『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#014[花]

 教師は、一枚の絵を取り出した。それは、私達が初めて水彩を使って描くことを許された日の、私の絵だ。家庭訪問の日のこと。
 私の記憶では、彼の顔は、なぜか、青黒い。そして、ひどく高い所にある。しかし、その日だけは、彼は、青くもなければ、長身でもなかった。いやに白く、小さい。
 広い、広すぎるほどの画用紙を縦にして、開きかけの、木蓮だか、蕾が一輪、描かれている。これがどうかしたかと言うように、親達は顔を上げた。
 こんな大きな花瓶に、いっぱいと、教師は仕草を交えながら言う、花は生けてあった。数え切れないほどの花を、大きな、絵付きの花瓶に生けた。それが教室に持ち込まれたとき、生徒は歓声を上げた。普段は笑わない教師も、にこにこしていた。黒板にはバックの布まで貼られ、本格的。花の豪華さについて、彼は繰り返し強調せねばならなかった、親達の反応が鈍いので。
 初めて使う水彩絵の具、初めての静物、初めての写生、そうしたものに対する心地よい違和感が薄まる頃、私の周囲で落ち着かない声がいくつも上がった。何だろうと見回せば、私の絵が見下ろされている。授業が始まって間がなかった。わくわくして、乾いた筆で友達の頬を撫でたり、軸の尻で人をつついたり、下書きの鉛筆の線を引いたり消したりして、ちっとも進まないのが大方だった。中には、水を汲みに行って帰って来たばかりの子もいた。なのに、私ときたら、もう、することがなかった。白い所がなくなり、水を含ませた筆で、すでに塗ってあるバックの黄土色を、ぺたぺた、撫で回していた。
 人垣を割って入り、教師は、黙って私の絵を見ていたが、私には何も言わず、生徒を席に戻らせた。
 家庭に問題があるのではないか。教師は、慎重に切り出した。
 花、花、花。それらを区別して描く気力が、私にはなかった。その横っちょに一本、離れて突き出した枝とその先の惨めな蕾だけを、私は描いた。
 父が腰を浮かせながら、私に笑いかけ、「一本だけ出てるのが格好いいと思ったんだよな」と言って、部屋を出て行った。その指摘は、当たっていた。一本だけ、ひょいと出ている枝を見つけたとき、嬉しかった。目が吸い寄せられるとはこのことだろうと考え、目頭が熱くなった。[でも]と、私は去って行く父の姿を目で追いながら、急に心が空っぽになるのを感じた。でも、そこまで分かっているのなら、なぜ……。
 後は言葉にならない、今も。
 では、問題はないのですね。教師は、念を押した。ちょっと、凄みがあった。だが、母には何の影響も与えない。彼の方も、善行を為そうとする度に、[自分は、戦争で何をして来たか]と、日蔭の問いに、ねちゃっと絡まれるようなところがあるのか、もう一つ、迫力に欠けた。
 私は、母に注目していた。父がいなくなったのだから、母は本当のことを言うはずだと思った。だが、彼女は笑った。私は、自分の目を疑った。彼女が救いの手を撥ね付けようとは思いもしなかった。私は、教師に何事か訴えようとしたのではなかったか。思い出せない。言葉はあったはずで、そして、それは飲み込まれた。
 私は、教師に訊かれはしなかったか、君に問題はないのかと。訊かれていたら、どうだろう。私には、言うべきことがあったはずだ。しかし、言葉にはできなかった。はあ、どのみち、そんなこと、問題にもならない。結局、彼は訊かなかった。
 その後、彼が訊いて来たとしても、もう、遅い。「君に問題はないのか」と問われれば、へらへら、笑い、「え、何? え? ない、ないね。ない、ない」と答える。そうやって、お道化ずにはいられない子供の心の襞が読み取れるおとなかどうか、試す。
 問題? 問題のないわけがない。だって、私は、なぜ、吃音を真似たか。なぜ、チックを真似たか。私は、親の前でだけ口が利けず、親とだけ目を合わせられなかった。目が、ちかちかした。舌が強ばった。
 私は思い出す、黄色の家の前に4年間だけ住んでいた二軒長屋を。二間きりの部屋の仕切りの襖が開いていて、向こうの部屋に、母の着物や帯が虫干しのように何枚も掛かっている。こちらの部屋の雨戸は、締め切ってある。外出の前だろう。正月で、初詣に出かけようというところか。だったら、例によって、母親ははしゃぎ、父親の不興を買ったのだろう。室内は薄暗い。私と幼い妹が、少し離れて、手を繋いでいてもいいような感じで立っているが、多分、手を繋いではいない。寄り添うようで、決して接触しない間隙を、私は保った。私の目は、大きく見開かれていたことだろう。妹の目は、さらに大きかったろう。私は悲しみと恐れで竦んでいたが、妹は驚きのために硬直していたと思う。細かく震えていた。私は、何度か、彼女を見た。顔からは、どのような感情も読み取れなかった。あらゆる感情の萌芽のようなものが、根こそぎ毟り取られつつあるようだった。一瞬一瞬、がきがきと岩を削るように壊れていくものがあった。なぜ、あの時、私は彼女を連れ出さなかったろう。私は、彼女の受けているショックの大きさに困惑していた。つい、この間、生まれたばかりだったのだ、あの、小さな、小さな女の子は。
 どこへも行くな。そこで見ていろ。父は、そう命令しなかったか。恥ずべきことではない。悪を懲らしているところだ。
 父が、俯せの母に馬乗りになり、結い上げた髪を両手で崩していた。母の手足が蛙のようにばたばたして、着物の裾が捲れ、白い脛が出る。ユーモラスなようで、不気味。父の顔は、赤く、黒い。切り傷のような皺が、額に何本も走る。別人のようだ。鬼。
 この段落を、[いわゆる「原光景」の取り違えと読まれては、困るな]と思いながら書いた。取り違えようはない。彼らは服を着ていたのだし、男と女の遊び方がどういうものか、子供でも分かるはずだ。勿論、私が勘違いしていた可能性はある。例えば、[男と女の肉体的接触は子供時代の悪弊に過ぎず、おとなはしないことだ]というような。夜尿のようなもの。中学生のとき、私は、[人間の子供は人工受精でできるのであって、教養のない人々だけが動物と同じやり方をする]と、[両親があんなことをするのかと思うと、気持ちが悪い]といって悩んでいる同級生に、そう言って慰めてやったことだ。
 私は、親達の顔を直視できなかった。話すとき、相手の顔を見るように言われたので、頻繁に瞬きをすることにした。瞼の裏側に、隠れられるものなら、隠れてしまいたかった。近所にチックの子がいて、[これは、うまいやり方だ]と思い、取り入れた。吃音も同じで、発語に際し、テンポを壊すと、僅かながら気が休まるのを覚えた。どれかを禁じられ、どれかを始めた。どれも禁じられると、焦点が対象の存在する位置よりも少し奥の方で結ぶように、目を工夫した。やがて、鼻を穿るようになった。今度は、叱られても止められなかった。わざとやっているのではないから。いつも、目交いに、薄い乳白色の物が漂う感じだった。その白いような物を取り除かないではいられない。
 そうしたみっともない癖の一種であるかのように、貧相な絵は描かれた。
 親達は、相談の結果、私を画塾に通わせることにした。


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