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#008[家]

 書けば、生活は滓になる。だから、書きたくはない。しかし、実際に書いていなくても、頭の中には書記がいて、せっせと仕事に励んでくれる。だから、私が書くのは、書記に書かせないためのようなものだ。先回りして、彼の手帳を使い切ってしまうつもりか。
 などと、少しは気の利いた文が手繰り寄せられたと思い、いい気になって、一服すると、もう、追い付き、追い越されている。そら、彼が書き始めた。
 [私は、小学3年生から越境通学を始めた。元の家から4キロほど離れた家に引っ越した。しかし、書類では、元の家に住んでいることになっていた。だから、書類の上では、越境通学ではなかった……]
 何とも、拙い文だ。作文力が小学3年生並になっている。このままでは、本当のことは書けない。いや、本当のことが書けないように、わざと拙くなっているのだろう。
 ちぇっ、俺が好きで書いていると思ったら、大間違いだぞ! 
 ダレニイッテンノ。
 越境というと、[悪い所から、良い所へ]という含みがある。しかし、事実は、そうではなかった。元の家は、借家だが、残っていた。数年で戻る可能性があると言われた。そこには、わざわざ、祖父が一人で住まわされた。祖父は働きに出ていたので、学校の帰りに寄り道しても、留守のことが多かった。近所の人とも、次第に、疎遠になった。4キロの道を、バスで通った。でも、歩く道も多いし、バスを待つのは退屈だし、下校時は、よく、歩いた。途中まで級友と連れになるという楽しみもあった。しかし、目には見えない境界線に差しかかる頃には、一人になっている。
 小学3年生の私が一人、広い、白い、明るい道を、大儀そうに歩いている。あの角を曲がると、家が見える。私は、その家に帰ろうとしている。私は、帰ろうとしていた私を書きながら、私が帰り着かないようにしている。いや、私は、当時、帰りながら帰るふりをしていたのだから、帰るふりをして帰り着かない私を書けば、当時の私を書いたことになるのかもしれない。あの頃の足取り、そのままに、言葉で寄り道する私。側溝の縁に花を咲かせた犬陰嚢、干からびて平たい鼠の死骸、水溜まりで揺れる油の虹、電信柱の亀裂に、きりきり、押し込まれた紙片、そういった物に寄り道した。そして、今、そういった言葉に寄り道する。そうやって、あの家に近付くまいとしている。私は、嫌々、書いている。私は、嫌々、歩いていた。太陽の矢が射掛けられる夏、木枯らしの刃に斬り付けられる冬、帰り着くまいとして歩いた。あの家に近付くと、笑いたくなることもあったのではないか、自分が、あんまり、怖がるふうなので。あのときは笑ったかもしれない。でも、今は、笑えない。
 あの家。今は、もう、ない、高い塀に囲まれた、そのくせ、内と外の区別のない、じめじめした、よそよそしい、広いようで、狭苦しい、残飯臭い、小綺麗で、薄汚れた、使い勝手の悪い、勝手に使えない、誰のものでもない、へんてこな家。照明のない廊下を曲がると、台所の扉があって、暗さに慣れない目で、南京錠の存在を確かめる。そして、それがあったときの落胆。いや、恐怖。足が地に着かない。どきどき、ひやひや。渇く。喉を掻き毟りたい。はふはふ。息苦しい。無人の室内は闇のように恐ろしい。なぜなら…… 
 なぜなのか、言いたくない。言ったら、笑われる。笑われるから言わないでいたら、言いたくても言えなくなった。どうせ、理解してはもらえない。おや、理解されたいのかな。違う。私が望んでいるのは、理解なんかじゃない。じゃあ、何だ。ふん、答えてなんか、やるもんか。私が何を言っても、どうせ、曲解される。だったら、先回りして、反対に曲げておいたら、どうだね。所詮、語り手は騙りだ。
 そんな思いで書いた物があった、10年以上前。それを、今、読み返すふりをして、書き直す。


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