第1章

飢えと共存してきた動物


 人間もふくめて、もともと動物というのは、いつも飢えと隣り合わせに生きている存在だった−とコトのはじめから言いだしたら、いま、なんでもあきるほど食べることができる飢えを知らない人たちは、自分にはなんの関係もない話だと、シラケてソッポを向くにきまっている。だが、動物は(人間も動物の一種だが)、残念ながら、飢えと共存していた。しかもそれが、ごくふつうの状態だったのである。
 たまには腹いっぱい食べることができた時期もあったかもしれないが、それはほとんど“瞬間的”なことで、すぐにだめになってしまった。なぜだろう。
 動物にはそれぞれある一定の“縄張り”があり、それが行動範囲だとすると、その範囲内の餌をとって食べる、その場合、動物が一種類であろうと何百種類であろうとかまわない。その範囲内にある可食物を考えるとき、かりに百ぴき分の餌があるときには、その餌を食べる動物は、あっという間に百ぴきになってしまう。
 そうなるまで、つまり百ぴき分の餌に対して動物が十とか二十ぴきの場合だと、食べたい放題なのだが、それはせいぜい数週間あるいは数か月のことにすぎない。
 かつて私は栃木県の山奥で次のような実験をしたことがある。まず一定区域内のウサギを全部消滅させて、そのあとどうなるかを観察する。するとその区域外にいたウサギが、縄張りの外に新天地ができたとばかり、たちまち入り込んで住みつく。
 そのとき、めすウサギの腹の中にいる子どもの数を調べてみると、平均七、八ぴき。つまり、食べものにゆとりがあると、すごい速さで増える。
 ところが区域内の餌にみあった数量に達したとき、めすウサギの腹のなかには一ぴきか二ひきしか子どもがいないのである。
 餌の絶対量が不足しているということをどうしてウサギが認識するのかまではわからないが、とにかく、ちゃんと調節できていて、無限には増えないようになっている。
 その増え方がちょうど収支とんとんのところでとどまれば、全員がてきとうに食べていけるわけだが、ときどき定量オーバーしたり、餌のほうが自然に減ったりすることはザラだから、そうなるととたんに飢えてしまう。だからうまくいってもトントン、だいたいがギリギリで生きていられるという限界すれすれの状態がつづく。
 このように自然界では、飢えるというのは当たりまえのことであって、ただ人間にとっても動物にとっても、飢えは非常につらいことであるから、できるだけ楽をしたいという“願望”がつねにあるといえる。

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変質する安楽追求願望


 動物にとって、飢えるということは非常につらいことなので、できるだけ逃れたいのだが、飢えはあっという間にやってくる。そうなると、飢えを満たすとこはきわめて困難だ。餌にゆとりがあると、すぐ定員を増やす。そこでいつもウッスラと飢えているのが常態である。コッテリ飢えると、弱いのが死んでしまってバランスが保たれる。そこで常時、ある程度飢えているというのが、この動物界の自然の摂理というわけだ。
 いまの先進国の人間のように、ほうぽうから餌すなわち食糧をかき集めてくる能力ができたときなは、言いかえれば、不足したらいくらでも餌を増やすことができるという条件が満たされることが可能になると、当然ながら飢えるという心配はなくなる。
 だが、量的な確保ができたとき、次に生ずる問題は質の向上に対する欲求である。
 飢えのつらさから逃れたいという安楽追求願望が、人間の場合、まず量をみたそうとする努力となって歴史の上に現れたが、おおむね量が満たされたとき、こんどは、まずいものからよりおいしいものへという安楽追求願望となって現れてきた。
 よりおいしいものというのは何かというと、たとえば日本の歴史で言うならば、縄文時代以前からずーっと食べつづけていた、主食の最も大きい部分としての肉の蛋白質である。つまり、ごちそうとしての動物蛋白質をよけいに食べたいという願望が強烈になってくる。
 ところがこうした“ごちそう”が一定して食べられないという期間があまりにも長かったために、人間の体は−人間だけでなく一般に動物の体は、そうした状況に適応させられ、生理機構にまで刷り込まれてしまっている。
 文明化して、量への願望が満たされ、さらにごちそう、すなわち動物蛋白質の十分な摂取という長い間の先祖代々の願望が満たされると、体の生理機構とは逆なところで、欲望は満足したけれども体が悪くなってしまうということになるため、こんどは、飲食やら栄養過多から生ずるさまざまな病気と共存して生きなくてはならない事態が発生する。
 こんにち、いわゆる平均寿命が伸びるという妄念の内実として、こうした問題が急速に進行している。これが現在、いちばん問題にしなければならないことだ。
 成人病とは大人のかかる病気かと思っていると、最近では小・中学生まで、過食による病気では成人の仲間入りである。はやばやと体は成人になり、ガタが来て、しかも精神のほうは幼稚なままという出来そこない人間がやたらと増えていく。
 現在のような飽食・美食状況が、はたしてこのままつづくのか、つづいた結果どうなるのか、正確に予測できる人がいなかったが、自然界の因果関係から、かなりの示唆は得られるはずである。

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自然界にない過食への警告装置


 動物の生きざまのなかで、最も理想的な姿を思い浮かべるとしたら、それは、シベリアの原野を餌を求めてうろついているオオカミでお想像してもらえればいい。
 牙をむき出し、ギラギラと眼を光らせ、空腹に耐えながらエモノを追うのだが、しかし、“本人”べつに悩んでいるわけではなく、これが当たりまえだとしか思わない。
 これが動物の正常な姿なのであって、この状態のとき彼らの生命機構は最もよく作動するようにできていると考えればよい。シベリアの原野には、少なくとも、ブタのように太ったオオカミは存在しない。たとえ太ったオオカミになりたいと思ったとしても、環境がそうはさせないのである。
 自然界にはそういうことは今まであり得なかったからというので、太るほうへの警告の“赤ランプ”は用意されていない。
 しかし、飢えのほうへ行進すると、ただちに“赤ランプ”がつく。
 たとえばかなり腹が減ってくると、キリキリと胃が痛むとか、空腹感にさいなまれるといった、なんらかの徴候が体に生じてくる。そろそろゴハンを食べなくちゃいかんぞ、というようにパッと赤ランプがつくわけだ。
 これに対して、食べ過ぎるということは、一時的にはあるとしても、永続的にありえないため、少しずつ食べ過ぎていくという課程に対する警告装置が、自然界では必要とされていないのである。
 食べすぎるという自然界の法則が、不幸にしていま、人間という動物の上に君臨している。
 たしかに、一時的には、大食・美食の結果、気持ち悪くなって吐くとか下痢をしてしまうといった変調は現れるが、少しずつ長期にわたる過食に対する警告装置がもともとないために、肥りすぎの果てに、まるでイソップ物語の蛙のようにパンクしてしまう状態に置かれている。
 これ以上食べすぎると糖尿病にやられるぞ! いいかげんにしとかないと脳卒中で倒れてしまうぞ! そうした自動警告装置は、何度もくり返すけれど自然界に用意されていない。
 こうしてわれわれ現代人は、反自然的な行為にますます拍車をかけている。
 その結果、いったいどういうことになるのだろうか。

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動物界に起こる突然の異変


 この地球に住んでいる動物のうち、かなりの部分は昆虫である。地球は“昆虫の惑星”といってもよいくらい何百万種類にも及ぶ虫たちのすみかとなっているが、彼らのなかには、といどき異常な行為をとるものがいる。そのひとつがイナゴである。
 古来、世界各地でときおりイナゴ(蝗)の大群が飛来し、穀物を食い荒らすと、再びどこへともなく消えていくといる現象が起こる。蝗害という。このイナゴはトノサマバッタと同じ種類なのだが、大発生するときには生理機構が変わり、それまでとはちがったバッタになっているのである。
 増えたために変わってしまうのか、むしろなにか生理機構が変わるような条件があって、そのため大発生するのだと考えられるが、とにかく、ふだんは緑色の体をして飛行もあまりできないはずなのが、群れをなしたときには色も茶色に変わり、生理的にも形態的・生理的にも、異なったバッタとなって大移動する。
 詳しいことはよくわかっていないが、どうやら干魃の激しい年にこの変化が起こるらしい。もとの場に餌がなくなるから餌を求めて大挙移動し、行く先のすべてを食い尽くしてしまて、もはや食べ物がなくなったとき、大部分のバッタがバッタバッタと死んでしまう。
 昆虫だから、それほど長い期間にわたって生きてはいけないのだけれども、それでも絶滅するわけではなくて、大発生前の個体数と同じぐらいが生き残る。
 こうして異常事態は、まるでウソのように過去の歴史の中に葬り去られ、再び何事もなかったかのように以前のバッタ、イナゴの生活がくり返されるのである。
 グッピーという観賞用にされることのある熱帯魚がいる。
 このグッピーを、ある大きさの水槽の中で飼い、一定の餌だけ与えておく。すると、餌の量ギリギリまで増えていく間はどうということもないが、オーバーしてしまったときに異常が起こる。
 グッピーの親が自分の子どもをトタンに食いはじめるのだ。餌が足りている間は、子どもがいくらいても無視している。ちなみに、グッピーは胎生魚で、ふつう一か月に一回、百−百五十ぐらい産出する。
 餌の量に対して増えすぎた分を減らそうと意識して行なう行為とは考えられず、水槽内に、グッピーだけが感じるイライラする事態が生じ、そこですぐさま弱肉強食が実行されて、弱いものが淘汰され、より強いものが残るというかたちで正常な状態にもどると、この共食いは終了する。
 異常に大発生したネズミが、“集団自殺”したという事実が日本にもある。昭和十年から十一年にかけて、箱根山に大発生したあと、何百万というネズミが芦ノ湖に身を投げた。まるで秋の木の葉のように、しばらくの間、死骸が密集して漂っていたという。
 原因はどうやら、ある種の笹が何十年間かの周期をもって結実して野ネズミの異常繁殖を誘発し、その結果、ネズミの生活リズムに変調を来たし、心理的なイライラ現象が発生したのではないかと考えられる。

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人間ははたして万物の霊長か


 人間は万物の霊長だという暗黙の了解のようなものが、いまも根強く存在している。  しかし、世の科学者たちが、自信ありげな顔つきで言うほど、人間が万物の霊長たり得るのかどうか私は疑っている。
 猫でも、犬でも、ライオンでも、どんな動物でもいいのだけれど、よく観察してみると、いろいろなことがわかってくるものだ。
 たとえば今まで他の家で飼われていた犬が、別な家にもらわれてきた。今までは飼い主の夫婦とも犬が好きで、その犬も飼い主の顔を見ると、ワンといって鳴く。
 ところが新しい飼い主のご主人は犬ぎらい。
 「うちの主人は犬ぎらいなの。吠え声がたまらないんだって」
 などという話を、その犬の前でしたところ、それ以来、さっぱり吠えない犬になってしまった、ということが現にあるのだ。
 これはテレパシーがはたらいたということがあるのかもしれないが、ほんとうは、人間のことばを全部理解していて、ふだんはそれを人間に知られないようにバカを思わせていると考えられるフシがある。
 猫なんかはかなりシラケたもので、猫なで声でまつわりつくかと思うと、さらっと反抗したり、豹変も堂に入ったものだが、「人間とは自分にエサをくれるために存在するから共存しているだけの、単なる召使いさ」、ぐらいにしか、ほんとうは思っていないらしい。
 鳥などは、そうした犬や猫にくらべると、あまり進化はしていないはずだと一般には思われているが、かれらの行動には、人間が見習わなくてはならないようなことが非常に多い。それは、本能の中に刷り込まれているだけの話にすぎない、といって済ますことができないような、集団で生き残るためのかなり高度の知恵を持っている。
 たとえば群れをなして飛んでいくと、中には、仲間に遅れ道草を食ってサボっているのがいる。すると集団のリーダー格らしい鳥が、もうれつないきおいでバックしてきて、サボ鳥のところでしばらくゴチャゴチャ何やら鳴いたり動いたりしたあと、ビューとばかりすごい速さで一緒に群れに戻る。
 こういう姿を見ていると、心配したリーダーの鳥が、遅れた仲間に注意を促し、説得して連れ戻したとしか考えられない。
 「いったい何をしているんだ?」
 「うん、ちょっと休みたくなっちゃって」
 「だめだよ、そんな勝手なまねしては。休むときは、みんなで休むことにしてあるじゃないか」
 「まあ、それはそうだけど……」
 「自分だけ勝手なことをしたら、無事に目的地に着けないよ。さあ、みんなが迷惑してる、いそいで戻ろう」
 「うん、わかった!」
 というような話し合いがあったなどというと、単なる擬人法的なもので、非科学的だといいたがるヤカラは多いが、どう見てもリーダーに説得されて急いで群れに戻ったとしか考えられないような現象が展開されることがある。
 一般に鳥の渡り現象は、地磁気や星座を理解ないし意識することのできる本能があらかじめ刷り込まれているといわれるが、ほんとうは、もっとベラボウに高度な思考力を持っているのではないかと考えたほうが、むしろすっきりするようなことがしばしばあるのだ。
 こうした動物でさえ、高度な意識など持っているはずはないと一般に考えられているのだから、まして植物に“心”があるのかもしれないと言おうものなら、世の中の科学者からいっせいにつまはじきにされ、笑い者にされるのがオチだろう。ことに日本の社会においては、そうした傾向が強い。
 だから黙っていたほうが身のためらしいのだが、私は、体験したこと感じたことを正直に蓄積し、整理していくのが最も基本的な科学的態度ではないかと思っている。
 よくいわれることだが、私も実験をしてみたことがある。同じ種類の花を鉢に植え、まったく同じ条件のもとで、一方には愛情ある言葉をかけて水をやり、もう一方には思いつく限りの悪態をつきながら、まったく同じ条件で水をかける。これをくり返していると、花の咲きかたがはっきりとちがってくるのである。そまつに扱ったほうは、花の咲きかたもそまつになる。
 動物も植物も、元をただせばひとつの生命体から分かれたものだ。植物にも、なんらかの意識があると考えても、べつにおかしいことはないのではないか。
 私は実験したことはないが、外国では、ある種の植物に対して心電図を使って、さまざまな条件下における反応を調べたりしているらしい。“ものを言うサボテン”の話が紹介されたこともあったが、たとえば植物をいじめると、接続してあった心電図の針がギューッとゆれるなどということがあっても、いっこうにおかしいことではないと思う。

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異常繁殖するアフリカのヌウ


 アフリカのケニアの草原に、ヌウという動物が生息している。和名はウシカモシカという。ウシのように曲がった角がはえ、たてがみと黒く長い尻尾があって、一名ツノウマと呼ばれる。体は灰色をしており、肩の両側に縞があって、ウシとウマとカモシカを全部あわせたような、ウシを小型にしたような動物だ。
 何年か前の九月、私は、このウシカモシカの社会を調査しに行ったのだが、その結果、異常繁殖していることがわかった。
 ケニア草原に住むウシカモシカの集団は三つくらいあり、その一つの集団がざっと百万頭。見渡すかぎりヌウだらけで、真っ黒なかたまりになって草を食べつづけている。かれらの餌となっている草は、サイやシマウマが食べるのと同じ草である。
 ふつうヌウという動物は五十頭くらいで群れをなし、餌を求めて移動するとき数万の大群をなすといわれているのだが、百万頭の大集団は明らかに異常事態である。
 有史以来、こうした事態はしばしばあったのかもしれないが、今までは報告されていない。かれらの天敵はライオンやチーター、ヒョウ、ハイエナなどであるが、そうした天敵がいたにしても、ごくわずかにすぎないから、餌がまだあるかぎりほとんどが育ってしまう。妊娠期間は八、九か月、一産一子がふつうである。
 そこで、百万頭のヌウが百三十万頭になったときの餌の量はどうなるかという計算をしてみた。
 人間でもブタでも動物はだいたい、大ざっぱに言って自分の体重の四倍量の無水物換算の餌を一年間に食べる。かりにいま、体重が五〇キログラムならば、二〇〇キロの乾物の餌があれば一年間食べて生きてゆける。
 ヌウの体重を平均約三〇〇キログラムとすれば、百万頭の個体総重量は三〇万トンである。三〇万トンのヌウの一年間に食べる草の量は、無水物換算で一二〇万トン。ヌウが生息する中部アフリカないし東アフリカの気候風土の中での草のはえ方から、必要面積を割り出すと、だいたい一六〇〇平方キロメートルで、東京の平野部とほぼ同じである。
 中央アフリカの高地には雨期と乾期とがあり、乾期になると草は枯れてしまい何か月もはえない。そこで乾期には、草を求めて移動するわけだが、ケニアに住んでいた一集団百万頭のヌウが、一年間に食べていける草の量を、一応計算上有していなければならない一六〇〇平方キロの面積は、そこにはなかったのである。
 だから一年たらずで三割かた増えたあと、乾期が訪れて草が枯れ果てたとき、大移動が行われるにちがいない。そうすると、そこで問題になってくるのは、ちょうどイナゴの大発生で人間の食用とする穀物が被害を受けて全滅してしまうように、ヌウと同じ草を食べていた他の草食動物が絶滅の危機にさらされることになる。
 おそらくまずやられるのは、サイではないかと思う。
 最近になって、あわてて保護だなんだといっているが、いまだに密猟が絶えず、サイの最大の天敵は人間であるといっていいくらいのものである。そこへ、こんどは同じ自然界の仲間として共存していた他の動物の異常繁殖の結果、食物を奪われるというかたちで生存の危機に追いやられる。
 こうした自然界の大移動が、いつ、どのようなかたちで起こるかについて、人間はまだまだ気にもとえずに見すごしていることが多すぎるのではないだろうか。

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生存可能な世界人口は五十億


 地球上に住む人類は、いま四十三億くらである。あと二十年経った今世紀末ころには、七十億になると見られている。現在、世界の人口増加率は二パーセントあまり、年間約九千万、毎日二十一万人を超える人間が増えつづけている。
 二千年前に二億五千万人くらいだった世界人口が十億になったのは、一八三〇年のことである。そして20億になったのは、一九三〇年で、倍に増えるまでに百年間を要している。その後、増加はスピードを増し、一九六〇年に三十億になるまで三十年、一九七五年の四十億まではわずか十五年しかかかっていない。
 このまま増加率が増えつづけると、今世紀末の七十億から、二〇一〇年には八十億を突破し、二一〇〇年代の初期までに百二十三億以上に達する−という見方がなされている。
 人間の住む場所である地球はひとつ、人間という動物の餌=食糧は、他の動物にとってもまた格好の餌になり得るから、無制限に獲得・保守することがむずかしい。
 たとえば穀物を貯蔵した場合、二割から四割近くがネズミその他の動物に食べられてしまう。まして、貯蔵設備のゆき届かない開発途上国などでは、やたら食われてしまうために、食糧の備蓄はたいへんむずかしい問題をかかえているのである。単に味がまずくなるといった問題ではないのだ。
 現在このように人口が増加していく中で、食糧との関係において人間が生存し得る数量的規模を考えた場合、いくつかの前提条件を設定しておく必要がある。
 さしあたり、全人類が現在の平均的なインド人型の生活で納得すると仮定して計算を行ってみると、計算上では七十八億人が生存可能である。このばあい、日本人もアメリカ人も、食生活内容を等しくインド型にダウンさせることが前提条件である。かりに全人類が納得してインド人型で生活したとしても、生存可能なのは今世紀いっぱい、せいぜい二〇一〇年までで、あと三十年そこそこだ。その段階で破局が訪れる。
 では日本人型の食生活パターンではどうだろう。計算の結果は三十六億人。いますでに四十三億円以上であるから、約一割はおりなければならなくなる。おりるというのは、“食えずに死ぬ”ということだ。
 以上いずれも、現実的には不可能である。わずかにインド型の生活をすれば、まだしばらくの間生きのびることができるのだが、急にそこまで生活レベルを下げることには、おそらく先進諸国の人間たちはがまんし得ないであろう。
 最も現実的な方法として、どんなことが考えられるだろうか。
 アメリカ人は、アメリカで生産したものは自分のものだから、他国がどうあろうとも勝手にやっていけるから、今までどおり気ままに消費しながらアメリカ人型食生活を確保していくはずだ。
 日本は、インド型に下がるのはいやならばアメリカ型に上がるのもあきらめ、ついでに現在より二割くらいカロリーも蛋白質の摂取量も落とす。そのほうが成人病からも遠ざかり、健康に暮らせるというわけで、啓蒙が効を奏して全国民のコンセンサスを得られるなら、なんとか現在の人口を維持する努力を当分やっていく。
 インドをはじめ開発途上国の人口増加率三−五パーセントは、いくらなんでも多すぎる。国をあげて人口静止運動を展開し、これ以上ふやさないようにし、それでもダメなときは餓死者を出しながら、かなりの人口がなんとか生きのびる。
 こうして地球全体の人類の最大収容限界はどうなるかというと、せいぜい五十億人台どまりである。あと五、六年、やや長くみても十年だ。
 それ以上に人類が以上発生したらどうなるか。
 こんな調子で気安くやっていったらすでにいくつかの動物の例でみたように、動物である人間にも、なんらかの異変が生じないですむはずはない。

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人間、この愚かなるもの


 ホモ・サピエンス(知恵のある人)というのが、人類の別名である。ただしこれは人間が勝手に名づけただけのことにすぎない。
 人間の英知などというのは、少なくとも自然界の摂理の前には、もともと無力なものだったのではないかと思える。人間の理性などというものも、文明が高度化した割には、さっぱり働いていないようだ。
 人口爆発が問題になっていながら、対応策はせいぜいピルを使うことぐらい。むしろイライラがこうじて心身ともに滅びていく人間が、どんどん増えていく。本人の意志にはいっこうに関係がなくて、ひたすら外界の圧力や、自分の作り出したものに圧倒され、英知などはどんどん流されてしまう。
 できるだけおいしいものをたくさん食べようとする方向へ、そのためには、人工的かつ組織的に、自然をつくり変えてしまうような方向へと、急速に文明が進もうとしている。
 もともと自然界では、やってはいけないことがさまざまなかたちで了解されていた。たとえば、現在などより数百倍も数千倍も、自然の恩恵に恵まれていたはずの狩猟採集生活を基礎とする日本の縄文時代などでも、なんらかのタブーや自然発生的禁忌を通じての自然への畏敬と順応によって、一定の生活ルールを守っていた。かれらが遺した遺跡を通して、こんにち私たちは、数千年前のわれわれの祖先が持っていた知恵や賢さをうかがい知ることができる。
 いま私たちは、安楽追求願望で、食糧を作れる場を刻一刻と減らし、その食糧がなくなる前に自分の存在を危くする方向へと歩みつうけているらしい。
 成人病の多発やノイローゼの頻発などが、その何よりの証左であって、一種の淘汰現象が起きているわけである。
 草食動物が草を食べていれば、いまかりに百ぴきが生きられるという場合に、その草を食って成長できる家畜動物に食べさせるばあいには、人間の食えない草が百ぴき分の肉となるわけで、これはかなりのプラスであり、人間の生活の場が拡大することになる。しかし草を食べて育つべき動物に自分の食える穀物を与えて、その動物の肉を食べるということになると、人間の個体数は人間が穀物を直接食べるべきの一五パーセントぐらいに減ってしまう。
 草や雑穀類はまずいから、ごちそうである肉類をよけい食べるという状態を、国民全体あるいは人類全体がとりつづけたときには、やがて必ず餓死者がでるか、みんながゴッソリ飢えたりすることになる。
 そうなってしまう前に、現実にはしだいに生命機能のバランスを失った個体が、次々とこの世から消えていかざるを得ないことになるだろう。

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一億、総“帝王病”の徴候


 成人病ということばがまだ使われていなかったとき、同じ病気を指して、“帝王病”と言っていた。
 中世ヨーロッパの王侯貴族などというのは、それこそ酒池肉林という形容がぴったりするほど、朝から晩まで、ぜいたくの限りを尽くして美食にふけり、ろくに運動もせず、食いたい放題飲み食いをつづけた。
 一般の庶民大衆が、食うや食わずの生活をしているときに、飽食・美食に明け暮れている得意満面なひとにぎりの連中は、コロコロと肥満化したあげく五十歳にもならぬうちにコロコロと死んでいった。
 もちろん、ひとにぎりの王侯・貴族・金持ちが好きこのんで飲み食いした結果、人間社会のほんの一部分が消えていくのだからどうということもない。
 ところが、いまの日本は“銀座の乞食も糖尿病”という言葉もあるくらい、およそ総理大臣から乞食まで、と言って悪ければピンからキリまで、おしなべてすべての人たちが飽食気味である。
 飽食とは、単に量的な意味での食べ過ぎばかりでなく、質的な意味をも含んでいる。その結果どうなるか。
 医学が発達したおかげかどうか、むかしの王侯貴族のようにコロコロ死にはしないかわり、不健康者の大量発生と薬漬けで、ジワリジワリ命をちぢめる状況が進行している。極端なことを言えば、一億総“帝王病”数歩手前の状態である。
 もともとわれわれの体には、人類が地球上に発生したと考えられている数百万年来の、少なくとも百万年単位での人間である期間に身につけた生理機構、そして人類になる前の先祖まで考慮に入れるべきだから、数千万年をかけて作り上げた生理機構が、完全にとけ込んだかたちで定着していると考えれる。
 その生理機構に合致しない摂食行動を、数十年、ないし数百年にわたってくり返した場合、生理機構なり体質に、マイナスの作用を及ぼすであろうことは容易に察することができるはずである。
 もとをただせば、数百万年の長い人類の生活史の中で、先祖と同じ生理機構を持ったわれわれの体であるならば、かつて人類が、長い期間にわたってどのような生き方をしたかを考え、外界との間にどんなかたちでバランスを保ちながら生きつづけたかを見習うことが、生命保持と生活の維持という基本的な観点からみて、最も安全だということになるはずである。
 人類が営々として生命をまっとうしながら歩みつづけることができた諸条件を類似した場合、現在でもこの地球上には、たまたま、かれら祖先の生活方法を踏襲しているにちがいないと思われるグループが存在する。気候、風土、生活方法、とりわけ食生活パターンから考えて、それはいわゆる長寿村と呼ばれるところで住んでいる人びとである。

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胃袋だけ海外移住している日本の現状


 世界の長寿村というと、すぐ思い浮かぶのはおそらくエクアドルのビルカバンバあたりだろうと思うが、はたしてあそこが、ほんとうに長寿村なのかどうか、実はかなり疑問がある。というのは、かれらの場合、いつ生まれたかについての記憶がお互いにきわめてあいまいで、しかるべき記録も残っていないからである。
 ビルカバンバはあまりアテにならないが、パキスタンの北にあるフンザ王国−といっても、千人もいない谷間の村だが−とか、コーカサスあたりの村には、百歳を超す長寿者がたくさんいる。
 長寿の条件として、食物以外に気候や風土などいくつかの要件が考えられるわけだが、食物についての特徴としてははっきりしていることは、肉食が極端に少なくて、植物性の食事と乳製品が多いということである。これも細かく言えば、それぞれの長寿村によって異なり、北欧では乳酸菌飲料、アンデスは植物類といったように主に摂取する食物の内容には少しずつちがいがある。
 それにしても、長寿の主要条件である食物の内容が、平均的にみて植物類や乳製品が多く、肉の摂取量が非常に少ないという事実は示唆的である。
 そうか、それなら早速ヨーグルトでも飲みつづいければ日本人もすぐ長寿者になれるか、というと、そうはいかない。かれらは何万年も前から乳製品を飲みつづけた結果、たまたまその条件に合った個体がうまく生き残り、その体質を受けついだ子孫だけに長寿の体質が形成されていると考えるべきであって、突然ヨソ者が真似をしたりすると、かえって危ない結果が出る。
 かりに日本人の金持ちが、長寿になりたいためにコーカサスに移住するとしたら−たぶんそんな気には絶対になり得ないだろうが−かえって短命になってバカを見るかもしれない。そもそも気候風土からして異なり、自分の持っている体機構とは異質な条件がマイナスとして作用することになるだろう。
 日本人なら日本人が、先祖代々つづいてきた食生活をやめ、たとえばヨーロッパ人の食事のほうが日本人の食事より優れていると思い込んでいる人が、北欧型の食生活をとり入れようというわけで、原材料を輸入し、毎日、北欧人の食生活を営むとしよう。
 すると、日本の気候風土の中にいながら、胃袋を主とする消化器官だけが北欧へ移住したことになってしまう。これは、きわめて異常な生き方であるから、とうていプラスなどがあるはずはない。それは気候風土や過去を無視した反自然的なことだからである。
 われわれの祖先が、代々いやおうなしに行なってきた日本人の食生活習慣が正しかったかどうかは疑問であって、もっといいパターンがあったのかもしれないし、これから見つかるかもしれない。しかしいい方向がどっちなのかということはすぐにはわからないのである。かりに、アメリカ型よりは北欧型のほうがいいとしたところで、北欧型にも当然マイナスの部分があるだろう。
 一民族の伝統的な食生活の中で、過去の悪い部分が修正されればプラスに働きそうだけれども、その悪い過去に合わされてしまっている体質からのズレが大きくなるために、もっと大きなマイナスが付随してくることは避けられない。そのため、部分的な修正や改善もあまり効を奏することなく、総体的に悪い方向へ傾いていくだろう。

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必要以上に獲物をとらない古代人の知恵


 われわれができるだけ生命を維持し、お互いに賢明さをもって生き残るためには、基本的にどのような対応の仕方をすればよいかを考える前に、少なくとも数千年前に生きていたわれわれの祖先が、どのような生き方をしていたかについて少し見ておこう。
 たとえば縄文時代においては、必要以上のものは獲らないという掟のようなものがあったのではないかと思う。掟といっても、縄文時代の社会単位は、一集団二、三十人から、多くて三百人前後までさまざまな集団が個別的に暮らしていたと思われるが、ときには各集団間の連絡や取り決めのようなものもあったかもしれない。
 いずれにしても狩猟採集生活者は、けっして必要以上に動物を狩猟することはない。いまはやりのことばで言えば、生態系の中で自然界にきちんとはまり込んで生活している場合には、不必要に獲得をとっても意味がない。貯蔵方法なり技術がろくになかったからであって、生態系なんてことを考えてのことではもちろんなかった。
 縄文時代も中期以降になると、狩猟法や道具の発達したことが出土品によってわかるし、食生活の上でもドングリなどの脱渋や貯蔵が行われるなど、相当に生活レベルが向上していたのである。
 縄文時代の後期には、一部に焼畑農業が行われていた可能性があるが、たとえばニューギニアの原始農耕社会では、作物が生きたままで畑に貯蔵されていると考えれば、畑自体が貯蔵庫だというわけである。したがってその日に必要なだけ芋を掘ってくるとか、みんながいま食べる分だけバナナを折ってくればよく、それ以上余分にとってくることは無駄な労働だからしない。
 狩猟採集を基礎とする生活形態の場合は、うまく“相手”と出くわす必要があるので、移動がひんぱんに行なわれる。
 狩猟を主体として生活を行なっている集団で、私が会ったのは、台湾の山地に住む高砂族で、いまから四半世紀も前のことであった。
 かれらは山の中にいくつかの狩猟場をつくってあって、二週間ぐらいごとに渡り歩きながら、必要な獲物をとっていた。
 多少時間をかければ、ひとつの狩猟場で余分に獲物を獲得することも可能なのだと思うが、そういうことはせず、次の狩猟にはわざわざ遠くまで出かけていくのである。
 私が訪れた時点では、高砂族の若者たちは、こんな生活はきついといってあまり行かなくなっており、酋長格のリーダーに引率されたばあいの、ごく少数だけがときたま山に入っていくていどであった。
 台湾山地の高砂族の中にも、もうそのときすでに世代間の“断絶”が生ずるほどに、近代化の波が徐々に押し寄せてきていたのだろうか。古来の狩猟採集生活の知恵は、すたれようとしていた。そしてその後の連絡はでは、もう山へなど行くものは一人もいなくなったようだ。

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もとは食人種だった日本人


 人類の歴史を食生活の観点から見た場合、どうしても見落とすことができないのは、食人の風習およびその後に派生した首狩りの習俗であろう。
 今日の考古学ないし民族学の研究結果によれば、縄文時代前期ごろまでの原日本人はどうやら食人種の範疇に入る。この事実は、すでに戦前の研究段階で判明していたのだが、そんなことを学界やら一般に発表しようものなら、世界に冠たる大和民族の祖先が食人種とは何事かと指弾されるのは必至なので、戦後もしばらくしてから論じられるようになった。
 日本の場合、食人の習慣がいつ発生していつ消えたかを考えるときの重要な因子として、気候変動を考慮に入れる必要がある。
 今から約七万年前に氷河期になった日本アルプスあたりが一面に氷河におおわれるという時期がつづいたあと、約一万一千年前に氷河期が終わり間氷期に入った。ちょうどそのころから、縄文時代がはいまるわけである。
 もちろんその前から日本列島には人類が定住していた。信州の盆地あたりでも定住していたと考えられるが気温が上がるとともに分散して周辺の山岳地域にも移り住むようになっていた。
 彼らは、獲物を求めて次第に山地部へ移動していく。山には狩猟動物が多いうえに、寒冷地帯には、わりと大型の動物が生息しているため、狩猟生活には都合がいいのである。
 寒冷化が進行すると、動物も少なくなるだけでなく、狩猟そのものが困難になってしまう。自然界の厳しさに追い立てられ、自分たちが進んできたルートを、逆行せざるを得なくなるのだ。
 こうしてもと来た道を逆もどりすると、そこにはもちろんすでにかつての同族が食物のとれる量ギリギリまで住みついている。そこでトラブルが起きてくる。
 「おれたちもまた仲間に入れてくれや」
 「いや、ここはもうギリギリいっぱいだ、ほかに行け」
 「もとは親類じゃないか、いっしょにいさせろよ」
 「勝手なこというな、ここはオレたちのナワバリだ、もどれもどれ」
 「ヤケに冷たいじゃないか、死ねというのか!」
 いやおうなくこういう状況になる。最後は腕ずくとなり。石斧やら弓矢を交えての殺戮がはじまる。そういう場合には、一網打尽の殺戮戦が演じられたと思われる。なにしろ、一つの集団が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるのであるから、殺すか殺されるか、二つに一つしか道はなかったであろう。
 気候温暖で山野に豊富な食べ物があり、ひろがっていって生活できる場合には問題はないけれども、生活のテリトリー(縄張り)が次第にせばめられてくると、同族間の闘争がいやおうなしに起こるのである。
 太平洋戦争のさいの例でいえば、南方進攻が効を奏している間は、ガダルカナルあたりまでも出かけていって意気揚々たるものだったが、やがて惨敗して撤退を余儀なくされると、見方同士の間に反目が生じ、正気の沙汰とは思えないようなことが集団の間に起こってくる。
 こうなると人間の理性やルールなどあまりあてにはならず、野性的な生存本能が悪い方向へとむき出しになってくるというわけだ。
 七万年前くらいにはじまった食物が減る氷河時代に、食人の習慣が相当進み、多少ラクになる一万年前あたりから徐々に減少して首狩り族というかたちに変形していき、さらに五千年前には、食人の習慣が消失していたと考えられる。

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どうして食人種は人を食うのか


 食人種と首狩り族は、本来別の種族であるというのが、これまでの定説であるが、ニューギニアの原始社会で食人種と日常生活の行動を共にして調べた結果、私は同一ののもと判断せざるを得ないという結論に到達した。
 日本人の遠い祖先が食人種であったことは前に述べたが、その後どうやら首狩り族に変わったらしい。しかもその痕跡は、戦国時代までずっと残るのである。たとえば歴史の本をひもとけばわかるように、合戦で敵の大将などの首を持ってきて見せびらかし、殊勲を誇ると同時に、それによって勝ち負けの判定材料にもするわけだが、この行為は、まさに首飾りの族の行動にほかならない。
 従来の考え方では、首狩り族は、人間を殺して首を切り取るけれども、肉を口にはしない、つまり食人種でではないということになっていた。また、首狩り族の系列をたどると、日本、台湾の高砂族、ルソン、ミンダナオ近辺からボルネオのダイヤク族、スマトラから北上してタイ北部のシャン高原の美人族などであるとされていた。
 私もまたニューギニアへ行くまで、ニューギニアは食人種の原始社会であるから、首狩りとは無関係だと思っていたのである。
 ところが同じ食人部族の中に、どういうわけかポツンと首狩り族の村が存在する。これはいったいどういうわけだろうと調べた結果、前述のような結論、すなわち以前は同じ食人種だったのに、ある条件のもとで首狩り族になっただけのことであるということがわかったのだ。  ある条件とはいったい何か?
 彼らニューギニアの食人社会では、必ず敵対部族をもっており、戦争をおこなう。その戦争には一定のルールがあって、前に述べたような、双方ことごとく生きるか死ぬかの殺戮戦を演じるのではない。必要な数だけ殺せば、それでおしまい。
 それは相互の部族間の掟みたいなもので、必要な数とは一人。遠征軍が、敵軍を一人倒すと、「やった!」とばかり勝利の雄たけびを上げて凱旋するわけだ。実は、なぜ戦争しなければならないのかという理由ははっきりしないのである。
 おそらくむかしは、それなりのシビアな理由があったのだろうが、いまは三年に一度ぐらいの割で、習慣的にやっている。互いの敵対部族同士、攻め込んで行って相手を一人殺して帰るというパターンをくり返す。
 彼らの足で片道八時間ぐらいの山中をかついで帰ると、翌日“蒸し焼きパーティー”をして部落全員で食べてしまう。ハハア、勝利のパーティーか、と思うとこれがちがっていて、たまたまここに死体があるから食べましょうというだけの発想なのだ。
 私も一度、同居人のよしみで、「おまえも食べろよ」とすすめられたが、とっさに顔をしかめて「きょうはなんだか腹がいたくて食べられない、残念だ」といって遠慮申し上げた。
 ところで、食人種についてあまりご存知でない方のために一言しておくと、彼らは人を見て、「こりゃ、若くて肥っててうまそうなやつだな、ひとつ味覚でもしてやろうか」というので殺して食う、というようなことはしない。文明社会で考えている食人種というのは、多分に漫画家の勝手な想像に由来しているようだ。生きている人間は、彼らにとって食用の対象にならないのだ。
 食人種にとって人間が食用の対象になるのは、たまたま戦争で殺されたり、事故のためにやられ、その死体が目の前に転がったときである。だから食人種といっても、せいぜい一生の間に十人も食人すればいいほうで、それほどチャンスは多くないのである。

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首狩り族はなぜ出現したのか


 八時間という山の中の道のりを、死体をかついで帰るというのは、大変な重労働である。しかも彼らは、手べんとうぶらさげて行くわけではない。
 総勢五十人ほどの部落のなかで、攻撃のために出向くのは男子十人あまり。雨の多い地方のことだから、朝早く出発しても、途中で野宿するようなことも出てきてしまう。ようやく敵を一人倒して帰る途中、またまた雨にやられて野宿。腹はへる。
 ここで当然なことにひらめく発想は、「よし、外食しちゃおう」ということだろう。なにしろ格好のエサを持っているのだ。今まで、なら、女房子どもが待っているんだから、急いで帰ろうというわけだったのが、空腹に耐えかねて、ムクムクと安楽追求願望が頭をもたげる。
 「おい、腹へったなあ」
 「うん、もうフラフラ」
 「これ、食うか」
 「そうだ、エサがあるんだもんな」
 河原の手ごろな場所を見つけて穴を掘り、たき火で焼いた石をならべ、死体を木の葉で包んで蒸し焼きにすると、アッという間にみんなで食べてしまう。
 さて満腹になったとき、ふと頭に浮かぶのは、これで大の男がぞろぞろ手ぶらで帰ったら、いったい戦争の結末について何と釈明したものだろう、ということである。これまでは、敵の死体を一つかつぎ込むことで勝利の凱旋が証明されていた。ところが死体がないとなると、勝ったのか負けたのか、留守をあずかる者としては信用がおけない。
 そこでハタと思いついたのは、いま、目の前に転がっている首である。ニューギニアの食人種は、死体の首から上は絶対に食べないのである。そこで食べ残しの首を戦勝の証拠品して高く揚げ、
 「勝ったぞー!」と勇ましく帰還することとなる。
 待っていた女子どもは、勝利を確認できても食べるチャンスがなくなってしまう。男子のほうは、一定の年齢に達すると攻撃部隊に参加するので、帰還途中の食人パーティーの洗礼を受けて、食人種の伝統が継承される。
 もっとも部落内でなんらかの事件から殺人が行なわれたり、変死体ができた場合は、部落全員が食べるので、だいたいにおいて全員が食人の経験を持っているのがふつうだが、先述のような事情のために、男は食人種であり得るが、女はそうではないという社会が生まれる可能性が出てくる。
 一方、攻撃部隊に参加する男子の場合も、非常にまれだが、必ずいつかはおこり得る条件が発生する。というのは、経験者が一人もいなくて、全員が初めて攻撃に参加する男の子だった場合で、しかも今までに食人の経験がいっさいないとすると、彼らは戦いに勝って死体をかついできても、途中で首だけ残して死体を食べるという知識は全然なく、ただ、かつて先輩がそうしたように、戦いに勝利したときは首を持って帰るものだと思っているので、首だけをちょん切って持ち帰る。
 こういうことは、かなりまれであって、多くの場合は経験者が同行するのがふつうなのだが、しかし、長い間には、必ずこうした事態が起こり得る。すると、その瞬間から食人の習慣は継承されずに消失し、首狩りの習慣だけが伝えられてのこる。こうして首狩り族が出現した。
 このように考えるのが、最も自然である、妥協であると思われる。つまり、もとをただせば、食人種と首狩り族とは、安楽追求をやったかどうかの差でしかなかったのである。

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人肉を食べた天明の大飢饉


 食人やら首狩りやら、物騒な話を述べてきたが、食人は日本では五千年も前の遠い昔のことであり、閉鎖的な未開社会のごく一部の話であて、文明社会に住むわれわれ現代人にとっては、せいぜい話のタネにすぎないとお考えの方もいるかもしれない。だが、はたしてそんなものだろうか。
 いまから、百数十年前の江戸時代は、天候不順な小氷期にあたっており、日本列島の東部は冷害、西部は旱魃に襲われ、しばしば飢饉に見舞われたことは周知のとおりである。なかでも天明の大飢饉による奥羽地方の惨状はすさまじいものであったことが知られている。おびただしい餓死者の群れが路傍に転がり、野犬などに食い散らされた。
 ふつう歴史的事実として一般に知られているのは、だいたいこのくらいまでで、食人が行なわれたことは、さすがに教科書的記述にはない。
 だが悲惨なパニック状態のなかで、餓死者の死体を食うという、まさに食人種の行動と同じことが起こったのである。
 その事実を伝える記録が、いまも残っている。たとえばこうである(『天明年度区歳日記』−「日本の飢饉資料」、原書房刊による)。
 「主は僕を放ち、父は子を棄て、子は親を遺て夫は妻に別れ、或は他郷へ赴くもあり、妻子手を携へ路頭に彷徨するものあり、而して道路に斃死するもの亦其数を知らず。初めは之れを取りて所々に埋めたりしも、後には誰あって之れを顧るものなく、死屍累々空しく犬又は鴉の餌となれり、而して犬の如きは既に其の味を知り、従来の人を噬殺せしこと少なからず。然るに先きに人を喰ひし犬は後には又悉く人の食物となるに至りたり。(中略)実に建国以来の災変と云ふべし」
 そして、
 「同(天明)四年正月に至りて新禧とは云へ、人皆年を迎ふるの経営なく偶残生を保てるものも既に粮尽きて牛潟車が筒木坂・館岡・繁田辺の下通りは死人の肉を喰ひたり。山崎村源次郎妻の如きは餓死せし十四五歳なる男子の肉を他の一人と共に之れを四日間に啖ひ尽くし、其の後如何してか全屍を己れ一人にて啖ひたしと云へり。漆洗の治助と称するもの、家にて小児の泣声の聞へしかば、隣家のもの何事ぞと来り見れば、其の父はまだ生活せる小児の股に噬付き居りしとぞ」
 さらに他人を待ち伏せして包丁で刺し殺し、家へ運んで食べた−といった実例を記したあと、その伝聞の記録者はさすがにおぞけを催したのであろう、
 「如何なることにやたへ餓死に及ぶとも母や妹を食ふこと凡三千世界にも其ためしあるまじく候。殊更彼岸中にて心あるものは乞う食非人も追善供養の志あるべきに、鳥畜類にも劣り候境界誠に鬼も逃ぐべしと思ひ恐ろしきことに覚え候」
 とコメントを付している(以上、引用にあたっT旧漢字は当用漢字を用い、適宜ルビを付した)。
 天明の飢饉に人肉を食べたという記録は、このほかにいくらもあり、なかには、自分の親が餓死したときに返済するという約束の借用証を取り交して他家の餓死者の足を一本借りた、といったような“借用証”さえ残っている。
 これはつい二百年前に起こったことなのである。

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太った人は狙われる……?


 ところでいま、一億二千万近い人間がいて、食べるものは七千万人分しかなく、どんなに金があっても他国から買うルートはとざされ、食糧を何ひとつ買えなくなったとき、はたして何が起こるだろうか。
 そのときただちに食人が行なわれるとは思われないけれども、陰でこっそりやってしまうという可能性は十分にあるのではないか。
 徳川時代でも、人肉を食べることに相当に抵抗があったはずで、おおっぴらにはなかなかできず、たまたま発覚した事例が物議をかもして記録が後に残されたと思われる。
 いまは何でもそろっている文明時代、しかもおしなべて飽食時代ときている。保存食品が出回り、冷蔵庫には冷凍食品がギッシリ納まっている。しかしそれがなくなってしまったらどうなるか。
 この無節操時代、衣食足りて礼節を欠く時代だ。けたくそ悪い想像だが、どこぞの団地やらマンションやらの冷蔵庫の中に、冷凍人肉が隠されている−などということにならないとも限るまい。
 そんな時代がもしも遠からずやってくるとしたら、イの一番に目をつけられるのは肥った人間だ。
 「あいつ、人を食った野郎」
 というので、大いに疑われるというわけだ。そのためにも、やせてなおかつ丈夫に生きる訓練をしておいてほうがいい。これを、やせがまんというのである。
 われわれ人間は、つねづね、どれくらいのカロリーを摂取し、どうしたら飢餓時代を乗り切れることができるのだろうか。
 天敵が不順となり、天明期のような冷害や旱魃が打ちつづくような気候の変動期が訪れ、食糧の危機に瀕するような事態が来るのであろうか。
 この問題については、次の章で述べる。

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第2章


寒冷化を地球規模で眺めれば……


 十数年来、異常気象が世界的に発生し、地球は次第に寒冷化に向かっていることが、これまでの諸研究と調査によって明らかにされている。
 それにしては暖冬異変がつづいたりして、かえって暖かくなっているのではないかといわれそうであるが、気象の変化というのは急激に直線的に変化するのではなく、ゆっくりとカーブを描き、しかも、一時的に非常に温暖な気候になったりという、いわば“ユレ”を見せながら、ストンと氷河期に入ってしまうのである。
 気象の変動を地球レベルで考える場合、最初に心得ておかなくてはならないことは、数年とか数十年という時間単位を当てはめても、ほとんど役には立たないということである。
 地球上に単細胞生物が出現してざっと三十億年だが、あまりにも古い時期のこまかいことはだれにもわからず、推測の域を出ないのでさておくとして、過去百万年ぐらいの時期を考えた場合、北半球では六回ほど大きな氷河期があった。
 そのうちいちばん最後の氷河期は、約七万年前からはじまり、一万一千年くらい前に終わった。だいたい六万年間、氷河期がつづいていたわけである。ただ、この六万年間が一律に寒かったというわけではなく、とくに二万年前ぐらいが最も寒い時期だったというように波はあるが、これをひっくるめて氷河期と呼んでいるのである。
 氷河期と氷河期との間には間氷期という温暖な時期があるが、それはせいぜい一万年くらいのものである。したがって、一万一千年前に氷河期が終わり、五千五百年前に、日本でいえば縄文前期の最温暖期だったとはいうものの、その間に、数百年とか千年といった範囲内で小さな氷期があって、何度かくり返されていた。
 この数千年内の単位で見ても、たとえばキリストが現われた時期はかなりの寒冷気であったし、ずっと降って日本の江戸時代二百六十年間は寒冷気であって、これは小氷期といわれる。
 大きな氷期に入る前にいくつかの小氷期を経て、だんだんとゆれながら落ちていく。ゆれの“山”に当たるときが温暖期、次に数百年寒冷期に入り、また六十年くらいの温暖期といったパターンをくり返しながら、ついに大氷期を迎えるのである。
 こうして地球の最近の百万年の歴史の中では、寒冷気が時間的には全体の八五パーセントを占めているということは決定的な事実であった。
 自然界のスケジュールではあと六百年もすると、本格的な大氷期の時代に入ってしまうことになるはずである。

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氷河期といっても驚くことはない?


 氷河期というと、いかにも氷づけになって大変なのではないかと想像しがちだが、これは大まちがい。この百万年の間、人類は何をしてきたかといえば、そのほとんどが氷河期であるなかで滅亡もせずに生きのびてきたのである。
 もとろん、ある地域は住みづらくなって、他の場所へ移動したということはあるだろう。なかには滅びてしまったところもあっただろうが、かえって住みやすくなった地域もあったにちがいない。
 熱帯地方などは、むしろ気候が良くなると考えられるし、海面が低くなり水がどんどん引いていけば、可住面積が広がり農耕地も新たに生まれるというわけで、何も驚くことはない。ただし、これは地球規模で人類全体を長期的に見た場合の話である。
 氷河期でも最も寒冷化が進行した場合、いまよりも二、三度くらい平均気温が低くなる。六、七度下がったら、それはもうベラボウな寒さで、地球上で氷に覆われてしまう面積が、いまの何十倍にもなってしまう。
 陸地にはえている植物の様子がガラリと変わり、植生が変われば、当然ながらそこにすむ動物の様相も一変する。たとえば、日本列島でいえば、いま北海道にはびこっている針葉樹林がどんどん南下し、照葉樹が極端に減ってしまうといったように、さまざまな事態が起こるようになるだろう。
 では日本列島に生存する一億一千数百万の人間はどうなるか。
 台湾あたりで面積が一定なら、二、三千万人ぐらいは生きていくことは可能だが、日本列島では、残念ながらそうはいかない。
 小氷期の徳川時代の人口は約二千七百万人。東北一帯では冷害のためしばしば飢饉となり、多くの人びとが飢えて死んだが、ともかくも全体としてはどうやら生きのびることができた。
 いまの日本はどうだろう?
 氷河期に突入した場合、せいぜいがんばって六千万人、もう一声かけても七千万人がいいところで、それくらいまでの人口ならば、飢えと寒さに打ち勝って現代生活を維持していくことが可能である。
 では残り四、五千万人はどこへ消えるのか。自然の猛威の前に、むなしく死を待つばかりになるのだろうか?

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全世界に広がる異常気象


 気候を世界的に見ると、こんどの寒気は北半球が寒冷化するという特徴をもっている。同じ氷河期といっても、南半球に何回か出たことはあるのだが、地球の北半球と南半球とは、必ずしも対応関係にあるわけではない、片方だけが冷えるという現象が進行する。
 こうして北極周辺の冷たい寒気団が、だんだん拡がっていく。この場合、寒気団が均等に南下するのではなく、三方向に張り出すというかたちをとることが多く、これはその前の氷河期とまったく同じパターンになる。したがって、場所もだいたい推定できるわけである。  北アメリカの東寄り、ハドソン湾からニューヨークへ向けての線。
 そしてヨーロッパのスカンジナビアから中部ヨーロッパ、アルプスにかけての一帯。
 シベリアには、毎年、零下六〇度を超えるようなベルホヤンスクとかオイメコンなどという寒冷地がある。ここは水分の補給がつづかないために氷床はできないが、冷えるという点ではベラボウに冷える地域である。そこから満州、中国東北部へ張り出す尾根。
 この三つの方向が考えられる。
 日本は幸いにして少しはずれているわけだが、ただし余波を蒙ることは避けられない。
 北極寒気団が、このように三方向に張り出しながら次第に南下すると、単に、その地域だけが極端に寒冷化して農作物に大被害をもたらすだけにとどまらなくなり、全体が北から南に押されるために、気候帯が全部ズレていく。
 穀類を主とする食糧自給率一五〇パーセントと世界最大を誇るアメリカとカナダの穀倉地帯は、大打撃を受けて自給率が大幅に落ち込み、ついには海外への輸出どころか、自国内の食糧をまかなうだけで一杯になることは当然に予想される。
 アメリカ、カナダについで時給率の高いフランス、お隣中国も、すでにしばしば、寒冷化による大被害を蒙ってきているが、やがてそれ以上の決定的なダメージを受けるようになるだろう。
 カナダの小麦、アメリカ東半分の大豆・小麦・トウモロコシ、中国北部の大豆、ソ連およびヨーロッパの小麦というように、世界の穀倉地帯は次々と被害を受けるだろう。
 しかもそれは寒冷化による被害だけではない。
 北の気候が南下する植生が変わり、また冷える海からの蒸発量が低下し水の補給が減って乾燥化する。氷河期には、乾燥して暖かくなる地域がやたらと多くなる。氷河期といえば寒いだけと思ったら大間違いなのだ。
 アフリカはだいたい乾燥化しやすい場所で、近年、西アフリカ諸国やエチオピアなどが大旱魃に襲われつづけ、大量の家畜が失われ、多数の人間が死んだ。サハラの乾燥した高気圧が南へ向かって北から押し出されたためである。インドからオーストラリア、アメリカ南部と西部、中国の平野部などが乾燥化に向かっていくだろう。中国などは、いま平野部で一生懸命に農業に力を入れているけれども、とくに北寄りの地球は寒冷化と乾燥化の同時進行というダブルパンチで、大きなダメージを蒙ることは確実である。十億の民を養うことは、いまでさえむずかしいのだから、八億人くらいでどうやらしのげるという事態が、やがて起こるということになる。
 西アフリカからエチオピアにかけては、大旱魃などというのは間違いで、沙漠化といわなければならない乾燥化が進み、人の住めない場所に変わってしまう。
 そのかわり、アフリカの地中海沿岸は、いまより雨が降るようになって、もう少し期間を置けば沃野に変わるようになる。
 ギリシャやローマは、現在はカラカラに乾いたようなところに遺跡が残っているという半沙漠化の状態だが、この辺はかなり雨が降るようになり、永い目で見れば住みやすい場所に変わってくる。
 ただし、数百キロ北上してウクライナ以北とかドイツ平原などという場所は、かなり厳しい気候にとって変わるようになる。
 北欧三国などは大変だ。アイスランド、グリーンランドはここ数百年間に、温暖期には移住者のコロニーができ、寒冷期に滅びるというくり返しがあったが、これらは絶滅にひんする事態が起こる。ただ、メキシコ湾流が流れていくところは、北に寄っていてもかなりいいところもある。だから、たとえばノルウェーが滅びてしまうかというと必ずしもそうではなく、あんがい漁業で成り立つということもあり得るわけで、北寄りだからすべて絶滅するというような単純なことではない。
 こうした寒冷化と乾燥化が同時進行する寒冷期が、いったいいつからはじまるのかといえば、一九八〇年代の後半ごろ、といってよいだろう。
 十年以内にこれまでの温暖期の気象要素を残しながら、気象異変の最高と最低との間の大きな“振れ”を示すかたちで進行し、あるときストンと氷河期といえるところまで突入していくことになるはずである。
 ただし、この途中で成層圏を汚濁させる規模の火山活動が起こると、このマイナスが寒冷期突入の時期を加速させることになり、現在火山活動は増加の方向にある。
 大気中の炭酸ガス量が増えて、ガラス張りの温室と同じ効果で地表がますます高温化していくという説は誤りで、寒冷期となって海水温が冷えれば、炭酸ガスは水のほうに移行する性質があるから、この高温化の理由は消滅する。

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日本列島を襲う寒冷化と旱魃


 日本は直接北極寒気団南下の通り道にはあたらないが、余波を受けると前に述べた。では、その影響の程度はどれくらいだろうか。
 まず、西日本は乾燥化する傾向があり、北日本は寒冷化する。北に寄ったほうが危ないかというと必ずしもそうではなく、日本海の沿岸では、対馬暖流がかなり北上しているので、山ぞいは別にして秋田県あたりまでかなり温暖なのである。
 むしろ非常によくないのは、岩手県、宮城県、福島県などの太平洋に面した親潮寒流 が沖合いを流れている地域である。こうした場所では東風が冷たい湿った気流を運んでくるからだ。土地の人たちは、これを「ヤマセ」といっている。
 ヤマセに見舞われると、いつも霧がかかった状態になって日照時間が減り、低温となるため、作物には非常に悪い影響を与え、冷害凶作をもたらしやすくなる。
 これももし江戸時代のように、外部との流通がきかない社会だったら、みんなバタバタとやられてしまうことは確実である。現代では、急にそうなることはないけれども、いざとなるとそういう危険性があると考えたほうがよく、今世紀中にも、顕著なかたちで寒冷化が起こると思われる。
 一方、西日本は旱魃による被害を非常に受けやすくなる。
 昔、源平の合戦で平家が破れたのは、実は平家の基盤であった西日本が当時旱魃で、平站線が壊滅に瀕したことに原因している。そのとき、幸いにして東国は寒冷化による被害を免がれたため、源氏のほうは食糧が豊かだった。
 食い物があるかないかは当然士気にも影響し、食糧のない平家は浮き足だつ。エサがあるということはいつの時代も人間が生きていく上での基本線であるから、当時の人びとはたまたま源氏に見方するといった状況が生まれることとなる。
 こういう過去の体験から、西日本では昔から農業用水が完備されている。堤をつくって農作物にまわすとか、飲み水だけは確保するといった努力は、この数百年間なされてきているので、慎重に対処すればダメージを蒙ることは避けられるかもしれないが、工業国日本のムダづかいの経済体質が依然としてつづき、氷期が長びくことになれば、どうすることもできなくなるだろう。
 いずれにしても、九州の中央部から瀬戸内、滋賀県、岐阜県、長野県が旱魃の軸となることは避けられない。とくに長野は、旱魃と冷害とにやられ、満州と同じような状態になってしまう可能性がある。長野県人はいま二百万人だが、その二百万人を維持するのは容易ではないという事態がくる。
 寒冷化地域では太平洋岸の北が危ないが、より危険な場所をリストアップすると、北海道は全体が状況悪化するなかで、とくに道東と太平洋岸が悪くなる。
 東北では、奥羽山脈を境にして、青森、岩手、宮城、福島、栃木、茨城が寒冷化し、日照量不足のために作物の収穫量が落ちるようになるだろう。

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今世紀末には本格的な小氷期へ


 氷期もさらに深まると、気候帯は全部ズレる。日本でいえば、北海道のタイガといわれる針葉樹林帯が、東北一帯にひろがるという事態が生じてくる。いま、北上山地に生えている白樺が、関東平野の北部にニョキニョキ生え、東京が、いまの戦場ヶ原と同じような植生に変わる。
 もっとも、それは氷河期もかなり進行した時点でのことであり、これから六百年以上もあとのことだ。しかしゆっくりとではあるがそうした方向へと向かっていることは否めない。
 日本では、非常に幸いなことに過去十数年来、何度か異常気象による被害を蒙りはしたものの、相対的に農作に恵まれ、同時に穀類の主要な輸入先であるアメリカ、カナダも、大きな被害を蒙らなかったために、これまでどうやら無事に切り抜けることができた。
 しかし、いままで持ちこたえてきたのだから、これからも大丈夫という根拠はまったくない。
 前駆症状や小旱魃がつづいているときには、台風が少なかったり、日照りがふえて、かえって稲作にプラスの作用を及ぼすことはある。けれども数万年に一度というような大旱魃が来たり、寒冷化との同時進行が起きたときには、ひとたまりもない。
 恐ろしいのは、大凶作に見舞われた翌年以降で、それまで比較的豊富だった国全体の食糧備蓄は、たちまちにして底をついてしまう。米が余っている余っていると、ずいぶん奇妙な騒がれ方をしてきたけれども、食糧が底をついたときまかなえる量としては、その余りかたはせいぜい国民全体にとって二か月くらいの量でしかなかったというていどのものだ。
 今年は大凶作に見舞われたが、その翌年は大豊作になった……というように、それこそ異常気象が有利にはたらいてくれれば、こんな幸せなことはないが、しかし、これからは残念ながらそうはなるまい。
 過去の例からも推定できるように、たとえば旱魃のピークが来年なら来年くるとすると、そのあと少なくとも三、四年間は旱魃がつづくのである。したがって、凶作もまたつづく。  かろうじてなにがしかの作物がとれるとしても、備蓄物をなくしたあとは、国民全体の食を満たすにはとうてい間に合わないと見たほうが正しいだろう。
 凶作の連続は、当然ながら飢えの連続をもたらすことになる。

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四季が変わって六季になる


 今世紀末に向かって、これから気象状況がますます悪化していくことになるが、その中で顕著になることは、夏が短く、冬は長くなるということだ。
 昭和五十三年の夏は非常に暑い日が二か月つづいた。連日の熱帯夜で、クーラー使用による電気消費量やらビールの消費量がぐんと上がったものだ。
 しかしこれからは、あのような事態はないと考えたほうがよく、お盆が過ぎたらガクンと冷えるくらいに思ってほぼまちがいはない。だから、これからクーラーでも買おうかというような考え方は完全な時代遅れであって、しかも省エネにもつながるというわけだ。
 低温、長雨の梅雨が七月下旬までつづき、夏はせいぜい一か月あるかないかの短さとなる。
 そのかわりとして冬が長くなる。ここのところ冬が非常に暖かい年もあったが、これも次第に影をひそめ、寒さがひどくなっていくにちがいない。十一月から三月までの五か月間は冬だと考えていい。
 その五か月の間に、暮から正月にかけて冬がいったん休止する。はじめを第一の冬と名づけるとすれば、第二の冬が始まるまでの期間、半月あるいは長くて一か月くらい、べつな気候に変わる。これはまだ正式には名づけられていないが、「暖冬」といっておこう。
 「暖冬」が過ぎると、再びグッと冷え込んで第二の冬になる。全体として冬は長くなるけれども、“中休み”した分だけ夏が短くなるわけだ。春から初夏にかけては低温で長雨になる。
 秋霖前線が停滞すると、いわゆる秋の長雨になるのだが、昔は十月十日の体育の日あたりは非常に天気がよかったものである。しかし近年、九月下旬から十月半ばまでは、むしろ天気が悪くなっており、この傾向は今後も強まるだろう。
 こうなると日本の四季のめぐり方は形が変わり、四季ではなくて六季になる。すなわち、冬が二つに分かれ、さらに春と夏の間に長い雨期が入る。だから、春・雨・夏・秋・1冬・2冬の六季になるというわけだ。
 今まで、晩霜の被害が出るのは五月上旬ごろまでであった。しかし、今後は六月いっぱいは霜がおりてもいっこうにおかしくないという状態がだんだん多くなるだろう。昭和五十一年七月一日の朝、盛岡で氷が張り、日本の各地に霜がおりたことがある。これは今後こういうことがごく当たりまえに起こるぞという、自然が親切に教えてくれた予告編だと考えるべきだ。霜は零度でなくてもおりるわけで、長い梅雨と“寒い”夏との間で、霜がおりるようなことが、これから、ちょくちょく起こるようになるにちがいない。

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吹けば飛ぶよな日本の食糧自給率


 日本の必要食糧の半分は米でカバされているので、魚などをこれに加えると自給率は約六〇パーセントになる。これは、ヨーロッパの文明諸国などよりはるかに低い。
 米が余っているといわれながら、こうまで自給率が低いということは、米以外の穀類の大部分を輸入によってまかなっているからである。
 米に関してだけは自給率平均約一〇〇パーセントをどうにか維持してきたが、これは日本人が米をあまり食わずにすませ、文明の一形式である多様化を推進し得たからで、ほかの食糧が輸入できなくなってしまえば、たちどころに五〇パーセント程度になるという、きわめて不安定な自給率だということを、はっきりと確認しておく必要がある。
 近年、日本人は米ばなれがすすみ、パンを食べたりめん類を食べたりすることが多くなった。それだけ、輸入食糧である小麦に依存する食生活パターンになっているわけだ。さらに、輸入した飼料をせっせっと家畜に食べさせ、パンやスパゲティやら、一日二〇〇グラム以上の畜肉を食べてコロコロと太る。これが食生活の洋風化だと世間では称している。
 べつにパンやめん類を食べるのが悪いことではないが、もともと日本では、稲のとり入れが終わったあとには裏作として麦をつくっていた。“麦秋”という情緒ゆたかな季語もあったくらいだ。いま“麦秋”ということばを聞いて、ぴんとわかる若い人たちが、はたしてどれくらいいることやら。「麦の秋」って何だろう? 麦は秋にとれるのかな、と思ったりするかもしれない。
 その小麦づくりを保護せずに、外国から安く輸入する政策を政府がとったため、農民は小麦の作付けをやめてしまった。第一次産業である農業は、一度生産をとりやめ、そのうえ生産意欲を失ってしまうと、再び生産しようとしても、おいそれとできるものではない。現在では田植えを早めたために麦と稲との時期がダブってしまって両立しない。
 そのうえに減反政策の奨励だ。遊休地は荒れ果て、都市に近いかつての小作民は、いまでは土地成金と相成っている。
 高度成長時代に、民族大移動とさえいわれた農村地帯から都市工業地帯への人口移動による農業就労者の激減は、“三ちゃん農業”がすっかり定着してしまった七〇年以降も、年々減少の一途をたどるばかりである。
 いくら日本の稲作技術は世界一だと誇ったところで、時給率六〇パーセントという海外からの輸入依存を基本とした農業構造を急に変えることは不可能である。
 たまたま日本で、もうしばらくの間、米の豊作がかりにつづいたとしても、すでに始まっている気候変動が、いつ世界各地の穀倉地帯を襲うかわからない。そうなれば、カナダにしろアメリカにしろ、他国へ輸出できる余裕はかなり減少してしまう。
 たとえ農産物輸出で生きている国でも、他国をかえりみるだけの余裕がなくなり、穀物の売却によって経済的利益をあげることができなくなるだろう。
 そうした食糧の国際動向が、自然の猛威の前に大幅な狂いを生じ、もはや政治による解決がつかなくなったとき、食糧危機が始まる。気候変動は人間の都合など考えてはくれない。それは自然界にセットされたタイムスケジュールどおりに、定められているはずの、あるドラマの台本どおりに進行して、実はこういうことになっているのだよと、われわれをまき込んでいく性質のものだ。
 食糧の輸入がだんだん困難になり、しかも日本列島で寒冷化と旱魃とが同時多発するかたちで大凶作に陥ったとき、一億一千万の国民は、確実に飢餓に見舞われるだろう。これが、かなり高い可能性をもって推定できる今後の日本人の立場である。

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食糧危機の到来は避けられない


 やがて日本を襲うことになる食糧危機に際して、私が心配でならないことは、はたしてどれだけ平等に乏しい食糧を分け合い、それぞれ知恵を出し合って飢餓に耐え、生きのびていけるかということである。
 たしかに、いまは徳川時代とちがって、さまざまな近代施設があり、食料加工技術もすすみ、交通手段も発展し、知恵の蓄積も豊富になっていると、いちおうはいえるだろう。
 したがって、たとえば耐久消費財は大切に使い、名実とも耐久力を持たせて孫子の代まで伝え残して使うようにするとか、すでに前章でも述べておいたように、畜肉の摂取をなるべく減らして、“やせがまん”の体質をつくっておくとか、暖房施設にたよらずに寒さに耐える体力づくりをするとか、さまざまな方策はあるだろう。保存食品や携帯食品の製造備蓄も考えられよう。
 しかし問題は、今まで十食べていたのを八なり六にまで減らして、みんなが生き残るというルールを、基本的に確保し、あとはそれぞれの人の能力なり働きにまかせるという面での国民的合意なり準備が、どれだけできるかということである。
 そうした意味でのショックな事態に、まだ一度もまともに対応したことのない日本人は、逃れられないショックが突然訪れたとき、もはやうまく処理できずに逃げのびそこなうのではないか。
 終戦直後の混乱期に、人びとは食糧不足を経験したはずではないかというけれども、そのとききわめて偏頗で不公平な解決しかできなかった。戦争中の配給制度にしてもアナだらけで、富めるものや力を持つものは不正を犯して物資を隠匿した。
 うやむやな形でショックをやわらげてしまうのが、いかに得意な日本人であるとしても、世界を覆う食糧危機に遭遇したとき、うまい解決方法をとっさに見つけ出して、国民全体が上手に生きのびるということは、どんなに譲歩して考えてみても、今度ばかりは相当に難しい相談だと思える。
 日本は単一民族で、工業国家として高い生産性を上げつづけてきた根底には、水田稲作型民族の精神構造が大いに作用している。つまり村八分という危険にさらされないためには、みなと歩調を合わせて共同作業に従事し、社会奉仕するという協調精神が、社会意識として背景にあり、生活を営んできたのであるが、世代が変わり、価値観も大きく変わってきている今日では、老若男女、国民が等しく協力して、危機に対処するだろうと楽天的な考え方をするわけにはいかない。
 私は自分では相当な楽観主義者のつもりでいるが、日本がいままで第一次の石油ショックもかわし、省エネもなんとなくすんなりとゆきそうだから、こんども要領よくうまく乗りきれて、けっこうなんとかなっていくだろうとは思えないのである。
 これまで苦しい苦い経験を経てきた能力のある年配者が、老齢化しないうちに、“危機との遭遇”をしたほうが、かえって幸せかもしれないと考えたりもする。
 ヨボヨボしてから、口をフガフガさせながら「アブナイヨー、アブナイヨー」といくら叫んでも、世間から無視され、そうしているうちに、ストンと危機が来たのではどうしようもない。現在の社会の管理職くらいの人たちが、まだ指導者としてがんばりつづけているうちならば、まだかなり危機は回避されるだろうと思う。

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第3章


外界適応能力が衰えている現代人


 数十年前とちがって、いまは、子どもはみんな病院で生まれるようになった。一週間なり二週間なり、人工的に設置された条件のなかで新生児が生活する。とくに未熟児などの場合は一か月も二か月も哺育器のなかで暮らす。
 昔はとてもこういうことは考えられなかったので、弱い子どもは外界の厳しさに耐えられず、すなおに死んでいった。そのかわり、ふつうの子どもは、強い抵抗力を備えて生長していった。なにしろ隙間風の吹くような家屋のなかで、ぬるま湯に入れられたりしながらも、べつに風邪をひいて病気になることもなく育ったのである。
 現在、病院というのは施設が完備しているので、温度やら湿度やら、何から何まで調節管理され、つねに一定の条件で育てられる。虚弱児はただちに哺育器に入れられ、酸素補給から人工栄養補給をおこなうわけだから、よほどのことがないかぎり死なないことになっている。
 こうしてまず第一の段階を過ぎ、次の段階で外界に放り出されるというのが、一般のケースである。
 しかし問題は、生まれてから二週間という、その期間にある。新生児は、九か月の間に、人間としてこの世に生きるための生理上の準備を整えて生まれてくる。たとえば発汗に必要な皮膚の汗腺は、一平方センチメートル当たり平均どれくらい……というように、数百万年を通じて必要とされる数を持ち合わせたものが生き残され、それを子孫に伝え伝えて現在に至ったものである。
 ところが何百世代となく引きつづいて用意されてきた生理上の機構は、生まれてみたら、「なあんだ、こんなに準備する必要なかったじゃないか」ということになる。気温や湿度を、生まれてから二週間だけ調節されていると、不必要だと早トチリをした生理的機構の大部分は停止してしまう。
 いったん停止した機構は、一生の間、二度と回復はしないのである。外へ出されてみたら、だまされて機能を捨てたことに気がついても、前に持っていたからといって、機能回復しようと思っても、もはや不可能だ。退化現象といっては言い過ぎになるけれども、外界の条件に対して適応しにくい体になってしまっている。
 かりに生理的な自動調節機能が二割だけ残されているとすると、その二割の機能をギリギリいっぱい、外界の変化に対して作動させなければならない。したがって、真夏は非常に暑苦しくて仕方がなく、冬めっぽう寒さが身にしみてくる。
 現代人の生活は、病院で生まれたときの環境条件が、その後の日常生活でもだいたい継承されるパターンになっている。つまり、夏は冷房、冬は暖房という外界の条件を人工調節しながら生活しているので、ますます機能はおとろえていく。
 いまの若者は体が弱くなったというけれども、むしろ、本来備えていたものを人工的に捨てさられてしまい、わずかに残った機能で最大限の努力をしているのだといえる。本人は、そうしたことはまったく関知しないでいるが、自然の環境に適応しようと思ってもできないという生理的限界のせまさに苦しんでいるのだ。
 たとえばニューギニアの湿地帯に行ってみると、私などは、現地人とちがって汗をジャージャーかくけれども、なんとかがまんしていられる。反対に寒さにもわりと強くて、もちろん零下二〇度のところに裸で立っていろといわれてもそうはいかないが、一応の冬支度をした程度なら、ビュービュー風に吹かれても「気分がいいなあ」というていどで過ごしていられる。
 私は幸か不幸か現代文明の過保護をされそこなって育った人間なので、これくらいならガマンできる範囲内だな、と平気でいられるけれども、はたして今の若い人たちにそれができるかどうか。もっと狭い範囲内でしか適応できないという限界に、すぐぶつかってしまうのではないかと思うが、そんな条件のもとに出会ってみようともしていないと、さしあたっては自他ともにわからないですんでいる。
 近年の登山ブームで、冬山に登る若者がずいぶん増えているが、何かというと、トランシーバーでSOS、ヘリコプターなどが救援にかけつけると、来かたが遅いじゃないかと文句をいる連中がいて、救援隊がアタマにくる、といったことがしばしば起こる。
 文句をいうのは身勝手で礼儀知らずで反社会的だけれども、あながち彼らを、いまの若い連中はなっちゃいないと、いちがいに非難できないところがあるわけだ。
 かといって親が、子どもを弱くしてはいけないというので、生まれたらすぐ隙間風にさらしたり、冷たい水につけようとしたって、そうはいくまい。
 肺炎になったらどうするか。医者だって、頼まれたってウンとはいうまい。あとで責任でもとらされたのではコトだから。だいいち、設備が完備していない産院では、いまの若い人たちも、入院する気にはならないだろう。
 生まれてくる子どもを人工的に大事にしすぎて、結果的には、せっかく持って生まれた能力のかなりの部分を失わせて放り出し、あとはお勝手に、ということになっている。
 こうしたところに、概して人間を弱くする根本の出発点があるようだ。
 人間の他の能力は、その後の教育でどうにでもなっていくが、その前段階で、生理的には勝負がついてしまうのだ。
 生理的機能の問題点は、気がついてからでは人間の意志でどうにもならない面があるわけで、こうしたことが崩壊因子のひとつになるということも、考慮しておく必要がある。

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長く寒い冬のこれからの過ごし方


 小氷河期になると、夏は涼しくて短く、冬が長くなる。長く厳しい冬を耐えかねていくには、いまの若い人たちにとっては、かんりの忍耐が必要だろう。
 冷暖房設備がととのった場所で、快適な生活をつづけることは、これからのエネルギー資源のとぼしい時代には、ますますむずかしくなるだろう。そうなると、セントラルヒーティングなどは、設備があっても使えなくなる。江戸時代の天明の飢饉のときの気温とだいたい同じだろうと見られるので、現在よりも平均二度下がるとすれば、冬の寒さは相当なものだ。
 セントラルヒーティングなどの暖房設備が使えなくなったとすれば、どうして長い冬を無事に過ごしたらよいか。みんな、こごえ死ぬかといえば、そういうわけでもない。いまのようなエネルギー依存の“文明生活”をやめて、昔にもどることにすればよい。
 まず核家族の分散なんかやめ、一人一部屋などというのもやめ、六畳一間に、親と子ども、おじいちゃん、おばあちゃんが全員集合! コタツをぐるりと囲む。これから、薪炭産業(?)が盛んになる気配があるから、昔のように炭を少々使い、薪の燃え残りは消し壺に入れておいて消し炭にしてまた火種に使うというように、チビチビと大切に使う。
 部屋の中は多少寒くとも、ドテラとか毛布にでもくるまっていればいい。とにかく、体と体をすり寄せれば、お互いの体温で体が温まる。“袖すり合うも他生の縁”とは、このことをいうのだったかな。
 お互いに無言でいると、よけいに寒さを感じてしまうから、なにやかやとおしゃべりする。あるいは、一定時間、テレビを見るにしても、全員が同じ番組を見ることにならざるを得ない。そうなれば、いきおい共通の話題ができてきて、親子の断絶などなくなるというわけだ。
 家族というものの、ごく自然で本来の姿に立ちもどるわけである。
 この場合、昔の人たちが持っていた知恵に耳を傾け、学びとることは重要なことだ。過日、新聞に報道された事件のように、省エネと経費節約のため石油ストーブをやめて練炭にしたところ、むかしとちがって部屋の気温が高いから夫婦が一酸化炭素のため練炭コタツで死亡してしまった。
 残念なことに親が同居していなかったようだ。もし同居していれば、使いなれていたお年寄りの知恵でこんなことにはならなかったろう。
 この事件には、さらに示唆的なことがあった。隣の部屋で寝ていた赤ん坊は、部屋がピシッとしていたおかげで災難をまぬがれたのであった。
 ともかく、やがて訪れる長い厳しい冬を生きのびるために、かつて私たちが親から受けついださまざまな知恵や、北国に住んできた人たちの暮らしの知恵から大いに学ぶことが大切で、必要な情報に目と耳とをうまく向けさえすれば、なんとか切り抜ける手段はいくらもある。

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食糧の平等な分配方式の確立を急げ


 日本を崩壊から守るために必要な最大の問題は、どうしたら飢餓に対処できるかということである。一億一千万人はとても無理で、いまの食生活レベルなら六千万人でも危ないところである。それを、できるだけより多くの人が生きのびていこうとするならば、いざとなったときは主要食糧全部について、厳正な割当て、配給制を実施できるようなシステムにしておくべきである。
 その点で参考になるのは、中国の例ではないかと思う。一九七二年に中国はかなり大規模な冷害と旱魃におそわれて凶作になったことがある。もしも、昔の中国であれば、一部の金持ちや権力者が食糧を独占し、何百万という大衆は飢えて死んだと思われる。
 正確な資料はないがおそらく、その凶作のために一人当たりの分配量は、例年より一、二割は減ったと見なされる。しかし、都市でも地方でも、老若男女すべてにわたり、公平な分配が行われたため、餓死者も出なかったし、パニックも起きなかった。つまり、国民全体が、平均して一人当たりの食べ物の量を減らしたために、危機を避けることができたのである。
 こと食べ物に関しては、イデオロギーのちがいをどうこう言っている場合ではない。中国がとった方法は、きわめて賢明で、さすがに長い歴史の中で苦難に耐えてきた国の知恵を思わせるのに十分である。
 ひるがえって日本でも、賢明な政治家なり指導者が、いまからそうした方法を検討し、早急に対策を講じておかなければ、間に合わなくなる事態が来てしまう危険が十分にある。
 さらに、食物の内容をも、大幅に変える必要がある。少なくとも、日本で畜肉を大量に生産するのは、熱帯でスキー場を開こうとする努力に似て、ものすごくムダなことだ。
 かりにいま、豚一頭を育てて、その肉を三十人の人たちが食べたとしても、それで食糧として三十人分が満たされるかというと、そうはならない。つまり、畜肉は主食ではなく、ごちそうとしての蛋白源にすぎない。ところが、豚一頭が一生の間に食べる雑穀やらイモやらの合計量は、単純に計算しても三十人分の六倍、約二百人分になるのだ。
 牛肉の場合では、その牛が食べたわずか十二分の一の量が、人間の口に牛肉として入るだけだ。ただし人間が直接には食えない草を食べて肉に変換する方法はプラスであって、人間の食える穀物を食べさせときに大きなムダとなる。プロイラーはかなり効率がよくて、それでも三分の一。平均して、畜肉は、その家畜がエサとして食べた分の十分の一の量に減ってしまう。
 食生活にうるおいを与えて、生きる喜びを味わえるていど以上の畜肉生産は、ギリギリ生存の時代の日本人にとって、身のほど知らずということになろう。
 動物性蛋白質は、一日あたり一人せいぜい三〇グラムあれば十分すぎるくらいであって、もっと少なくなっても、べつに生存にかかわりはない。
 やたらと家畜を飼育するだけの土地の余裕があったら、そこを人間用の耕作地に変えていもの作付けをしたほうが賢明だ。
 「備えあれば憂いなし」という格言を、どうやら日本人はすっかり忘れてしまっているらしい。個々人が、危機の時代をどう生き抜くかについての覚悟と知恵を身につけておくだけでなく、国全体の政策の大幅な転換が早急になされなければ、必ず、大きな犠牲を招くことになる。
 そのためこの十年ほど真剣に考え、現状を分析調査すると同時に、荒廃しつつある農業の建て直しを図るため、松下村塾の現代版ともいえる私塾を開いて農民と一緒に考え、啓蒙するといわゆる佐渡ケ島の独立という佐渡共和国構想である。

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佐渡独立構想の“源流”


 数年前、私が提案した佐渡の独立に関する構想をめぐって、さまざまな反応と少なからぬ関心を寄せられつつあるが、とりわけ肝心かなめの佐渡住民すなわち未来の佐渡共和国国民からの支持が、しだいに大きくなってきていることに、やはり感慨の念を覚えずにはいられない。
 私の佐渡独立構想がどのようなものであるかについて、まだご存知でない方のために、当時(昭和五十三年八月下旬)の『新潟日報』に寄稿した「私の佐渡独立論」(五回連載)を、ここに再録させていただくことにするが、そのまえに、佐渡独立構想の源流というか、最初の着想が、いまから四十年近く前の終戦直後に端を発していることにふれておこう。  昭和二十年九月、復員した私は、母の疎開先であった木曾に、栄養失調のためふらふらしながらたどり着いた。
 その木曾の生活で、土地のきこりからテッポウムシやらハチの子をとって食べることを教わったために、のちにニューギニアの人食い人種たちから妙な“野蛮人”という目で見られたりもすることになるのだが、それは別章の話にゆずるとして、とにかく鬱々とした日々を過ごしていた。
 国破れて山河あり、とはいうものの、食糧は欠乏し物資はなく、人心は荒廃する。いったい日本はどうなってしまうのだろう、と考えずにはいられなかった。
 当時、たとえば森戸辰男さんなどが、協同組合主義に立脚した。考え方を打ち出したりしていたようであるが、それはそれで一つの方法としても、自分なりの納得がいく方法がないものだろうかと思っているうちに、ふと私の脳裏にひらめいたのが伊豆大島である。
 ひとたび頭にひらめくと、どうしても実行しなければ気の済まない性質を生来もっていた私は、たぶん翌二十一年の春だったと思うが、さっそく伊豆大島へ渡って行った。
 そのころ大島には村が五つあったが、その五か村の村長に一人ずつ会い、切々と訴えたのである。
 当時の大島は人口一万数千人ぐらいで、椿油や牧畜で生計を営んでいた。そこで、
 「いま、本土はガタガタしていて日本の将来がどうなるのかわからない。この際、大島は独立し、ひとつの地域社会がなんとか生きのびていく方法を見本として示す必要がある。そうすれば、なるほどあのやり方なら幸せに暮らせるということがわかり、日本の救われ方が早くなる。やればきっとできます。僻地意識は捨てて、こっちがモトだという考え方に立てば、伊豆大島住民にとってプラスになり、日本にとってもプラスになる。大島は独立すべきだ、やりましょう」  といったようなことをブチまくったわけである。
 最初あっけにとられていた村長さん方も、だんだん話を聞いているうちに、「なるほど、そりゃいい考えだね」と感心はするのだけれども、ただの一人も腰を上げようとはしてくれない。なにしろ私はそのとき二十二歳。いわば、よそ者の若僧がやってきて、いきなり「この島は独立すべきだ」といっても、てんで信頼感を与えなかったわけである。
 独立の夢破れた私は、当時のこととて車などありはしないので、何日もかかって波浮の港までテクテクと歩き、むなしく帰ってきたのだった。



〈私の佐渡独立論〉

夢ならぬ重要課題−地方文化救うため実現を

私の佐渡独立論を知って全面的に賛成した永六輔さんは、独立の能力を発揮してそれを周知させるために努力して下さっている。
 氏のおもしろ、おかしく説得される内容に、なるほどと興味を持たれる方がたは、しかし実際にはそんなことはできないだろうとただのおもしろい夢を提供されただけだと思っておいでにちがいない。
 だがこの佐渡独立構想は、佐渡とその住民のより大きな幸せを願ってのものであることはもちろんだが、新潟県民ばかりでなく、実は日本国の将来の存続のために、ぜひ実現させねばならない重大な問題であり、そのもっとも手っとり早く確実な解決策なのである。
 日本人が将来直面させられる危機的要素は多々あるが、その崩壊の分野は経済面、政治面、軍事面、精神面、生物の存在の基盤である食糧面とあらゆる方面に解決困難な障害が現出する必然性がある。
 崩壊の危機を招く最大の基本的原因は、制度的な意味で大国になりすぎたことである。
 一刻を争う事態や針路決定を迫られたときに、この大国的体質では即応することができず、単に遅れをとって好時を失するだけでなく、収集不能なまでの内部崩壊を引き起こすおそれが生ずる。
 中央集権化は近代国家の必然ではあるが、これを無限に進行させることは、地域性、小地域固有の特殊性を封殺して、能率を低め、個性、文化を封圧ないし根絶させて単一の文明、文化、性格体質および意識に仕立てあげ、生存の目的、人間性、郷土愛をなくして社会を砂漠化する。
 元来生物は変異の幅が小さすぎるとき、どの部分かが外界の変動に適応して生き残り得るという可能性を少なくするので、絶滅しやすくなるおそれが生ずる。
 また一方的に上から流れ込む形は、地方在来のものと異質であってなじみにくく、浅薄な上すべりを起こして根がつかない。ある気候風土で必然性をもって育ったもののほうがかえって疎外されて、すべての地域での文化形態植民地型の安楽死に追いやられるのである。
 いうなれば現在は日本全体が江戸幕府の天領化したものであって、この状態では地方文化が消滅するのは当然のことといえる。地方自治を大幅に増大させればいいのだが、官僚機構は自己権限の縮小を極度にきるために、要求したからといって獲得できるものではない。
 現在の政府を日本国連邦政府とし、その下に州政府、県政府が置かれて、大幅な権限委譲がなされる、その方向に一歩でも日本を向かせるために、佐渡の独立という、地方自治をもう一歩進めたショック療法的対策が、このさい一刻も早くなされねばならない。
 では、なぜそれが佐渡でなければならないかを次で論じよう。


日本の崩壊を防ぐ−立地、産物とも自立可能

 佐渡を独立させるのが、なぜ日本のなかでもっとも適当であるか。
 平和的に独立するに当たっては、中央政府のたとえわずかの保護、恩恵も期待しないで自立できなければならず、周辺地域とのマサツを生じてもならない。
 佐渡が本土とはいちおう海でへだてられていることは、独立性を主張するのによく、これによって交通その他の支障を外部に与えることが非常に少ない。そしてこの離島はある大きさを持っているので、少なくとも最低限の生活よりもやや上回る基盤が確保される。
 国中平野の穀倉地帯は、佐渡出身者をすべて回収し終えてもまだ余力があって、隣国への食糧輸出が可能である。
 日本の北部に属するという意識を持たれがちであるが、佐渡は対馬暖流に洗われるために、とくに南部伊豆大島なみの気候となり、したがって産物も中部日本型であり、けっして北国ではなく、積雪量も本土の日本海側いわゆる裏日本とはまったく異なる。だから天気予報でも「佐渡を除く新潟県はどう」という表現を使う。
 魚種は暖、寒流にまたがっており、量的にも豊富であって、しかも汚染、荒廃を免れている。
 全山緑の雑木林は薪炭材を十二分に供給するので、少なくとも戦前型自給自足態勢を維持するには余りがある。これに加えて領海内には海底油田、ガス田が存在しており、この採掘権益は日本国との交渉によって直接的に燃料等の確保につなげることが可能である。
 佐渡の独立は日本の縮図としての日本のモデル地区であることにその価値がある。このためには日本のほぼ中央部にあるという地理的条件は非常に重要であって、北海道のはてや九州以南の離島では、日本の縮小版という形でのモデルの役目を果たすことができない。
 佐渡の独立は、単に独立が可能であるということだけでは意味がなく、それが日本にとって指導的、先導的な役割を受け持つ先兵的存在になって、小回りのきかなくなった制度大国を実証的に説得する立場となり、それによって日本を崩壊ないしは窮地から未然に救出することができることにある。
 どんな良策と思われる対応法であっても、効果があるかどうかという疑念が持たれることは当然であり、やってみなければわからないではないかという逡巡派を、仮説の段階で決意させることはできない。とくに歴史的に未体験の事態に直面したとき、しかも即決を要するとき、他山の石ならぬ同族が、千分の一の人口、四百分の一の面積であるという身軽さで、効果をあげたときは見習わせ、失敗のときは前車のワダチにふみ込ませぬように注意させ、日本を善導していくこととなる。
 佐渡国自体は施行錯覚をしても大男でないおかげで瞬時に対応してより良い路線に乗り換えることが可能であるから、けっして先行のために自分が日本国の犠牲になることはない。


国連で日本を援護−島民には直接税全廃も

 佐渡独立によっては最大の救いとして働くことになるが、それ以外にどんなことが得られるかを述べてみる。
 まず国連に加盟することになるが、諸大国はもちろん、直接関連の薄い小国群は、それぞれの利益のためにこぞって佐渡ケ島共和国を承認する。
 この段階で日本人は国連のレベルで発言権を倍増し、弱小国群の意志とりまとめに有利な立場をとり得る。
 日本国が直接交渉できない国や利害の一致しない相手国であれば、気軽に代行してyることができ、三角貿易なども自主的に要望に応ずることは可能である。
 日本国が国際的に窮地に立つときは、小国群の一員としての立場でこれを救出することもできるであろう。タモトを分かった形になっていれば、隣国の援護射撃は自己弁護よりははるかに効果が期待できる。しかもこの隣国は気心の通じた最も信頼のおける絶対的盟邦であることは確かなのだ。
 日本にとって佐渡の独立がなんらマイナスでなく、大きなプラスが働くとなれば、スジの通しようで分離独立を日本の議会は承認することができる。幸いにして日本国憲法には分離独立してはならないという項目は存在しないから、大局的には障害はない。
 ただし、税法などにひっかかりの生ずる面はあるが、大綱を立ててしまったあとは、その気でやりさえすれば細部の微調整でことは運び、基本的障害とはならない。
 地元、新潟県としては、かなりの部分が削り取られるという心理的な抵抗感が出るのは当然である。しかしこれは他国への出入りの門戸を一手に握ることによる利益と、実際的にはなんらの革命的変革を意図していない独立であるために、失うものは何もないことから、県民の熱烈な賛成と県議会の承認は得られるはずである。
 独立の場である地元の島民については、独立によって対日本国に限っての従来や財産保全などは以前とまったく変わりがなく、プラス面では直接税の全廃、医療福祉事業の国営による抜本策等により大きな利益が約束され、人口流出がなくなる。財源は自衛隊の基地使用料、領海内の鉱物資源採取権益料、観光客およびフェリーボートによる自動車の入国税などによってまかなわれ、また新興小国の使う常套手段としての金貨および郵便切手の発行で十分カバーされ得る。
 廃鉱に近い佐渡金山は営業的には利益がたとえなくとも、死退蔵を承知の金貨とすることで、国営事業として大いに活用される。
 これならば、独立しようという島民の総意が各市町村でとりまとめられ、新潟県に提出されて承認を受け、県民の祝福と賛成とを基盤として国会にもちこまれるとき、独立は夢でもなんでもない現実のものとなる。


不自然農法を排除−全国民が国防訓練に参加

 よりよい社会でありたいという願望は、だれもが心に抱いているけれども、それはあくまで夢でしかなくて、現実には手にできないものとあきらめてしまっているのが現状である。だからユートピア論を出すと夢として相手にされないのだが、これは人間のゴウがあきらめを完成させるほど強いことを示している。
 新国家建設のばあいでも、夢に近づけい気が起こるのは当然だが、あくまでもればできる範囲のものでなければならず、成果を収めれば日本国がそれを曲がりなりにもマネできるものでなければならない。
 かねてから識者が叫びながら、政治にはまったく顧みられなかった。しかも早急に手がけねば自己の未来をなくすような種類の施策を、佐渡ケ島国は即時断行するのをモットーとする。
 まず農業問題では、農民の意欲をスポイルする生産調整、減反を一切禁止し、気候風土に適合した作物を永続的に収穫するのを原則とし、投機的農業や資源浪費的な不自然農法を排除する。過剰生産物は加工、輸出に向けるが、当面の余り米などは国が買い上げて飢餓地帯の諸国に無償供与し、余力があれば日本国の米もこのルートに乗せ、日本国の良心の目覚めを促す。これで人類愛に徹する国としての発言権を大にし、将来の国力増大への基礎とする。
 山岳地は薪炭林として保全し、ここに過放牧を厳重に規制してクサブタを放つ。 気候変動期に即応し、地方の維持回復に労働力を結集し、人畜の排泄物は小地区単位での肥料化施設を作り、水洗便所は順次廃止に向かい、男女高校・中学生を集団で農作業実習にふり向ける。
 季節的収穫物を人工的にずらすことを禁じ、自然のサイクル内で嗜好を満足させる正規の姿にもどし、余剰物を加工工場に回したもので端境期をまかなう。これは水産物についても同様である、各小漁港には冷凍庫を設置して魚価を安定させる。大型畜産を排除して有畜農業型とし、燃料と大型機構の不必要な農業形態をとって、他国の意向に振り回されない体質とする。
 工業は軽・家内工業的なものが主軸であって、必要最小限の国内非生産物を日本国から輸入し、滅亡寸前の伝統工芸の復活は輸出向けとなり、養蚕、織物工場も振興される。
 両津港は貿易の玄関口となり、周辺諸国に向けて開かれる。同時に各国と不可侵条約を結ぶが、自己保全には他国の善意が必ずしも期待できないものとし、領海確保に魚雷艇を配して侵入を防ぎ、毎年数日間の全国民老若男女がすべてが参加する手榴弾、小銃による国防訓練がなされる。
 これにより、佐渡は国民が生き残っているうちは侵略が完了しないことを周知させるとともに郷土愛、団結心を強め、日本国の精神崩壊防止の見本とする。この訓練を終えて独立記念祭典を華やかに数日間とりおこない、全国民が佐渡おけさで踊りまくることとなる。これは観光の目玉商品にもなるはずである。


能力に応じた社会−為政者は当面日本に存在

 私の最近の調査研究により、人類の歴史的な生存形態から外れたことと有害物質の大量摂取とが、寿命をかなり短縮化させていることが判明した。十年後には、大学をノンビリ出て後しばらくしてようやく一人前という方式は社会的に価値をなくす時代となる。そこで実業高校(農・水産・林業・工・商・技芸等)を教育の主体とし、この国には大学を設置せず、高校卒業後すぐに役立つ人材を輩出させる。医師など特定の職種は有能者を日本国へ国費留学させる。病院、診察所はすべて国営であり、職員は国に属する。現在の民間機関はそのまま国の機関となり得るのである。
 老人、廃疾等で要望される人はすべて国営施設に保護され、各人に応じた生きがいを見いだせる仕事を担当してもらう。養護学級は排除し、学童生徒の自然発生的友情と助力とがすべてを解決する。身障者、知恵おくれ等は差別も保護もせず、それぞれの能力に応じた職種が与えられ、必要なときのみ周囲が援助の手を惜しみなくさしのべる方式を徹底する。
 初等教育は日本語の古文をも読める能力をつけ、漢字おぼえに不要な甘やかしをしない。高等教育では欧州語一辺倒を排し、ロシア語、朝鮮語、中国語のコースを英語と同じ重みで配分し、少なくとも一外国語が完全に活用できるようにする。そのための専門教師はさしあたっては日本国から招請して数校まとめて担当する。
 一般公開の大学講座を随時開講して、日本国から外交レベルで講師を招請し、また日本国に非常事態が発生したときは、生存能力に欠ける有用な学者、技術者、芸術家等を招待、保護し、安住できる畑地付きを提供して国民のレベル向上に努力してもらう。
 さしあたっての為政者、指導者は日本国から人材を選んで軌道に乗せる努力をし、島の出身者から有能者が出るのを待って順次交代するが、常時外国人の人材活用に努める。
 為政者はすべてまったくの奉仕者であって、国民の感謝は受けるが物質的、権力的利益はともなわず、あくまで名誉職でしかない。
 職業に貴賤はなく、有能な人格者であれば、本人がいやがっても、一時期周囲が無理に頼んで奉仕業務についてもらう形をとり、専門家は顧問として知識を提供し為政者を補佐する。
 国民は機械化、省力化を排除し、のろくて時間がかかっても歩き走りを基本とする。ただし公共のバス路線はキメ細かく通し、歩行困難者には必要時に電動の車イスが与えられ、役場には緊急車が常備される。
 ひとつ追加しておくが、この国では将来とも原子力発電は導入せず、小規模単位の風力発電、地熱による穿孔熱水還流発電などを普及し、電力浪費型の機械器具類は消滅に向かわせる。土地がら、太陽熱は温水製造ていどにとどめる。
 なお細目はおおかたの善意のある助言協力を得て、独立の成功実現につとめる。
 〔追記〕永六輔さんは精力的にPRをやってくれているが、佐渡高校で講演の折、卒業後どうするかとの問いに、ほとんど全員が島を出ると答え、独立ができたらどうするかとの問いには全員が島に残ると答えたと報告された。
 独立ないしは地方分権が過疎対策としても最大の効果をもたらすものであり、必ずも郷土を捨てる不幸を早くなくさねばならない。
 それにはこの独立構想を早急に実現させるべきであり、各方面のご厚情を期してやまない。そして日本人の将来を進歩ある明るいものとしてゆきたいものである。

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“時間切れ”にならぬうちに行動を


 近年、地方の時代とか地域の創造などと言われている。しかし、その発想の根底には、別個の中央集権が生まれてしまうことに対する歯止めが乏しいように思われる。そこでもう一歩進めて、もっと地方自治権を拡大する方向をとった場合、その極限は分権独立というかたちにならざるを得ない。
 県単位くらいで、どんどん独立し、作物にしろ生産物にしろ、あるいは文化にせよ、それぞれが東京の亜流ではないものをつくり出して、それをまとめて合衆国とするのが、ほんとうは理想的なあり方である。そのためにはまず、モデルとなるブロックを一つつくる必要があるのだ。
 なぜ佐渡がモデル地区となるかについてはすでにおわかりいただけたと思うが、もう少し補足説明の意味でつけ加えておこう。
 読者のなかには、同じ海でへだてられていることが要件ならば、沖縄でもいいではないかとお考えの方もおありだろう。ところが、沖縄は、日本全体の地理的位置づけから見た場合、かたより過ぎている。日本のミニチュア版をつくるには、日本のど真ん中であることが最もよい。さまざまな条件を重ね合わせると、どうしても佐渡しかないのである。
 暖流に囲まれていて、南側では椿も咲き、なにやら伊豆大島に似ている。それよりもなによりも、国中平野での米の生産率は非常に高く、自給率は一七〇パーセントもある。いま、佐渡の人口は八万数千人だが、十四万人は確保できるわけだ。いざというとき、日本じゅうに散らばっている佐渡出身者が全員もどってきても、いっこうにさしつかえない。
 だいたい、民主主義というものは、ギリシャ時代とちがって、国の規模が大きくなり、文明度がすすむにつれて、しだいにその内実から遠ざかり、一人一人の意識から薄れ去っていくものであることは、われわれがこの三十年のあいだ経験しているところである。
 ところが、八万人ぐらいの小さな国の総意を結集しようとすれば、どこかの国のように、いやというほどムダ金をかけた国民投票などせずに、ある日ある時、赤ん坊以外が全員集まり、ガヤガヤと相談し合って、おおむね賛成となれば、翌日からただちに実行に移すという具合に、きわめて小回りがきく。
 たかだか千分の一の実験にすぎないけれども、単なる机上の空論にとどまることなく、研究室程度ではない工場規模の実験が成功したとなると、それが何よりの解決策の具体的な根拠となり、日本を破局から救うことになるだろう。
 いや、そんなことは理想であって、現実はそんなに甘くない、とかなんとかガタガタいうばかりで手をこまねいているくちに、ほんとうに時間切れとなり、日本は取り返しのつかないような破局的様相をたどる時期は、刻々と近づきつつあるように思われるのである。

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“独立運動”のその後の経過


 私の佐渡共和国構想は、その後一部のマスコミによって、多分にその発想のおもしろさや奇抜さだけを強調するかたちでとり上げたことから、一時、地元の硬化を招いてしまった。
 もともと、佐渡独立にかかわる私の発想は奇抜ではあるかもしれないが、ただ発想のおもしろさを楽しんでもらうようなたぐいのものではない。何事であれ、物事をなしたり話したりするときはお互い楽しくやろうや、というのが私の主義であるから、興味を抱いてくれるのはとてもうれしいが、しかし、事の本質をねじ曲げられたら困るのだ。
 都会派というのは、とかく物事を茶化し、ふざけ話にしてしまう嫌いがある。その点、地方で生活している人びとの意識はちがう。どこまでもまじめに判断しようとする。地方人がいちどヘソを曲げたら、なかなか地元に戻るの困難だ。
 しかたがない、真意がわかってもらえるまで、地道に何年もかけることにしようと思ったところ、たまたまNHK新潟局の独自のローカル番組で、「佐渡の独立を考える」ということで私をゲストに呼んでくれた。
 国づくりを考える会とか、地元の考古学会とかに所属する若者が、賛成・反対各派二人ずつの討論会番組(三十分放送)として、新潟地方のお茶の間に流されたのである。
 そのとき、先にふれたような趣旨の話をしたところ、「そういうことだったのか、それならわれわれも大賛成です」ということで、反対派として討論に参加した人たちも、その場で真意を理解してくれたという経緯がある。
 その後、地元の佐渡独立論に対する理解ないし、雰囲気は、非常によくなっている。
 そういうことから、言い出しっぺである私も、いよいよ佐渡に乗り込んで、独立運動を加速すべき雲行きになってきたようなのだ。

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佐渡共和国の政治委員は給料ゼロ


 日本国憲法を読んでみると、その条文のどこにも、日本の県や島が分離独立してはいけないなどとは規定されていない。ということは、日本列島の北から南にいたる県でも市でも島でも、その気にさえなりさえすれば独立できることが法的にも可能だということである。
 たとえ独立しないまでも、佐渡共和国という一つのモデルができるならば、それが引き金となって他の地域でも、そうした方向に一歩でも近づこうとする試みが、必ず起きてくる。
 “佐渡国営放送”からは、毎日、佐渡人の幸せそうな生活の情景が流れてくる。佐渡共和国へ視察旅行に行った人たちは、そこに、衣食足りて他人への思いやりが深く、ぜいたくはしないかわりに高度な教養人として日々の勤労と余暇を楽しみ、土地収奪もなく、不公平な所得税でがんじがらめにされることもなく、資源危機やら政治危機とやらは、いったいどこの国のことだろう? といった柔和な顔をした佐渡国民の生活実態にふれて、ショックを覚えて日本に帰国する、ということになるであろう。
 しかも佐渡国では、日本がやらなかったことをどんどんやって、国際的にも非常に高い価値を受けていく。たとえば、余っているお米を、食べるのに困っているような国へ、ただで配ってあげる。日本の各地の倉庫にねむっている古々米がまだ残されている時代ならば、それを買い上げて、ただであげる。
 独立佐渡国は当然、国連に加盟するが、人口八万余の弱小国であるから、アジア・アフリカの弱小国の立場をよく理解することが可能である。しかも、自由で創意に富んだ教育が普及し、有能な指導層を擁し、高度な情報活動が行なわれているところから、世界の弱小国をまとめてリードすることが可能である。というよりも、東西とか南北といっ権益主義をふり捨てて、弱小国同士を糾合して国連の半分以上を確保する。
 日本が「東西」「南北」入り乱れた国際政治の熾烈な場で袋だたきにあうようなときは、弱小国連合を代表して救いの手をさしのべることだって可能ではないか。
 佐渡が新生独立国として新たな歴史を切り開くためには、適切な指導層を必要とするが、それらによって構成される各運営委員会委員の給料はゼロにする。要するに、政治家や大臣などが出てきて、権力の座に居座り、甘い汁を吸うような機構は最初から作らない。
 民主主義の悪いところが衆愚政治になりやすいところにあるということは、今まで日本国民として生活してさんざん見てきているので、佐渡国では、あえて一種の賢人指名制を採用し、総意によって確認するという方法をとる。もちろん、リコール制を設けるなどの措置は講じておく。
 財源にはいろいろな方法が考えられるが、たとえば佐渡独立の熱心な支持者の一人である有吉佐和子さんの案によれば、切手を発行するという有力な手もある。
 農林省とか文部省とか、農林大臣とか文部大臣とか、次官、参事官、審議官、なんとか委員会の委員とか、何をやっているのかさっぱりわからないような非能率的管理機構はやめて、文部担当委員一人、農業担当委員一人といったぐあいに決めておいて、必要に応じて何人かの事務員がいれば用が足りる。
 そして彼ら(または彼女ら)は生活だけは保護されるが、給料はゼロ。だから、まかりまちがっても、成金議員とか札束政治は生まれてこないのである。

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佐渡共和国の国防と祖国愛


 いま日本の自衛隊について、その存在価値についてまでとやかく言われがちである。たしかに吹けば飛ぶようなものかもしれないが、ないよりあったほうがはるかにましだと私は思っている。国民の安全を守るために、国民の軍隊を持たないような国が、いったいどこにあるのだろう。
 世界に向かって永世中立を宣言したスイスでさえ、国民武装軍を持っている。
 どういうわけか日本は戦後、日本を守ることについての論議が、あまりにもおろそかだったのではないか。というよりも根本的に祖国に対する愛情が欠けているように思われる。
 それには理由がないわけではなくて、日本人は、祖国愛よりも郷土愛のほうがはるかに強いことは、毎年、全国高校野球がはじまると等しく実感するのではないだろうか。
 したがって自衛隊も、出身県ごとに部隊を編成し、東北・関東・中部・近畿・四国・九州・北海道・沖縄といったように地区別の師団をつくって、要するに昔の軍隊の部隊編成を、よりローカルにしたほうが力量を発揮する。九州や四国生まれの人が北海道へ派遣されて、“さあ、わが国を守れ”といわれても、はたして死守する気になるかどうか大いに疑問である。
 北海道の人が北海道を守るということになれば、おそらく必ず守り抜くだろう。
 いちばんダメなのが東京で、各地からの寄り集まりだから、どだい郷土愛も祖国愛もありはしない。ことがあれば、いっせいに逃げ出すのがオチだろう。ことに若い世代になればなるほど、その傾向が顕著になっていくにちがいない。
 もしも独立国家佐渡が侵略の危機にさらされる事態になったら、それこそ最後の一人まで祖国佐渡のために戦い抜くだろう。
 佐渡国では原爆とかミサイルは保有しない。なにをもって戦うかというと、自動小銃と手榴弾である。国民八万人のうち幼児を除いた約五万人は、老若男女を問わず一人一丁の自動小銃と十個ずつの手榴弾が与えられる。それらの武器は、平時は各村役場ごとに厳重に保管し、管理される。武器は使い方に習熟していなければ無用の長物と化すので訓練が必要だが、それについてはあとでふれる。
 小銃と手榴弾で近代装備を持つ敵軍に勝てるわけなんかないとお考えの向きには、さしあたりベトナム戦争を思い出していただくことにしよう。鬱蒼とした山地にこもって、最後はゲリラ戦を展開する以外にない。ジェット戦闘機が飛んできてもあちらこちらからいっせいに小銃が火を吹けば、一発ぐらい当たる可能性がある。一発うまいところに当たれば撃墜だ。小国などとあなどっていたが、これはうっかりできなぞという恐怖心を敵軍に叩き込む。
 佐渡国海軍も魚雷艇ぐらいは保有しており、近海での海のゲリラ戦には大いに実力を発揮するだろう。
 金北山には自衛隊のレーダー基地がある。平時はこれを日本国の自衛隊に高い使用料で貸すことにでもする。文句をつけてきたら、そのときは「それではどうぞお引き取りください。そのかわり、ソ連あたりに貸しましょう」といば、「待ってくれ、それはまずい、使用料を払いましょう」ということになるにきまっいる。

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国歌は草木もなびく佐渡おけさ


 佐渡では毎年四月一日に全島をあげての「佐渡ケ島祭り」が行なわれ観光シーズンの幕開けとなる美しい花が咲き乱れる春四月一日は、佐渡国独立記念日とするにはウソから出たマコトで、まことにふさわしい。
 四月一日から一週間、大々的な独立記念行事をくり広げる。その前の三日間は、全国民が寄りつどい、招聘した日本国自衛隊の指導者の指導のもとに、小銃の撃ち方や手榴弾の投げ方、ゲリラ戦の展開の仕方などについての実地訓練を行なう。
 向こうが承諾すればの話だが、北ベトナムから講師を呼んで、軍事理論や実地訓練の指導をしてもらってもいい。
 さて、佐渡の国歌だが、これは佐渡おけさで決まりだろう。
  はあ〜
  佐渡へ 佐渡へ 草木もなびく
  佐渡は いよいか 住みよいか……
 いやがおうでも、新生佐渡国のイメージが高まるような国歌ではないか。
 この佐渡おけさには、妖しい伝説がまとわりついている。おけさというのは美貌の女性の名。しかもこの女性、本性は怪猫なのである。たまたま、その姿をかいま見てしまった一人の船頭が、約束を破って他言したトタンに一天にわかにかき曇り、一陣の風がおだやかな海上を走りぬけたと見るや、黒雲を突き抜けてつんざく雷鳴のあいだから、怪猫が姿をあらわし、鋭い爪でかの船頭の乗った船をひき裂いてしまった、というのである。
 わが平和国家佐渡を侮辱し、佐渡国民を怒らせることがあったら、ただでは済まないぞという怨念が、この哀調を帯びた佐渡おけさ、すなわち佐渡国国歌には秘められている。というわけだ。
 しかもこの佐渡ケ島国の国歌は、隣国日本ではほとんどすべての人が先刻百も承知で、」いっしょになってワーッと歌えることは絶対的にたしかである。こんな例は他には考えようもない。
 こうして僻地、離島が、一瞬にして、世界第一流の人材を必要に応じてどんどん招き寄せ、それを十二分に活用し、とり残されの被害者意識などどこかへふっとんで、大国日本の先達という高揚した自負にこの国民の顔は明るく輝くことになる。
 なお私はまだ見ていないが、東大病院の医師が国旗のいいデザインを寄せてきたとかいう。国鳥はもちろんトキということになろう。

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第4章


目の青かった私の父


私の父は、茨城県の最北部、勿来ノ関の麓にある現在の大津港で、代々、水戸藩に仕えた藩士の末裔である。
 水戸のお城には西の丸があって、城の西側でも警護していたのか、そのあたりに住んでいたのかは知らないが、西の丸様といえば江戸城の徳川家に対していささかまずいので、西丸と書いてもニシマルとは読まず、地元ではサイマル呼んだ。いまでも田舎に行くと、サイマルさんという。
 助さんと角さんといえば、水戸黄門の家来で、老公の諸国漫遊の随行警護にあった武芸者として知られているが、その佐々助三郎の家から、西丸の家に来た養子は四代前の先祖の一員だ。
 話は、幕末にとぶが、ノルウェーの捕鯨船が大津港の沖合いで嵐のために難船し、船長一人だけが助かって救出されたことがあたらしい。当時、ノルウェー人の乗る捕鯨船が、マッコウクジラなどを追ってしばしば日本近海にやってきたようだが、おそらく半ば海賊まがいのようなものだったのだろう。ともかく、ノルウェーとの国交などまったくない時代だったが、異国人とはいいながら、難船で困っている船長を見捨てるにしのびなかったためか、一年ほどかくまい、そのあと強制送還させられた。
 そのときノルウェーの船長をうちでかくまったのだが、たまたま、この家の一人娘と船長とが仲良くなり、強制送還後、女の子を生み落とした。当時、合いの子といえば非常に外聞が悪く、そのうえ私生児では母親としても困るというので、その一人娘に因果を含めてなっとくさせた養子を迎え、合いの子である女の子を自分たちの子として育てた。
 婿養子の家は野口家といい、野口雨情の先祖にあたる。
 世に有名な桜田門外の変で、大老井伊直弼が水戸浪士に暗殺されたときなどの主謀者が西丸帯刀といって、この人は祖父の父となる。
 昭和五十五年(一九八〇)四月に、三十余年在職した研究所を自主退官した私は、まずルーツさがしをすることにしてノルウェーに出かけた。そしてわかったことは、十九世紀の前半の小氷期に、ノルウェー人の半数が祖国では食えないので新大陸に渡ってしまったこと、そして私の祖先の一員もその仲間であり、ヴァイキングの子孫らしく捕鯨の腕を買われてアメリカの捕鯨船に傭われ船長として乗り込み、はるばる北太平洋を越えて日本までやって来たという運命を背負ったことになるようだ。
 余談だが、捕鯨業は当時のアメリカの基幹産業であり、日本近海であまりに遭難が多かったので、日本に捕鯨船の補給基地が欲しくて、ペリーの黒船が浦賀にやってきたということなのだそうだ。
 さて、三代あとの私の父は、まだ目が青かった。私の代で十六分の一になっているので、目のほうは青くないが、べつの面での影響はある。
 父が日露戦争に行ったとき、奉天で戦争が終わって先勝祝賀のパレードをやろうということになった。ロシア軍の捕虜を、みこしの上に座らせて、わいわい騒ぎながらねり歩こうというわけだが、たまたま奉天には捕虜が一人もいない。
 それではとばかり“白羽の矢”をたてられたのが父である。
 なにしろ目は青いうえに頭ははげていて、おまけに赤ひげがぼうぼうと生え、どう見ても日本人ばなれしている。「おまえ、ひとつ露助役をやれ」といわれ、やむを得ず椅子に腰かけさせられて行列が進むと、見物人がいっせいに「露助だ、露助だ」と騒ぎたて、大騒ぎをしたということである。
 ちなみに、“露助”というのは、ルスキーをもじったことばであってかつて太平洋戦争で連合軍が、日本軍人および日本人をジャップといったように、日露戦争当時の日本人がロシア人に対して与えた呼び名であった。
 親の代でもそれくらいだったから、私にもまた形質遺伝上の影響が残っている。色素が少なくて日焼けしないのだ。真夏の暑い日や雪の上では一日で皮膚が真っ赤になってしまい、すぐに皮がむけはじめる。これは、探検家としてはずいぶん損だ。
 たとえば熱帯地へ行って原住民とつき合う場合、できるだけ皮膚の色が黒いほうがいい。仕方がないので、じっくりと焼いた二の腕ぐらいだけを見せて、“どうだ、きみたちと色が同じだろう。おれは白人じゃないよ”と言って納得してもらう。そうすると、お互いの間に親しみが出る。
 日に焼けていない部分など、絶対に見せない。だから裸になれないつらさがある。裸で 川に飛び込みたくなるのはやまやまだけど、ぬいだが最後、“あいつは白っ子か”と気持ち悪がられて疎外される例が多い。
 ともかく、日焼けしない体質を受けついでしまったというのは私にとって最大の損害として作用しつづけている。
 もうひとつのマイナスは、まぶしい光に弱くて、すぐ頭や眼底が痛くなることだ。カメラを向けられてフラッシュをパッとやられるとこたえる。スタジオや演壇でライトを強烈に向けられるのもやりきれない。役者なんかにならなくてよかった。

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関東大震災と私


 父について述べたからには、おふくろのほうも説明しておかないと不公平だろう。私を生んだのはおふくろなのだから。
 私の母は、木曾の馬籠で、島崎の本家の一人娘だった。ふつうならば婿養子をとらなければいけなかったのに、東京へ出て来て父とめぐり合い、一人っ子同士で恋愛してしまった。その“罪ほろぼし”のためか、二番目の男の子が島崎家を継ぐということで、私の兄(故島崎敏樹)が島崎家を継いだ。
 そういうわけで私の曾祖父は、藤村が「夜明け前」の中で書いている座敷牢で死んだ青山半蔵ということになる。よく、「藤村の血を引いているから文章がうまいんでしょうね」などといわれるが、冗談ではない。藤村の父が私の曾祖父でも、藤村の血は私の中に入っていない。
 片や、野口雨情の血筋と関係があるので、これでも若きころは詩人になってなれないこともあるまいなどと思ったものだが、いかんせん、詩情は河原の枯れすすき、途中であきらめて、それでよかったと思っている。母は日本画家だったので、私も子どものころから絵が好きであるが、先祖に絵描きがいたという話は聞いていない。
 とにかく両親は東京の青山に住んでいて、月満ちて順調に陣痛がはじまり、いままさに私が生まれようとしたそのとき、グラグラッときたのが関東大震災。陣痛というのは途中でやめたりはできないはずのものだというが、それこそ天地をゆるがすような天変地異が起きたものだから、びっくりしたショックでとまってしまった。
 幸い青山は火災の被害は受けなかったものの、壁は全部落ちてしまい、家の中は足の踏み場もない。一時、大きなお腹をかかえて避難していた母は、ようやく落ち着きを取り戻した五日後、家の庭先の張り板の上で無事に私を出産した。
 もしも予定どおりそのまま生まれていたら、母子もろとも逃げようにも逃げられず、命を失っていたかもしれない。
 “これは実に慎重な親孝行者が生まれてきた”というので、近隣の評判だったらしく、地震にちなんだ名前を記念につけろと、うるさくいわれたという。そこで、ユーモアを解した私の祖父が、“震える哉”とズバリ名づけた。
 震哉はおんよみだとシンサイということになる。

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昆虫採集ばかりしていた少年時代


 私が子どものころの青山は、緑が多く、自然が豊かだったけれども、なぜか私は、そんなところにいるべきではないように感じていた。かといって、どこがいいのか、小学生の子どもにはわからない。青山墓地に行って、ただボンヤリとしているのが好きだった。
 いまもはっきり覚えているのは、小学校へ入学した日のことで、上の兄(西丸四方)が「学校へ行こう」と私の手をとって小学校まで連れてゆき、教室に放り込まれた。なぜ小学校に行かねばならないのか、私はまったく教えられていなかった。仕方なしにボンヤリしていると、あとで同級生になる子どもたちが、担任の先生を囲んで、「センセイ、センセイ」と大騒ぎをしている。
 いまにして思えば、先生というのは子どもにとっては大変な憧れの的だったにちがいないのだが、私はシラケ切っていたらしい。その瞬間から、学校は私にとって束縛になってしまった。
 なぜ勉強しなければいけないのか、なぜ勉強する気を起こす必要があるのか、さっぱりわからない。そんなことは、だれも教えてくれなかった。親も、たまに「兄さんのように勉強ができるようになりなさい」というだけで、あとはうっちゃらかし。だいたい、兄なんかが成績がいいと困るものだ。
 「震哉くんは、どうも協調性がなくて困ります。右向け右と号令をかけると、一人だけ左を向く。それもわざとやっているように見える。みんなが整然と並んで歩いているのに、これまた一人だけはずれて歩く。まったく態度がよろしくない。親からもよく気をつけるように注意して頂きたい」
 父兄会で、よくこうした注意を担任教師から受けたことを、私はあとになって親から聞かされたものだ。
 なにやら、異郷に一人おいてけぼりを食った感じで、友達もできず、ぽつねんと毎日を過ごしていたような気がする。
 四年生くらいのときだったと思うが、たまたま昆虫採集を始めた。庭先には、蟻やら蝶やら、いろいろな虫が季節ごとにあらわれ、夏の夜には灯りを求めて蛾が飛んできたりする。そんなことから、昆虫に親しみをおぼえ、図鑑を眺めては、まだ行ったことのない場所にいるめずらしい蝶に出会うことを夢見た。
 やがて私は、休みになると捕虫網を持ち、一人で電車に乗って採集に出かけるようになった。当時、渋谷から帝都電鉄で池ノ上まで子供料金で片道五銭だったので、こづかいを十銭もらうと毎日のように行っては、一日中とび回った。もちろん、いまとちがって野原や林が多く、いろいろな昆虫がたくさんいて、緑の自然の中にいるとすっかり気分が安まり、自分の好きな領域ができたような気がしたのだ。
 夜になってから家に帰ることもしばしばで、「きょうは大漁だぞ!」などと威勢よく玄関に入っていくと、親父が出てきてひと言「勉強しろ」と言うのだが、私はちっとも勉強せずに野原をかけずり回っていた。

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頭から風呂に入ったり、斜めに寝てみたり


 小学の四年か五年のころである。私にとって、忘れることができない、“事件”が起きた。
 昔の風呂といえば、檜づくりの小判型の風呂桶がふつうだったが、なぜ風呂に入るとき、誰もが同じように足から先にまたいで入るのか、ほかのやりかたがあってもいいではないか?
 そこである日、風呂桶に頭からスポッと入ってみた。すこし苦しかったが、これも一つの入り方にちがいない、と思った瞬間、片足が風呂場の窓ガラスをぶちぬいて割ってしまった。
 これはいかんと思い、怪我をしないようにそっと足を抜き、桶の中に二本足で立ち上がって下を見ると、風呂桶の中はまるで血の池だ。ふくらはぎを約三センチほど切ってしまったのである。私は困ってしまい、浴槽の中でわめいた。
 家族がすっ飛んでくると、血だらけの風呂桶の中で私がわめいているので大騒ぎになったが、とにかく応急処置をしてもらって事なきを得た。
 それにしても、父には、どうして風呂の中の湯が血に染まり、高い場所にある窓ガラスが割れているのか、その結びつきがわからない。「いったい、どうしたんだ?」と聞かれるままに、「みんなが足から入るので、べつな入り方をしてやろうと思い頭から入ったらこうなってしまった」と正直に答えた。
 すると、父はボソリとひと言、「この子はあきらめよう」と言った。
 二人の兄は、自他ともにゆるす大天才だというのに、末っ子だけはどうにもならない。勉強をすれば少しは学校の成績もよくなったのかもしれないが、いっこうに勉強せず、することといえば蝶など虫ケラをとって喜んでいる。これは手に負えないというので見捨てられたわけである。
 おそらく私には、いまもって、そのときの考え方が消えずに残っているのではないかと思う。つまり一般に常識といわれるような、ある決まった物の考え方や行動に対して、何か別のちがったやり方があるのではないだろうかと問い返してみる性質が、そのころから、どうやらいまもなおつづいているらしく思えるのである。
 父はやはり古かったのだと思うが、学校といえば国立に入らなければならないものだと頭から決めつけ、兄たちを引き合いに出しては「おまえも一高、東大へすすんで医者になれ」という。しかし私には、そういうエリートコースに乗るのが性格に合わず、ほかの道を歩くことになった。
 そうした宿命的なものが、その後の私を私たらしめたのであろう。
 頭から風呂に入った話のついでに書き添えておくと、中学時代にも奇妙な実験をやったことがある。
 人はなぜ部屋で寝るとき、壁に沿って平行にふとんを敷いて寝るのだろうかと疑問に思った。何かを思うとすぐ実行してみたくなる性分なので、早速、行動を開始した。部屋の対角線に沿って斜めにふとんを敷いて寝ることにしたのである。
 私が寝ていると、たまたま部屋に入ってきた精神科医の兄が、私を見下ろすなり「ア、狂ったな!」と言い放った。正常な人間は、けっして斜めに寝てみようなどとは発想しないものなのだそうである。若き心理学者にそう言われて、私もそんなものかと思ったが、正常とはつまらないものなんだなあという気がしないわけでもなかった。

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私に注がれた教師の冷たい目


 小学校六年のとき、猩紅熱にかかり、体が弱っているところへ今度は肋膜だか肺浸潤だかを患って入院し、半年ほど病院暮らしをした。私は昆虫採集で野原を駆け回る割にはひ弱で、デングリ返しもあまりできないような子どもだった。
 半年たって学校へ戻ると、様子ががらりとかわっている。ようやくクラスに友達もできて、話し合うようになっていたのに、彼らは脇目もふらず試験勉強に余念がない。一人だけ取り残された感じがして仕方がなかった。当時は、いまと同じか、もしかするともっと厳しい入学試験が待ちかまえていた。
 なにしろ大事なときに半年間も休学したため、いざ入試を受けようとしても学業が追いつかない。ことに歴史や地理は全然だめ。そこで、親と相談し、もう一年間六年生をやり直すことにした。
 ところが新学期もまもなく始まろうとする四月のはじめ、担任の先生から呼び出しを受けた。もう一年浪人などしてまごまごしていると、徴兵検査にひっかかってしまうし、それに成績も絶望するほど悪いわけではないのだから、このさい中学へ入ったほうがいい、というのである。
 入試も全部終わり、四月になってから中学へ行けというのはおかしな話だと思われるかもしれないが、実はこれにはわけがある。
 私の通っていた小学校は、当時、東京でも一、二を争うといわれた進学率のいい学校だった。それで、いまからでも相手は喜んで受け入れてくれるというのである。
 そこで、四月の八日か九日に、先生に連れられてある中学校へ行き、職員室でたった一人、入学試験を受けることになった。その結果、入学してもよいということになり、早速クラス編成が行われた。
 その中学校は一学年四クラスあって、成績順に一から四へと分配していく。私の入試結果は一クラスの二番ということだった。なんにもわからない私が五番で入学できたということは、いかにその中学が劣等生の多い学校であるかと、そのとき痛切に感じたものである。
 ところで、そうしてギリギリ間際に中学への入学をすすめてくれた担任の先生に、実は私は、あるふとしたことから悪印象を抱かれていた。話は前後するが、もう一度小学四年生にさかのぼる。一年から六年まで、担任は同じ先生だった。
 そのころ昆虫採集に明け暮れていた私は、同時に星を眺めるのが好きで、老眼鏡のレンズや顕微鏡の接眼レンズをつかって望遠鏡をこしらえ、夜になると星を見ていたものだ。「科学画報」とか「子供の科学」の九月号は、天文特集になっていたので、夜店の古本屋から買ってきては夢中になって読んだ。そんなことから、こと星と昆虫にかけては、クラスのだれにもヒケをとらず、先生以上の知識を持っていた。
 四年生の理科の時間に、先生が一匹の蝶を持ってきて、「これがモンシロチョウですよ」と教壇からかざして見せた。それを見た私は「アッ、それはスジクロチョウのメスだ」と反射的に叫んでしまった。その瞬間、先生がハッとしたような硬い表情になり、冷たい目で私をにらんだ。“しまった”と私は思ったが、取り返しがつかない。教師の威厳をふみにじってしまったのである。それ以来、私を見る先生の目の奥底には、冷たさがいつも宿っていた。
 私はそのとき、“正しくても、口に出してはいけないことがこの世にはあるんだ”ということを知ったのだ。

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尾瀬にいるという見知らぬ蝶


 話はさらに逆戻りする。
 私は男女共学を体験したことがない。小学二年生のとき、学芸会で浦島太郎の劇をすることになって、浦島太郎役に私が指名された。タイやヒラメや乙姫さまは当然ながら女のクラスの女の子。私は標本の亀にまたがり、ギコギコと引かれながら舞台を回り、元いた村に帰ってみれば昔の影もなし、みんな知らない人ばかり。帰りにもらった玉手箱、思いあまって開けたとたん、くるりとまわって耳から付けひげをぶら下げ、おじいさんにヘンシンするというおなじみの筋書きだが、そのとき以来、女の子と仲良くなり、男の子からは村八分にされるというパターンがつづいた。やがて私が昆虫採集を始めるようになったとき、蝶の標本を小さな箱に入れて、タイやヒラメになったいちばんかわいい女の子に廊下の片隅でそっとプレゼントした覚えがある。
 そんなわけで、小学校六年間、私は、なにやら女の子とばかり遊んでいるような、だらしのない、ひ弱な少年という感じで見られていた。
 小学校五年生のときだったと思う。
 そのころ私の家に、美術学校に通っている島崎藤村のすぐ上の兄の子をあずかっていた。彼がある日、友達から聞いたのだといって、
 「尾瀬沼というところに行くと、翅をひろげると二〇−三〇センチもあるような大きな蝶がいるそうだよ」
 私はびっくりして早速図鑑を調べてみたがわからない。しかし、その親類の子がいう尾瀬沼というところは、まるで桃源郷のような不思議な場所に思えて、ぜひ連れて行ってくれとワイワイ頼んだ。「ああ、連れて行ってあげるよ」とはいってくれたものの、結局、実現しなかった。彼は、山へ行ったことのない人だった。
 しかし私の心には、大きな蝶がいるという尾瀬沼という場所がこびりついて離れない。学校の地図で調べてみたが、探し出すのが大変で、だいぶ手間どった覚えがある。
 いまでこそ尾瀬は有名だけれども、当時は一般には名も知られていなかった。やっと地図にその名を見つけ出し、えらい山奥らしいことがわかったが、それだけにますます私の夢想を駆りたて、だれか連れて行ってくれる人がいないかと願ったが、アテはなかった。
 その夢が実現したのは、それから十数年あとのことである。しかし、彼が友達から聞いたという大きな蝶など、尾瀬沼にいるはずもなかった。

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“あの白い山へ行きたい!”


 ある日、武州御岳へ行ったことがある。二人の兄と三人で出かけたのだが、一日歩いて帰ったとたん、私は日射病で寝込んでしまった。やはり小学四、五年のときであろうか。
 “この子は山登りはだめだ、弱い子だ”というイメージがそれですっかり定着してしまい、ますますもってだれも山には連れて行ってはくれないままに小学校の六年間が過ぎてしまった。  私が山へ行ったのは、中学生になってからである。
 一年の終わりの春休みに、友達と甲府へ行き、そこで別れてから私は一人で昇仙峡へ向かった。
 途中、バスにも乗ったと思うが、昇仙峡からさらに奥へ奥へと歩いて行った。甲府に住んでいた友達の兄さんの家でつくってもらった弁当を一つ持ったきりで、地図も何もない。あとで考えると、たぶん金峰山だと思うのだが、私の行手には真っ白に雪をかぶった山が見え、とにかくその山へ行きたいという願望のままに、ただ真っ直ぐに向かった。
 道がなくなるとヤブの中をこいで行き、途中で野宿をしてまた歩いた。雪の山はたしかに見えるのだが、行けども行けどもたどりつかない。弁当は一食分しかなく、二日目は食べる物がない。だが腹が減ったという意識はあまりなく、ただ“あの山へ行きたい”という気持ちだけが私を歩かせた。
 さらに二日目の夜も野宿をした。寒かったにはちがいないが、どうやって過ごしたのかそのあたりの記憶は完全にスッポぬけている。
 森林の中を歩きつづけた末、目指す雪の山には到達せず、ひょっこりと里に出た。どこをどう歩いたのか、さっぱりわからない。ただ一つだけ、どうしても越えなければ帰ってこれなかったと思われる山がある。それは小川山といって海抜二四〇〇メートルの山である。おそらく、まったくわけがわからずに、その山のどこかの鞍部を抜け出たのだろうと思われる。
 ほとんど飲まず食わず、二晩野宿し、三日めに里へ出て、そのまま帰ってきた。
 この山歩きで、私は山への親しみを全身に感じることができた。こわさは少しもなかった。
 そのとき八ケ岳の山麓で百姓をしている人に出会った。「今度の夏は遊びにこい」といわれて、ノコノコ出かけた。中学二年の夏である。そのおじさんに連れられて二日がかりで八ケ岳を縦走した。
 生まれてはじめて高山の醍醐味を味わった。
 山の味をしめた私は、それなら木曾に親類がいるというわけで、その翌年の夏には木曾駒ケ岳や御岳をかけ回ることになる。
 木曾御岳は二十四時間歩きずめ。その割に印象が薄いのは、景色もロクに見ないで、血相を変えて歩き回ったせいだろう。
 夏休み、冬休み、春休み。やがて一年間ぶっ通しで、ひまさえあれば山歩きをするようになったが、私のは、あくまでも自分の好みに合わせた。自分なりの山歩きである。

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身についたバランス感覚


 むやみやたらに山を歩き回って、その後なにか哲学的なものでも得られたかというと、どうやら大げさに言えるようなことは一つもなさそうである。
 山岳部にでも入って覚える山登りのほうが、はるかに能率的だったのかもしれないが、幸か不幸か、私は自己流のやり方で山に入り、ある意味では地道に経験を積み重ねて行ったため、たいへんな時間がかかった。
 本当の雪山を歩くまでに、山登りを始めてからざっと十年が経過した。大学の山岳部で三年間みっちりやれば、基礎訓練が十分でき上がり、要領よく雪山を歩けるようになる。
 私の場合、十年かかってようやく雪の山にとりつくことができたが、それは二十二、三歳くらいのときである。それまで、いやおうなしに森林歩きをしたため、ジャングル歩きの達人にはなったようだ。
 はたしてどちらかの方法をとることがよりよいのかわからないので、こっちの方法がよいとは言えない。ただ私はそうして山歩きをしてきたと言えるだけである。
 だから私の場合は、岩登りも単独行だ。ザイルを使っても、一人で使えるザイルさばきをするので、他人を確保してあげるとか、だれかに確保されるということは今でも得意ではない。そのため、思い切った最後の決心がなかなかつかない。
 たとえば、この岩に手をかけてやろうと思っても、万が一落ちたらそれっきりである。一人ではどうしようもない。だれかが確保してくれるとき、怪我もせずに登れるのであって、それが不可能なため、ついに思い切ったことができにくいというマイナス面がある。
 単独行にはつねにそうしたある意味での限界があり、その限界に対して最大に近づこうとするのである。
 一方そうしたことから、少なくとも人並み以上に身についたものは、バランス感覚ではないかと思う。
 岩登りには、実はバランスクライミングという方法があることはある。岩を絶対に落とさず、たとえくずれるようなことがあっても、岩がくずれる前に先へ行ってしまうのだ。あたかも「ましらのごとく」というわけである。マシラとは猿のこと。
 よく、カモシカが急斜面をすいすい登るので、カモシカのごとく山を登る、などと言いたいところだが、お世辞にもそうは言えない。カモシカが一目散に逃げるときには、敵の頭上に石をガラガラ落とす。石をやたら落とすクライマーはヘッポコなのだ。
 私の岩登りは、自分を守る必要のあるとき以外はザイルを使わない。降りには多少使うこともあるが、登りには使いようがない。浮石しか使えないときは、岩をくずすのは仕方のないことなので、その場合は浮石に乗って、ハズミをつけて先へ行ってしまう。それこそ、カモシカのように石をバラバラ落としても、危険地域からパッと数メートル逃げてしまうという直感が自然にはたらくのである。
 それと同時に、いちばん安全なルートはどこかということをつねに探しながら歩く。この道はおもしろそうだなと思っても、直感的に危険だと感じたら絶対に避けることにし、最も安全で楽なルートを一生懸命に探すことにしている。
 いちばん安全なのは最初からそんなところへ行かないことなのだが、行きたいものは仕方がない。状況の悪い場所でも、つねに最大限安全なルートを見つけ出す努力を重ねる。だから、安全な道を求めようとする感覚が、知らず知らずのうちにとぎすまされていったのではないかと思う。
 人生で最も安全な道とは、危険の待つような場所に行かないことであり、みんなが一様に歩く路線ということになるが、しかし、その道は安全であるかわりに変化がなく、おもしろさにも乏しい。そこで、ちょいとわきにそれ、枝道を通ったり、まだ他人の行ったことのないルートを通ろうとする。
 その場合、自分の前に立ちふさがる大きな障害に出会ったとき、がむしゃらに危険を冒して突き進むこともやめ、逆もどりすることもやめ、たえず別の方向を求めながら歩いていれば、結果的にはなんとか目的とするところへ安着することができるのではないだろうか。

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憧れのスタンレー山脈


 私はいつも桃源郷を求めているのだ。山のかなたに幸せがないかと思って行ってみるのだが、なにもない。それなら、もう一つ越えたらあるかもしれないと思ってまた行くのだが、やはりない。ただ、確実にわかることは、今までのところ、ここまでにはなかったということが一つ一つ確認できたということであって、行きもしないで何かがあるかないかなど思い患わない。
 例の尾瀬沼の蝶も、やはりいなかった。知識としてはいるはずがないことはわかっていても、頭からウソだと決めつけるのはよくないことだと考える。「いる」というのだから、いるかもしれないと仮定してみる。もしもいたら本当にすばらしいではないか。それなら行ってみようという発想になる。行ってみてはじめて、いないことが確認できると同時に、今度はそこで別な興味や関心をひきつけるような何かに遭遇する。
 中学二年のとき、地理の時間に教師が、ニューギニアにオーウェンスタンレー山脈というのがあって、赤道直下の船の上から雪に覆われた山容が望見できる、といった。
 これは結果的にはウソがまじっていたのだが、しかしその話が私の頭にこびりつき、私はひそかにオーウェンスタンレー山脈に憧れた。赤道直下に雪をいただいた山が海から見えるとは何とすばらしい眺めではないか。
 その話を聞いてから三十三年後にとうとうスタンレー山脈を実際に越えるというめぐり合わせになったのである。しかし、赤道直下の船の上からは雪の山脈を望見することは不可能だった。この山脈に雪はない。
 オーウェンスタンレー山脈越えは、太平洋戦争中の日本兵士にとって最大の苦しみを強いられ、思い山砲を背負って山をいくつも越え、弾薬も糧食もつき果てて再び山を引きかえし、全員が戦死した怨みの地だ。
 私はただ一人の弔い合戦として、ポートモレスビー側から二週間かけて対岸まで山越えしてやろうと思った。これは日本軍が撤退したときのルートである。
 道らしい道はないが、蛮路だけは通っているはずだ。ただ、一人だと二週間分の食糧など、とても背負っては行けない。そこで三日分ぐらいの食糧を持ち、一日にご飯を大さじ山盛り四杯と肉のかんづめ四分の一ずつ食べれば、なんとか二週間は動くことができるという計算で、私一人の“飢えの行軍”を敢行することにした。
 地図で見ると、スタンレー山脈が一本あるだけだ。いかにも簡単そうなのだが、行ってみておどろいた。枝尾根がやたらにあって、主脈に到達するまで全部で九本の尾根を越えなくてはならない。蛮路はあるのはあるのだが一直線で、尾根を直登すると今度は次の谷へまっすぐに駆け降りるという連続なのだ。毎日、一つ尾根を越しては翌日川をジャボジャボ渡って対岸にたどりつき、再び尾根をめざして直行する。
 心理的に非常によくないことは、尾根のいただきに立つと、今度はこちらよりも高い尾根を見上げながらみっしぐらに降りなくてはならないことで、それの繰り返しはたまらない。心理的にも肉体的にもつらい思いをしながら、ようやく主脈を越え、あと二つ尾根を越えると平地にたどり着くところまできた。
 さいごの沢を越えたあたりに原地人の部落がある。そこへ行くには、沢筋からほんのちょっとした登りになっているのだが、そのゆるやかな登りが登れない。二十歩くらい歩いてはバタンとひっくり返り、何十回も深呼吸しないと足が動かないのである。腹の力が抜けてどうにもならない。完全なシャリバテだ。
 ふらふらよろけながら、ようやく部落にたどりついた。そこは第二次大戦中のニューギニアの激戦地で、非常に見晴らしのきくところだ。着いたとたんに力が抜け、ハアーとひっくり返ったところへ、部落の人たちがあわてて出てきた。

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現地人に聞いた旧日本軍人の幽霊


 「おまえ、どこからきた?」
 何人かの部落の人たちの中の一人がピジン語でたずねてきた。原地人がふだん使うことばは何を言っているのかまでわからないが、ニューギニアで共通語ととりきめているピジン語なので、出発前に多少カタコトでしゃべれるようには、勉強しておいた。幸い、ピジン語のわかる青年がその部落に何人かいたのである。
 どこからきた? と聞かれたので、「ぼくは日本人だ」と答えると、「ああ、日本人か。話によると、昔ここで戦争があったそうだな」というので珍しがられ、へばっているようなのでゆっくりして行けといわれて、その部落に二晩泊まることになった。
 ここで私はとても興味深い話を聞いた。
 「おまえ、山越えしてここへくる途中、日本軍のおばけに出会っただろう?」
 という。
 「いや、会わなかった」
 というと、彼らは“変だな”という顔をしながら「あの辺にはいるんだよ」としきりにいうのである。
 彼らの話によると、とくに夜になると大騒ぎで何やら叫び声をあげ、パンパンと鉄砲の音がするのだという。
 「いったい、どんな叫び方をするんだ?」
 とたずねると、みんな顔を見合わせて何か話し合っていたが、そのうち、「ガンバレ、ガンバレ」「シカリシロ、シカリシロ」と、原地語なまりの奇妙な発音で答えたので私はびっくりしてその意味を問うと、彼らはだれもそのことばが何の意味か知らないという。
 いろいろとたずねてみたが、彼らの中で二十数年前の戦争を経験した年配者でも、戦争がはじまると同時にヤブの繁った山中に逃げていて、日本軍とはまったく接触がなく、日本軍が撤退したあと一人も日本人など来たことがないので日本語を全然知らないことが判明した。
 私は「ガンバレ」「シッカリシロ」とはこういう意味だと説明すると、それでは飢えて動けなくなった仲間を戦友たちがみんなで激励しているのだな、というので互いに感心した表情でうなずき合っていた。
 私も、できれば来た道をもどって日本軍の幽霊に会いたいと思ったが、身体が相当へばっていて、どうにもあの登りには耐えられそうもなかったため、残念ながら断念せざるをえなかった。
 日本人に接触できなかったニューギニア山岳部の原地人たちが、「ガンバレ」「シッカリシロ」という日本語を、意味がわからないながらも知っているということは、日本軍人の幽霊に教わる以外に考えられないので、彼らのいうとおりのおばけが出ると考えざるを得ない。
 おそらく苦しみながら死んでいった兵士たちの霊が、浮かばれないままにさまよっているのだろうと私は思った。
 二日後、ようやく元気になった私は、彼らに礼を述べて別れを告げ、ふもとに向かって最後の行進を開始したが、この道すじには鉄かぶとの錆びついた残骸や編上げの軍靴がいくつもころがっていた。軍靴は油を強くきかせてあるためなかなか腐らず、指でつつくと水に濡れたボール紙のように、その部分だけつき抜けるが、かたちだけはそっくり残している。しかし靴の中にあったはずの足はないし骨も見つからない。
 靴だけぬいでどこかへ行ってしまったとは考えられないので、おそらく靴の持ち主もその付近で死んでいるのにちがいないが、ヤブのあたりをずいぶん探したが、どこにも遺骨らしいものは見当たらなかった。非常に湿っぽい森林の下なので、土へかえってしまったのだろうか。

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蛇にかまれるのはルールを無視したからだ


 どこの山へ行っても同じだが、わたしは一人で歩いているときは鼻歌も歌わないし、ひとりごとも言わない。ちょっとでも声を出すと異様な感じがして、かえって淋しくなる。一週間でも二週間でも、山を歩いている間じゅう黙々として時を過ごす。動物に出会ってもだまっている。ヘタに声を出すと相手をびっくりさせてしまう。
 動かずにじっとしていると、動物たちは目の前でかってな行動をする。目と目があっても、こちらがじっとしていれば平気だ。かえって物かげにかくれたりしないほうがいい。サルやシカなど、ときどきチラッと視線を投げかけるが、別に警戒心を持つ様子もなく変にひょろっとしたのがいるな、ぐらいの無縁の存在と見なしているのか、好きかってに行動している。
 動物たちと会話できるところまでいけたらいいが、そこまではなかなかいけそうもない。  ただ、山に入っているときの感じは、少しキザな言い方をすれば、おふくろのふところに抱かれるというか、自分の庭先を歩いているようなものである。庭先でヨロイカブトなど身につける必要もなく、こころの武装もする必要はない。“やれやれ、自分のいるべき古巣へ帰って来たなあ”という感じなので、非常に気楽である。
 よく、山で毒蛇にかまれたという話を聞く。だが、こちらが何もしないのに、いきなり向こうから攻撃をしかけることは絶対にあり得ない。なぜかみつかれるのかといえば、動物社会のルールをわきまえなかったためである。彼らのルールを忘れたり無視したりして、正面衝突するからやられてしまうのである。
 山でヤブこぎしたりすると、ものすごい音をたてることは、経験者ならだれでも知っているが、よく注意して耳を澄ますと、自分がたてている音とは別の、かすかな音が聞こえる場合がある。非常に微細な音なのでよほど注意しないと聞き逃してしまう。だからブッシュの中を進むときは、自分の出している音と別種の音にきき耳を立てながら進んでいかなければならない。
 異種類の音を耳にしたら、静かに音のする方向を目と耳でたどっていくと、必ずマムシが鎌首をもたげ、こっちを向いてにらんでいるはずだ。そのときの彼を観察すると、尻尾をヤブの木の幹などに当てて、カタカタカタカタと音を出している。それはかれらにとっては、自分のテリトリーに入ってきてはいけないという警戒音なのだ。
 そんなときは、ただちに謝罪する必要がある。
 「いや、どうも失礼しました。べつに邪魔しようとは思わなかったんですけどね。なにしろ私の行こうとする目標がこちらの方向だったもんでして。スミマセン、ひとつよろしく……」
 とまあ、心の中で相手に呼びかける。相手を怒らしてしまったのだから、謝るのが当然のエチケットというものである。そうしてじっとしていると、
 「そうか、わかった。ではお先に」と、持ち上げていた鎌首をひょいと下げて、自分の行くべき方向へ行ってしまう。
 要するに、向こうにとって、こちらは敵ではないのだ。食うか食われるかのエサをめぐる敵同士でもなく、たまたま出会った通りすがりの無縁な存在に過ぎないのであってみれば、無用のケンカをすることもない。「どうぞお先に」と一歩譲るだけで十分なのだ。
 私は蛇にかまれた経験はないが、出会ったことは何度となくある。いるな! と思ったらパッっと静止し、「やあ、失礼」とテレパシーを送ってお別れすることにしている。

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クマを困らせた話


 内地の山の中で熊に出会ったときはさすがにまいった。図体の大きな月の輪熊である。
 いやな奴に出くわしたな、と思ったが仕方がない、飛びかかってきたらこれを持って応戦しようと、ピッケルを握りしめたまま突っ立ていた。
 相手のほうでも“いやな野郎に合っちゃったな”と思っているにちがいない。すごい敵に出会っちゃったと感じていることは、警戒の目つきでわかるのだ。五メートルの間隔を置いて、双方が立ち上がったまま、お互いにすくみ上がったまま、どちらか一瞬でも動いたほうが負けだ。むかしから熊に出くわしたら死んだふりをしろなどといわれているが、私の場合は、そんな余裕などまったくなくて、出会い頭にぶつかってしまったのである。かりに死んだふりをしてみても、熊は相手がほんとうに死体かどうかを、転がしたりひっかいたり、匂いをかいだりして確かめるので、危険率は非常に高い。むしろ、にらめっこしたほうが得策なのである。そのかわり、何十秒でも何分でも、じっとにらんでいなくてはだめだ。
 そうしながら、頭の中で相手の出方とこちらの反撃の間合いを考慮したり、いろいろ考えをめぐらせる。そうすると、思考能力の点では、やはりこちらのほうが少しクマよりは上であろうから、相手としてはどうしていいかわからなくなるらしい。ただし、あまり相手の心情を追いつめると、絶望のあまりヤケッパチで飛びかかってくるおそれがある。
 そこで、ちょっとこのあたりでスキをつくってやろうと思い、まばたきしてほんのちょっと視線をはずした。
 その瞬間、“待ってました”といわんばかりに、もうれつないきおいで逃げて行った。
 北海道のヒグマの場合も、こうなるかどうかは知らないが、いつも警戒しているので幸いにしてヒグマと正面衝突したことはない。アラスカの灰色グマは北海道のヒグマと同族だが、ヘタをすると人間を見つけたとき、エサが来たと思われてしまう可能性があるので非常に危険だが、内地の月の輪熊と人間とは食い合いの関係がないので、悪さをすることはよほどのことがないかぎりあり得ない。
 四つ足の動物の目から見ると、人間はベラボウに大きい動物に見えるらしい。正面から見た場合、体の後ろがずうーっとつづいているように思えるもののようなのだ。
 熊といえば、尾瀬の山奥の原っぱの隅でテントを張って夜営したとき、おもしろい経験をした。おそらく向こうにとってもそうだっただろうと思う。
 テントの中でチビチビ酒を飲んでいると、近くのヤブからバサバサとすごい音が聞こえてきた。こんなところには人がくるはずはないので、クマにちがいない。まずいことになったナと弱っていると、次第に物音はテントに近づき、やがてグルグルと回りはじめた。
 ピッケルの用意はしていたが、テントの支柱につかってしまい、武器のかわりになるものがない。そうだ、ナタがあったな、せめてこれでもと、そっとナタを握りしめて、もしもテントに首でもつっ込んできたら、鼻っぱしでもたたいてやろうかなと考えていた。
 ところが、今までグルグル回っていたのが、急にパタッと静かになった。いったいなにをしてるんだろうと、そっと膝立ちになり、通気口の覆いを上げて外を眺めようとした瞬間、ワッとのけぞった。
 穴のすぐ向こう側で、やはりクマが内側をのぞき見しようとしていたのだ。私がのけぞるのと同じく、相手のクマものけぞったのが見えた。次の瞬間、クマはものすごいいきおいでパタパタパタパタ一目散にヤブの中へ向かって遠ざかっていった。まだ人を見たことのない若いクマだったのだと思うが、彼もよほどびっくりしたにちがいない。夜でもあんがいの星明かりで、相手の表情までよく見えた。
 腰は抜けなかったが、ヤレヤレと思ったらガックリし、あらためて酒を汲んで双方の無事を祝して乾杯した。
 きっと彼も、いい経験をしたと思っているにちがいない。彼には通気口にぬうっと映ったものが人間の顔だなんて知るよしもなく、目玉が一個だけの変にブワブワした不定形の動物がいきなりギロリとにらんだのだからほんとうにびっくりした、この世には恐ろしげな生き物がいるもんだなあと、つくづく安堵の胸をなでおろしたことだろう。

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スズメのお宿はどこですか?


 スズメの餌づけをするようになって、かれこれ二十年ぐらいになる。
 私の家の窓ぎわに、米つぶやアワ、ヒエなどを置いておいたり、パッとまいたりすると、近所のスズメがみんなよってくる。
 ときおりうっかり忘れてしまうことがある。すると、窓越しに、スズメが垂直にとんだりはねたりしてデモンストレーションを行うのである。ああそうそう、忘れていてわるかったな、と餌をやる。
 ときどき、巣から落ちた雛スズメを人に持ってこられ、親がわりになって育てる。餌をすりつぶして、水と混ぜてヘラで口に入れてやるのである。さいしょは疑わしげに首をかしげたりしているが、食いものの恩義を感じてか、だんだんなじんで、すぐに手のりスズメになり、私のあとを追って一緒になってはねまわる次第となる。
 私の観察したところでは、どうやら鳥には人間と同じような感情があるらしい。嫉妬心や愛情があるのかというと、あるとしか思えない態度をとる。
 手のりスズメと二年ほど生活を共にしていたとき、上高地へ行くので松本駅に降りたとき、巣から落ちたイワツバメの雛をひろった。やむをえず上高地を一緒に歩き、ハエをとってやったりしていると、とても元気になり、そのまま家へ帰ってきた。
 自然界に戻してやりたくても、とても自力では生きてゆけないことがわかっていたので、そのまま家で飼っていると、だんだんなついて、これも手のりイワツバメになってはねまわる。
 手のりスズメと手のりツバメを見比べてみると、やはりイワツバメのほうがクリクリッとしていてかわいらしいので、どうしても新参者のほうに愛情がかたむいてしまう。
 すると前からいたスズメが怒り出し、ときどき自分の存在を主張してキッとなる。ほんとうに「キッ」と鳴くのだ。「ゴメンゴメン」といって頭をなでてやると、とたんに喜んでおとなしくなるのである。
 寝ぐらはそれぞれの鳥かごだが、出入り自由になっている。鳥かごから出てきたイワツバメをかわいがっていると、さっとスズメがやってきて、私の足の裏を口ばしでチクッとつっつく。それがまた痛いほどつつくのだ。よほど腹をたてているのか、足の裏の皮のむけた部分があるとつついて食べてしまう。
 なぜ足の裏ばかりつっついたのかわからないが、結果的には、おそらくそれが原因で何か水虫のような菌が肺の中に入り、一種の肺病みたいになってコロッと死んでしまった。
 猫などでもそうだが、こちらの新聞などを読んでかまってやらないでいると、急に新聞の上に乗っかってきてバタッとひっくり返る。つまり、新聞を読ませまいとするのである。これなども、軽い嫉妬心のようなものだろう。
 猫にしろ鳥にしろ人間よりも頭が小さくて、脳みそなんか少ないようだけど、体の割合からいうと大きいほうであると言える。だから、かなり高度な感情を持っていると考えてさしつかえないのではないか。こういうことを言うと、動物学者などからはすぐ、それは擬人的で感情移入をしているという返事が返ってきそうだが、私は、私自身の体験から、人間が想像する以上に高度な感情を、かれらは持っているように思える。
 あるとき私が研究室にいて電話中で、窓が一〇センチほど開けてあった。突然、窓からスズメが飛び込んできて、ちょうど丸めていた片方の掌の中にスポッと入ったのである。外は雨が降っていて、体が濡れていた。
 電話中のため、もう一方の手がふさがっているものだから、親指で頭をなでてやり、冷えた体を掌で包むようにして温めてあげた。そのスズメはメスだった。
 電話もすみ、それから一時間ほど過ぎたころ、じっと私の手の中でおとなしくしていた彼女が、ふいに飛び立ち、窓から外へ出ていった。十分に体が温まり、疲れもとれたので帰ってしまった……と思いたいのだが、実はそのとき、私は心の中でほかのことを考えていたのだ。
 〈うちの手のりスズメはオスだから、ちょうどいい、お嫁さんにしてあげよう〉
 おそらく彼氏がいたのか、すでに結婚していたのか、ともかく私の意図がいやだったらしく、プイと飛び去ってしまった。なぜなら、私がそんなことを考えるまでは、私の顔を見て安心しきっていたのである。
 〈よけいなことを考えなければよかった、しまったことをした〉
 私は彼女の飛び去った方向を見ながら、ホゾをかんだ。
 夕暮時、ポプラの街路樹の前などを通りかかると、木の葉の中に何百羽ものスズメが群がり集まって、チュクチュクワイワイ大騒ぎしている光景にぶつかることがある。何をしゃべっているのか、知ることができたらいいのだが、あの声は、ただガヤガヤさえずっているのではなく、私にはなにか真剣に大事なコミュニケーションを交わしているように聞こえる。
 「きょう、こんなことがあったよ。あぶなくお嬢さんにされるところだった。ニンゲンって、お節介なのねェ」
 「でも、やさしく頭をなでてくれたり、温めてくれたんだろう。帰るときに、礼のひとつも言ってくればよかったのにな」
 「そうだそうだ、スズメは恩知らずなんだなんていいふらされたらどうする?」
 あんがい、こんな会話を交わしているのかもしれない。
 スズメを一年も二年も家の中で放し飼いにしておくと、ときおり、開いている窓からピューと外へ出て行くことがある。“ああ、行ってしまったか”と思っていると、しばらくして表では何羽ものスズメがチュクチュク言い合う声がする。“ほう、仲間入りしちゃったな”と、もう戻ってくる気をなくしただろうと別れを悲しむ。私の家内は、それでもあきらめきれなくて、ベランダの手すりに餌台を目につくように置いたりする。
 夕方、忘れかけたころにふとベランダを見ると、スズメが一羽、餌を食べている。“おや、彼らしいな”と思って窓を開けると、パーと飛び込んでくる。やはりちゃんと帰ってくるのだ。
 もはやスズメの社会には入れてもらえないということなのだろう。表で、聞きなれたスズメ語がするので、ついに憧れて出かけてみたら、「きみ、姿はスズメだけど、なんだかニンゲンみたいだから仲間に入れてやれない」などといわれてガックリし、やむなく引き返してきたらしい。
 ちゃんと戻る場所を知っているのだ。

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ニューギニアの白いオウム


 ニューギニアの山地を歩いていたとき、体調三〇センチほどもある大きい真っ白なオウムが、そばの森の中からふいに飛んで出てくると、私の肩にひょいととまった。頭のてっぺんに黄色い毛のある野生の白オウムだ。
 人間を知らないわけではないと思うが、おそらく原地人も獲ったりしないためだろう、まったく怖がる様子がない。そればかりか、やおら片足を上げると自分の頭を指して、“ここをかいてくれ”という。といってもしゃべるわけではなく、そういう態度を示すのである。
 その指した頭の部分を見ると、丸く毛が抜けた個所があり、どうもそこがかゆくて仕方がないらしい。そこで指先でカリカリかいてあげると、気持ちよさそうに目を細めている。
 いくら相手が気持ちよくても、十分も同じことをくり返していると、いいかげんこちらだっていやになる。
 「さあ、もういいだろ」
 といって頭をなでてやって、かくのをやめると、とたんにオウムは怒ってバタバタ飛び上がり、近くをぐるりと回って戻ってくると、再び肩にとまり「もっとかけ」という仕草をするのだ。
 しょうがない、もう少しつきあってやろうかというわけで三十分も静かにかいてあげてから、  「おれはおまえの召使いじゃないんだよ、もういいかげんにして帰れよ」といって両手でつかんでポーンとほうり上げて帰してしまう。
 途中で邪険にあつかうと、相手はカッと怒って「もっとかけ」と命令してくるのだからたまらない。鳥のことばなんて知らないが、お互い、感情は通じ合うものである。
 ニワトリなど、あんがい人をバカにしているところがある。
 高知県で、身動きのとれないほど狭い囲いの中で飼われて見せ物になっている尾長鶏を、つくづくと眺めたことがある。尻尾をだらりとたれ流して、動くことができないからじっとしている。
 その姿を見ていると、つめたーい目で人のことをじいっと見るのである。それは物悲しいという目ではなく、“全然動きがとれなくて、もういやになっちゃった”という目付きだ。私はあわてて、「おいよせよ、そんな目で見るの。おれがやったんじゃないんだから」と言ってやったのだが、うらみがましい目の光というのではなく、なにやらつまらないものに生まれてきちゃったなあというあきらめの境地でじっと見つめられると、こちらとしてもなぐさめようがないのだ。
 こんなことを言うと、ますますもって擬人法にすぎないと一笑に付されそうだが、それ以外の何物でもないというしらけた目付きをして人を見るのだから、そう言うほかにたとえようがない。
 生き物はそれぞれ、自然の掟のなかで、定められた生を生き、弱肉強食のルールに従って生きなければならないが、それぞれ生のあるものはそれなりに、人間と似た感情、あるいは人間には測り知れない感情を持ちながら生きていると考えざるを得ないようなことが、自然の中に入ってゆけばゆくほど、強く感じられてならない。
 近年、にわかに自然を保護しようという高まりを見せている。たしかに、自然を害するよりはよりましであろうけれども、まかりまちがうと逆に自然に対して人間の尊大さを押しつけようとする危険を感じる。どうも人間は態度が大きくてセンエツなのである。
 自然を保護しようという考え方の前に、まず、人間は自然の中で保護されているのだということをよくよく反省してみる必要がある。人間が自然界の中で生かされているという根本的な事実をただ単に頭で理解するだけではなく、その事実に感謝しようとする心がはたしてどれだけあるのか。これ以上自然を壊すと自分たちの生活が危なくなるから保護しようではないか、という発想は、あまりにも自分勝手で尊大である。
 人間の万物の霊長で、人間以外のものはすべて人間の前にひれ伏すべきであるという人間優位の考え方が、いまの保護運動から抜け切れてはいない。
 まず自分が謙虚になりきれれば、草木虫魚、自然のなかのありとあらゆるものは、安心して語りかけてくる。「語りかける」という言い方がおかしいというのなら、同じ仲間として包み込んでくれると言ったほうがよいかもしれぬ。
 こういう状態になると人間は少しもイライラしないですむのである。
 自然の姿を本当に深く知るようになれば、人間の都合で考えて自然保護などというものが、いかにむなしいものであるかがわかってくる。それが十分にわかった上で、自然と共に協調して生きようとするとき、自然に対する新しい見方、すなわち新しい自然観が生まれてくるだろう。
 人間は、あくまでも大自然の中の仲間のひとりなのである。

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けもの道と人の道


 夜、星もなく、道もさだかでないようなとき、懐中電灯をつけて森の中を歩くことがしばしばあるが、それでも道があるのか、全然わからなくなってしまう。
 そんなとき、いちばんいいのは裸足になることだが、そうもいかない。
 人が一回でも通った場所は、まだ踏みつけられていないところとくらべて、かすかに靴を通して伝わってくる硬さの感触がちがう。かつて人が通ったことのある道は、感触を確かめながらたどって行ける。こんなとき、灯火をつけるとカンがにぶってだめになりやすい。
 ところが、森の中にはけもの道がある。たまたまその道が交差しているところでは、三叉路や四辻になってしまう。するともう、足の感触ではわからず、区別がつかなくなって、ときどきけもの道を進んで行ってしまう場合がある。
 しかし、よく注意していると、やがて、道をまちがえたことに気がつくものだ。
 人の道というのは、どんなにヤブだらけで草や木が生い繁っていても、一メートル六〇センチくらいの、つまり人間の背丈ほどの空間が、どこかに必ず何個所もできているものである。ところがけもの道は下から一メートルくらいの空間しかない。そのため、すこし歩いていると、上半身にバサバサと木の枝がぶつかってきて、自然に行く手をさえぎられてしまう形になる。それで、これはけもの道だと、すぐわかるのである。
 逆にけもの道を利用することもある。いささかきゅうくつだが、道がはっきりと通っていて便利なので、腰をかがめてしゃがみながら進むわけである。
 夏山で背丈を超すような草がボウボウと生えた場所を歩くときは、むしろまわりが見えないほうが、かえって地面の硬さを感じとったり方向感覚なども鋭敏になるものだ。まわりがよく見えるために、逆にまどわされて道に迷うことがあるのではないか。
 だから昼間で、たとえあたりの様子が見えても、見えないつもりで見えるものを見ないようにして足の裏の感覚だけを頼っていけば、道を通ろうとするときは道を踏みはずすようなことはない。
 ヤブ歩きをしていて、一面草に覆われ、自分の目で道の所在を確かめることのできないような場合でも、昔、人が歩いた道に出会うとすぐにわかる。やはり、人が歩いたことのある道は安心なので、これはありがたいというので使わせてもらうこともある。
 その道がはたして正規な、最良の道かどうかは別として、かつて人が歩いた道に偶然出くわすと、なぜかその道に親しさを覚える。

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木曾御岳で見た不思議なヒトダマ


 長い間山歩きをしていると、ときどき奇妙な現象に出会うことがある。
 私が三十歳代のころ木曾御岳に行ったとき、行者同士が話をしているのを小耳にはさんだ。ヒトダマが出るというのである。よくたずねてみると、どうも俗にいう尾を引いてフワフワ飛んでゆくヒトダマとはちがうらしい。ではひとつ確かめてみようと思いたち、出向いてみる以上はとっつかまえてやろうと捕虫網を持って行った。
 木曾御岳の海抜二八〇〇メートルくらいのところに賽ノ河原と呼ばれる石コロばかりが一面にゴロゴロしている場所がある。そこはいわば霊場で、死んだ子どもを供養するための石積みの積み石が、あちこちに林立している。
 行者のいう「ヒトダマさま」は、その場所に夜になってから出てくると聞いたので、一人で出かけて行った私は、この近くにテントを張って日の暮れるのを待った。
 テントの中で静かに待ち、やがて真夜中ごろに出て見てあきれた。数え切れないほど無数の「ヒトダマさま」飛びまわっているのだ。
 それはふつうのヒトダマとはまったく別種の性質のものだった、私もたまに見ているが、いわゆるヒトダマというのは、直径20センチぐらいでやや黄色味を帯び、円形というよりは少しデコボコのある楕円に近い形で、わりあいゆっくりと飛んでいく。尾を引いたように見えるのは残像で、網膜には十分の一秒くらい光のあとが残るため、光の動きにつれてゆらゆら尻尾がゆらめくように見える。よく注意してみると、尾はないのである。
 賽ノ河原の「ヒトダマさま」は、それとはまったくちがっていて、直径10センチぐらい、ちょうどにぎりこぶしの大きさで、白色というか無色透明に近い感じで明るさが非常に弱い。その速さがまたベラボウな早さで、クルクルクルクルめちゃくちゃな方向に飛びまわっている。
 用意していた網をすばやく振り回し捕まえようとしたのだが、いくら降っても網の底からツーと抜け出てしまって、まったく手ごたえがない。網ではだめだとわかったので、すぐにテントに引きかえし、飯盒を持って出た。うまくすくい取って蓋をかぶせてしまえばいいと思ったのだ。
 飯盒を手にして手近をとんでいるヤツをねらって、すばやくすくい取ったのだが、なんと相手は飯盒の底をつき抜けてしまった。
 “ヤ、これは、物質の法則からまったくはずれたものだ”とわかった私は、いささかヤケッパチ気分で素手でたたいてみた。たぶん同じように手の中をつき抜けるだろうか? それだと気分が悪かろうな、と考えたら、相手はパッとはねかえったのである。
 さらに河原の石柱を凝視してみると、かれらは石はつき抜けず、まわりをぐるぐるまわっていることがわかった。
 この世には、こういうものがあるのだなあと、それからややしばらく眺めたあとテントに戻った。
 手でたたくとはねかえったのは、手は生命体だからであって、石をつき抜けていかないのは、おそらく表面に人間の目では見えないような微生物が存在しているためではないかと私は考えた。
 一人用の小さなテントに入って寝ていると、やがてかれらはテントをつき抜けて入り込んではスーッと抜け出る行動をくり返していた。テントにはたぶんバクテリアの膜があるはずだから入り込むまいと思っていたのだが、布地は無数の穴があいているから通りぬけ自在ということか。
 目を開いてじっと見ていると、勝手なところでテントの布の中から湧き出すようにホーッと出てきて目の前をよこぎり、反対側のテントの布にスポッっと吸いこまれて出ていく。中にはそそっかしいのがいて、私のほっぺたにぶつかってピョーンとはね返っていくやつもいる。それでも、私のほうの感覚としては、物がさわったという触感というか抵抗感がまったくない。
 私の判断では、かれらは、なんらかの生物から物質をとり去ったものではないかと思うのだが、だからといって霊魂的な感じはまったくない。虫のようになんらかの目的を持って行動しているかといえばそうではなく、ただ無目的にかけ回っているだけなのだ。
 ウトウトまどろんでいるうちに夜が明けた。賽の河原を眺めたが、かれらの姿は見えなかった。もしかすると昼間でもいるのかもしれないが、暗くないと見えないのであろう。星月夜よりも、真っ暗にくもった風のビュービュー吹いている日のほうがよく見ることができるらしい。
 土地の行者たちは「ヒトダマさま」は死んだ人の霊魂だと信じているようだが、たぶんそうではあるまいと私は思っている。では何だ? と聞かれてもうまく答えられないが、人間がこれまで確認している物質なり生命体以外の何ものかであろうとしか言いようがない。
 眺めていてまったく平気だったといえば嘘になるけれども、しかし見ていて壮観で感激するような性質のものではない。得体の知れないものというのは、一般にある種の恐ろしさを伴いがちだが、背筋が寒くなるような怖いしろものではない。
 その後、私の話を聞き知ったテレビ局の取材班が七、八人で撮影に出向いて行った。できるだけ天候の悪い、嵐のような夜がいちばんいいとか、カメラをもっていっても、よほど性能がいいレンズじゃないとだめだろう、ストロボをたいても反射光がないので効果はないなど、いろいろ注意を与えたが、彼らはせっかく金をかけて行きながら、夜中まで待ち切れず、十時ごろあきらめて引きあげてしまい、小屋でごろごろしていたらしい。自分たちの目では確認できなかったので、小屋番のおじさんやら、行者やらの話を取材して、「それじゃやっぱり出るのか、嘘じゃないんだな」などと、わかったような顔をして帰ってしまったという。
 一晩徹夜するくらいの根気がなくては、どうしようもない。
 ともかく、私が見たのは御岳の賽の河原だけで、同じ種類のものは他では見ていない。もしかすると人跡まれなどこかの場所にもいるのかもしれないが、それらしい報告がないということは、たとえいてもまだ行き当たらないだけか、見ようともしていないだけのことかもしれない。
 今度いつか行く機会があったら、飯盒の裏に、醤油を醸造するとき表面にできる酵母を塗りつけるか、あるいは何かのカビで膜を張ろうかと思っている。そうすれば相手はつき抜けることができず、うまくつかまえて持ち帰れ、大勢の人の前でパッと玉手箱のように開けてごらんに入れることができるかもしれないのだが、その後ヒマがなくてまだ実験していない。
 今ごろになってもワイワイ頼んでくる人もいるので、そのうちヒマを作ってやってみるか、と思っている。

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幽霊には足があるという話


 円山応挙の描いた幽霊は、おそろしく迫真力がこもっているというか、おっかないので有名だが、どういうわけか足がない。以来、日本の幽霊には、足がないことになっているが、これはたいへんな間違いであると私は思っている。同じ人間でありながらヨーロッパやアメリカや中国の幽霊には足があって、日本列島に出没する幽霊だけは足がないというのは、納得しがたい話である。
 それというのも、私がこれまでに出会った日本の幽霊には、すべて足があったからだ。それは女の幽霊でも男の幽霊でも同じだ。
 応挙の幽霊図には何故足がないか。理由は二つ考えられる。一つは、彼には足のあることがわかっていたのだが、足まできちんと描くとどうにも人間くささが出てしまって、あのゾッと迫る感じが表現できないということから、“芸術的省略”を試みたということ。もう一つの理由は、応挙だかだれだかは幽霊を見るには見たのだが、びっくりして足元までよく見るゆとりがなかったのではないだろうか、ということである。
 私は幽霊に出会うと、すぐ足元を見ることにしている。
 何度か山で見た男の幽霊のなかで、本州の最奥、尾瀬ヶ原北方の山中、私が岩塔盆地と名付けた湿原地帯で出会った例を紹介しておこう。
 私のほかに五人ほどの仲間で、テントを設営して泊まり込んでいたある日の夕方、まだ明るい時刻に、山の奥の側から一人の男が近づいてきた。こんな辺鄙なところに人がやってくるとはめずらしいなと思って見ていた。前にそのあたりのことを山の雑誌に書いたこともあるので、それを見てやってきたのかな、と思った。
 だんだん近づいて、水たまりの水をはねながらやってくる。彼は、私がはいていたのよりも立派な登山靴をはいていた。私たちはテントを二はり張って、ちょうど夕飯の炊事の用意か何かをしていたときで、みんな手を休めてその男を見ていた。
 かれは、十数メートルほどの近くにまで来ていながら、われわれの話し声にも知らん顔、全然こちらを見むきもせずにそのままスーとわれわれの横を通りすぎて行く。
 私は前に穂高岳の下、横尾谷の岩小屋で、完全装備をした若い男の幽霊に同じような無視のされ方を受けているので、また出たなと思ってすぐに男のあとを追いかけた。が、ちょうど原っぱの途中に張り出している林の角で一瞬のうちに姿を見失った。
 私も、すぐにその場所へ行って探したが、その向こうの原っぱにも姿は見えない。原っぱの中をあちこち駆けまわり、「オーイ」と呼んでみたけれども、何の反応もない。夕暮れどきだから、われわれの設営した場所をはずすと、そのあたりには泊まり場がないはずなのだ。もっとも、ヤブの中であろうと何であろうと、よほど自信のある人なら、どこでも寝てしまえるかもしれないが。
 山でお互いに出会えば、たとえ言葉は交わさなくても、相手を見てちょっと表情をくずすぐらいのことはするはずなのだ。
 人間一人もぐり込めそうな場所を、あちこち残らず探したがまったく人影も何もないのであきらめて帰ってきた。
 みんなを怖がらしてもいけないと思い、知らん顔をして戻ったところ、私が何も言っていないのに、仲間たちは真っ青な顔でガタガタふるえている。彼らも、おそらく察しがついたのだろう。
 「いや、心配するな、よくあることだよ」
 と、なだめたものだ。
 穂高にしても尾瀬にしても、われわれの目撃した幽霊には足があった。もちろん私がむかし出会って、しばらくの間つき合わされた女の幽霊にも足があった。
 日本の幽霊にもちゃんと足があるのだ。

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赤い鼻緒の下駄をはいた幽霊


 戦後のドサクサがつづいていたころのこと。東北の港町・釜石の水産試験場に勤務することになり、一人でノコノコ出向いて行ったのだが、やがて幽霊が原因で東京に引き返す破目になるとは、そのとき、とうてい予想だにできないことだった。
 二か月ほど過ぎたころだった。土地の人とも親しくなり、夜、仕事を終えたあと、、しばしば麻雀にさそわれて出かけるようになっていた。住んでいた所が海に近い場所だったので、一勝負終えると、岸壁沿いの道をブラリブラリ歩いて帰るのだが、いつも真夜中になることが多かった。
 六月のある晩、いつものように岸壁通りを歩いていた。私の勤めている試験場の中にあるネグラへ行くには高さ一メートルほどの試験場のコンクリート塀の前を通っていく。そのコンクリート塀に、見慣れない女の人が寄りかかっていた。この塀は、昼間、買い出しの人たちがよく寄りかかって休む場所になっていたので、べつに気にもとめずに、その前を通り過ぎようとした。
 ちょうど、その人の真ん前を横切ろうとしたとき、それまではっきりと見えていた姿がフッと消えてしまったのだ。アレッ? と思って反射的に立ち止まってキョロキョロあたりを見回したが影も形もない。妙だな、とは思ったが、きっと麻雀で疲れているせいだろうと思い、そのままネグラにもどって寝てしまった。
 数日後、やはり麻雀によばれた帰り、同じ道を通って同じ場所を通りかかった。するとそこに、女の人が、やっぱり塀に寄りかかっている。二、三日前のことがあるので、今度はよく注意してみようと、前を通り過ぎるときその人から視線をそらさず、じっと凝視したままちょうど真ん前を通り過ぎようとすると、やはりフッと消えてしまった。
 年は二十六、七から八、九というところで、細おもてのなかなかの美人だったが、目の前で急に姿が消えてしまうというのは、やはり気持ちのよいものではない。どうやら“お化け”らしいとわかったが、どうして真ん前を通り過ぎると消えてしまうのか。
 今度出会ったときは、前を横切らずに、横から近づいてみようと思い、そのチャンスを待っていた。
 三度目。同じ場所を同じ時間に行ってみると、やはり例の女幽霊が塀に寄りかかっている。そこで横から彼女をじっと見ながら近づいた。思ったとおりすぐ傍まで行ったが消えない。お化けに足があるかないかよく見ようと思い、しゃがんで彼女の足元を見た。彼女には足があり、赤い鼻緒の下駄をはいていた。美しい素足にはウブ毛が生え、ちゃんと爪もある。
 一見幽霊とは思えないので、「今晩は」と声をかけた。だが、彼女は反対側の釜石湾のかなたを見つめたまま、一言も物を言わない。私が何を話しかけても黙っているので、「失礼ですが、ちょっと突っつかせていただきます」と断った上で、彼女の肩のあたりを指先で軽く突ついた。と、その瞬間、すぐ目の前の姿がスッと消えてしまった。私はとたんに、背筋にゾーッと寒気が走った。
 一度姿を消すとそれっきりだった。しかし私は、そのときはじめて、幽霊にはちゃんと足があることがわかったと同時に、その美人幽霊にいたく関心を抱いた。

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幽霊にとり殺されそうになった私


 釜石湾の岸壁に美人幽霊が出ることを知った私は、その場所がわたしの住居のすぐそばだったせいもあり、その後毎晩、夜中になると彼女を見に出かけて行った。変化がないのではおもしろくないので、あるときはバットを持参し、「返事をしなかったらブン殴りますよ」と警告し、「いいですか、三つ数えますよ。一、二、三」といって彼女の胴体めがけてバットを振ったが、バットはむなしく空を切り、後ろのコンクリート塀を打つだけだった。
 そんなことが何日かつづいたあとのことである。その美人幽霊が、今度の私の住まいに現れるようになった。当時、私は、試験場の製造工場の一部を仕切り、缶詰を入れる空き箱を利用してつくった寝台に寝ていたのだが、夜になると、その寝台から数メートル先に姿を現し、私のほうをいつまでもジイーッと見ているのである。
 最初は私もびっくりし、いささか警戒したが、しかし彼女は離れた場所に立っているだけである。私が夜中に疲れてウトウトし、目を開けると、やはり彼女が立っていて私を見ている。そして彼女の姿はひと晩じゅうそこに見えている。これが、毎晩毎晩、それから約半年もつづいたことになる。
 その間、私は彼女にさまざまなことをたずねてみた。きっと何かの都合で浮かばれないのだろうと思い、「お坊さんを呼びましょうか」などと行ったが相手は無言。「なんでボクの所へ出てくるんだ。答えられないところをみると、あなたは口がきけないのとちがうか」ともたずねたが、ウンともスンとも返事は帰ってこない。
 それでは、とトンツー式で「トン、トン」ならイエス、「トン」ならノーということで返事するように頼み、「あなたは死んだのですか」などと聞いてみたが、やはりムダだった。トンでもなければトントンでもない。
 毎晩、同じことのくり返しがつづき、いささか私もいやになってきたので「もう出てこないでくれよ。悪いけど、もう相手にはならないから」と言ってやった。
 実はこの幽霊について、私は“身元調査”を行った結果、どこの誰かを土地の人から聞き知った。狭い土地のことである。私が「これこれしかじか」と彼女の姿を話すと、生前の彼女を知っている人は即座に「それは死んだときの姿そっくりだ」という。彼女は、十二前その場所に試験場ができる少し前に、崖から海へ飛び込んだのであった。
 理屈に合わない点が一つあった。彼女がはいていた赤い鼻緒の下駄は、投身自殺したとき、崖の上においてあったそうだ。それなら、彼女はハダシで出てこなくてはいけないはずだ。
 私ひとりが見ただけでは信頼度に欠けるから、だれかを誘って見せようとした、当時のイナカではみんな怖がってしまって、夜になると人ッ子一人通らないようになった。
 もしかしたら自分のアタマがこわれたのかもしれないと考えて、東京の精神病理学者である兄たちに連絡したら、地元のチャンとした病院で調べてもらえというので、市立病院で診てもらった。
 ところが担当医は、あなたの脳は医学的にきわめて正常であるとの診断を下した。そこで私は、その正常である人間が幽霊をやたらと見るということはおかしいではないか。あなたが科学の使徒であるのならば、このところの矛盾を解決しなければおかしなことになる。私といっしょに見とどけに来ませんか。
 しかしその医者は笑いとばして相手になってくれなかった。本心は怖かったのか、未知の分野に切り込もうという科学心がなかったかのどちらかだったのだろう。
 そしてついにさいごの局面に到達したのだ。それは忘れもしない昭和二十二年五月二十一日の晩のことである。例によって部屋に現れた彼女は、私の枕元に立ってこっちを見ているので、私も彼女の目を見かえした。そのとき、なにやらいつもと様子が違うことに気がついて、どうしたんだろうと思いながら、なおもよく見ていた。
 最初のころは、私の寝ている寝台からいつも数メートル離れたところにジーッと立ったままこちらを見ていた彼女は、月日がたつにつれてだんだん近づき始め、枕元から一メートルくらいのところまでくるようになっていたのだ。
 あまり近づくとどうも気分が悪いので、あまり近づかないでくれよと頼んだが、彼女は私の依頼などまったく無視して、やはりジーッと私のほうを見ている。今までは彼女のまばたきをまったくしない無表情な目は、いつも私を通り越して、永遠の彼方でも見るような茫漠とした目つきだった。
 ところが、この日の夜は違っていた。彼女は、あきらかに私の目を見据え、私と幽霊の目が見つめ合っていたのだ。異変に気がついた私は、負けてたまるかという気になり、ふとんにくるまりながら必死に幽霊の目を見返した。ところが、まもなくふとんの中がスーッと冷えてきた。
 こらはウッカリするとやられるぞ、と感じた私は、彼女から目をそらし、ふとんを頭からかぶってりきんだ。三十分もりきんでいるうちに大分体が温まったので、よし! とばかりふとんから頭を出すと、やはり彼女が私を見つめている。目を合わせたとたん、また体がスーと冷えてくる。まるで水の入った一升びんを寝床の中に入れられたように、ゾッと体じゅうが冷えてしまうのだ。
 この夜は一晩に四、五回もそんなことをくり返して、とうとう一睡もできないまま朝を迎えた。  こんなことが毎晩つづいたら、命を失うことになりそうだと心配になった私は、その日出勤してきた場長に昨日の一部始終を話し、「これ以上幽霊と対決する自信がなくなったので東京へ帰ろうかと思うが」と申し出た。事情を知っている場長は、「君が幽霊にとり殺されるようなことになっては困る、急いで帰りたまえ」ということで、その場で辞表を書き、その日の昼ごろの列車で東京へ向かったのだった。さすがに女の幽霊は、それっきり私の後を追ってはこなかった。
 ヤレヤレ助かったわい、と気分よくなった私は、やがて幽霊のことなど過去の悪夢としてあまり想い出しもしなかった。

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前世を見てくれた占い婆さんの話


 東京へ戻って新しい生活を始めた私は、釜石の幽霊から解放されてからどのくらいたったころであろうか、あるとき、「前世を見てくれるお婆さんがいるので、興味があったら会ってみないか」とある新聞社の部長にさそわれたことがある。「そりゃおもしろい」というので、連れだって、銀座のとある料理屋へ出かけて行った。
 その婆さんの話によると、私の前生は、さるアイヌの酋長の息子で、流れ矢に当たって二十三歳で死んだのだそうである。婆さんによれば、私の座っている後ろの空間に、私の前生の姿が極彩色のテレビジョンのように見えてくるのだという。私がふり返ってキョロキョロしても何も見えやしない。証拠がまったくないので、婆さんの話を肯定も否定もできず、「なんだ、つまらない」と思っていた。すると、そのまた前生が見えてきたという。
 どうせトカゲかなんかだろうといったら人間だという。その場に居合わせた人たちが、おもしろがってたずねると、「ゲンソウという名の王様がいる、場所は支那のようだ」と婆さんが言う。「そりゃ玄宗皇帝だ!」と東洋史にくわしい友達がいった。
 その場には、私のほかに、私を婆さんに引き合わせてくれた紹介者と、話を聞いておもしろがってついてきた二、三人の友達がいた。占い婆さんは歴史などの知識の素養は全然ない人で、ただ自分の目に映るカラー版の前生の姿を見て説明するだけだという。
 玄宗皇帝とはまた、えらい人が前生に出てきたのだと思っていると、実は私は前々生はその玄宗皇帝ではなく、皇帝に刃向かって反乱を起こして殺された首相格の人物なのだという。「なんだそれなら安禄山じゃないか」と友達が言う。
 東洋史はさっぱりわからなかった私は、「たしか安禄山っていうのは悪者だったはずだ、いやな前生だなァ」と言うと、婆さんは「いや、あんたそっくりの顔をしていて、この人は悪い人じゃない」と言う。
 話はとぶが、その後、友達があちこち探しまわって、安禄山の肖像やら系統やらを調べてくれた。なにしろ千二百年以上前のことで、肖像がどれだけ正確かわかったものではない。だいたい、難民族と大和民族は顔つきがかなり違うはずなのに、安禄山が私と似ているという婆さんの話はおかしいと思っていた。
 ところが調べによると、安禄山は実は難民族ではなく、西域のほうからやってきたトルコ系の民族で、もとの名をアツラクシャンとか言ったのだそうである。そして玄宗の政治がひどかったので、民衆を救うためにクーデターを起こしたのが、失敗したのであって、悪人ではなかったそうだ、ヤレヤレ!
 占い婆さんの占いによると、私の前生も前々生も、いずれも戦いで殺されたり死んだり、その出自も、トルコ−中国−アイヌと国際色豊かでにぎやかなのには恐れ入った。
 ひとしきり前生を説明してくれた占い婆さんが、最後に奇妙なことを言い始めた。「ところで、あなたの後ろに立ってる人は誰ですか」というのである。後ろを振り返ったが、私には誰も見えない。「いったい、どんな人です?」という質問に答えた婆さんの言葉に、私はギクリとした。  「年のころは二十七、八。細おもての美人で……」そこまで聞けば私にはすぐわかる。忘れていた例の釜石の幽霊である。
 わたしが一部始終を話すと、占い婆さんは「そりゃ困るでしょう、私がこのひとと話をつけてあげましょう」と言い、私の頭ごしに何やらモジョモジョ話していたかと思うと、やがて私のほうを向き、幽霊との話を“通訳”してくれた。
 婆さんの話によれば、彼女の言い訳は次のようなものだった。
 「実はこの人とはまったく無関係なんだが、何かしてくれると思ってこの人の傍に出た。だけど殴られて頭にきた。しかし話はわかったので、もう二度と出ない、申しわけなかった」
 幽霊も頭にくることがあるものだと、このときはじめて知ったが、その婆さんの一件があったのち、ようやく安心して釜石へ出かけたが、何事もなかった。あれほどしつこくまつわりついた幽霊も、その後、再び姿を現すことはない。
 いまだに心残りなことは、幽霊とは、誰かに何かの手助けをしてもらいたくて人にとりつくことがあるということを知らなかった私が、からかい半分にバットで殴ったりして申しわけなかった、手厚く葬ってあげるのだったということである。
 私がもっと最初から幽霊さんに親切だったら、私の聞いたことにいろいろと答えてくれて、もっとあの世のことについての情報を知り得ていたであろうに、と悔やまれてならない。

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キツネははたして人をだますか


 秩父の山で、ある夜、道のない稜線を歩いていたときのことである。
 谷を一つへだてて数百メートル離れた尾根筋を、ちょうど提燈でも灯したようなポッとした明かりが、あとからあとからつづき、全部で七、八個、ほぼ等間隔にゆっくりと登っていくのを見たことがある。
 “ハテのあの尾根には道はないはずなんだがな”と思って見ていると、途中でフッと消えてなくなってしまった。
 キツネの火というのが、そんな現象だというが、はたしてキツネのせいなのか何なのかわからないが、空間を飛んでいるのではなく、まるで提燈行列でもしているような現象があることだけは認識した。
 キツネが持っているという“宝珠の玉”と称するのは、実はウサギのシッポの食い残しで、これがキツネの巣などにころがっているうちに腐って燐光となって燃えるので、ほんの少しポウーッと明るくなる程度のものだ。秩父の山で見た明かりは、それとはまったくちがっていた。
 発光体にもいろいろあるが、私のいなかの木曾に泊まっていたとき、夜中に小便をしようと思い、別棟の便所にいった。ふいと見ると、軒先を直径三〇センチほどの火の玉がプワプワ浮いてとびまわっている。私はすぐに蝶をとる捕虫網を持って出て、サッとすくい取り、明るいところへ持って来て、そっと開いてみた。
 これは蚊柱だった。
 一匹のメスの周りを何十何百というオスの蚊がとり囲み、おそらく羽に発光バクテリアでも付着しているためだろうか、それが発光体となって光りながら動くため、まるで火の玉がプワプワ浮かんでいるように見えただけのものだ。しかし気持ちのわるさとしてはかなりのものだ。
 あるとき、山里で人の家をたずねる用件があった。前にも何度か訪問したことがあって、本道をまっすぐに行ったつき当たりがその家なので、非常に単純明快、なんの苦労もいらない。
 ちょうど月夜の晩で、私が向かっていく方向の斜め左後ろに月があった。途中に小さな橋があり、その橋を渡ってすぐ右手の山すそにお稲荷さんがある。遠くからは赤い鳥居が一つ見えるだけ。その鳥居を右に見ながらまっすぐに田んぼ道を行くと、その家に着くはずであった。
 さて、橋を越え、お稲荷さんが右にあるのを見て歩いていくと、また橋がある。
 ハテ、いま渡ったと思ったがな、たしか橋は一つしかないはずだが。
 とは思ったが、記憶ちがいということもあるので、その橋を渡って行くとお稲荷さんが右側にある。しばらく行くとまた橋があるのだ。いちばんはじめのは気のせいかな、ですんだのだが、今度はまちがいなくおかしい。こんなときは月の位置を見て確認すれば絶対に間違うことはない。長時間なら月の位置も変わるが、せいぜい小一時間とかからない場所だ。
 後ろをふり向けば、左後ろにちゃんと月がある。方向に間違いはないことを確かめて、一本道を進んだ。
 橋を渡ると右手にお稲荷さん。ところがまた橋だ。ちょっとしつこいなあと思いながらまっすぐに行くとまた……。五回も六回も橋とお稲荷さんがある。ヤケを起こしてももう少し行ってみようと歩き始めると、またである。もはや、物理的に解釈のしようがない。
 これはもう、どこまで行ってもキリがないと思い、あきらめてまわれ右をした。月が右手前方にある。左手にお稲荷さんが見え、ついで橋を渡った。そしてそれでおしまいだった。
 もう一度行き直したら、あるいはおもしろいことが起こったのかもしれないが、いいかげんバカバカしくなり、“もしかすると、おれは今日、アタマがおかしくなったのかもしれないから、早いとこ帰って一杯飲んで寝ちゃおう”と、スタコラ帰った。
 べつにおもしろがっていたわけでもないし、ボケていたわけでもなく、変だと気づいてからは緊張のしっぱなしだった。できるだけ客観的に自分の位置を確かめる目安として、月の位置を必ず確認して歩いた。にもかかわらず、そういう現象が起こったのである。
 お稲荷さんがあるから、それはキツネのしわざだ、と言ったほうがおもしろいかもしれないが、そうだと判定できる材料は何一つない。ただなんとも説明しようのない現象がそこにあったということになる。

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ヨガの聖者から伝授された雨やみの術


 二十年以上も前になるが、インドへ行ったとき、ガンジス川の源流に“生き神様”といって崇められているスリ・スワミ・シバナンダというヨガの聖者がいると聞き、訪ねてみることにした。
 ヨガの聖者は、もと医師をしていたのだそうで、ブクブク肥っていて、あまり聖者らしくも見えなかったが、世界各国から来た人が弟子になっていた。そのとき、八十六歳だということだった。
 「日本から来ました。三日ほどひまがありますので、いさせてください」
 といって頼むと、「よくきた、よくきた」と、喜んで承知してくれた。
 「ところで君は何か特別なことができるのかね」
 と老師が聞くので、“何か”というのはどういう意味かをたずねると、
 「今まで摩訶不思議な経験をしたことがあるか」
 というのである。
 摩訶不思議なこととは、はてどういうことかなと考えているうち、ふと思いだしたことがあった。
 かなり以前のことだが、あるとき、十人くらいのグループで富士五湖の西湖に行き、湖畔でブラブラ遊んでいた。すると、湖の向こう側ドス黒い雨雲がひろがり、バシャバシャと水しぶきを立てながらドシャ降りの雨が私たちのほうへ急速に近づいて来た。
 荷物は全部、かなり離れた茶店に預けてあったからだれも雨具を持って来ていない。
 しまった! と思ったがどうしようもない。あわてて茶店へ駆け戻ったにしても三十分近くかかる。それではみんなズブ濡れになってしまう。
 そこで、何とはなしに両手を上げ、待ってくれ! と思わず叫んだ。すると、とたんに、ぴたりと雨が待ったのである。ひとかたまりに集まったわれわれの二〇−三〇メートルくらい先でバシャバシャ猛烈に降っているのだが、そこで止まったままこちらへこない。
 「おい、いまのうちだ! 雨が待っていてくれるから、茶店まで駆けもどろう」
 といって、みんなで駆け出した。その後から雨足もどんどん追いかけてくる。後ろをときどき振り向きながら駆けているうちにへばってしまったのが出て、もう濡れてもいいやといって、走るのをやめてうずくまった。すると、今まであとを追いかけてきた雨足も、そこでまたピタリと止まっている。
 「雨が待ってくれているじゃないか、雨に悪いから早く行こう」
 ヘバッている仲間をせかして、ノロノロ歩き始めた。ところが、まるでわれわれの速度に合わせるように後ろから雨がついてくるのだがけっして追い抜かない。歩いたり小走りに走ったりしてようやく茶店にたどりつくき、店へ入り込んだとたん、ザァーッとものすごい雨になった。
 そのことを想い出したので、トツトツとこのときのことを英語で老師に話すと、「それでは、ここにいる間、雨やみの術をマスターして帰りなさい」という。「どういうことをすればいいのでしょう」と聞くと、「どうということはない、君のできる範囲のことを、ここで奉仕してくれればそれでよい」というので、翌日からそのあたりに住む人たちの中で奉仕活動をすることにした。
 ここには、ウミでドロドロになったライ病患者がたくさんいて、とても病院などとは呼べないようなそまつな建物で、患者の手当てをしている白人やインド人がいる。その中に入って私も包帯の取り替えなどをウミで手をベタベタにしながらやっていた。ライ菌というのは弱い菌で、空気中では三十分も生きていられないほどだから、ライ病はそんなにかんたんにうつるものではないという知識を持っているので、私は平気だった。
 まる三日がすぎ、あとの日程があったので、これで帰りますと言うと、老師は、
 「よくやってくれた。君は今後雨やみの術がマスターできるはずだ。自分の都合ではなく、人助けになると思ったとき、その術を使いなさい」
 というので、そうすればいいのかとたずねると、必要なときに心の中で思うだけでいいのだという。何が何だかわからなかったが、とにかく「ありがとうございました」と礼を述べ、三日間の奉仕活動で心が洗われたような気分になってアシュラム(修行場)を辞した。
 なにしろひどい場所で、泥で囲われた窓もない所で、南京虫がぞろぞろ出てくる。たまたま寝袋を持っていたので、目の部分だけ開けて周りに防虫剤を塗ってようやく侵入を防いだほどだった。
 それから五年ほどたった昭和四十年の一月二十九日のことである。その日は私の結婚式の日であった。くわしいことは省くが、インドへ行ったことがきっかけで結婚することになったのが現在の家内だ。結婚式の前日は、たまたま冬の嵐が九州から関西の方向にかけて時速四〇キロのはやさで東進していた。そのままだと、翌日はちょうど東京を通過することになり、とんでもない大嵐になってしまう。幹事役に当たっていた人たちが「よわったな、どうしよう」と心配していた。パーティー形式の結婚式で、出席者が百何十人か予定されており、お年寄りが多かったので、気が気でないらしい。私も、困ったなと思った。
 そのとき、私のことをよく知っている幹事役が、
 「そうだ、きみがよく話しているどこまでホントかわからない例の雨やみの術をひとつ使ってみたら?」
 と言いだした。
 あまり自信はなかったのだが、それではというので、その夜、寝しなにふとんの上に座り、“実は明日結婚式でいろんな人がくるのだけれど、大嵐の中を無理してきてもらうのは申しわけない。どうしていいかわからないけど、とにかくよろしく”とブツブツ言って寝た。
 そうすると、真夜中に大荒れになった。あとで調べてわかったのだが、関西あたりから時速七〇キロくらいにスピードを増し、はやばやと通過して行ったのだ。翌朝、目を覚ますと空は快晴。明け方、数センチばかり雪が降った。あたり一面、真っ白の銀世界。
 結婚式の始まる昼過ぎには、道路の雪はすっかり融けて乾き始めていて、普通の靴で歩いてもさしつかえないほどの無風快晴の上天気になったのである。
 幹事役が挨拶に立って、まず天候にふれ、雨やみの術の一件を紹介した。いきさつを知らない人たちは、幹事の説明をキョトンとした顔で聞いていた。
 それ以来、私は、いよいよ困ったときに何度も使って成功している。山の天気は非常に変わりやすいものだが、たとえばドシャ降りになる直前山小屋に飛び込み、いろいろ日程の都合があって困るのでその夜「どうか明日はよろしく」と頼むと、翌朝天気がよくなっている。偶然にしてはあまりにも的中してそのとおりになるので、やはりインドで授かった術のせいだと思うほかないようだ。
 ただ、ちょいと頼めばかんたんにいつでもそうなるといった自分勝手な都合ではよろしくない。それは究極的には悪意になってしまうからだ。たとえば、朝鮮半島の向こう側に低気圧が停滞している場合、なぜ停滞したかを考えると、実はその東側の高気圧が停滞したことでしかない。それをずっと迫っていくと、北半球全部が停滞したことになる。そういう状況でなおかつ「明日は都合が悪いのでよろしく」といったとすると、それは地軸の回転にまで影響するようなたいへんなエネルギーが必要であり、結果的にはどこかでたいへん苦しむ人が発生することになる。
 そうした体験を通してその後いろいろと気象状況を観察していると、ときたま妙なことに出くわす。
 たぶん十何年も前だったと思うのだが、ヨーロッパに“クリスマス寒波”と呼ばれる大寒波が来襲して、あちこちでバタバタと人が凍死したことがあった。二週間もすると、その大寒波が中国大陸を通って日本列島に押し寄せるだろうと予想され、気象関係者が大騒ぎしていたことがある。
 ところが黄海のあたりか、もっと日本に接近した所で、ストンと消滅してしまい、予報がまったくの空振りに終わった。
 そのあと、私のことを知っている何人もの人から「おまえ、やっただろう」といわれて困ってしまった。なかには電話までよこして「またやったね」というので、「いや、やってない」と答えると、「なにも隠さなくてもいいじゃないか、別に糾弾してるわけではないんだから」と言う始末だ。「いや本当にやってない」と一生懸命に弁解した覚えがある。 そのとき私が考えたことは、どうも天気をいじるというのか、気象エネルギーを変化させる力を持ったすごい人物が、どこぞにいるのではないかということだった。それがだれであるか、本当にそうなのかは知らないが、ともかく私のあずかり知らぬことである。
 もう一つだけつけ加えておくと、私はどちらかというと横着者で、むずから好んで苦しい状況に立ち至りたくないので、いつも逃げ道を探している。それが、自然に、さまざまな危険を前もって避けてしまうという自分でもよくわからないある種の能力というのか感覚というようなものが、どこかにあるらしく、「おまえにくっついていると安心だ」とまわりの人から思われている。
 山小屋であやうく災難を逃れたことがあったり、乗物での事故も何度か避け得たことがあるため、もしかするとそうかもしれない。だが、話はこれくらいでとどめておこう。書きだせばキリがなくなるし、経験の一部は他の書物でも書いておいた。もし、興味をお持ちなら、退屈しのぎにでも読んで頂きたい。

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宇宙の中の小さな小さな私たち


 ながながと、いろいろなことを述べてきたが、ここでひとまず締めくくりをしておくことにしよう。
 私たちはときどき、いわゆる常識ではとても説明できないような不思議なことに出会うことがある。そのようなとき、どういう態度をとることが本当に理にかなったことなのだろうか。
 よく「超自然」とか「超常現象」などという表現の仕方がされることがある。しかし、よく考えてみると、それは非常におかしな物の見方ではないかと思う。自然でないものがこの自然の中にあるわけがないのであって、すべてが自然そのものなのである。ふだん見なれているもの、確実だと思っているものからかけ離れた現象を超常現象などというけれども、私たちが常識だと思っているその範囲があまりにも狭くて、すべてをカバーできていないというだけの話なのだ。
 五百年前、地球は丸いといっただけで宗教裁判にかけて火あぶりにしてしまうような、それとたいしてかわりのないような常識で物事を測ろうと思っても、この世には測り知れないことが多々あってもしかたがない。
 私たちの知識の範囲など、宇宙の中ではたかが知れている。それを思い上がって、「これは科学的に見てあり得ない」などという。科学の守備範囲など、宇宙に起こっているであろうさまざまな生成・発展・変化の中においては、一パーセントを占めるかどうかぐらいのところと心得ておくべきで、わずかな知識ですべてを論ずることができるように思うのは、人間の思い上がりであり、身のほど知らずだといえよう。
 お化けならお化けでいえば、だれかが見たという。すると、見ていない人は、「それは錯覚だろう、そんなものいるわけがない。幽霊の正体見たり枯尾花さ」と一笑に付して否定する。一方、見たことのある人は、それだけでコロッと信じ込んで、「おれは超常現象を認知した」などと思い込む。それは両方とも科学的な見解ではない。
 本当に科学的な見方というのは、目の前に起こるさまざまな現象を、まず素直に受けとめ、「この世にはこういうことがあるのだなあ」と認めた上で、では、その現象の中に横たわっている真理は何かを知るために、断片的に見えた現象を分析し、組み立て、推理し、他と比較し、類似性を求めるという幾通りもの径路を通って、おぼろげながらも全体像を把握することが科学心であり、そこに科学者の使命がある。
 たとえば、“あの世”について、その体験を報告した人はだれもいない。だから、“あの世”は存在しない、と断言できるだろうか。ないかもしれないし、あるかもしれないのである。私たちは、しばしば、死者が挨拶に来たりするのを目撃したり、そうでなくても“胸さわぎ”を覚えたりする。
 人間が死に、物質が崩壊すればあとは何もないのか。それがはたして生理学的事実なのか。
 物質は変化し、われわれの目からは消え去っても、それがわれわれにはいまだ知り得ない別なアルファに形を変えて、この宇宙に遍満する−とかりに考え、そう口にしたりすると、とたんに「あいつは神がかった」とか「宗教かぶれした」などという人がたくさんいる。そういう人のほうがむしろ多いのではないだろうか。
 私は宗教に帰依したこともなく宗教者の教えを乞うたこともないが、さんざん自然界を遍歴したあげくそうした分野があっていっこうにさしつかえないと思えるようになった。だから、霊界や宇宙人と交信できる方法が見つかるなら、ぜひともコンタクトしてみたいものだと思う。
 人間世界の科学の歴史、いわゆる近代科学など、たかだか三百年足らずではないか。この地球についてさえ、知らないことのほうがいっぱいである。ましてや、宇宙という測り知れない空間の中では、いま私たちの知り得たことはほんとうに小さな小さなものであろう。
 チョウがとんだ! それは当然だ、お化けがとんだ! そんなことはあり得ない、なぜ区別をしなければならないか。
 すべての現象を謙虚に観察し、再現性を求めるが科学ならば、どういう条件がそろったら再現するのかを調べる努力をして、はじめてその現象が何であるかをとやかくいえる段階へ到達する。何もしないでおいて、あるのないのと断言などしてはなるまい。

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第5章


官能研究とはなにか


 ながい間、私は官能研究という仕事にたずさわってきた。これはいったいどういうことをするかというと、一口に言えば次のようなことになる。
 人間の持っている機能というのは、機械の分析能力の何万倍という緻密な能力である。たとえ何ミリグラムまで計れるかということではなくて、そのまた何万分の一までキャッチできるといったそういう繊細な機能、能力を備えていると考えることができる。そうした能力を使って、機械ではあまりに大ざっぱすぎるものとか、とうてい計り得ないものを、人間の嗜好とか感覚を利用して分析する。
 また、人間とその環境とのかかわりあいとか、自分の生存条件の中での立場がどうであるとかいうことを調べあげるものも官能研究の範疇に入る。その食糧版というか、人間と食糧との関係を、一つのシステムとして他の分野とのかかわりあいのもとに研究をすすめているのが、狭い意味での私の専門分野ということになる。
 しかし私は、それだけではおさまらず、よけいなことかもしれないがもっとその先まで考えてきたわけである。つまり、人間の官能というと五感までであるが、さらに六感も、いや七感さえもあるだろうというのが私の立場である。
 そういうものを全部ひっくるめて人間は生きている。たとえ無自覚であっても、それが人間の人間たるゆえんではないか。そこまで含めて人間の立場を理解するための研究が官能研究だと私は思っているが、実際には、そこまでは要求されてはおらず、やらなくてもいいことになっているというわけだ。
 しかし、私がいま述べたような立場をとれば、新しい考え方にもとづいた切り込みができるだろうと考えている。つまり、今までとはちがう方法で、対象の過去を調べ、その先にある現在をより正しく理解することによって、さらに別なかたちで未来を予知することも不可能ではなくなるからだ。それは、ある面では文化類学とかかわり、さらに民族学、地理学、気象学、海洋学、心理学などなど、あらゆる分野とかかわることになり、したがって未踏の分野なので探検家的要素が非常に多くなる。
 単に地球の表面を探検するというだけにとどまらず、おのずと他の人たちの専門分野まで入っていくことになるかもしれないけれども、それは多少ごかんべん願わなくてはならない。
 というわけで、いろいろな分野と接触し重なり合う重層的な未踏の、ジャングルではなくてジャンルが、官能研究だと考えていただければいい。

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能力を測る価値尺度を変えてみると……


 いま、人間の能力を測る尺度が一律に決められていて、それにもとづいた入学試験などが行われている。だからその定められた座標に合わない人は、そこでみんな落ちこぼれていく。
 たとえば数学もできないし国語もあまりできないが、絵を描かせると非常にうまいという人がいるとする。本人も絵を描くのが好きなので、それでは絵描きになるため学校で勉強しようと思っても、他の学業の成績が悪いと門戸を閉ざされてしまう。美術学校行きたくても、絵がうまいというだけでは入れない。だいいち、中学・高校で、自分が何に向いているのかわからずにボンヤリと過ごしてしまうと、途中でドロップアウトしたりさせられたりしてしまう。
 これは非常にまずいことで、要するに「あいつはバカだ」でおしまいになる。けれども、社会の一般的な尺度ではだめであっても、別な新しい尺度を持ってきた場合、実にふるい落とされた人がいちばん優秀だということがないとは言えない。
 このように考えると、だれでも必ず一つは最も得意な面があって、尺度を変えれば評価も全部ちがってくるということになる。
 一方、どれでもいいが、一つの軸を設定したとき、大勢の人を中心に、より優秀なのと、より駄目なのとに必ず分散する。五パーセントないし一〇パーセントが優秀、一〇パーセントぐらいがダメで、大多数の八割はどちらでもない平凡人というわけだ。
 人間生活を豊かにしようとか、食物の範囲つまり過食物を拡げようという尺度を設定した場合、先祖代々受けつがれながら食べてきたものがだいたいその範囲内に入るというイメージができている。
 いあここに見知らぬキノコが一本あって、これが食べられるか食べられないかを知るためには、だれか勇気のある、またはオッチョコチョイという尺度での最先端に属する人間が食べてみなければわからない。そこで、「よし、おれがまず食べてみよう」と食べたところ、コロッと死んでしまうとする。それを見ていた大勢の人が、「あ、これは食べられない、気をつけよう」ということで食べ物の可食範囲が決まってくる。こうして食物の知識が横に拡がり縦に伝わるというかたちでコミュニケートされる。
 しかし、だんだん核家族化が進み、経験の伝達がしにくくなると、先祖たちが知っていて、せっかくその体験、知識を今まで語りついできたものさえも伝えられずに終わると、同じ失敗をまたくり返すために、たえず先兵が確かめねばならなくなる可能性も増してくるので、そういう社会は、非常にマイナスが多いわけである。
 ある社会、ある集団を構成し、歴史がかたちづくられていく場合、勇気があり行動力があり、知恵がある最先端の部分が、失敗するか成功するかは別として行動を起こし、それを見ていた後続の大多数が、うまくいったらつき従い、失敗したら軌道修正するというパターンをとりながら展開する。
 そして失敗したときには、評価軸を変えて別な方向、別なやり方をするばあいに、また新たな五パーセントなり一〇パーセントが、リーディング・ヒッターとしてあとを引き受ける。つまり、前にはダメな一割だったものが、今度は優秀な側の一割として集団や社会をリードすることになるわけである。

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滅亡への路線をすすむ人類?


 いま、激動の時代であるとしきりに言われるようになっている。歴史の大きな変動が起こる前には、最も敏感な部分が、何らかの動きを示す。
 人間の歴史は、自然の環境そのものが大きく変わることによって、つまり外在的要因によって変化する場合と、社会制度のあり方のまずさとか、集団と集団・社会と社会との利害衝突などによる内在的要因によって変化する場合がある。しかも、歴史は、いい方向に向かって変化発展するとは限らず、悪いかもしれない方向に向かって変化発展することがあり得る。
 何千年、何万年という非常に長い時間尺度を設定すれば、よかった時代が悪くなり、悪かった時代がよくなるといったように、ゆっくりと波を描きながらいわゆる輪廻転生をくり返しているのであろうが、何年とか何十年とかいう、われわれの一生の間のある特定の時代をとって見ると、非常に激しい変化として感じられる。
 私たちのごく近い未来には、すでに本書のはじめに述べたように、寒冷化による食糧危機が待ち受けており、その外在的要因によって相当の変化が予想される一方、もう一方で迎えている危機は、少なくとも人間と食べ物との関係に限って言えば、食品の中に含まれる殺菌料やら防腐剤であるAF2をはじめとする有害物質を十何年にもわたって採り入れてしまった結果、今までは備わっていた人間開発能力がおとろえ、次への飛躍発展がはたしてできかどうか、きわめて疑わしいという危険な状態となる。
 こうした人為的な崩壊要因は、今までの長い人類の歴史の中では考えられなかったことであって、現代社会がもちはじめている大きな危険要素であろう。
 このままでいくと、滅亡の可能性は非常に増えていくと思われる。いまの人類は、可食物範囲の圧倒的な拡大によっておどろくほどの早さで人口が増えていることも含めてきわめて特殊化していると考えられ、生物一般のこれまでの法則からみて、特殊化したあと滅亡が急速に早まることから、それが数百年後か数千年後か、あるいは数十年後か予測できないにしても、滅亡の路線をひたすら突っ走っていることは確かであろうと思われる。
 しかし、それでは、みながみな滅亡してしまうかといえば、うまくいくばあいにはそうはならず、もっとちがったかたちで危機を乗り切れる要素も、長い間には見出されることも可能性としてあり得る。たとえば、こんなことを言うと、非常に不吉で不愉快な思いをすることになるのだけれども、バカや気ちがいがゾロゾロ出てきたり、手が三本、目が三つ、口が二つ、鼻が顔の上についているというような、まるで中世の西洋や東洋の画家が想像をたくましくて描いた絵のような、ピカソの絵に出てくる人の顔みたいな奇形が生じてくるかもしれない。
 それはまさに、われわれの常識からすれば、化け物と呼ぶ以外の何物でもないけれども、しかしそうした人間のなかから、今までの社会の人間がとうてい持ち得なかったような、とび抜けた能力をもった、新しい人類社会再建のリーダーが出てくるかもしれないという可能性はあってもいい。
 ここでひとことお断りしておく。お気付きのように私はいわゆる差別用語を、意識して使用している。それは、差別の単語を使わないだけのことで差別意識から解放されたとするずるい逃げ方を、限りなく憎むからだ。
 私の考え方がどういうものかということは、次のインカ時代、プレ・インカ時代の話を読んでいただきたい。キチンと読みとることのできる人にはわかってもらえると思う。語の使い方にこだわって、話の本質からはずれた見方をしていただきたくない。

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我が身をなでて他人の痛さを無視する?!


 千五百年前、南米のアンデスにインカ帝国が存在していたことは一般に知られている。この遺跡や遺物を見ると、彼らには一種独特の物の考え方があったことがわかる。
 たとえば、六本指の子供が生まれたりすると、大きな織物の中に、掌の象徴化した模様をいくつも描き、その中心六本指の手が描かれる。周りは全部五本指の掌である。彼らのつくった壷などにも、しばしばそうした模様が描かれているように、それはいまでいえば奇形児だったはずだが、それをわざわざ造形的に描き残したということは、何を意味するかといえば、神によって他の大多数と区別してまで特別に祝福された子として畏敬の対象となり、村じゅうでお祭りを行ったのである。
 日本の人形と同じような形の五人ばやしの土器などもあるが、その真ん中には、両手のない、まるで“アザラシっ子”のような人物が、にこやかに歌を歌っている。その周りに、笙やヒチリキを吹きならし鼓をたたいている楽人がいる。まるでサリドマイドで奇形になったような手を失った人物は、おそらく労働に従事することはできなかったであろうが、まわりの人々から祝福され、むしろリーダーとなって、手がなくてもできる自分の特技を生かしてのびやかに暮らしていた様子が推察できる。
 こうした彼らの考え方は、とても貴重であって、いまの私たちの社会が学ぶべきものがある。“めくら”といってはいけなくて、“目の不自由な人”といえばいいなどというのは、私にいわせれば一つの差別であり、ごまかしにすぎない。その人はたしかに目が見えないかもしれないが、もっと別の能力があるかもしれないから、その能力を開発してみんな平等に扱おうというのが、インカ時代やプレ・インカ時代の人たちの態度だった。これが本当の無差別というものである。
 気の毒だから大事にしてあげましょうなどというのは、相手をむしろ軽蔑した態度ではないか。体の不自由な人やお年寄りに対して、だれかがわざわざ「席を譲ってあげましょう」などといわなければ譲らないような社会は、だめだということだ。逆にふつうの人でも、何かの事情で疲労困憊し、体の具合などが悪くて倒れそうだというとき、まわりの人が少しも理解を示さず、だれも席を譲ってくれなかったり、あるいはオレは老人だから、体が不自由なのだから人を押しのけても座るのが当然というような権利だけを主張するような社会は、非常に冷たい、ギスギスした、いずれ内側から崩壊してしまうべき社会である。
 子供から親にいたるまで、乞食から総理大臣にいたるまで、権利を主張したほうが勝ちだという世の中は、人類の歴史に何物をも残さずに滅び去っていくはずである。残るのは、後世の嘲笑ぐらいなものであろう。ちょっと前までの日本では「我が身をつねって人の痛さを知れ」と教えたものだが、どうやらいまは、“我が身をなでて人の痛さを無視しろ”という方向にすすんでいる。これはいずれ、我が身を滅ぼすことになる。
 なぜなら、他人の痛さを知らなければ、めぐりめぐって他者から見れば他人である自分も、無視されるという単純な理由からだ。その単純なことが、さっぱりわからない世の中になりつつあることは、そら恐ろしいことではないか。
 読者の中には、インカ帝国がどんなに良かったかしれないが、結局滅び去ったではないかと言う人がいるかもしれぬ。それは一理ある疑問のように見える。かつてそれは、気候の大変動によって滅びたかもしれず、悪意を抱く外敵の侵入によって滅亡したかもしれぬ。いまは、その生き残りらしいと見られる人びとが、文明社会の侵食にさらされながら、各地にごくわずかより添うように暮らしているのみである。
 だがプレ・インカ文明と後世のわれわれが呼びならわしている彼らの社会は、千五百年という時間と空間を超えて、失われた社会の遺跡や土の下から、さまざまなメッセージをおくってくれることを知らなければならない。
 そのメッセージとは、織物に描かれた模様であったり、壷であったり、土器であったりするわけだが、そこから感じとれるものは、彼らが人間としての健康な明るさと素朴さと、善意とをもって社会生活を営んでいたことである。
 こういうことは、日本の縄文文化にもあって、彼らはたしかに滅び去った例があったとしても、その生活の知恵や大らかな自然感情は、太い一筋の伝統となって、時空を超えてはたらきかけていることを知ることができる。
 後世にプラスになる何物をも伝え得ないような善意に欠けた文明社会は、自壊作用を早めるだけで終わるであろう。

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自然界で自己主張すれば身を滅ぼす


 自己を主張しようとする考え方は、自然界では一つも要求されてはいない。なぜなら、自然界で自己主張することは、バランスを失って滅びていくだけだから。
 農民というのは、水田稲作の農民であろうとなかろうと、外界の圧力に押し込められたらもはやいかんとも反抗しようがないということで、そのまま泣き寝入りするほかはない。もっとも、封建社会の農民は、かなり激しい一揆などを起こして反抗をしたとはいうものの、どこまでも命を張って反抗したかというと必ずしもそうではなく、けっこうどこかに逃げ道をつくり、長いものには巻かれろ式の、まず食って生きのびることが大事だといった風な態度を基本的にとったと思える。
 これを、なんてだらしがないのだろうと見る向きもあるだろうが、むしろ自然界にはまり込んで生きていかざるを得ない以上は、状況がきわめて悪いときには悪あがきはムダであり、じいっと静観していればどこかで活路を見出すという態度を堅持すれば、はやばやと滅び去ることを妨げるということにもつながってくる。
 それがすべての生物の生きのびる“知恵”であり、方法だったと言える。
 もしカブトムシが、「おれの立場はおもしろくないから、ここらあたりで叛旗をひるがえし、虫どもに食いついてやろう」ということになったら、確実に自然は崩壊する。ゴキブリなども、ひどく毛嫌いされながら四億年前と同じ形をして生きのびているということは、さだめられたきまり(生態系)の中で収まっているからである。
 いちおう断っておくが、農民の生活態度がカブトムシやゴキブリの生活態度と似ているなどとは毛頭思っていないので、誤解しないでいただく。
 人間ぐらいまである意味で進化した動物になると、これでは気に入らず満足できないからとばかり、自然のさだめに反抗し、しばしば悪あがきする。まわりをはねのけ、自分の立場だけを主張しはじめると、非常な危険状態にさらされる。
 このことは人間と自然との関係についてばかり言えるのではない。人間と人間、集団と集団、国家と国家についても当てはまるだろう。いやな奴だと思って滅ぼしたけれども、実は滅びた相手の知恵に学ばなければ、これから先、うまく生きてゆけないという場合もあり得る。
 ゴキブリと人間との関係を考えた場合、これはたとえばの話だが、ゴキブリがなんらかの理由で全部滅びると、実は人間も滅びてしまうといったような運命的な見えない環が、生物同士の間でつながっているかもしれないという発想は、自然界では正しい考え方であるかもしれない。

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精神文明の回復を急ごう


 昔、中国の賢人が、「衣食足りて礼節を知る」と言ったことはあまりにも有名であるが、この言葉は、いつも食うや食わずで生活にうちひしがれるような社会に、人の弱さにつけこんで自分だけ私腹をこやそうというような悪人がやたらといたため、ある程度の生活物資が満たされれば、お互いに人間は悪い考えを起こす必要がなくなって、善人ばかりになるにちがいないと信じたのだろう。
 衣食が足りた経験がないため、わるい条件がなくなったとき人間は必然的によくなるだろうと期待し、善政が敷かれれば善人だけとなり、豊かな生を謳歌できる時代がくるにちがいないと夢みたのであろう。
 ところが、実際に、物資的に充足し、今までのつらいマイナス条件がとり去られたときどうなったか。人間は、ますます安楽になりたいという欲望を追求しはじめた。
 物質文明が進歩し、大ぜいの人びとがその恩恵に浴しはじめたとき、人びとは大いに感激し、ほんの少し礼節を知るようになって、より貧しい人には分けてあげようなどという社会思想なども生まれてきたものだが、総体的に底上げ状態になってくるにつれて次第に感激性が薄れ、あたり前になってしまうと同時にめっきり礼節が遠のいてしまった。
 物質文明の害毒に流されて精神文明はすたり、人の神経を逆なですることなど平気になってしまった。神経の逆なでどころか、物をポイと捨てるように人の命まで取ってポイと捨てる。これは、食うや食わずの状態だからそうなっているのではない。十分食えて、なおかつ食いたいと思い、人よりも楽をして生きのびようという奴がやたらに増えた結果、そうなってきたことを徹底して考えてみなければならない。
 食べ物にしろ道具にしろ、無からわき出たものではない。すべて自然にたより、自然の物質を変形加工した結果である。物質文明が高度に発達したということは、自然を組織的に作り変えたということだ。際限のない自然からの収奪は、やがて必ずその埋め合わせの責を人間が負わなければならなくなる。それが自然のルールである。
 現在の自然と人間とのかかわり合い方は、きわめて異常だと言える。人間が、迫りつつある危機を乗り切って生きのびていくためには、大規模な社会組織上の転換が必要だと思われるが、いまのままでなんらかの有効な歯止めがあるかといえば、正直のところ「ない」と言わざるを得まい。人間の欲望に対して完全なブレーキをかけることが組織的に可能ならば、あるいは……という可能性もないとは言えまいが、英知を集めて、ここでいっせいに歯止めをかけようとしても、おそらくできないだろう。
 結局、石油なら石油を買いたくても、もうどこにもないというとき、はじめて「それでは仕方がないからほかのことを考えていこう」とするだろう。代替エネルギーといっても、それが無害で無限に近いエネルギー資源でない限り、同じことをくり返すだけであろう。 人間はエネルギー源があるだけでは生きられない。
 それと同時に、いま必要なことは、精神文明の回復である。自然の中で、人間がどのように節度ある英知をもって対処してきたかを、長い人類の歴史の中から学びとり、伝えていく努力が必要だと思う。
 これを学校教育や家庭教育や社会教育などあらゆる場を通じて、徹底して行なうことが緊要となっている。
 体罰を加えてでも、そっぽを向いたら強引に首をねじ曲げてでも教えなければならないことがあるのだ。
 原始社会に見られる、さまざまな通過儀礼やタブーなどというのは、集団社会が環境に耐えて生き抜いてゆくための、彼らなりに見つけた方式である。
 わたしたちがいま生きている文明社会は、そうした知恵さえも失いかけていると思われてならない。

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今まではうまくやってきたが……


 日本人というのは、その場その場で、事態の成り行きをうまくごまかして逃げのびるという点においては、かなりの優秀性を持った国民であるらしい。あれほど騒がれた石油ショックだって、本当のショックを受けず、うやむやにしたまま逃げつづけてきた。
 うまく事が運んできたように見えるけれども、その反面、本当の意味での教訓をつかみとってはいないために、ごまかしてシワ寄せを先へ押しやってすませられないほどシワがたまってしまったり、もっと大きなショックをまともに受けたとき、ドカッと崩壊してしまう危険性が内蔵されている。真の解決を少しずつ先へずらし、将来へ将来へとゲタをあずけてしまうのだから、その分だけ危険性が累増されていく。
 第二次世界大戦のときも、樺太をとられたとか、沖縄をやられたとか、手痛いショックは受けたけれども、国がつぶれ敗れた割には絶望の中に閉じ込もることなく、あまり悩まずに比較的スンナリきてしまった。それはそれで、一つの大きな能力とみていいだろう。 ただ、うまく乗りきれる可能性が、危険性よりもより大きく育てあげられるかたちで今後も継続されるかどうかは、かなり疑問に思えてくる。
 過去三十数年の歩みの中でみる限りでは、たまたま日本は国を分割されずにすんできた点で、アメリカの支配下におかれたことは、ざっくばらんに言わせてもらえば、やはりよかったはずである。
 なにしろアメリカは余剰食糧をふんだんに持っている国である。これがもしソ連であると、自国ですら食うや食わずの状況がしばしば起こり、そのうえ東欧諸国を抱えて苦しいのに、さらに日本まで抱えることになっていたら、こちらとしても相当つらい思いをしたろうと、彼らだってかなり危険だったのではないだろうか。
 中国も、独自に社会変革をなし遂げる努力をつづけていたので、あまり他国にかかわりあっているゆとりはなかったし、食糧を他国にまわすゆとりも全くなかったし、これからもあるとは考えられないので、結局のところ、アメリカにくっついていることがいちばん無難だったということになる。
 また民主主義という、まわりくどくてややこしさの伴う衆愚政治でも、絶対権力集中的一党独裁の恐怖政治よりはよりましかもしれないという点で、かなり好き勝手なことをお互い同士ほざき合っていられるという意味合いでは、自由度がより大きいと考えられるから、これもまあまあよかったろう。
 戦後三十数年間に、国民的意思がどこまで政治に作用し、政治がまたその意思を反映させてきたかは別として、比較的うまい方向をたどったように見える。最良の路線だったかどうか、にわかに断定できないにしても、とくに悪くはなかったはずである。
 ただし、その軟体動物的正体不明さと、トカゲのシッポ的捨て逃げの上手さかげんが、これから先のより大きなマイナスの引き金にならないかどうかは、また別の話である。
 今までうまくいってきて、これからもうまくいくためには、将来に大きく目を据えて、どこに“石”を置けばやがてその“石”が有効さを発揮するかを真剣にかつ緊急に考えなくてはならない状況に、いま置かれていることだけはまちがいない。
 その“石”は、今度は、あまり人の助けを借りずに、自分の手で置かなくてはならない。そのための、新しい用意周到な、説得力を持ったリーダーの結集が必要になている。

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ソ連が日本を征服するとき……?


 ソ連とはいったい何物なのだろう?
 相手を知るためには、相手の立場に身を置いて、その願望が何であり、どうしてそうなったかを考えるのが手っとりばやい。
 もともとロシア人というのは、何百年という歳月をついやして、大陸の西側からシベリアへのこのこやてきて東の果てにたどりついた。そして「ウラジ・ヴォストーク!」と叫んだ。「東を征服した!」と。
 ところが、やがてわかったのは、そのウラジオストクが、まだ東の果てではないということだった。それは、時がたてばたつほど明確な事実として立ちふさがってくる。
 冬場、四か月も氷づめになるような港は、原子力潜水艦の基地としてはけっして理想的ではないということになると、もう少し東に適当な所はないかと思いたくなるのは、自然のなりゆきである。
 そこで精密な大地球儀をちょっと回してみると……ある! ハコダテという港で、それはニッポン領だ。しかし欲しいな−という気持ちは、かりに自分をソ連の立場に立ててみるとたいへんよくわかる。自分にはないものを他人が持っているのを見ると、なぜかノドから手が出てくるのは、だれでも納得できることだ。
 そこで考える。……うまくやれば、いただくことができるじゃないかな。
 そこでたとえば、相手がどういう反応を示すか、ちょっとためしてやろうと、領海スレスレのきわどいあたりを、巡洋艦、いや漁船でもかまわない、回航してみる。するとニッポン国のカイジョージエイタイのクセンテイが、いらいらとヤケを起こし、領海侵犯! というのでキカン砲を一発コツンと撃ってきた。「さあ、これで名目がついた」というので、さっと押しかけてハコダテを乗っ取る……という手もないことはないが、ちょっとまずいのは、これだといかにもあからさまな侵略ボウリャクの印象を与えてしまうことである。これでは国際政治上うるさいので、引っ込めておくにこしたことはない。
 では、最もすっきりと名目が成り立つ方法は何か。
 それは食糧危機である。ニッポン国に食糧危機が到来する瞬間まで、じっと待つことである。
 ニッポンは自分で自給率を落として、外国の食糧にたよっている。ところがある年、世界的な気候の変動があって、収量がガタ落ちしてしまった。ニッポンが頼みとするアメリカやカナダの貯蔵量ががっくりと落ち込んで、もうニッポンにはあげることができないとか、ギリギリの割り当て制を実施しなくてはならないというとき、ニッポンはテンヤワンヤになってしまう。
 だいたいにおいて、ニッポンのなかでも、ホッカイドーというところは気候的によくないので、いちばん弱くて独立しやすい場所である。ここでいっとう最初にボードーが起きる可能性がある。
 起きた瞬間、クウテイ部隊が空から、テッポーを持たずに食糧というタマを持って降りてきて、さしあたりホッカイドー人民を助けるだけの量をばらまいて、「さあ、ワタシタチといっしょにやりましょう」といえば、変わり身の早いニッポンジンは、コロリと態度を変え、アメリカたのむに足らず、ソ連と仲良くしよう、とばかり、さっさと親ソ政権ができてしまう。
 これは実に、侵略の汚名を浴びることのない、理想的な“ウラジ・ヴォストーク”になるではないか。
 私がソ連の指導層だったら、こんなことを考えながら日本地図を広げるだろう。
 そうとわかったとき、ふんだくられるのを未然に防ぐ方式がある。ハコダテ港の一部をソ連の原潜基地として貸してやる。そして自由に使わせる。しかしすごい場代も請求する。そしてそのすぐ隣はアメリカの原潜の基地として貸し出す。両方がすくみ合っているかぎりケンカは起こるまい。そして日本は両方から使用料をまき上げ、水や食糧を売りつけることができる。バーやクラブや土産物屋も大繁盛するだろう。
 ただしこの案は私からは提案しない。真意をわかってくれない右翼などに刺されたりするのはマッピラごめんだから。

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コーラの“侵入”を防ぐ算段


 いまから三十年以上も前のことであろうか。日本の清涼飲料業界のボスが私のところに訪ねてきた。
 「最近、アメリカから、オレンジ・ジュースとかコーラなどという、妙な飲料水が入ろうとしていて、ものすごいいきおいで売り込まれようとしている。これじゃ日本の業界がつぶれかねないので、なにか防ぐ方法はないもんでしょうか」
 というので、私は「ある」と答え、以上のような話をしたことがある。
 オレンジ・ジュースについては、そのまま放っておけばあっというまにやられてしまう。もともとオレンジ、つまり柑橘類に対する日本人の嗜好はあるので、これに炭酸ガスをたたき込んだオレンジ・ソーダをつくって対抗すればよい。
 コーラに関しては、もともとこの種の飲料は日本人の嗜好にはないので、原則的には入る余地はないと考えられる。東南アジアに入ったのは、東南アジアの水が全般的に悪くて煮沸しなければ飲めないような水であるため、水がわりに飲んでいるうちに麻薬効果のために飲まずにはいられなくなるということで急激に広まった。
 日本の水は非常に水質がよくて、生水を飲んでも病気になることはない。だから、本来的には、コーラのような妙な味の飲料水が入って広まる余地はないのだけれども、もしあるとすれば、それは特定の条件のもとにおいてであろう。
 たとえば、子どもや大人が野球場などに集まってノドがかわいたときの状態を考えると、自分の座っている場所へコーラを売りに来たら、にがい水だなと思っても仕方なく買って飲むだろう。何回か飲んでいるうちに、嗜好に変化が生じてくる。だから、そういうチャンスをなるべく与えないような条件をつくっておけば防げる。
 つまり、コーラクエンみたいな人が大勢集まるところには、いつもサイダーや水を用意しておいて、自分の席の近くで飲めるような施設があれば、コーラの独占的支配はまぬがれることができるだろう。そうした対応をできるだけすれば、かなり防げるはずだ。
 −というのが、そのときの私の説明だった。「なるほど」といってその人は帰ったのだが、その後の状況は、対応が甘くてやはりコーラにして一世を風靡された観はある。もっとも、老いも若きも誰もかれも、東南アジア諸国なみに飲んでいるかというとそうでもなく、日本の業界も大分ねばり強く食い止めた様子だ。
 本当に徹底して、“侵入”を防ぐ気なら、美容によくないとか健康によくないというキャンペーンを張れば、割合かんたんに“撃退”することも可能にはちがいない。そういう算段があることも、いちおうは計算に入れておいたほうがよいかもしれない。……。

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アメリカナイズのよしあし


 この三十数年来、アメリカは日本に対して悪意を持たずにある程度リードをしてきた。ただ、それが日本にとってプラスであったかどうかを改めて考えてみると、アメリカナイズしてしまったために自分たちが持っていたかなりいい面を捨て去ったということもまた事実だと思う。
 現在の年配者は、かなり昔の価値観をかかえているため、比較することができて、「これはまずいことになったなあ」と思っているけれども、新しい時代の、卵のうちにさらわれてしまった人たちは、二つの価値基準を置いて行動を比較するといった目を持っていないから、“親は大切にしなくてもよくて、親は親、子は子だ”などと、養われているくせに勝手なことを言っているうちに、モラルの荒廃が深まってしまった。
 餌だけは十分に与えられ、その点では、アメリカ様々だったけれども、GNPとは関係のないような先祖代々から受けついできた文化や精神を省みることがアホくさいといった風潮を生んだことも認めなくてはなるまい。
 もちろん、アメリカは、べつに悪意があったわけではなく、そうなってしまった責を負うわけにもいくまいし、こちらにしてみたところで、いまさら恨んでもしようがないわけだが、しかし結果的には、やはり悪い方向に来てしまっている、と言えるだろう。
 そのことが、やがて日本を滅ぼす遠因になったという時代がこないとも限らない。
 民族の独立性とか独自性を維持するには、他国のいい面を大いに学び、うまく自分の国へ取り入れていって、悪いところは取り入れないというケジメをつけることが大切だ。
 だからこの際、「アメリカのいいところを採り入れさせてもらって本当にありがとうございました。ところで、悪いところもあることにいまようやくにして気づきましたので、それは返上させていただきます」と、みんな言い出すようにするのも、日本が滅びの路線からややはずれるための一法かと思う。
 では、アメリカは、悪い要素をたくさん持っているから先に滅びてしまうかというと、向こうは向こうで別のバイタリティーがあるから、そうはいかない。
 見かけはしゃれていておいしそうなため、悪い思想がゼリー状に流し込まれているアメリカ渡来の“洋菓子”を途中で食べた民族が先に滅び、もともと食べなれている御本家は抵抗性が強かったために滅びなかった。などという歴史の皮肉が起こり得る可能性もある。
 いや、その可能性のほうがかえって強いかもしれない。だいたい、ほかの人がくれたものを途中で食べなくてはならない時というのは、きわめてガツガツしている状況下に置かれているので、もののよしあしの見分けなどしているひまがないからである。

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滅びの路線をどうはずすか


 相手の餌をください、などといわずに済むような自主性を日本が保つためには、いったいどうすればよいか。今まで来たように、自給率をできるだけ上げておくことだ。理想的には、日本人が必要とする全体量を自分で作って確保しておくこと。これが基本原則である。
 今までは、工業優先でやってきた、その上がりで、より安い食糧が買えてきた。日本で生産するよりも、その半値以下ででも買えるとあれば、わざわざ高くつく食糧の生産はやめて輸入したほうがいいというのは、経済原則として妥当性を持つように思えるけれども、それは工業優先の社会だからである。
 食糧を商品として売りつけるほうが得だという相手側の事情も、それが余剰食糧として一定の収量を生産しつづけ得るだけの条件が備わっていたからである。
 この相互の関係が一定不変ならば、心配はまったくの杞憂にすぎないであろう。
 食糧はあくまでも自然との関係の中で生産されるのであって、工業製品のように工場の中で日夜休みなく生まれ出るものではない。モヤシを“製造”するのとはわけがちがうのである。
 いつも工業製品をつくっていて金さえあれば食糧が買えると思うのは大間違いであって、「いくら高いお金を出してくれても、残念ながら売るべき食糧がありません」といわれたら、もはやそれまでである。
 世界中の先進工業国というのは、一面ではみな先進農業国でもあるのだ。両方のバランスが非常にうまくとれていて、自給率も高い。
 ところが日本の場合は、かなり高かった食糧自給率をわざわざ落として工業国として突っ走った。欧米先進工業国のレベルに追いつき追い越すことを目指した。そして斬新で最先端の工業力を身につけたかわりに、農業を後退させた。
 欧米各国は、先進工業諸国と呼ばれながらも、かなり中途半端な工業力を抱え、多少能率が悪くて、日本の工業競争力にやや負けながら、一方では非常に強い農業力を確保している。このほうが、イザというとき、急激な体質悪化を来たさなくてすむ。
 工業一点張りではないから、工業力がスローダウンしても、さしあたり食うに困ることはない。  ところが日本は、農業でダメージをくらう危険と同時に、工業一点張りのマラソンに疲れはててスピードがガックリと落ちた場合にも、食うに困るという、もろい体質というか危険性が具現化する。
 工業力も適度にしておいて、もう一方の農業という柱を、せめて他の先進諸国なみにしておかないと、たちあまちくずれ去るおそれがあることを私は危惧し、口を酸っぱくして何度も同じことを指摘してきたのだ。
 もう一つ大事なことは、他国に対してつねづね、できるだけ良い行ないをしておくことだ。そうでないと、「ああ、あいつは、自分の利益ばかり考えて行動していたから、滅びてあたり前だ」と、後ろ指をさされることになりかねない。
 自分がまだ豊かなとき、物が余っているときに、困っているところにはタダであげる。“そうしておけば、あとでプラスになってはね返るだろう”などといういやしい期待などしないで、さあどうぞどうぞ、とよろこんで惜しがらずにさしあげることが大切だ。
 私たちは、国家全国民の規模で、「アリとキリギリス」の寓話を思い起こす必要がある。 今まで浮かれ楽しんでいたけれども、厳しい冬がやってくる前に自分のおろかさ、不用心さに気づいて、“それじゃ急いで食べ物を用意しよう”と一生懸命にやれば、アリほどではないにしてもどうにか死なずに冬を越せるかもしれないのである。
 「アリほどではないにしても」と述べたが、実は、ある種のアリは別種のアリを襲って卵を横取りし、自分の巣へどんどん運んでしまう。その卵を食べてしまうのかというとそうではなく、やがて卵が孵ると、そのアリを、“奴隷”として使役するのである。
 自然のなかのこの姿もまた、なかなかもって人間の目には象徴的に映ってくるではないか。  アリ同士だから大丈夫だろうと思っていると、ふいに侵略してきて、次の世代を全部、奴隷と化してしまう。大人たちはどうせ洗脳できないというわけで、老いさらばえ飢えて死ぬのを待つか、みな殺しにしてしまい、過去を知らない新世代を支配下に置く。やろうと思えばできないことはない。
 これは単なる寓話ではなくて、どこかの力のある国のだれかが、意外とまじめに考えているかもしれない。

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飢餓時代に効力を発揮する昆虫食


 可食物の範囲をできるだけ拡げておくことが、飢餓に備えるための一つの道であることを、本書の初めのほうで述べた。近年、良質な蛋白源として注目されつつあるオキアミを獲り始めるようになれば、捕獲方法や配分の問題をめぐって、やかましい論議が国際間に噴出するようになるだろう。しかも、オキアミだけで日本国民全体の食糧をカバーすることはとうてい不可能である。
 そこで、最も手っ取り早い解決策として、さしあたり昆虫類を食べることを大いに推奨しておきたい。
 昆虫食というと、おそらく、ある人々はいわゆるゲテモノを連想するだろう。私も、ニューギニアの原始社会の人間たちと一緒に暮らしながら、カマキリやらナナフシやらコガネムシなど、いろいろな昆虫類を食べたものだが、しかしそれは、彼らの生活環境のなかで、ほかの適当な蛋白源がなかったからの話であって、わざわざ好きこのんで、奇妙な形の昆虫を探して、その味を味わってみようといった趣味はない。
 必要とあれば、どんなものでも食べることができるという経験だけは持っているということができるに過ぎないのである。
 もちろん、昆虫のなかには、とびきりおいしいと思えるものがあるにはある。それは信州の人たちがテッポウムシと呼んでいるカミキリムシの昆虫である。カイコぐらいの大きさの白い大きなイモムシで、イチジュクなどの幹の中で成長する。
 このテッポウムシが、ニューギニアの食人種社会で目にとまったときは、私もうれしくなって、つい所望したものだ。彼ら食人種にとっても、それは大変な好物だったとみえる。
 まるまると太ったテッポウムシを手にした私は、さっそく持参のナイフで輪切りにすると、まだ少しピクピクしてるやつを口の中に放り込んだ。まわりで私の仕草を見ていた食人種連中は、そのとたんにキャアキャアと騒ぎたてた。「こいつ、生のまま食いやがった。なんて野蛮な奴だろう」と思ったのだろう。彼らにとってテッポウムシは大好物だが、けっして生では食べず、必ず焼いて食べるからである。
 彼らの主食はタロイモと、熱しなければ食べられないようなバナナである。蛋白源はジャングル内に生息する昆虫で、主としてコガネムシと巨大なナナフシに依存している。これはいちばん入手しやすいからだ。ジャングルには、サゴ椰子が少し生えていて、この幹から豊富なデンプンを抽出する。一人で食べたら一年かかっても食べきれないほどのデンプンがとれる。倒されたあと、まだ食いきれずに残っているサゴ椰子の幹の中には、テッポウムシがいっぱい生息するようになる。そのテッポウムシをたき火で焼いて食べるのが彼らの何よりのごちそうなのだ。
 そのほか、私が野生のトロロ芋を持参のオロシガネですって、こっそりと用意した塩をふりかけ、生のままズルズルとすすり込んだときも、彼らは騒ぎたてた。山の向こうから変な奴が来たが、だいたい同じようなものを食べるところを見ると、どうやら別なところに住む食人種の同族と思ったらしく、親近感を抱かれて簡単に仲間入りができた。
 私がテッポウムシの味を覚えたのは戦後まもなく、母の疎開先である木曾へ行っていたとき、親切な土地の木こりから教えてもらったためだ。栄養失調でふらふらしている私に、これを食べると精がつくと言って、蜂の子などと一緒にテッポウムシをときどき取ってきて食べさせてくれたのである。
 初め非常に抵抗を感じたものの、ほかにどうしようもないので、言われるままに口にしてみておどろいた。舌の上で、まるでゼリーがとろけるような感触の美味なのである。食べたあと、ソーセージの皮のような薄皮が残るので、それを指でつまんで取り去るだけ。姿かたちから勝手に抱いていた抵抗感は、いっぺんに吹き飛んでしまった。
 「どうだ、うまいだろうが」という木こりの問いに、「うん、おいしい」と答えたものだ。
 つまり、私がここで言いたいのは、一度抵抗感の壁をつき破ってしまえば、昆虫食などかんたんにできるようになるということだ。そして事実、昆虫食は、縄文時代以来、営々とつづいてきた摂食内容の重要部分を占め、日本列島の他の地域の人びとが、その後次第に食生活内容が変わっていったにもかかわらず、信濃地方の地理的・気象的条件が悪かったことも原因して、昆虫食が今までつづいているというわけである。
 戦後の食糧難時代あたりまでは、イナゴを炒って食べた経験のある人は年配者に多いだろう。そのほか昆虫ではないが、タニシやら食用蛙やら、食べられるものは大いに食べた経験があるはずである。こうした経験を持ったことのある人は、飢餓時代が来ても食物に対する抵抗感が割合少ないので、いろいろなものを食べて生き残れる可能性がある。
 そうした経験がもはや継承されていない若い人たちは、食べ物がなくなったらパニック状態に陥るのではないかと思われる。そうした意味で、食べ物がいまのように一見豊かな時代に、できるだけ可食物の範囲を広げておくと同じに、たとえ間接的にでも経験の伝達をしておくことが必要だと思えるのである。
 ただし、ニューギニアの原始社会で彼らが昆虫から摂取する蛋白質は、私の計算値では一日に九〇グラムにものぼっており、これはかなりの過剰摂取といえる量である。しかも、昆虫摂食量は圧倒的に男子に多い。彼らの種族内で男は四十歳ぐらいなのに、見た目には七十歳の老人に見えるほどだ。そして短命である。彼らの短命化の理由のひとつは、昆虫食による異常なほどの蛋白質のとり過ぎではないかとみられる。
 昆虫だからといって、動物性蛋白質の過剰摂取は、やはり禁物である。

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アラスカ飢餓実験の教訓


 昭和四十七年の六月から七月にかけて、私が隊長となってアラスカ遠征登山を行った。これはその後「飢餓実験登山隊」と呼ばれるにいたったが、もともとは粗食の経験のために遠征しようとしたのではない。若い山の仲間たち同士で、どこか氷河のある山へ初登頂してみようということから、なるべく金がかからず、スッキリしたいい場所はないかと私に話があったことから実現したものであった。
 近年、遠征登山というと、やたらとスポンサーがつき、豊富な資金をバックにして華やかな登山がくりひろげられる。それがすべて無意味だと言うつもりはないにしても、さも当たりまえの顔で寄付金を集めてまわる態度を日ごろ苦々しく思っていた私は、費用はすべて参加者の自己負担にしようと提案した。たとえ借金をしようともである。
 そもそも登山というのは、個人の趣味でしかないというのが私の根本的な考え方である。趣味であるからには、競馬でも麻雀でも同じことであり、登山だから高尚で他人のふところをアテにしてもいいなどと考えたら、それは甘えである。登山が高尚な行為だとするなら、なおのこと費用は自分でまかなうのが当然ではないか。
 こうした私の考え方を、隊員全員が納得して従ってくれたため、いきおい、全体の経費を節約せざるを得なかったという事情もある。もちろん、一万三千フィートの未踏のツンドラの山へ入って一か月間も生活していくからには、装備もなるべく軽くしなければならないのは当然である。そこで隊員の中に、私の研究所の若手職員がいたので、後学のために、すべて自分の手で食糧計画をたてさせてみた。
 さまざまな条件を勘案し、訂正をくり返して、最終的に全行動中の栄養摂取量から一人一日の平均を算出したところ、摂取量が一七四五カロリー、蛋白質四五グラムという値になった。
 主食では、湯に入れるだけでご飯になるアルファ米。それと、インスタントラーメンとソバを少々というデンプン主食型である。副食はイワシの丸干、ミリン干、干ダラなど魚の干物が主体で、さらに各種つくだ煮と貝やノリが加わった。
 そのほか、凍結乾燥した野菜と、卵も黄身と白身をまぜ合わせて凍結乾燥し、一人二日に一個の割で食べられるようにした。さらに粉末味噌汁、汁の実にはトロロコンブ、ワカメ、ヒジキを乾燥させて持参した。肉類は現地調達で一〇キロを予定したが、結局フトコロの都合と重量の関係で五分の一に減った。
 隊員の平均年齢は三十三歳、最年少は二十八歳という遠征隊としてはかなり高年齢。私を除いて、戦後の現代食生活になじみ切った年齢層に、はたして以上のような完全に戦前の日本人用食パターンで、連日重労働に近い労働をつづけるとどういうことになるか。私はかなり興味深く全行程における隊員の状況を観察した。
 ふつう、登山の場合に消費するカロリーは一日三五〇〇カロリー必要だとされているのだが、私たちの遠征隊は、ふつうサラリーマンが必要とされている栄養摂取基準量である二二〇〇−二三〇〇カロリーよりもさらに低い一七四五カロリーである。人間が寝ているだけで消費される基礎代謝量の一三〇〇カロリーに、わずか上乗せした程度のカロリーしかない食事の内容で、はたして重労働の登山をやりとげることができるかどうか。
 私自身は、何十年もさんざん経験しているので問題はないと思っていたが、若い隊員たちがはたして保つかどうか、いささか内心では心配だったのである。
 一か月の遠征登山を無事終えたとき、隊員たちの体力はどうであったか。たしかに、現地での行動中いろんな悪条件やストレスが働くので、疲労感や脱力感、食欲不振など小さな変化は起きた。しかし、それはすぐに回復し、体調が下降する傾向はまったく見せなかった。帰着後の体重もほとんど出発前と変わらず、わずかの増加例も見られ、全員、風や腹痛などの症状も現れなかったし、行動意欲が減退することはまったくなかった。
 初期の数日間、全員にムクミが生じたが、これは塩分の摂取過多とみられ、塩分を半減するよう指令した数日後から、全員ムクミが消失した。
 こうして私たちアラスカ遠征隊は、低カロリー、低蛋白で押し通し、しかも、重荷を背負っての登山という重労働を毎日つづけながら、かえって日頃の文明社会で生活しているときよりも体調を上昇させて生活することができたのである。

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われわれを守ってくれるのはだれか


 私たちは、一日あたり何カロリー摂取すれば健康な生活を営むことができるのか?
 現在、農林水産省が準備している大人一人あたりのカロリーは二五〇〇カロリーである。しかし、実際には、そんなに食べているはずがなく、また食べ得るはずがない。ふつうの一般的な日本人の場合、二五〇〇カロリーというのは、食べすぎなどというより前に、現代人の生活のバランスから考えて、とても食べ切れるものではない。
 せいぜい厚生省が摂取基準量としている二二五〇カロリーがいいところと思えるが、それもはたしてそれだけ食べているかどうか疑問である。
 料理のさいのロスとか、食べ残しとかで、だいたい三〇〇カロリーくらいは抜け落ちてしまうからである。実際のロスはもっと多いかもしれない。
 それでも、運動が不足すると消費が少ないものだから肥満化するのである。そして成人病が多発するようになる。
 ではどこまで落とせばいいかというと、熱量は成人男子で一八〇〇カロリー、成人女子で一七〇〇カロリー、男女平均で一七五〇カロリーが理想的な目安である。
 労働もせず、何もしないでただ生きているだけに必要な基礎代謝量は、前項でも述べたが、だいたい一三〇〇カロリーとみておけばよい。
 蛋白質は、成長期のときには一日九〇グラムは食べたほうがいいなどといわれているけれども、それはたいへんな考えちがいであって、成長期でも成人でも、日本人は四五グラムで十分なはずだ。
 いま政府のいう基準量は七五グラムで、日本人の平均摂取量は約八三グラム、一〇〇グラム以上食べている人が全人口の四分の一以上いる。一時的に多く食べても異常にはすぐ関係しないが、資源のムダ食いにつながるから、半量もしくは半量以下にまで減らしてもいい。現在の日本人は蛋白質のとりすぎ、つまり肉類の過食に傾きすぎている。
 蛋白質の過剰摂取はいわゆる成人病、とくに糖尿、通風に直接関与する。長寿村の長寿たちは、その成長期に決定的な蛋白質不足ですごしてきた事実を知るべきである。かれらは非常に小柄ではあるが頑健である。蛋白質を成長期に多食すると、身長、体重がどんどん増加して大柄になっていくが、ひ弱なもろい体質になっていく。
 まず、魚で一日あたり二〇グラムは確保できる。二〇〇カイリ規制をされても、気にすることはない。
 ただし、自国の縄張りである二〇〇カイリ内ないは他の民族は入れない。また、他の国にも獲には行かないという原則を守る。二〇〇カイリ内に侵入するソ連のサンマ船団は、向こうがしつこく入ってきたらこちらもしつこくジャマして追い出せばいい。
 ともかくこうして二〇グラムは十分カバーできる。あとは畜肉以外に米の蛋白質でかなりの部分がカバーできるので、四五グラムあたりで押える。平均一七五〇カロリーまで下げれば、輸入ができなくなっても、日本のいまの自給率をもう少し上げて、イモなどを栽培することにすれば、ぜいたくはもちろんできないが、一億二千万程度はなんとか生きのびることは可能である。ただしそれは、日本の農業力が十分に機能し得ていることを前提にしたうえでのことである。
 だから、列島改造論のような、山を切り崩し海を埋め、農地を改変し荒廃させ、農民を日銭かせぎに追いやり、農業労働意欲を消滅させ、祖先伝来の道徳を捨てて金銭感覚を優先させ、緑を消し去って平然とし、もとへはもどせぬゴルフ場の造成のようなことばかりに熱心、という方向は、日本国民を急速に滅亡へ追いやる、恐るべき進路である。
 しかしいちおう大きな崩壊はないと仮定した場合、それでも、強い者が食べ物を占有してしまうとか、盗みの類が横行しはじめるとか、飢え死にする人が出てくるなど、いろいろな事態が起こってくるだろう。
 だから滅ぼされないためには、いろいろな知恵を発揮しなくてはならない。たとえば、一人でいると危ないので、なるべく集団でいるようにし、同族が寄り集まって暮らすなどのほか、前にも述べたように、食べ物の範囲つまり可食物の幅を拡げることが必要である。要するにむかしの人たちが食べていた野草とか昆虫などを食べるようにするとか、あるいは、祖先が持っていた食べ物についての知識を学びなおし、きちんと子孫に伝えていくことが大切なのである。
 何千年という長い時間をかけて、自分の縄張りのなかの食べ物について、食べられるものと食べられないもの、おいしいもの、まずいけれども食べられるものなど、さまざまな知識や知恵、食べ方や料理の仕方まで含めて世代から世代へと正しく伝えていかなければならない。
 そうしなければ、食べてはいけないトリカブトを知らずに食べたために死者が出るというように、ムダな犠牲を強いられることになる。
 たとえば、親の代まではイナゴを食べることができたのに、いまの子どもの代では気持ち悪くて食べられない。ジャマな意識を消し得た若者は、生き残れる可能性が非常にふえていく。その点では、かえって年配者のほうが生き残れる度合いが強いといえるだろう。 今の年配者がいろいろつらい経験をしていたから、戦中戦後のひどい生活にも耐えていけたのではない。昭和の初期から戦争中のある時点まではかなり文明化していて、その当時の若い世代は、飢えることに対しての訓練などあまりされていなかった。
 戦争の末期から戦後にかけてのドタン場に追い込まれたとき、わりあいスムーズに対応でき、多くの犠牲者を出さなくてすんだのはなぜかというと、一つには明治大正にかけて生きた親たち、あるいは江戸末期を生きてきた祖父母たちからの知恵の伝承がなされていたことが底流で大きく作用していた。
 昭和初期以降、食生活が文明化したとはいっても、いまの文明化の度合いとは比較にならないほどのものであって、食生活の内容も前時代的なものに近く、そのうえ、悪状況に耐えるだけの精神力、忍耐力があった。だから、戦後の食糧難にすぐ適応できたのだ。
 いまは事情がまったくちがう。
 したがって、現在の若者や子どもたちに対して、必要な知識と訓練をほどこし、いつ、どんなことが生じても耐え抜くだけのサバイバルの思想を、名実ともに伝え残していくことが必要なのである。
 それが今日のだれも手をかしてくれない、自分で何とかしていかなければならない社会において、私たちがなし得る、あるいはなさねばならない最低限必要な義務ではないだろうか。もしも私たちの子孫が苦難を乗り越えて生きつづけることを望むならば……
 年配者たちは今まで、自分たちが体験した苦しいことを愛する子孫たちに経験させまいとして、甘やかすことしかなかった。そのあげく心も体も弱い次の世代を作り上げる努力をしてしまった。その大きな罪ほろぼしを、血相かえてやるのが年配者の残り時間に課せられた義務であろう。
 ちかごろの若者はたるんでるとか、狂ってるとかボヤいてはならない。自分たちの怠慢、先を見越す能力が欠けていたことなどの
ツケが、今、次から次へと廻されてきているのだ。 若者もボヤボヤしていてはいけない。親が悪いの、社会が悪いの、政治がどうのではない。何が悪かろうと、自分の努力で現状を修正し、好転させてみせるという意味がなければ、理想郷は手のとどくものにはならない。
 シラけているヒマなんかないのだ。
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