著者別「な」
永井豪 -
『ハレンチ学園』
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性を侮りつつ恐れる教師共と見たいものを見たい生徒の闘いは、現実のPTAと作家の闘いに発展したという。ハレンチ大戦争に、読者も参加した気分だった。
この作品以後、永井は吹っ切れたように、のびのびとした線を引き始める。少年向けという枷を逆手にとって、無邪気を装い、ゴム人形のように女体を玩び、読者を焦らせて楽しむようになる。
- 『あばしり一家』
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話は、巨大な美少女、法印大子とその軍団が登場してから面白くなる。彼女たちに被苛虐性を擽られ、極悪一家は敗北する。そして、自らが作り出した、性的な恐怖の世界に落ちる。見事に闘い抜き、現実に復帰すると、次男は初恋の味を知り、長女は女らしくなる。だが、三男は頑なに女性蔑視の砦に立てこもり、空騒ぎが始まる。作者までが心を閉ざしたかのようだ。
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『キューティーハニー』
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ハニーは彫像に変身しました。彫像だから、何をされても動けません。さて、ハニーは、何をされてしまうのでしょうか。続く。
続く!?
- 『けっこう仮面』
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月光仮面が誰なのか、いささか気になるところだが、けっこう仮面なら、誰でも結構!
映画化された。嬉しかった。面白くなかった。でも、おかしかった。前貼りが見えてたぞ。永井作品は、出来栄えなんか、どうでもいいから、どんどん、映画化してほしい。
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『手天童子』
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永井の最高傑作。
永井の作品群が永井ワールドとでも言うべき時空に渾然としてたゆたっていることは、ファンならずとも知っていよう。(go to 『いろはきいろ』#064[世界]24先生とA(16)「懐かしみ」)
マーベル・コミックス?ばりのサービス精神というよりは、スーパーマンと月光仮面のどちらが強いかと言い争う子供の野放図さを、永井は自分に許している。あの童顔を思い起そう。
ところが、『手天童子』は、私の知るかぎり、孤立している。なぜか。作品内部の時間が閉じているからだろう、自分の尻尾を銜える蛇のように。
護鬼が出自を語るときの、「その瞬間わたしはいた!」という台詞には、軽いめまいすら覚える。激戦のさなか、過去をまったく持たずに出現する「わたし」こそ、本当の「わたし」なのではないか。
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『バイオレンスジャック』
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どうせジャックみたいな男はいやしないのよと、吐きすてるように言う女がいた。ジャックのような男とは、何者か。救世主か。ボランティアのカウンセラーか。
人犬ってぞくぞくするわねと言う女がいた。ジャックは、作者が暴力表現を全開するための方便か。スラムキングの怖すぎる筋肉を締め上げる鎧のように、作家を漫画に縛り付ける防具か。
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『神曲』(+ダンテ)
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永井作品を見ていると、いつのまにか、裸でいることが人の必然であるように思えてくる。自然なのではなく、必然。
登場人物たちは、あたかも向こう傷のように裸身を見せびらかす。彼らは、自然主義的に裸体を謳歌しているのではない。また、『フライド・グリーン・トマト』の挿話にあるように、自己を客体化し、羞恥心を克服する道具として、裸体を利用しているのでもない。ファッション業界で言われているのかもしれないような、「ヌードを着る」という感覚に近い。力士がそうであるように、裸身であることは、エリートの特権だ。
そうした感覚が、『神曲』では、劇的に解放されている。人は、裸体に回帰しつつあるのではない。神話的裸体に向かって進化している最中だ。
中田雅喜
- 『ももいろ日記』
- 本体から自立して動き回る男性器の漫画は、うるさいほど見てきたが、自立する女性器は、初めて見た。しかも、肩肘張らず、のんびりと浮遊する。
だからどうしたと凄むのは、僻み。コロンブスの卵だ。こういうのは、早い者勝ち。稚気こそ、漫画の本流。
自分では圧し殺しているつもりでも、他人には朧気ながらも見えている、あなたの幻想がある。それは、場違いな化粧とかファッションとして、あなたの気付かないうちに、すでに表出されているものだ。その他、お守り代わりのアクセサリ、お得意の顰め面、意味深長な沈黙、耳障りな引き笑い、勿体ぶった瞑目、曲がった背筋、貧乏揺すり、摺り足、無用に髪を掻き上げる仕種、話をしながら自分の爪を見る癖、周りは聞き飽きた口癖、まずはとりあえずのジャブ攻撃、柔らかいもの大好き、飲酒や喫煙の習慣など。
おくびに出掛かった幻想は、漫画にして、さっさと吐き出してしまおう。そして、みんなに笑ってもらって、すっきりさせよう。
成田美名子 -
『エイリアン通り』
- 少女にしか思いつけないような、生真面目な喜劇。作家本人にすら、説明不能の展開で、あれよあれよという間に出来上がったという印象だろう。しかし、これが登場人物の物語ではなく、作家の心の旅の写し絵に過ぎないとすれば、ありふれた物語だとも言える。つまり、母親を傷つけずに母親から自立する試み。
少女漫画家は、しばしば、思春期の困難を乗り越えるために漫画表現を利用する。成功すると、こうしたシャボン玉のような作品が残り、引き替えに創作意欲が消え、守りに入る。成田のことを言っているのではない。成田に関しては、この作品しか知らないから。
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