『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#009[宿題]

 ある日、学校から帰ると、家には誰もいなのに、玄関が開いていました。「母さん」と呼ぼうとして、声が喉に詰まります。もしも、呼んで返事がなければ、どうなることでしょう。
 どこかで、すうすう、風が吹いています。すうすう。
 靴を脱ぎます。そして、揃えません。揃えるとき、家の中に背を向けなければならないからです。「よっこらせ」と口に出すと、声が、皮を剥いた里芋のように、おろおろとしませんか。手の中から逃げて行くようでしょう。はい。では、もう、声は出さないことにします。
 一つ一つ、部屋を見て回ります。ことさら捜すというふうであってはなりません。なぜなら……。そう、もしかして、誰かいて、襖を開けた途端、ぬっと顔が出て、何を捜しているの、そんなに青い顔して、と尋ねられでもしたら、さあ、どう答えればいいのでしょう。
 二階に上がる頃には、風の音にも慣れていていいはずなのです。ガラスの向こうで、庭が少し歪んでいます。見る位置を変えるとき、庭は、くねくね、します。いつものことなのに、いつも、目がおかしいのかと思います。
 弟は、もう、帰っていなければなりません。寄り道でもしているのでしょうか。一度、帰って、ランドセルを置いて、そうして、出掛けたのでしょうか。机の横に、ランドセルは掛かっていましたか。机の横の、父様の付けて下さった鈎に、ランドセルは掛けることになっています。でも、弟は、滅多にそうしません。お帰りになったら、叱られることでしょう。ううん、あのね、父様は、お叱りにはならないよ。却って、お笑いになるくらいだ。
 父様が遠くに行かれてから、弟は、母さんの言うことを聞かなくなりました。寄り道は致しませんと父様のお出掛けになる前の晩、しっかりと指切りをしたはずです。まだ、小さいからな。お客さんたちは言います。すると、甘えてピーナッツなどをねだるのでしょう、母さんがお店では微笑みを絶やさないのをいいことにして。
 どこかで、柱が軋みました。どこでしょう。別の方が、ざわざわとしています。だだだっと階段を駆け降りました。その音に、自分で脅かされます。
 はあはあ。自分の息が自分に迫るように聞こえなければいいのですが。
 机の横には、何かが掛かっていたのかもしれません。でも、それが何なのか、はっきりとしません。こんないい加減なことでいいのでしょうか。これで、隈無く見て回ったと言えるのでしょうか。皆さんは、どう思いますか。自分の仕事を怠けなかったと胸を張って言える人はいますか。学級会では、そう言った後、辺りを見回すようにします。ああ、胸が空く思いです。誰にも答えられはしません。誰とも目を合わさないようにして、ゆっくりと大きく体を捩るのが、こつです。やがて、窓枠に凭れてみんなの意見を聞いていらした先生が、教卓の横に戻り、教壇には上らないまま、黒い表紙の出席簿の角で、教卓の縁を、こつこつと叩いてから、今日はこれでおしまいと、静かに、おっしゃるのです。
 まだ、どこか、一つ、見落とした部屋があって、そこには、みんながいて、そう、みんなです、母さんや弟だけでなく、信州の御祖父様、御祖母様、横浜の伯父さん、従兄弟たちもいて、蜜柑などを剥きながら、楽しげにしているのではありませんか。弟ったら、例によって、母さんのお膝を独り占めです。そして、今度、烏ノ杜から叔父様の家に来られた玻瑠子さんのお土産のお菓子を、箱ごと、抱いて、ぱくついています。もう一方の手には、御祖母様の下さった、手の切れそうなお札を広げ、翼のようにひらひらさせて、暑くもないのに胸元に風を入れたり、近くの人の顔を嬲ったり、勝手なことをしています。
 上り框で、壁を背にして、靴箱の上に腕を預けます。ここなら、少しは安心のようです。ここなら、外から誰か帰って来てもすぐに知れますし、中から何か出て来ても…… 
 え、何? え、え? 何が出て来るというの? 何にも出て来やしませんよ。そんなこと、当たり前ですよね。でも、もしも、ということは、ありませんか。ありません。ありません。
 ありませんってば…… 
 (こうして古い原稿に手を入れながら、だんだん、怖くなる私だ。まるで自分を怖がらせるためにしていることのようだ。呼ばれたように、三十余年の時を越え、その何かが……。今、部屋のどこかが軋む。隙間風の音が止んだ)
 その何かを何とは言えませんが、何かは何かに似ています。木の葉のようでしょうか。知らないうちに部屋に舞い込んでいた木の葉のようなのでしょうか。何だか、その辺りだけが仄暗いような木の葉、自分は瞳のように光っているくせに。それは、深い水の底に張り付いている魚に似ているのかもしれません。でも、魚ではありません。魚を捕まえようとする手のようでもありません。魚も平べったいし、手も平べったいのですが、どちらでもありません。その魚のようなものには手首のように締まった所があって、でも、その先に、扇を半分だけ広げたような形の尾鰭はありません。だから、ちっとも魚らしく見えないのです。広い世界には、そんな魚もいないこともないのでしょうが、でも、そんな魚でも、魚なのですから、どこか、魚らしい、水の中で生きている感じがあるはずでしょう。でも、それに、その感じはありません。では、手なのですか。閉じた手。握り締めた手、爪が手のひらに食い込むほど、きつく、きつく。いやあ、手なんかであるものですか。手だったら、腕があって、肘があって、うっすら、毛だって生えているんじゃありませんか。
 また、家の中で、軋むような、乾いた木をぐっと押して、でも、折れないように、でも、跳ね返らないようにしているときのような、強ばった音がしました。すると、思い出しました。まだ見ていない場所があります。御手水です。急に、おしっこが出たくなりました。でも、誰かが入っているかもしれません。では、誰かが出て来るのを待ちましょう。誰も入っていないのなら、いつまで待っても、誰も出て来ないはずです。でも、誰も出て来ないのを確かめてから、行く方がいいのです。
 しばらく、待ってみました。誰も出てきません。長いこと、待ちました。もう、我慢ができません。庭に出て、しました、ランドセルを持って、山茶花の木の所で。片手で持って、重くて、肩から全身、ぶるぶる、震えました。山茶花は、花を付けていました。落ちている花びらもあります。落ちた花びらは泥に塗れていて、だから、洗ってやりました。洗うだけのつもりでしたが、流れました。流れて、その先で、また、埋もれました。
 木の葉の影のちらつく濡れ縁を机にして、宿題をしました。宿題の紙を通して、木目の通りに、鉛筆は、がくがく、震えました、こんなふうに。

             (木目/34字×4行)


 磨りガラスの向こうを、影が、さっと動いたようです。目は上げません。でも、ああ、やっぱり、居るなと思うのです。ちぇっ。舌打ちしました。ちぇっ、ちぇっ。繰り返します、与太者がするように。母さんが聞きつけたら、何と、おっしゃることでしょう。
 宿題は、いつも、算数から、やります。国語は、後回し。国語には決まった答がないからです。今日の国語の宿題には、教科書に出ていたお話の一部が出ています。それは、どんなお話だったか、覚えていますか。どんなお話だったか、思い出そうとすると、別のお話が思い出されそうです。そんなお話など、思い出さなくても、よいのです。思い出さなくてもよいのに、次々に思い出されるお話はありませんか。あるのなら、何も思い出さないように気をつけましょう。母さんの口癖です。もう、もう、何も思い出したくないよ。
 (思い出さなくてよい物語の中で、私が古い原稿に手を入れている。別の物語では、海賊船が髑髏の旗を揚げた。私は、海賊になりたかった。いや、海賊になる夢を持つトムになりたかった。夢を持つという特権を、手に入れたかった。あるいは、スパイになりたかった。忍者もいい。別の物語の中で、私は、忍者か、スパイのように暮らしている。あの家で、台所から廊下に出るとき、玄関から門へ行くとき、門から外に出るとき、その都度、私は人の気配を窺わなくてはならなかった。出るにも入るにも、落ち着かなかった。こそこそした。なぜ、おまえは、そこにいるのか。そう問われることを、死ぬほど恐れた。私には答えられなかった。今も、答えられない)
 次の文を読んで、問題に答えなさい。
 「おーい」
 声は、水色の空に吸い込まれるのです。
 「おーい」
 応えるものはありません。
 「おーい。おーい」
 ( * )は、でも、呼ばずにいられなかったのです。
 森の中は、相変わらずでした。呼んでも、もう、どうにもなりません。
 「お……」
 鳥の声さえ聞こえないのですから。
 「……」
 喉は、からからでした。おなかは、不思議に、空きません。水は、竹筒の底に、ちょっぴりだけ、残っています。振ってみましょう。ちょぴり、ちょっぴり。ほら、そう言っていますよ。これを飲んでしまえば、後はありません。水は宝石のようでした。
 西の空に、祭りの夜に締める帯のような、美しい雲が現れました。山肌の陰が濡れたように染まり、太陽は木々の向こうに疲れた姿を隠すところです。帯の色は、次第に濃くなり、やがて、闇の中で静かに解かれることでしょう。すると、帯は裏返り、白に変わるのです。
 「おーい」 
 力なく呼んでから、( * )は恥ずかしそうに笑いました。首を傾け、その傾いた方向に、よろよろと力無く歩み始めます。でも、すぐに立ち止まり、後ろ向きに一歩戻り、大きな溜め息を落としました。目の高さに竹筒を差し上げます。高い所に生る果物に見立てたのです。背が伸びるように、口から筒に近づきます。一気に飲み干しました。少し、噎せるようなのは、飲みながら、つい、笑ってしまうからなのでしょう。
 ああ、もう、終わりです。きゅっと栓を閉めます。きゅっ、きゅっ。それから、ぐっと胸を反らし、元気よく歩き出しました。
 曲がり角に、首から上のない木が倒れていて、どこからか、嗅いだことのない匂いがします。その木の肌の、ざらざらしているのに触れようとすると、薮の奥から、飛ばない鳥の羽ばたきが、擽るように聞こえます。
 「おい」
 今度は、叫びました。とても、とても、大きな、びっくりするような声です。金盞花が、淡い暗がりで、びっくりしたように、一度だけ、揺れましたか。
 問題一 なぜ、( * )は、何度も呼ぶのでしょうか。
 「知らないよ」と思いました。「知るもんか」
 でも、「知るもんか」などとは、とても書けません。それは、ただ、ちょっと、人のいない所で、言ってみるだけの、微かな、悲しみの言葉です。
 問題二 なぜ、( * )は、竹筒の水を飲み干した後、元気よく歩き出したのですか。
 水を飲んだから? 当たり前かな。当たり前のことは、書けません。それで合ってたらいいんですが、合っていなかったら、ふざけたのかと言われます。ふざけたんだろうと言われたら、うん、ちょこっとね、ふざけたんだよと答える稽古を、今からしておいた方がいいのかもしれません。そのとき、「ちょこっとね」の「ちょこ」がチョコレートの「チョコ」のように聞こえたら、許されるのかもしれません。
 問題三 「びっくりするような声」とありますが、誰がびっくりするのでしょうか。金盞花でしょうか。いいえ、金盞花は、びっくりなんかしなかったのです。びっくりしたようなふりをしたのでもありませんよ。風が吹いて揺れただけなのです。だから、「びっくりしたんでしょう」などと、したり顔で尋ねられたりすれば、それこそ、金盞花は「びっくり」なのです。そして、「えっ、何ですって、えっ、えっ、私が何かしましたか。何かしたのなら、謝るわ。ごめんなさい。私、ちょっと、もの思いに耽ってたものですから。私って、よく、もの思いに耽るんだわ」と、そう言ってから、金盞花は、もの思いに耽る金盞花の様子をして見せました。本当は、もの思いになんか、耽ってはいなかったのですけど、つい先だって、もの思いに耽るという言葉を、町からの風に吹かれて流れて来た、破れ羽の蝶に教えてもらったところだったので、使ってみたかったんですね。蝶は、いえ、実は、それは蝶ではなくて、蛾だったらしいんですけど、勿体振って言いましたとさ。「最近の流行は、やはり、何と言われましょうとも、あれですな」 あれって何ですのと、訊いてやればよかったのです。そしたら、蛾だって、あんなに臍を曲げたりはしなかったんでしょう。でも、その時、金盞花はもの思いに耽っていたものですから、上手に聞き返せなかったのです。「もの思いに耽ることこそ、今年の秋から冬にかけての流行なんであります」と、蝶か、蛾か、知りませんが、その奇態な生き物は、通りがかりの輝く雲を見据え、断言しました。文句があるなら、かかって来いという勢いです。森の中からは見えませんが、雲の上を誰かが歩いていたんでしょうね。金盞花は、黙っていました。蛾は、おや、こいつ、もの思いに耽ってやがるぞ、しかも我輩よりも見事に、と思いましたが、ふっと、腕時計を見る仕草をして、「おや、思わぬ長居を致したようで。では、ご機嫌よう。あ、そうそう、これからは、もの思いに耽るということを始めようとなさるときには、もの思いに耽るということを誰に教えてもらったか、ときには思い出していただきたいものですな。はは。町には、特許というものもございましてな。わは、わは、わっはっはっは」
 金盞花はもの思いに耽っていたので、いつの間に自分一人になってしまったのか、知りません。金盞花は、自分が一人の男の子だったときのことを思っていました。男の子は、宿題をしながら、縁側で眠り込んでしまいました。男の子は、夢の中で、女の子になっていました。自分のことを男の子だと思っている女の子です。服も、男の子の服を着ます。踊りも、男の子のを覚えました。女の子のことを好きだと思ったことは、一度もありません。少なくとも、村の女の子は、みんな、嫌いです。意地悪をするからです。でも、ある日、素敵な女の子を見かけました。その女の子は、鏡の中から、自分のことを男の子だと思っている女の子を、びっくりしたような目で見つめていましたとさ。さあさあ、みんなは、大笑い。汚い言葉で囃し立てます。やあ、あの子が恋をしたよ。あの子が、自分を恋人にしたよ。
 男の子は、笑い声に起き上がりました。いつの間にか、眠っていたようです。眠っていたのか、ぼんやりしていただけなのか、とにかく、夢を見たような気分ですから、きっと、眠っていたのでしょう。
 「あら、まあ。こんな所で……。風邪を引きますよ」
 縁側のガラス戸が、がらがらと音を立てて開きました。
 「ねえ、どこ、行ってたの」
 「どこへも行きませんよ」
 靴の踵を踏ん付けて玄関へ回るとき、ちらりと横目に見た山茶花の木は、夕闇の中で、俯く人のようでした。
 玄関の戸は閉まっています。模様ガラスの向こうでうろついているのは、あれは弟に違いありません。
 「開けろ」
 言葉はきついのですが、優しく言いました。母さんがいらっしゃると、弟は生意気です。
 「開けろってば」
 「ナンカ、オクレ」
 「何をだよ」
 「イイカラ、オクレ」
 「開けないと……」
 少しだけ強く言ってみました。少しだけのつもりでしたが、耳は冷たく尖りました。
 「オクレッテバヨオ」
 何してるの。さっさとお入いんなさい。何だって、上げたらいいじゃありませんか。あなたも、まあ、何が欲しいの。
 「ナンダッテ、ホシイヤイ」
 「やる」
 「ワアイ。モラッタア!」
 重い戸を開くと、玄関には誰もいません。壁に、黒く、長いような物が、ひっそりと掛かっています。さっき、そこに寄りかかったとき、そんな物、なかったろうと思います。頭の上に、そんな物があったら、座り込むなんて、とても、できなかったはずです。誰かと遊んでいて、さようならを言って、すぐ、その「さようなら」を誰に言ったんだろうと考えることがあります。さようならを聞いたはずのない誰かが、黙って離れて行くような気がします。その誰かに背を向けて駆け出そうとすると、角の電信柱の裏側に、ぼおっと立っているものがあります。その立っているものに似た物が、玄関の壁に掛かっているのです。
 これ、何。尋ねようとして、なぜだか、「これ、誰の」と言ってしまいました。
 「これ、誰の」
 「シラナイネ」
 知っているのです。
 「貰ったの?」
 弟の、覚えたてであまり鳴らない口笛が遠ざかります。
 「駄目じゃないか、こんな物」
 それを見ずに、呟きます。駄目じゃないか、駄目じゃないか、駄目になってしまうじゃないか、こんなの、あったら、だめなんだよ、ちゃんとしとかなきゃ、あの、さかなみたいなのが、するり、すべりこむ、いやあ、もう、はいってるかもしれないよ、はいってたら、どうするの、はいってしまってたらさ、はいってるよ、きっと、ねえ、どうしよう、かあさん…… 
 「鍵を忘れずにね」
 鍵なんか掛けたら、出られなくなるのに? はあ、そうか。そうなんだ。分かった、分かったぞ。ついに、分かってしまった。分かりたくなかったのに。出られなくするのが、目的なんだ。
 遠い指先で、鍵がかちゃかちゃいうのは、( * )が震えているせいなのでしょうか。
                            (おしまい)


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