『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#010[物]

[宿題]の物語に登場する、平べったい物は、フィクションだ。本当は、平べったくはなかった。本当? 本当とは、何のことか。
 私は、あんまり丸いので拾って来てしまった小石を、金色に塗ろうとしている。派手な色に塗れば拾ったわけが誰の目にも明らかになると信じてでもいるかのように。
 私は、わざと疑ってみる、[あの虫は、錯覚ではなかったのか]と。汗が流れるのを、虫が這うのと取り違えたのではないか。私の肌は弱い。羽音は、耳鳴りではなかったか。違う。耳鳴りは、私の耳鳴りには二種あるが、左は秋の虫の音に似ていて、右は冷蔵庫から出る高音、川のせせらぎ、あるいは、異なる機種で録画したV.テープを再生する時のノイズなどに似ている。どちらも、羽音とは違う。
 私は、何を書こうとしているのか。
 私は、まだ、無人の部屋の扉の前で、怯えて立っている少年だ。萎えているのは、扉を開けようとする少年であると同時に、扉を開けようとする少年の姿を描こうとしている私だ。
 扉の前で、ちょっと、休もう。そして、ほかのことを考えよう。たとえば、算数について。
 あの頃から、算数が分からなくなった。仮分数というのが、まず、分からなくなった。正確に言えば、分子が分母より大きい分数。1本の羊羮を2等分したうちの1片を1/2とすると、2/2は、その二片だ。ここまではいい。しかし、3/2とは、何事か。私は、教科書の、まだ習ってない、先の方に、仮分数を見つけ、笑い出した。そして、母親に、おかしなことが書いてあると告げた。母親は、躍起になって教え始めた。私は強情だった。分数では全体が1なのだから、1より大きい数など、あってはならない。だが、私は、無理やり、分かったことにさせられた。私に分かったのは、[分かった]と言わなければ、母親の「羊羮が」という声を際限なく聞かされるということだけだ。
 仮分数の分からなさと、部屋の奥にある物の分からなさとは、どこかで繋がっているか。どこかで? どこでか。[悪い冗談]という名の[ある異常な段]で?  [仮分数/improper fraction/異常な断片]
 小学生のテキストを覗くと、[全体を1と見なす]という割合分数の概念とは別に、唐突に量分数の概念が出現する。だから、分かる方がどうかしていると思う。[分からないのは、おまえだけだ。ほかのみんなは、分かったぞ]という声がする。この種のもの言いに、私は何度も打ちのめされた。
 私は、誰に語り掛けているつもりだろう。未知の、不特定多数の読者に、か。違う。では、自分自身に、か。当たっているようで、当たっていない。[過去の私に]と、とりあえず、言っておこう。だが、過去の私に、今、やっと、意を決して室内に入ろうとしている、その私に、語りかけているのでもない。過去の私が、気弱に、背後に一瞥をくれたとしても、そうするのは私の声が耳に届いたからではない。届いたとしても、ボクは、おとなの声に耳を貸すことはない。たとえ、そのおとなというのが未来の自分だと知っていても。
 おとなは、しばしば、[子供の頃に帰りたい]と歌う。でも、ボクは、おとなになっても、決して、そういうことは思うまいと誓った。誰が思うものか、子供のボクの方がいい、なんて。
 おとなになれば、あの部屋が恐ろしくも何ともなくなるのだろうか。いつか、自分もおとなになって、この恐怖を笑い話にするのだろうか。許しがたい裏切りだ。怖くないったって、怖くないのは当然だろうよ、怖がるボクを置き去りにして、自分だけ、おとなになったんだもの。
 だが、ああ、もしも、声が届くなら、私は呼びかけたい、[ボクよ]と。[ボクよ。私は、ボクを裏切ってはいない。自慢して言うんじゃない。本当は、裏切れるものなら、裏切りたいぐらいだ。信じられないかもしれないが、私には、まだ、そこが恐ろしい]
 小さく首を振るボク。まるで私の声が届いたかのように。まるで未来の自分の声を聞いたかのように? いや、聞かなかったかのように。
 ボクは、[早く、おとなになりたい]と思う。おとなになりさえすれば、きっと、あの物は見えなくなる。あれがないことぐらい、百も承知している。だが、ないものは、見えなくなることもない。
 と、私は誰に説明しているつもりだろう。私には、分かっている。あれは、説明できるようなものではない。あれは、説明できないからこそ、あれなのだ。
 あれは……
 肉……! 
 ……だった。
 いわゆる肉。いや、肉は、もう、ほとんどない。骨と皮。子供の大きさで、手も足も頭もない。内臓は、ごっそり、落ちている。そういう物が、ぶら下がっていた。萎びて、色は黄色だ。乾いていた。肋骨が浮き上がっている。それを思うと、思っただけで、見えたのと同じで。
 はあはあ。
 渇く。
 どきどきする。
 ああ、いるなと思う。
 すると、いる。いてしまう。
 膝が震う。
 宙に浮く感じ。
 あれは、浮いている。あるいは、吊られている。濃い黄色で、微かで、透けている。堅い。高い窓が透けて見える。窓には磨りガラスが入っていて、出窓の上の、人が横になってやっと通り抜けられるぐらいの、横に長い明かり採りの前で、じっと、浮いている。
 あれは、ボクが一人でいるときにだけ、現れる。ボクは、ランドセルを置くと、宿題を持って中庭に出た。なるべく、上の方は見ないようにした。しかし、目を逸らすという行為そのものが、あれの存在を認めることになり、恐怖は、いや増す。
 ボクは、一度、この恐怖を、父親に訴えたのではなかったか。父親は顔色一つ変えず、その方を見上げ、「そんな物はない」と否定した。そして、そんな会話さえなかったような顔をした。わざわざ、見上げるところが嘘っぽい。だが、彼は、嘘っぽい人だった。もしかしたら、彼にも、そんな物の見えていた時期があったか。その否定は、弱々しいものではなかったか。恐れる息子を恐れたか。
 「あれが何を仕掛けるわけでもあるまい。放っておけ」と、嘘のおとなが言う。私がボクに言い聞かせているのか。父親に、そう言われたか。言われない。
 あれは高い所にあって、伏し目がちに近づけば、視野に入らない。でも、あれがあって、しかも、すぐそばにあると思うと、もう、どうしようもなく、耳はがんがんするし、体がきゅるきゅる搾られる。背筋が、ぴくんぴくん。教科書や宿題や鉛筆削りなどを集める手が、他人の手のように、遠く、しかし、いやにはっきりと目に映る。機械のように勤勉で固い手。それが自分の思いのままに動くのは、珍しいことのようだ。
 がは。
 書くだけ、無駄。あの恐怖は、言葉にはならない、かつても、今も。
 じゃあ、こうして言葉を綴り合わせながら、私は何をしていることになるのか。


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