漫画の思い出

著者別「ね」

根本敬
『生きる』
 なぜか、アリに変身してしまった村田藤吉。夏の間、せっせと働くが、冬が来ると、キリギリスに変身していた。
 これは私のことか。これはあいつのことか。いや、あなたのことだ。人生の帳尻は、いつか、合うはずだと、騙されたがっているあなたに、この作品を受けとめる力はない。
 怨念を振り撒くだけの愚痴漫画とは、一線を画す。
 国生さゆりは、村田ファンで、共演もした。

『固い絆のブルース』
 いくら非力な存在でも、それなりに自己防衛の手段を講ずべきだと考えるのは、強者の思想かもしれない。苛められ続ける村田一家を見ていると、苛々して、苛める側に加担したくなるのは、強者ならぬ傍観者の感覚だろう。
 耐える姿はそれを見る人を挑発すると、村田一家は、実は、薄々知っているのではないか。彼らは、苛められることによってしか家族の弱い絆を維持できないと感じていて、傍観者をも加害者の側に回し、被害者という名の選民を装うのではないか。
 読者の目に、村田一家は聖家族として映っているのだろうか。そんなはずはない。彼らは、徹頭徹尾、笑われるべき対象だ。なぜか。被害と加害は縄のように縺れ合っているものだが、村田一家は、この縺れ合いというものを認めないからだ。彼らは、この能力の欠如のせいで苛められているとも言える。
 村田一家は、加害者と闘うことも許すこともできない。彼らは加害者と対決や対話を試みない。その代わり、耐えることを選ぶ。沈黙する被害者の姿はときとして気高く見えるということを知っているからだ。
 沈黙する被害者は、神の目には、聖者として映っていることだろう。勿論、この神は、被害者がでっちあげた神だ。しかし、この神について、でっちあげだと指摘することはできない。なぜなら、被害者は沈黙しているからだ。沈黙しているかぎり、彼らの神は安泰だ。彼らは沈黙する。あたかも、今、神が沈黙しているように。
 被害者が被害を訴えないと、加害者は弁明の機会を持てない。弁明しない加害者は、あたかも悪魔のように見える。被害者は、加害者から弁明の機会を奪うことによって、彼らの妄想の中で、加害者に過剰な報復を果たしている。彼らの妄想の中では、彼らこそが加害者なのだ。
 沈黙する被害者の妄想的な自己欺瞞を察知している傍観者は、被害者を助けることによって自分も被害者になりたくないからではなく、妄想による加害者になりたくないから、いや、その前に、彼らと妄想を共有したくないから、現実の残酷劇を横目で見て楽しむ。あたかも、根本漫画でも見るように。

『亀の頭スープ』
 根本漫画は、加害者を指弾するという、安易な政治的視点を持たないように見えた。また、被害者を美化したり正当化したりすることによって現実を逃避しようとはしていないように見えた。被害者の自嘲、自虐を徹底させることによって、妄想を裏返した現実を発見しようと藻掻いているように見えた。
 『亀の頭スープ』は、終わらない旅の休憩所のように見える。もしも、これが約束の土地なら、私は根本漫画を捨てるか、裏街へ戻るべきだろう。二度と戻りたくないあの街では、今夜も、飲んだくれたちが、絵にも描けない知恵と小間物を並べているはずだから。


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