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#007[水]

 そのとき、私は、プールに向かっていた。プールでは、泳ぐより、ぴちゃぴちゃやっている時間の方が長い。水がある柔らかさをもって纏わり付くように感じられるのを、待つ。
 というようなことは、書きたくないのだった。書けば、次の日から、嘘の生活が始まる。書いたことを実行するために生きるようなことになる。やる気がなくなる。いろんなことで、似たような経験をした。言葉にすると、生活は滓になる。味気ない。おいしいところは、みんな、あなたに持っていかれる。
 小学生のとき、ホテルのプールで溺れかけた。浅い方には知らない子達がいたので、深い方に飛び込んだ。背が立たなかった。背が立たないことは、知っていた。しかし、慌てた。縦に、棒のようになって、浮いたり沈んだりしていた。沈むと、プールの底を蹴って浮き上がる。水面から顔が出ると、空気を齧る。そして、すぐに沈む。また、底を蹴り、浮き上がる。沈む。そういうことを繰り返しながら、どんどん、壁から離れて行った。不思議なことに、壁と反対には進む。だから、時間は掛かりそうだが、対岸へ行こうと考えた。でも、考え直し、戻ろうともした。スタート台には、手が届かない。壁に触れると、押し返された。押し返されると、体力の消耗が激しい。徐々に望みが消える。諦める。すると、浮く。少し、希望を持つ。また、沈む。からかわれているようだった。浮き沈みする自分の姿が見えていた。思い出のように、見られている私。見られては、恥ずかしいのだった。頭では諦めているのに、体はもがく。みっともない。苦笑していた。[子供のままで死ぬのだ]と思うと、笑わずにいられなかった。この先、何十年も続くと思われた苦痛が、後何分かで、終わってしまう。生きるつもりだから、耐えたことだ。でも、今、死ぬのなら、無駄な忍耐だったと思う。
 結局、知らない人に助けられた。水を飲んでさえいなかった。黒い塊がやって来て、空気だらけの場所に立たされた。私は、照れて、空咳をし、痛くもない目を擦る手で人の視線を遮り、礼を言った。窺うと、黒い塊は、じゃぶじゃぶ、水の中を歩いて戻って行くところだった。
 部屋に戻ると、父が、「溺れたろう」と言って笑った。ふと、窓の外を見ると、私が深い方に飛び込むのが見えた。心配していたら、あっぷあっぷし始めたので、そこが2階だということも忘れ、窓から飛び出そうとした。虫の知らせというやつか。何げなく目をやったら、ちょうど、私が飛び込むところだったことや、思わず、2階の窓から飛び降りそうになったことなどを思い合わせ、[親なんだなあ]と、しみじみ、思った。そう語る父の目は、うっとりと濡れ、どこか、遠い所に向けられていた。邪魔してはいけないと思い、私は廊下に出た。
 水中での体験を、何度も書いた。しかし、満足できる書き方はできなかった。あのとき、私は死を覚悟していた。息苦しさの記憶はない。穏やかで、鮮やかで、静かだった。幸せだったと書いたこともある。あの水の中の明るさを、もう一度、味わいたくて、学校のプールの底に張り付き、鮃のようになっていた。
 心臓の鼓動が間遠になっていくのを全身で感じていたときにも、似たような感覚があった。腰抜けになり、台所の床に伸びていた。やはり、静かで、悲しいようで、おかしかった。ふわふわした感じ。「死ぬかもしれないな」と、にやにやしながら、喋っていた。視点が顔の少し右横にあり、寝ている私と、その上に馬乗りになって、涙を、ぼろぼろ、零しながら、両手で力任せに私の胸を叩くLの姿が見えた。
 その日の午後、一人でいたら、前触れもなく、妹夫婦が子連れで訪ねて来た。その場は、どうにか、取り繕ったが、彼らを送り出し、ドアを閉めるや否や、バーボン・ウィスキーに手が伸びた。バーボンは好きではない。ほとんど、一本、飲まずにあった。それをラッパ呑み。酔いは、エレヴェイタの降下のようだった。
 その数年前、両親が離婚し、妹が結婚したので、私は、もう、一家は解散したのだと思っていた。ところが、妹が遠くない所に越して来て、私は、そろそろ、耐えられる時期に来てもいるのだろうかと、二度ほど、会ってみた。私は、ちょっと、自信過剰だ。結局、無理だった。頭の中は、まあ、波立たない。しかし、この心臓のやつが! 
 「私が子供を産むなんて、思ってなかったんでしょう」と、妹は言った。


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