『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#015[糸]

 思い出した。水彩画の授業がある前の日、父から透明水彩の技法を伝授されていた。難しかった。だから、花を一輪だけ描くという安直な方法に逃げた。不透明水彩の技法を、父は忌まわしいもののように非難した。油絵じゃないんだ。何度も言われた。当時、学校で買わされた絵の具が透明水彩であった可能性は、小さい。
 親達は、子供を口実にして、自分達の子供時代を生き直そうとしていたようだ。玩具は、まず、父親に遊ばれた。友達は、母親が手なずけた。私は、残り滓を下賜された。彼らのことを思うと、精力を吸い取られる感じがする。
 人は笑うだろう、親の目を盗んで一人前になるものだと。私は、親に、そう言われた。
 私は、自転車に乗れない。父親に禁じられていたから。子供達の集団に自転車がやって来ると、彼らは先を争って乗りたがる。私は、さりげなく、その場を離れなければならなかった。私は、転んで、彼らと同じ傷を負うことがなかった。彼らが旅団を組んで遠征し、眺めた森、迷った道、出会った病い犬を、私は知らなかった。彼らのポケットから湧いて出る団栗、鍬形、蝋石の発見場所を、私は知らなかった。彼らは、なぜ、ある言葉を聞くと笑い出し、肘で小突き合うのか。私よりも幼い子が、なぜ、私を見下すような目をしても許されるのか。誇らしげに捲った腕、腕、腕の、飾り紐のような蚯蚓脹れの由来を、私は知らなかった。調子を合わせて笑うと、睨まれた。ときに、物語は語り始められはするのだが、しかし、それは、決まって、突拍子もない高笑いとなって大空に放り投げられ、弾けて終わる。一緒にいなかった者には、いくら話しても、無駄だ。ちぇっ、県営プールにだって行けなかったじゃないかよ! 
 中学生にもなって自転車に乗れないことを知った、父方の祖父が、自転車を買ってくれた。父は祖父と仲が悪いと、母は言っていた。自転車を隠し、父のいないときを見計らって練習していた。でも、見つかった。父は、「乗れないのか」と言って、あざ笑った。驚きの余り、口が利けないでいる私に代わり、母が、誰が禁じたか、父に思い出させた。父は、うっと詰まったが、すぐに、「親に言われたぐらいで諦めるなんて、それでも男か」と開き直った。腰の蝶番がおかしくなる感じがした。何かが壊れた、ポキンでもなく、BANG! でもなく、ぐしゃあと、ゆっくり。最後の糸が切れたと思った。人間、言おうと思えば、何だって言えるものなのだなと、心の中の仕切られた片隅で、妙な感心の仕方をしていた。その後、自転車に乗ろうとするたびに、父のせせら笑いが思い浮かび、むかむかして、目の前が赤黒くなり、練習する気になれなかった。
 5歳の頃、ボールの捕り方を教えられた。手で掴もうとするな。ボールから目を逸らすな。じっと見ていたら、自然に手が挙がる。そう言われて、ボールを見ていたら、直球が鼻にぶつかった。本当に手が挙がるのかなと疑いつつ、自然に挙がる様子を観察する気でいたが、ついに腕はピクリともしなかった。
 [自然]という言葉が、分からない。自然というものが、人を人に仕立て上げるのか。私が普通でないとしたら、私の知らない自然が私を見離したからか。
 私は、ボールが顔に接近しつつあるのを見ていた。ボールは大きさを増し、視野を覆い始めた。白球が灰色になり、そして、黒くなり、縁がぼやけた。中心が小さく、赤く弾け、世界に鉤裂きができた。そこから運動場が覗けた。遠くの方で父が笑っていた。謝りながら、そそくさと帰り支度を始めている。
 バットを構える時、「肩の力を抜け」と言う人がいる。肩の力を抜いたら、バットを構えるどころか、持ち上げることさえできない。そう言うと、「屁理屈はできるようになってから言え」と切り返されるのだろう。できないから教わってるのに。水泳でも、「ばた足は、脚を棒のように真っすぐにしろ]と言う人がいる。そんなことをしたら、脚が、それこそ、「棒のように」なってしまう。オリンピック強化コーチでさえ、そんなことを言っていた。こういうのは、一体、何なのだろう。
 幼い頃、私と同じ背格好の子供が、片方だけ補助輪付きの自転車で、さあっと横を通り過ぎて行った。私が、自転車を買ってくれとねだると、父は、「おまえは乗れないんだろう。乗れなけゃ、買ってもしょうがない」と言った。「でも、補助輪付きなら、乗れると思う」と言うと、「補助輪付きで乗っていたら、いつまでたったって、乗れるようにはなれない」と言った。頭が、くらくらした。
 中学になって、父親に、体育クラブに入らされた。そのとき、「選手に成るな」と、厳命された。勉強に差し支えるから。なのに、上達しないと、父は嘲笑した。方針が変わったのかと思って頑張って、補欠にでもなりかけると、やはり、「選手に成るな」と言われた。下手な振りをするほど、器用ではない。上達しないように心掛けながら、下手でない程度を維持しなければならなかった。手を抜いていると思われると、教師に説教されるので、ばたばたと、いたずらに体力を消耗して見せなければならなかった。
 ここまで書いて、ふと、思った。父は、上達しても選手を辞退できると思っていたのだろうか。まさか、そんな生意気な真似、できるわけがない。
 ボーイ・スカウトに入らないかと言われた。入ってもいいというと、さまざまな訓練の例を挙げ、できるかと問われた。当然、できない。すると、待ってましたとばかりに、あざ笑われた。飼っていた犬を競技会に出さないかと言われ、出してもいいと言うと、犬に芸はできるかと問われた。できない。笑われた。
 母も、同じようなことをしてくれた。母に、『次郎物語』を勧められた。私は読みたくなかった。挿絵で、田舎臭い、暗い表情の子供が項垂れていたから。次郎という貧弱な名前も、いやだ。本に触れるのさえ、汚らわしい。しかし、母親の顔が鬼のようになり始めたので、読んだ。すると、簡単に自己投影して、感想を述べるために母の前に座った。ところが、タイトルを口にしただけで、目を逸らし、「次郎君はねえ、ちょっと、考え過ぎだから」と、言葉を濁した。
 「子供って、ただ可愛がってやりさえすればいいのね」(下村湖人『次郎物語』第一部)という箇所を、私が思い出させたがっていると察したのかと疑った。そして、分かったと思った。次郎は、私ではなく、母だったのだ。私は、『次郎物語』を元にして、母の半生記を想像しなければならなかったらしい。母は、自分の母親に冷たかった。祖母の葬式で、母は泣いた。私は、自分の目を疑った。
 親達がどういう人達なのか、私は知らない。嘘っぽい御意見は拝聴した。数に限りのある、断片的な印象も、なぜ、それを聞かせられるのか、分からないまま、聞くには聞いて、忘れた。覚えているのは、二人が嘘ばかりついていたことだ。彼らは、お気に入りの嘘の世界に互いを引き込もうとして、激しく争っていた。無益な争いを、十数年、見せられた。彼らは、自分自身に対してさえ、嘘をついているようだった。彼らは、プチ・ブルから下層階級に転落しかけ、過去を封印しつつ美化していた。私が彼らを知らない人のように感じるのは、彼らが本当に信じていることを知らないからだと思う。あるいは、何も信じていないということを、知らないから。当時、[彼らにも彼らの物語はあるのだが、私にはそれを聞く資格がないのだろう]といったふうに思っていたような気がする。物語がないとは思えなかった。物語の雰囲気は醸し出されていたのだから、しかも、濃厚に。


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