『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#013[馬]

 もう、書きたくない。うまく書けそうにないからか。違う。うまく書きたくなったからだ。そして、うまく書けたものは、私の物語ではない。私は拙い。
 黄色の家に越して来た年、私は小学3年生だった。その年、キューバ危機が起きた。緊迫した情勢が報じられると、父は、仕事の途中で帰って来て、私を前に座らせ、これから長い戦争が始まるかもしれないと言った。5年になるか、10年になるか、15年、いや、永久に続くかもしれない戦争。全世界が巻き込まれるかもしれない。そのとき、戦えるか。
 今の学校では、こういうことをきちんと教えないから駄目だというようなことも聞いたと思う。行くか。行きますと、私は答えたはずだ。
 よし、行くか。うむ。
 しかし、戦争は悪いことではないのか。
  こんな話がある 中世のイタリアで 戦争や流血が続いたが ダビンチ
 やルネサンスが生まれた スイスは500年の平和と民主主義で何ができた
 か ハト時計だけさ
                  (キャロル・リード監督『第三の男』)
 人殺しは悪いことではないのか。
  一人を殺せば悪党で 百万人だと英雄です 数が殺人を 神聖にする
             (チャールズ・チャップリン監督『殺人狂時代』)
 母が、通りすがりに、冷笑によって男共を打ちのめそうと試みた。だが、父に窘められ、真っ赤になって抗弁した。「戦争がどんなものか、知りもしないくせに」
 父は沈黙した。母は空襲を体験していたが、父は飛び立ったら帰らない飛行機に乗る順番を待っているうちに戦争の方で勝手に終わられてしまったという。戦闘や空襲どころか、軍隊経験さえない。
 戦争に限らず、父には、体験がない。いや、体験談がない。彼の体験談を、ほとんど、聞かされたことがない。父の体験談を代弁してくれる人に逢ったこともない。私は、ときどき、あの人は実在したのだろうかと思うことがある。私の悪夢の登場人物に過ぎないのではないか。彼が持っていたのは、意見だった。私は、古い映画や本などを見た後、それについて、父が何か言っていたと思うことがある。どうせ、気ままな印象批評だろう。その内容は、思い出そうとしても、思い出せない。こうだったか、ああだったか。私は、いつの間にか、顔のない半可通を捏造し、それと論争を始めている。半可通は、何とでも言う。だから、百万言を費やしても、論破できない。へとへとになって、やっと、自分の愚行に気づく。私は、自分の持てる、すべての知識を、敵に送りながら、論争している。私に送られるのは、せせら笑い。
 十代の終わりに古今東西の名著を読破したと豪語する父の言葉を、私は、今も信じている。戦時中の物資の不足した時代に、少年が名著を読破したというのに、出版物過剰供給の時代を何十年も生きて、私は、読破どころか、何が名著なのかさえ、よく知らないでいる。読破はしても、理解できなきゃ、無駄なんだよ。そんな無駄な反駁をしている。
 当時、学級担任から、大陸で馬に乗って戦う兵隊の話を聞かされた。近くに何倍もの敵が迫っていた。敵は、まだ、こちらの存在に気づいてはいない。気づかれたが最後、誰も生きてはいられまい。敵の戦車は、大型の最新式で、地雷に乗り上げても、中から兵が出てきて、覗き込み、しばらく、ごそごそ、やっていたかと思うと、何事もなかったように動き出す。
 息を潜めて敵をやり過ごすしかない。しかし、馬が嘶いた。荒い息を吐き、足踏みし、白目を剥く。口の端に溜まり、垂れる、粘った泡のかたまり。じっとしてろ。首を撫でる。敵の馬の匂いが流れて来て、それに反応するのだろう。風向きが変われば、今度は、敵の馬が嘶き、人間に知られる。移動の命が下る。音をさせないよう、蹄に布を巻く。だが、効果は薄い。殺すしかない。長年、苦楽を共にしてきた愛馬だ。人の手に掛けるには、忍びない。やるなら、自分がやります。人間は、声を上げずに泣いた。馬は観念したように見えた。賢いのだよ、馬は。濡れた目を見開き、彼らの問いにならない問いに答えられぬ人間の愚かさを許してくれた。大きく首を振り、横ざまに倒れる。闇の中、肉の裂ける、鈍い音が、計ったように同じ間を置いて聞こえた。
 自分達が助かりたいばかりに殺したのではない。分かってくれ。負け戦では、馬は惨めな死に方をする。たとえ、戦闘を生き延びることができたとしても、乗り手を失った馬は、荒野をさ迷い、飢えと乾きに苦しみながら死んで行く。そんな目に遭わせたくなかった。だから、剣で、馬の、ここの所を、甘えて擦り寄せる首の、この……
 彼は自分の体を使って、馬の急所に幻の刃を当てて見せた。そこに、私達の見たことのない、鋭い物が飲み込まれたのだ。
 休み時間、鉄棒にぶら下がり、誰も何も言わなかった。一人が逆上がりをし、鉄棒に、鳥のように留まった。支柱に寄り掛かり、雲を見詰めている子もいた。曇天の下、子供が、火照った耳を鉄棒に押し当てる。靴底で、やたらと地面を削るようにするのは、[自分は、いつになったら、あの物語を語れるようになるの だろうか]と、思案していたのかもしれない。目が合うと、ふうっと恥ずかしそうに笑った。いや、笑いとは違う。反芻しているのだろう、死んでいく馬の物語を。
 「分かってほしい。愛すればこそ、殺したのだ」
 分かるとも、分からないとも、答えられない。聞いていることしかできなかった。
 物語は、[分かる]べき性質のものではない。また、分かったからといって、語り継いだり、書き残したりしなければならないものでもない。物語は、語り手の死とともに、どこかへ転がってってしまえばいい。転がってって、そして、丸いだけで何の変哲もない石ころになって、何万年も、じっとしていたらいい。ときとして、人は、それを見つける。見つけたと思う。だが、見つけたのではない。見つけられるのだ。
 私は、馬の物語に見つけられたわけでもないのに、今、こうしてそれを書いている。彼がどんな物語の語り手だったか、語らなければならないと思われるからだろう。
 あるいは、彼は、馬の物語を語るために、大陸から生きて帰って来たのだとも言える。彼は、物語に見つけられたので、生き延びることができたのかもしれない。
 馬には馬の匂いがある、そのせいで死ななければならないような匂いが。人にも、そのような物語がある。物語、あるいは、歌、踊り、絵、模様、額の傷……。私には、それがない。
  おとなたちは、いろいろとふしぎなものを見ていた。年をとればとるほ
 ど、いっそうふしぎなものが見られるようだ。彼は自分も秘密の仲間にく
 わわれるような気がした。いまこそ彼も、冬の夜、みんなに話してきかせ
 られる彼自身の物語を手に入れたのだ。
  父親は、きっと、こういうだろう。
  「ジョディ、あの二頭の牡熊が道でけんかをした話をきかせてくれない
 か。」
               (ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳)


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