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#005[霧] [青]は、私のものという感じがしない。[別のことを書きたかった]とか、[もっと違う書き方をしてみたかった]とか、[私らしさが出ていない]というような気持ちではない。自分で書いた気がしない。不満はない。不満というのは、私に関わる事柄だが、[青]は、私とは関係がない。こんな物を書きたいと思ったことはないし、読みたいとも思わなかった。 こんな物語の後には、タモリが深い霧の中から現れる(『世にも奇妙な物語』)のだろう。そして、あの、不満そうな、犬のような口を、面倒臭そうに開き、一呼吸あって、言うのだ。 「人の心の本棚には、決して読まれない、1冊の本が眠っているといいます」 彼は、青い表紙の本を携えている。開く。引き込まれた様子。気を持たせる遣り口。やがて、私達のことを思い出したふりで、私達が彼のことを忘れないうちに、続ける。 「多くの人々は、その本の存在を知らず、判で押したような毎日を過ごしています。その本の存在を知る人もいます。でも、手に取って読もうとはしません。読み始めても、最後まで読み通す人は、まれです。さて、皆さんは、いかがですか。もう、お読みになりましたか、あの本を?」 本を閉じ、そっと持ち上げてみせる。 「これ? これは、私の本ですから、お貸しするわけにはいきません」 前歯の隙間を見せつけ、笑いを噛み締める表情。 そのまま、行き過ぎようとして、私達のうちの誰かに呼び止められたふうに眉を上げる。 「私ですか? 読みますよ。読みますとも」 再び、読み始め、怯えたように、ぱんと音をさせて本を閉ざす。「読みますとも、そのうちにね」 夜が霧の扉に閉ざされる。私達は、度重なる失望、幻滅ではなく、苛立たしい失望に翻弄されて、悲しげに笑うことを覚え、膠着した怒りを湯湯婆のように抱き締めながら、階下の蛇口から滴る水音を、やっと温まり始めたベッドの中で聞いている。どうせ、朝は、枕にへばり付いた抜け毛拾いに始まり、来ないバスの来る方向を睨み続けるか、いつもは遅れるバスが定刻に通過するのを息を切らせて見送る。昼は、確か、ブラックと言ったのに、なぜなのか、なぜだろう、考えるまでもない、運命だ、甘ったるいミルク割りコーヒーに滅入る。いつからか、私に背を向けて去る人の数が、少しずつ、少しずつ、増え、いつからか、留め金の甘いバッグ。目尻の皺、苦い涙の爪痕。鏡の前で泣き真似、死の前で死に真似。夜、誰もいない時間、私がいないとき、あなたしかいないとき、あなたの読みたかった本を、あなたは、わざと、どこかに置き忘れる。そして、置き忘れたことを忘れる。忘れたいと祈る。その日から、どこかの町の夕空を忘れられた本が鳥の姿で羽ばたく夢に悩まされる。けたたましい鳥の鳴き声。嘴から突き出す、尖った舌のような稲妻を、黒雲で塗り潰したい。そんな夢の終わりには、タモリだった黒猫が、骨の椅子の上に蹲り、伸ばせばひょろ長いのだろう、縮めた首を、さらに縮め、前世は本だったかもしれない小鳥を、狙うか。 |