『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#006[石]

 翌日、一仕事終えた気分になりそうなのを警戒した。[青]は駄作。読者か観客のつもりで書いた。観た映画の粗筋を人に話して聞かせるときのような気分だった。再話。私とは無関係に作られたもの。面白くないので、原典を忘れた。そんな疑いが消えない。手を入れるにしても、袋小路だと思いながら入り込む横道に、意欲という道連れは付いて来ない。放棄しよう。しかし、そう思うと、今度は、そこそこ、見るべき所もあったような気がしてくる。歩きながら、言葉にして思った。「自分のものでもないのに!」 
 知らぬ間に連帯保証人にされていたような感じ。
 すると、不意に、頭の中の劇場に、光の柱が降りた。舞台は暗く、奥行きは知れない。一人、あの、虫を追う男がいて、光の中に身を差し入れる。眩しそう。微かに怯むふうだが、すぐに気を取り直す。そして、断言。
 「虫は、いたんだ!」
 裁判所の証言台か。奥の闇では、裁判官達が石像のような頭部を並べているのだろう。男は、明らかに複数と思われる聞き手に訴えている。「虫はいた。なのに、彼は……」
 「彼」というのは、どうやら、私のことらしい。
 (私は、この場面を書きたくなかった。書かなければ男は私を恨むだろうかと疑った。その瞬間、私は、[青]を書いたのは自分だと認めないわけにはいかないと思った。私は、書き足さないことによって、作者に成り上がってしまったらしいのだ。皮肉。ふふん、じゃあ、書いてやろうか。凄むように思う。しかし、もう、遅い。書いても書かなくても、私は作者だ。どんな種類の、どんな水準の作者かは、知らないが)
 歩いていて、頭の中の法廷を消し去ろうと、顔を上げた。町の建物が、両側から倒れ掛かってくるようだ。アーケードの丸天井のせいか。首を振る。すると、[ははん。そうやって逃げるんだよな] 掠れた声。
 逃げる? いつか、誰かに投げ付けられた、[逃げる]という、その言葉。追われもせぬのに、なぜ、逃げる。と、口には出せず、背を向けた。
 今更、逃げるなんて、そんな大袈裟な。どうせ、あんなもの。[いや、そうじゃないんだろう] そうじゃないって? [そうじゃないんだよな。書かないのは、本のせいなんだろう] 本? 本が、どうかしたのか。あれは、ただの仄めかしじゃないか。[仄めかし? あ、なるほどね] 違うのか。[いや、違わないんだろうな] ちぇっ、どうせ、仄めかしだけの人間だよ、私は。[いや、そうじゃなくて、さ]
 私の顔には、薄笑いが浮かんでいたか。本のことに言及し始めたら、[青]は破綻してしまう。[破綻? いいんじゃないの、どうせ、ものにならないんだから] でも、折角……。[折角、何よ] いや、折角、こじんまりと…… [それ、それ、それなんだよ] え? 
 声が何を言いたいのか、掴みかねたが、その刺々しさは、私を苦しめた。帰宅し、私は清書を始める。[つい、書けてしまった]というだけでは、済まないらしかった。
 今、[つい、書けてしまった]と書いていて、じわじわと分かってきたことがある。分かってきたことと言うのは…… 
 [青]は、あんまり丸いので、つい、拾ってしまった小石のようなものだ。そして、誰かに、「おや、あまりに丸いね」かなんか、言ってもらおうと思って、取ってある小石だ。「ねえ、丸かろう?」と、私は言う。すると、誰かは、「うん、丸い」と言う。いや、言わない。普通に見て、そして、短く口笛でも吹いて、笑ったり怒ったりしないで、私の拾った物なら、何でも面白がって、でも、欲しがりはしないで……。その後は、川にでも、藪にでも、捨ててやる。でも、私を訪ねる人はないのだし、あっても笑うに決まっているのだから、今、すぐ、捨ててしまおう。うん、そうしよう。捨てる。
 ダメ。
 ……? 
 ダメダヨ。
 ……! 
 ダメダッテバ。ソレ、ボクンダヨ。
 拾ったのは、私だ。デモ、ミツケタノハ、ボクダヨ。ははあ、なるほど、君が見つけて、私が拾ったんだね。だから、自分のものでないような気がしてたわけか。
 私は、ボクの小さな手に、丸い小石を置く。ボクは、シャツの裾で、石の汚れを拭く。ああ、そんな真似をしたら、叱られるよ。ポケットを、ぱっくり、広げ、落とし入れ、上から手で蓋をする。さも大事そうに。大事ではないのに。物を大事にする遊びをしている。帰って、菓子折りか何か、[宝箱]に収納するつもり。そして、忘れる。きっと、忘れる。彼は忘れる。忘れるのは得意だ。忘れるために生きているみたいなものだ。彼は忘れた。彼は、ガラスの断面の鱗のきらめきを忘れた。襟に留めた、瓶の蓋の矜持を忘れた。曲がった古釘の鈍さ、鋭さを忘れた。膝小僧の傷の勇気を忘れ、鳩時計の鳩の忍耐を忘れた。死んだ犬の名前だって忘れたのだ。女の子が転んだ拍子に覗けたスカートの奥の毛糸のパンツの色なんてのも、忘れた。電車の運転手になりたかったことも、蜥蝪の瞼が閉じられるのは下からで、そのとき、宇宙を憐憫の淡い光で包むために少しだけ隙間が残されることも、夢の中で出会った人の背中の、抱き締めたいような丸みも忘れた。悲惨を忘れ、僥倖を忘れる。絡んだ天蚕糸の執念を忘れ、痺れた足裏の楽天も忘れたのだ、丸い小石のことも、やがて、忘れる。誰が拾った小石だったかも、当然、忘れる。
 私は、[青]を思い出す。読み返すのではなく、思い返す。すると、暗がりに立っていた男が、仏頂面をして、私に本を差し出した。突き返す感じ。そして、元の立ち位置に戻り、誰にともなく、語り始める。
 「虫はいました。そのことは、私が存在するのと同じくらい、確かなことです。だから、もし、[虫は、いなかった]と言うのなら、私こそ、いなかったのです」
 分かるよ、言いたいことは、大体。いるんだね。君もいるし、虫もいる。そう言ってやりたいのは山々だけど、でも、言いたくない。言うより早く、忘れてしまいたい。あれに書いたこと、書きたかったこと、書きたくなかったこと、書いていた自分のこと、全部、忘れたい。
 芝居がかった木槌の音。どうやら、判決が下りたらしい。しかし、その内容は伝わって来ない。いつものことだ。やがて、木槌の余韻が耳の壁をひりひりさせた記憶は薄れ、感じるのは、明日からは償いの日々が始まるらしいのだが、今日までがそうでなかったのでもなさそうな秋の風。


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