『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#004[青]03

 玄関。ステテコ姿で立つ伊勢屋主人。Bは、その巨躯に、前々から圧迫を覚えていた。道々考えた口上を失念。伊勢屋は、青い本を持っている。Bの視線が吸い寄せられる。それを咎めと受け取り、栞代わりに指を挟んで、尻に隠す伊勢屋。
 (二人は酒を酌み交わすことになるのだろうか。そう思うのは、Bか、私か)
 まるで安物のドラマだ。そう思うのは、自分だけだろうか。まさか、相手も、そのように思っているのではあるまいな。しかし、そうだとして、どうなのか。話が弾むのは酒場、間が持たないときはタバコ。ドラマのお約束。何から何まで、お約束の人生。そして、本当の約束は守られない。本当の約束? 
 約束を守ろう。小学生のとき、毎朝、復唱させられた標語が、思わず、口から漏れそうになり、気の抜けたビールとともに飲み下す。ぐびぐび。わざと喉を鳴らす。砂漠で渇いた喉のように。ここは砂漠。
 赤い顔をした伊勢屋の口から、「流通革命」だの、「規制緩和」「価格破壊」「企業秘密」エトセトラ、聞き飽きた四文字が、ぽんぽん、飛び出す、そのたびに、ひやりとさせられるB。でへへ、笑ったり、ほほう、感心してみせたり。「一進一退」「一喜一憂」「一国一城」 一引く一は、ゼロ。
 ときには、柔らかな反論を試み、安易に迎合しているのではないことを暗示する。ときには、言葉の表面からは想像も付かないような指令、期待、懇願などが伝えられつつあるのでは、と疑う。さて、ここで問題です。私達は、何をしているのでしょうか。私達は、なぜ、こんな時、こんな所で、ビールなど、飲んでいるのでしょうか。おつまみは、なぜ、ピーナッツなのでしょうか。ふああ、なぜでしょうね。ヒント? ジョッキの内側にこびりついた、白い泡の輪が、下に行くほど、狭くなっているのは、なぜでしょうか。何やら、質問しかけ、そんな質問をしていたら、どんな顔をしただろうと、相手の様子を窺えば、「一緒になって」という声が届く。天板に押し付けた手が目に入った。左右の手の指を噛み合わせ、回転させる。感心するB。種は分かっていても、手際のよさに、つい、目を奪われてしまう手品のよう。Bは、伊勢屋の手の動きを愛しかける。自分でもやってみたい。切望に近い。でも、目の前で真似されるのは、いやだろうな。もう一度、見たいや。また、やってくれないかな。期待しつつ、耳を貸している。「一緒になって」と言い出されるたび、どきどきする。が、必ずしも、あの動作が伴うとは限らない。すると、Bは、少なからず失望し、その失望は隠さねばならないのだが、しかし、なぜか、隠しおおせるはずはないと考え、「半信半疑」という表情に滑り込む。あるいは、「半信半疑」という漢字を思い浮かべる。たまたま、あれが出ると、拍手せんばかりの気持ちになる。だが、拍手されて、相手は困惑しないはずもない。冷静に頷くだけにしておく。帰って、一人で、やってみたい。だって、彼が悪いんだ、やってくれないんだもの。頼めっこないよ、あんなこと。
 早く帰りたいという気分だけが伝わったか。どちらからともなく、腰を上げる。その後、別段、話はない。ちょっとした印刷物について、意見の違いはある。ちょっとした印刷物、お偉い方の顔の刷ってある、皺のよった、薄汚れた、日銀発行の。
 暖簾から首を出す。先に出た伊勢屋の姿がない。闇を見通そうと、目を細めた。老眼よ、それ。先日、妻に指摘される。辞書を見ていたとき。息子に、「アサシン」の意味を訊かれた。ゲイムに出てくるとか。隠れて生えている薬草の名だろう。ティラニーの特効薬。ティラニーは、笑い出すと止まらなくなる死病。一見、幸福感に満ちた表情だが、ひどく苦しむ。潜伏期間が短い。
 野生の伊勢屋。(回文)
 (夜風についての感傷的な描写、よろしくあって、切って落としたように明るい室内)
 「消すよ」
 闇。
 がさごそ。眠れない。伊勢屋の口癖が、耳に付いて離れない。さまざまなニュアンスで頻用された「と言うのもね」
 「子供のことなんか、ろくに見てやらんかったもんですからね。と言うのもね、仕事第一というふうにね、我々、インプットされてましょ。と言うのもね、近頃は、あれね、立ち会い出産なんか、よくできるよって思いますよね。と言うのもね」
 枕に顔を埋め、耳を覆う。とゆうのもねとゆうのねもとうねのゆもともねゆうのゆねもゆゆもゆねゆ…… 
 夜風が頬を嬲る。Bは、追いかける。わっと叫んで、大きな背中に食らい付く。Bを背負ったまま、伊勢屋は、自分の学歴コンプレックスについて、鼻を詰まらせ、涙声で告白、縷々。Bも、何やら、告白せねばならないか、縷々。
 濡れた地面の上で、歯車のように噛み合う手。そこに、Bの手が「一緒になって」土を削りながら、ぎっぎっぎい、回転すれば、重い扉は開くか。重い扉、いつも、Bの背後で閉ざされる扉。Bのためだけに閉ざされる扉。Bのためだけの物と言えば、恐らくは、その扉だけだ。
 別の日、訪ねたBに、伊勢屋は、本を、ラグビー・ボールのように扱って見せる。いきなり、引ったくり、逃げるB。橋の下で本を開き、貪るように読む。が、頭に入らない。目にさえ入らない。老眼か。読んでいる感じはある。でも、内容がない。せいぜい、[何だ、当たり前じゃないか、こんな話]と思うようなことしか、伝わって来ない。こんなことなら、とうから知ってたぜ。だが、どんなことか、自問すると、思い出せない。思い出そうとしなければいいのだと思う。すると、少しは理解が進むようだ。分かっても分からなくても、ここらは、どうでも、とにかく、先へ行け。肝心なのは、もう少し先なんだから。そう、もう少し先。そうそう、いよいよ、次のペイジで本当のことが分かるぞ。落ち着け。ペイジを捲る。
 すると、そこには、指が落ちている。見慣れない指。自分の指ではない。伊勢屋の、だ。どきっとする。さらに驚いたことには、指には手が付いている。手には腕が生えている。腕を辿れば、そこには伊勢屋の勝ち誇ったような、冷たい笑顔があった。指で押さえているのは、その先を読ませないつもりか。パタンと勢いよく本を閉じる。紙面を這う虫を圧殺するときの、暗い喜び。悲鳴を上げる伊勢屋。切れた指の断面から噴き出す血。あわあわ、言ってる。Bは、走る。今度こそ、絶対に追い付かれない。Bだけが知っている場所を目指す。そこを、昔から、知っていた。でも、長いこと、行かなかった。
 本を脇に抱え、朝靄の中に立っている。栞にした指が、そろそろ、痺れる頃だ。池の端。鳥が鳴いて渡る。自分の手に指が足りないことを、Bは知っている。1本ぐらい、無くたっても、困らない。でも、足りないのは、1本じゃない。何本? 残っている指を数える。ちゃんと揃っている。でも、足りない。数え直す。揃っている。でも、足りない。どの指か、何本か、欠けていて、その切り口に、新しい血の塊が着いている。でも、数は合う。合っているのに、足りない。指の数について、大変な思い違いをしているのかもしれない。何本なら、揃っていることになるのか。何度も数え直す。しかし、正解が分からないのだから、無駄な努力だ。そうだ、数えるのは無駄だ。指は、一本もない。
 自分の悲鳴に目覚める。手を、脇に敷いていた。痺れ。引き出して見るのが、ちょっと怖い感じ。
 次々と白日の下に曝される、小さな不祥事の数々。疲労、焦燥、悲嘆、放心。
 Bは、息子の部屋を調べる。机の下に、どこにでもあるような箱を発見する。大きさの割りに意外な軽さ、あるいは、重さ? 開けて、ショック? ショックを
受けるとしたら、なぜ。
 箱の中には、血染めのハンカチ? ハンカチに包まれた、切断された指? 指先には、粘る、溶ける飴? 涙で汚れた義眼? ビー玉? 赤ん坊のおしゃぶりみたいなもの? 唾液臭い。例えば……、例えば、何だろう、何でもいいや、ええい、もう、本? 本なのか、あの青い。

              (指/20字×12行)

 箱の中には、盗品の数々。買い与えた覚えのない品々。あるいは、Bがくすねて来た、会社の備品。彼は、ちょっとしたものをくすねないではいられない。いつも、少しだけ、給料が安過ぎる気がする。いくらなら労働に見合う金額なのか、安いと口で言う程、真剣に考えたことはない。ただ、とにかく、いつも、少し、足りない感じ。きっと、おまけがほしいんだよな。デザートは、入るとこが違うのよね。ペン、ペイパー、テイプ、ステイプル、その他、どうでもいい物を、どうでもいいから罪悪感が小さくて済むと思って、せっせと自宅に運び込む。働き蟻。
 あるいは、死んだ犬の首輪。犬を飼っていたのは、いつ頃か。死んだのは覚えている。飼っていた覚えはない。殺したのは、私だ。あなたが殺したようなものよ。なんだ、比喩か。苦笑。
 箱に入っているのは、どんな鍵穴にも合う鍵。魔法使いに渡されるとき、言い聞かされた。いいかい、よく覚えとくんだよ。この鍵は、一度でも使えば壊れてしまうからね。大事に、大事に、使うんだよ。そんなに大事な鍵なのに、つい、ふらふらと、どうでもいいことに使ってしまったと思っていた。でも、本当に大事なときのために、大事にとっておいたのだ。そして、忘れてしまった。いや、そうじゃない。鍵のことは忘れてしまおうと思っただけだ。忘れてしまえば、どうでもいいような使い方をしなくて済むから。忘れるために、もう使ってしまったんだと思い込むことにした。何に使ったことにしたんだっけ。息子の宝箱を開けるのに使った? じゃ、その箱に何が入っていたか、覚えてる? うん、息子の鍵が入ってた。なるほどね、そういうわけか。そういうわけさ。息子の鍵を盗むための鍵だったんだね。いや、違うな。鍵なんか、もともと、なかった。俺の鍵なら、親父が盗んでったからね。でも、俺の鍵を、親父は何に使っちまったんだろう。きっと、どうでもいいことに、さ。
 あるいは、箱の中は、空っぽ。腐臭のみ。臭いに覚えはあるが、何の臭いだか、思い出せない。思い出すために息を吸うと、臭いが薄くなるようなので、息を止める。すると、何の匂いだか、全然、分からないじゃないかよ。
 箱の中は、空っぽ。何もない。全くの無。箱の内側さえない。頭から飲み込まれる。
 「見たね」息子が言う。ドアが開くと、カメラが作動する仕掛け。「あれを見て、どんな顔をするのか、見てみたくて」 (あるいは、「人が僕の何を知りたがるのか、知りたくて」)
 この装置によって、子供は、サンタ・クロースが誰なのか、確実に知った。子供が知ってしまったことに、父親は、薄々、感づいてはいたが、子供に言い出されるまでは黙っていようと思っていた。子供の夢を壊して喜ぶおとな、子供っぽいおとなだと思われたくなかった。子供は父親の気持ちを察して、サンタ・クロースを信じているふりをし続けた。しかし、母親と息子の間では、サンタ・クロースなど、笑い話にもならなくなって久しい。笑うとすれば、父親を笑うのだ。母親は、秘密を共有することで、息子を占有した。こうして、息子は、無知で野蛮な男の文化から守られるのよ。ありがとう、お母さん。息子は、自分の拳骨が鋼鉄でできていたなら、と夢想した。僕の心臓が氷だったらな。
 君、まさか、今でも、サンタ・クロースを信じてるんじゃなかろうね。いや。いつ、知った? 八つの時かな。じゃあ、それから、ずっと、私を騙して来たのか。うん。あれから、何年だ。ざっと、30年。
 夜中に変装して忍び込む老人の噂が伝説になる。善行のためだとか。だったら、こそこそするなよな。
 盗み撮り装置を、Bは、妻に対して用いる。
 単なる好奇心? 妻が一人でいるときの、無防備な姿を見てみたい? あるいは、不貞の疑い。女が、一人の男で満足できるはずはない。ほとんど、確信。あるいは、女が、ある男を別の男と区別できるはずはない。ご用聞きを引っ張り込む。洗濯屋は油断ならない。Bは寛容だ。しかし、ご近所の噂になるようなことだけは、勘弁してほしい。
 V.再生。昼間、一人、胡座。画面を見詰め、ソファに座っていたのが、滑り落ちた。手だけ、別物のように動く。ポテト・チップスの袋、がさがさ、破れない。歯で食い切る。ケミカル臭とともに飛散する、重たい雪。
 (彼の丸い背中について、文学的描写、数行)
 妻は伊勢屋に抱かれている。嫉妬はしない。なぜか。妻が夫とのときとまったく同じパターンで行っているから? いや、伊勢屋は、難しい体位を次々に試している。彼はスポーツ・マンだ。ラグビーで県大会まで行ったとか。巨大乳房を抱えてトライ。あるいは、変態的行為。そのあまりの凄まじさに、毒気を抜かれる。険しい表情の妻。まるで仇敵を睨みつけるかのよう。彼女は、むしゃぶりつく。噛み付く。引っ掻く。引っぱたく。殴る。蹴る。レイプか。レイプを拒んでいるのか。しかし、どちらが、どちらを? あるいは、何もしない。二人は、手を取り合ったまま、長いこと、見つめ合っている。早送りするが、ほとんど、動きらしい動きがない。微動。ゴンドラにでも揺られているかのよう。
 彼女は、新婚旅行は、イタリアに行きたがったのではなかったか。何か、そんなこと、言ってたような。ヴェスパに二人乗りし、スペイン広場でジェラートを嘗め、髪を刈って、それから、出会いがあって、プリンセスになる。
 映し出される、永遠の町。あの、たった一日の、永遠の町。乗らなかった船、行かなかったカフェ、覗かなかったウィンドウ、歩かなかった雨の中、脱出しなかったバルコニー、聞かなかった歌、着なかった男物のパジャマの上だけ、歩かなかった市場、飛ばさなかったストローの袋、座らなかった階段。そんな、しなかったことの全部でできた町。忘れ得ぬ町。行ったことがないのだから、忘れることなど、できっこない。壁に向かって再訪を願うことさえできなかった。貰えなかった花。貰えなかった称賛。履けなかった靴。踊れなかったダンス。壊せなかったギター。何通りにも着こなせなかったブラウス。飛び込めなかった川。拒むふりさえできなかったキス。つけなかった嘘。試さないことさえできなかった、真実の口。そして、曲がらなかった曲がり角を曲がれば……
 虚構の女子寮。虚構の男子禁制。スカートの中の舞踏会で、脱げたガラスの靴を足だけで探す。老婆の供述。
 自分が盗み撮りされているとも知らず、無邪気に振る舞うプリンセスのふりをする普通の女の子。自分の美しさに気づかないプリンセスのふりをする女の子。誰からも気づかれるようでは、気疲れする。気づかれるとしたら、一人で十分。なぜなら、最高の男は一人しかいないから。その一人きりの男にしてからが、なかなか、気づかないのだから、男というものは、余程、鈍感にできているようだ。でも、男は、女の子がお忍びのプリンセスだとは気づいていないふりをしているふりをしなければならないので、忙しい。許しを貰えるまで、その他大勢の一人として待たされる。インタビューなら、許される。でも、細心の注意を払い、二重の意味を持たせなければならない。秘めやかな交信。嘘が見破られているとも知らずに、嘘をつき続けるプリンセスに調子を合わせる嘘つき男のふりをする男に、永遠の友情という名の別離を下賜するプリンセスのふりをする嘘つき女。
 画面は青い。青という情報が流れているのではない。情報がないしるしとしての青。空白の青。空々しくもない青。形容無用の無。
 クロマキーの青。自在に背景を合成できる。Bにふさわしい世界が、ここではない、どこかに隠されているのではないか。と、縋るように、Bは夢想する。しかし、そこでも、また、Bは、そこではないどこかを夢見ているのだろう。ただし、ほんの少し、穏やかな面持ちで。ああ、夢だ、夢だ。
 静寂。だが、デッキの作動する音に気づき、そして、一旦、気づけば、それはひどく耳障りなものになる。それは啜り泣きを思わせる。彼の顔に、感情は認められない。まるで賭けていない試合を眺めるときのような顔だ。彼は、なぜ、賭けなかったのだろう? すでに、すってしまったからだ。
 (私は、その青が青い本の表紙の色だったことを、Bに思い出させようとした。しかし、Bは、思い出さなかった。思い出しているのかも知れないが、私には、思い出したようには見えなかった。私は、その青が青い本の表紙の色だということについて、確信などなかったことに気づいた)
 将来、青の上に録画されるべき番組を透かし見ようとするかのように、Bは目を細める。例えば、ささいな誤解に火花を散らせ、あわや大爆発と見えた瞬間、すべては水に流され、笑って笑って夜が来る、永遠に古びない、再放送の家庭劇。
 家を出た。ふらふらと川に向かう。川岸に腰を下ろし、頭を抱える。昔のことばかりが思い出されるのに違いない。
 (ここらで、昼下がりの陽が川面にきらめく描写など、一通りあるか。例えば、「波は、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしていた。ぺちゃくちゃしていたかったから」 or 「波は、自分を眺める人間の心と体を、そっくり、引きずり込もうとして、ありったけの微笑みを見せつけた」 or 「波は歌う。ほら、御覧なさい、私を。何の憂いもなく、流れて行く私を。あなただって、私のようになれるのよ、時の悠久を信じ、自分の本当の心を取り戻しさえすれば」 etc.)
 のんびりと川を下る船。トクトクトク。その発動機の音から、連想。台所で、物を切りながら薄く笑っていた妻。思い出し笑い。その頬は熱気を帯び、明らかに欲情の兆しが認められたというのに、あまりにも、毎日、虐げられ、辱められ、閉ざされて来たために、あの壁の罅、越して来た日から入っていた罅から新たな罅が生えているのを見つけ、あ、あれ、来たときからあったっけ。問いかけても、「あれ」が、古い方か、新しい方か、区別できないのは、罅に対する不満のせいか、それとも、罅を区別できない不満のせいか、または、二つの不満を区別することができないせいか、溢れそうな不満、正体不明の、泡のような不満、ビールは、泡が溢れる程、注ぎたいのだけれど、でも、本当に溢れたら、何だか、損した気分よね、布巾、ねえ、布巾、取ってってばって呼んでるのに、呼んでるの、聞こえてるのに、絶対、すぐには応えないのね、わざとだね。トクトク、トク。わざとだと分かるように、笑っていた、あれは、兆しなどではなかった、絶対。兆しではなく、余韻。初めと終わりの区別も付かない。どこが頭で、尻尾やら。船を見ていると川が動くようで、川を見ていると船が動くようで、どちらが動いているのか、考えはするのだけれど、実は、どちらも動いているのかもしれない。動かないのは、自分。トク。動けない。ぐらつくだけ。トクトク。そのうち、倒れますよ。倒れても、仕方ない。じゃ、倒れろ。立ってることに意味があるんなら、倒れることにだって意味はあるんだろう。意味がありさえすりゃ、いつ、倒れたって、いいんだよ。トク、トクトク。本当に倒れたら、トク、何だか、損した気分? トクトクトク。(「いつもより、余計に回しております。おめでとうございます」 by お染Br.)
 ん? まだ、やるか? まだ? 何もしてないのに? 何もなかったことにする? 何も知らないように振る舞う? 今だって、何かを知ったと言える程のことは知らないでいるのに。なぜ、知る必要がある。なぜ、空気がなくならないか、知る必要がある。大気汚染の原因について、知る必要はあるのかもしれない。少なくとも、知る権利はある。でも、カーテンは、なぜ、萌黄色が無難だと言えるのか。なぜ、コーヒーのフィルターは2番目の引き出しに蔵うと便利なのか。そんなこと、訊いたところで、笑われるだけだ。笑う。妻が笑った。明らかな欲情の余韻が認められた、あのとき、あの瞬間なら、問い正せたのかもしれない。あのときなら、彼女も笑えなかった。微笑みは凍りついた。舌の根は乾いた。旅行鳩は絶滅した。ステインド・グラスは砕け散った。声は肺腑を抉った。どうだ、図星だろう? 口に出して、そう言ってやる必要もない。勝ち誇った笑い。たった一発の散弾、それだけで。
 彼は笑っている。いや、笑いかけ、強ばる顎を、ぐっと引く。両手で、顔を、何度も擦る。それから、手で口元を覆ったまま、糸操りの人形のように立ち上がる。彼は歩く。何十年も思い出したことのない歌を口ずさむ。途切れがち。思い出したと思ったのに、思い出せてはいない。考え込む。思い出したくないことを思い出さないために歌いたい歌を思い出せない。適当に歌詞をでっちあげる。すると、本当のことを歌ってしまいそうな気がする。本当のことを歌いながら、人込みを歩いている自分を思う。そんな男を見た。よれよれの背広。何日も洗っていないような髪だが、短髪。緩んだネクタイ。分厚い手帳を、聖書のように鳩尾に当て、ボソボソ、歌うようだ。時々、開いて確認していた、あれは、手帳ではなく、本? 青い? うんうん、頷いていた。こっくり、頷いていた。宙を凝視する目に、目脂。血管の浮いた手が無いペンを求めて胸を探るところまでしか、見ていられなかった。
 無いペンに手を伸ばす仕草を真似ようとしているB。あの男、伝道師ではなかったのか。サラリー、ソルト、地の塩。彼は、Bに、声をかけてもらいたかったのではないのか。だから、あえてBを見なかった? 彼は、Bに、本を渡すために遣わされたのではないか。
 上流から、白い小舟が流れてくる。行方が定まらない。中には、女が倒れていて、その女の影だったような黒ずくめの男が、顔を上げる。Bを認め、キーッと奇声を発する。威嚇。Bは、今、仮面ライダーβに変身できない。女は、どうせ、死んでいる。目が、一度も閉じない。長い首。あの舟は、Bが乗り捨てた舟だ。でも、呼べば、いつだって、戻って来る、水の流れる場所なら。白鳥号、白鳥号、応答せよ。白鳥号が応答する。ねえ、瞬きしないで、見詰め合えるかな、約1分。難しそうだね。できるわ。やりましょうよ。
 「やめてくれ」
 なぜ。
 「原因不明」と呟いている。いやに、はっきりした口調。「原因不明」
 いつからか、口癖になっている。いつから? またもや、考え込みそうで、急ぐ。脚だけ、せかせか、動かす。
 考えなくては。何か考えなくては。何か、別のこと。別のことって、何と、別。だから、それを考えないんだよ。でも、それが何だか、はっきりしてないと、つい、そのことを考えてしまうかもしれないじゃないか。確かに、理屈は、そうだよな。だから、要するに、悩まないで考えたらいいんだ。自分が悩まないためには、みんなの悩みを、みんなと悩めばいい。みんなの悩みは、そうだな、環境問題。マツクイムシが松を食い尽くせば、マツクイムシも全滅するはずだから、マツクイムシが松を食い尽くすことはマツクイムシにとって得策ではない。もし、マツクイムシが松を食い尽くすとしたら、その責任はマツクイムシにはないし、松にもない。鼬ごっこ。何が悪いのかと言えば、鼬かな。いたずらな鼬。大板、血。笑え。笑えってばよ。今、笑っとかなきゃ、体、持たないぞ。
 橋の下で、息子が伊勢屋の息子を殴っている。その情景は夢のようで、さっきまで見ていたV.の続きのようで、彼の体は、つい、視聴者の体になる。TVの人に突っ込むような、子供っぽい真似はできないので、黙っている。
 伊勢屋の息子は、Bの息子と同学年のはずだが、ゆうに頭一つ大きい。肩幅もある。遠くからだと、おとなが子供に殴られてるみたいだ。Bは、殴られているのが自分のような気になり、息が止まりそうになる。
 一呼吸置いて、駆け出すB。
 (下駄を履いていて、軽い捻挫などするも、一興。被っていた帽子が、ふわり、風に飛ばされる。帽子は、海外旅行の記念。何で、こんな物を被って出たのだろう。考えたので、出遅れ、転がる帽子を慌てて取りに戻ったときには、それは川岸から水辺へと落下し、水に浮いた。小さく舌打ち。同じ帽子を、中村君も持っている。沈まずに流れて行く帽子を、Bは見ない。同じ帽子を被って、何人かで撮った写真がある。背景は、べたっとした青空。そして、実を付けた、椰子の木、一本、びゅうっと斜めに。あるいは、ポケットからパチンコの玉が零れるってのは、どうだい。いや、零れるのはビー玉で、それは息子の宝箱から持って出た。あるいは、ぼろぼろ、零れ落ちるのは、過ぎ去った時の果実。色は黄色だ)
 橋の下で息を切らしているB。(日頃の運動不足が暗示されている)
 前屈みで、膝に手を当て、はあ、はあ、はあ、しばらく、口が利けない。口が利けないのをいいことに、言葉を探している。
 橋の下に、段ボール箱や古い家具、廃材などで、鶏小屋のようなものが造られている。隠れ家だな。で、どっちがハックだ、トムだ。筏は、どこに。近頃、よく、猫が鳴くと思ったら、彼らの合図だったか。
 「くだらんことは、止せ」 筏での川下りの計画まで叱っている気分。
 「ホットイテヨ。ボクタチ、アイシアッテンダカラ」
 伊勢屋の息子は、熱っぽい顔をして、ぐったりしている。しかし、救いを求めるふうではない。
 ポケットの中で、もぞもぞ、動く、隠れた手のアップ。カメラ、ひゅっと斜めに跳ねると、夕焼け。もくもく、煙突。電線の烏、かあ、一声だけ。とにかく、ひどく安易な場面転換。帰宅途中の子供達が、カメラを覗き込み、笑う。手振れ。あなたが笑っているところ。路面。ぶちまけられる汚水。目を細めて欠伸をした猫が、カメラに驚き、逃げ去る。要するに、屑フィルムを繋いだような生活を、屑フィルムを繋いで表現する。どこからか、言葉の切れ端。聞く人によっては胸を掻き毟られるような言葉。遮断機が降りている。無音。疲労を披露する庶民。例えば、いつもの痛みに襲われて顔を顰める老婆。慣れた痛み、慣れた表情。蝋細工の食品見本。宙に浮くフォーク。透明人間の食事風景。映像とは関係のない、不快な効果音。そして、無音。通過する電車。妙な間があって、びくっとして、ぶらんとして、上がり始める遮断機。上がり始めて、すぐに場面転換。
 突如、爆発的な拍手。中村君の栄転。万歳、万歳、万々歳。駅に入ってくる電車。閉まるドア。「君のお陰さ」とでも言うように、ウィンクを送る中村君。青い本が功を奏した? 
 窓ガラスの向こうで、中村君の口が大きく動く。唇を読ませたいのか。何と言ってる。過去? 箱? 会おう? 青? 阿呆? 妻は、中村君とも関係を持ったか。 いつだったか、宴会の席で、中村君は言った。「君も、もう、そろそろ、自分の歌を歌わなきゃな」
 その声は、他人に聞かれずに済んだ。部長が軍国歌謡をがなっていた。しかし、Bは、聞かれてしまったかのように、肩を竦めた。他人に聞かれては困る話だったか。「歌」とは、何だろう。何かの比喩ではあるのだろう。何の比喩なの。相手に気持ちを向けると、ガラスを隔てて、じわり、彼から去って行く人の口が、鬼のように裂ける。ああ、裂け目は、どこにでも現れる。目が潤んだ。この気分を、世間では、別れの悲しみと呼ぶのだろうか。
 部長は、十八番を歌い終わり、拍手に敬礼で応えていた。彼は、戦中派ではない。若い頃の彼の上司が、戦闘機乗りだった。彼は、上司というものは軍国歌謡を歌うものだと思い込んでしまったのかもしれない。部長の胡麻塩頭が斜め上方を向き、止まった。唇を固く結び、彼は、見たこともない南の島の飛行場にいて、幻の翼に敬礼を送る姿で凍りつく。
 Bも、また、どのような姿でか、凍りつく時間があるのではないか、自分では気づかないだけのことで。Bは焦り始める。悪いことばかり、続く。あの本がないからだ。妻に頼んで、伊勢屋に借りてもらおうか。ただし、栞代わりの指が挟まっていない本だ。開くと、指ではなく、ええっと舌がでる。太く、長く、赤い。伊勢屋は、物を食べるとき、必要以上に舌を出した。下品な食べ方。妻は嫌いなはず。人間共から、その舌を、残らず、引っこ抜いてやりたい。
 ある夜、妻は、鏡台の端に、さりげなく、青い本を置く。ごくり、唾を嚥む音。
 「あ、そ、そ、それ……」
 口で言えないばかりか、手を伸ばすこともできない。下手なことを言ったりしたりしたら、本が、その瞬間、消滅してしまいそう。
 「これ?」
 妻は、胸に当て、その上から押さえて、意地悪そうに笑う。肩を揺すった。渡さないという仕草。
 「じゃあ、教えてくれ、結末だけでもいいから」
 「ええっ、忘れたの?」
 強制執行、徹底抗戦、布団の上で、軽挙妄動、揉み合っていたら、油断大敵、さらりと襖が開き、傍若無人、息子が立ち、向かいの壁を見る。壁に、何か、あるのか。何もないはず。襖が閉まる。廊下を遠のく歌声。歌詞には、二重の意味が持たされている。いやらしくないのと、いやらしいのと。声は風呂場に入り、反響のため、歌詞は聞き取れなくなる。
 妻は、静かに本を差し出す。だが、物欲しそうなふうを見せれば、いやらしい遊戯が再開されることだろう。
 「置いといてよ。そのうち、読むから」
 だが、読まれる日は、本当にやって来るのだろうか。いくら怠け者のBだって、絶対に読まないなんて、そこまでは思ってはいないはずだ。でも、その日は、いつかであって、今日ではない。このことだけは、確かだ。
 消灯。
 ああおお、あああおおお。今夜も、猫の声で、誰かが誰かを呼ぶ。
 月明かり。薄く埃が積もり始めた、世界中の誰もが読んでいて、あなただけが読んでいない、青い本の上に。
                               (終)


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