていた。私達は、自らを鞭打つようにして騒ぎ始めた。
 さて、このことをこうして書くまで、私は、その人形が少年の性的愛玩物だと信じていた。しかし、本当はどうだったのか。あれは、彼の祖母の持ち物で、それを使って誰かを呪っていたのではないか。呪われていたのは、少年の母親か。彼女は、色の白い男と逃げた? 夜な夜な、人形に釘を打つ老婆の後ろ姿を、襖の隙間から覗き見る。壁に向けて置いた、小さな台の両端に、蝋燭を灯し、老婆は人形を苛む。ぼそぼそと唱える繰り言は、聞き取れない。少年は、笑ったような顔を凍らせる。震える膝を押さえる指は、肉にめり込む。
 彼は、この恐怖を誰かと分かち合いたかった。だが、誰も欲しがらない、そんなもの。なぜかって、そんな、傷だらけの天使は、貧しい家なら、どこの軒先にも羽を休める。
 その日、そこには、みんながいた。医者の息子は、「みんな」のうちには入らない。私は、辛うじて入れて貰えた。みんなは、競争のように笑い合った。ズボンを下ろし、陰茎を股間に挟んで、「女、女」と喚き、注目を浴びようとする子がいた。包皮を捲って、生っ白い亀頭を露出させ、その状態の言葉を連呼した。包茎でないと、普段なら、おとなびていると、からかわれるのだが、今日は無礼講。ところで、その子は、私が移植鏝で傷つけた子ではなかったか。すでに頭の包帯が取れ、口は利かないが、私を恐れるふうでもなかった?
 私達は、自分達の傷が何なのか、知らなかった。だが、それを癒す方法は知っていた。いや、すぐに思いついた。
 (このエピソードは、[肉桂紙]と[黄色の家]の間で押し潰されていた、4年間の記憶の一部)
 少年は、ただ、もう、少年であるだけで、嵐の海を行く舟だ。少女達は、少年が、なぜ、高い所から飛び降りるのか、ついに理解しない。なぜ、不意に駆け出すのか、知らない。なぜ、へとへとになるまで体を苛めるのか。なぜ、肌に疵を作るのか。なぜ、殴り合うためであるかのように群れるのか。なぜ、わざとのように道に迷うのか。少年であることは、塀の上を歩くこと。内側に落ちれば、赤ん坊。外側に落ちれば、不良。じっとしていたら、弱虫。器用に渡れば、気障。母親には人形扱い、父親には家畜扱い、少女には獣扱いされ、最後に、教師の生け贄になる。まるで、「生きるのは止めろ!」と、耳元で怒鳴られ続けてでもいるかのような日々。
 だから、少年は叫ぶ、男とも女とも獣ともつかぬ声で。その声は、時間を超えて、私の耳に届く。
 声が野っ原を渡って行く。みんな、山羊のように頭を低くした。あの声を聞いたか。帰りたいものは帰れ、今すぐ、ここから。
 ボクは、半ズボンの裾から、唐辛子のようなちんちんを出す。
 [蝸牛の話]
 立てた剃刀の刃の上に蝸牛を乗せると、と誰かが言った、蝸牛は前へ進みながら、すっぱり、二つに切り分けられてしまうのだよ。おお、愚かな魂! 汝は横超ということを思わないか。
 いや、そんなことはない、と誰かが言った、蝸牛は、その粘膜で刃を柔らかく包み込み、無事、渡り切る。
 さて、どちらが本当だろう? 少年のころ、耳にし、そのままになっている仮説。試してみる価値はありそうだ。今度の梅雨─
 [夢/19950902]
 たくさんの夢を見る。寝ている間、ずっと夢を見続けていたような感じだが、目覚めると、取り留めがない。もやもや、うろうろ。
 ぼんやり、見えているのは、あれは、窓の下。子供達が屯していて、ああっと、私は思う、あれは、肉桂紙を貰った場所だ。生家の向かい。角地で、大樹があった。だが、その景色に、[肉桂紙]の雰囲気はない。私は、ペットの話をした? 蜥蜴? 知っているようで知らない感じの生き物? いや、やはり、知らない。自分の夢のような感じがしない。なぜなら、そこに、私はいないから。見る人としてもいない。


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