『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#016[耳]

 なぜ、書くのか。読んでもらいたいからだと、人は思うだろう。でも、違う。私は、人に読まれたくない。
 人に何かを伝えようとする自分を想像してみる。すると、喉が横に裂け、口ができ、とんでもないことを喋り出す。目や耳は二つある。鼻だって、穴は二つ。なのに、なぜ、口は一つきりなのか。生殖器や排泄器は、一つずつだ。口は、これら卑しむべき器官の仲間のようではないか。
 なぜ、書くのか。書かずに済ませたいから。こんなふうに、ぐだぐだ、書かないでも生きられるようになりたい。書くとしても、例えば、「夜々、真鍮の皿の上で、栗の毬は静かに割れていった」とか、「渇水の夏、川の浅瀬に、濃い緑色の水草が、女の髪のように、ぼってりと身を横たえている」とか、「雪の朝、あの人はラベンダーの香りで目覚めるだろう」とか、そんなふうになら書いてもいいかなと夢想する。なんてのは、悪意を滴らせた冗談で、私は私の読者にうっちゃりを食わせた気だ。私は、読まれたくない。読まれるために書かれつつあるかのような、この文体を嫌悪する。本当の語り手は、私ではない。聞き手こそが語る。あなたは、その耳で、私に語らせている。
 ああ、この文体! 私は、この文体を、いつ、手に入れたろう。小学3年生のときだ。あの黄色の家で、忘れようもない、休みの日、家でぶらぶらしていると、母が宿題は済んだかと訊いた。済んだと答えたが、隠し事はしない約束だったので、作文もあるけど、書きたい人だけ書けばいいんだと付け足した。すると、書きなさいと言われた。
 でも、書くことがない。毎日、ぼんやり、暮らしていた。ぼんやりすることは、一種の防衛。擬死。
 材料を、母が、あれこれ、見繕ってくれた。どれも書けそうにない。最後に残ったのが、妹。私の生活は、この、小さくて、すぐ泣く、正体不明の動物に、ひっかき回されていた。
 思い出して御覧。いろんなこと、あったでしょ。こんなことも、あんなことも、それに、ほら、あのときは、どう。
 こんなこと、あんなときについて、私が書き取って行く。しかし、丸写しではいけない。子供らしさを出すこと。いえ、そうじゃなくって。それじゃあ、妹がちっともかわいくないみたいじゃない。かわいくないの? かわいんでしょう? よく思い出して。あなただって、一緒になって笑ってたくせに。
 書かれている私は、快活で利口そうな少年だ。歪んだ口元は穏やかに引き上げられ、春の日差しのように柔らかな微笑に修正される。書かれている妹は、無垢の象徴、悪戯好きの妖精だ。幼いものの不足は、暖かいユーモアで包まれる。諍いは、不可避というよりは、人生を豊かなものにするために不可欠のスパイス。
 書かされている私にとって、原稿用紙3枚の道のりは、拷問そのものだった。私は、ぽろぽろと涙を流し続けた。自分の思いとはまるで掛け離れた言葉。事実は、確かにあった。ありはしたが…… 
 あなただって、笑ってた! 
 いっそのこと、母が代筆すればいい。私は署名だけしよう。いや、その署名というのが、本文なのだ。原稿用紙に記された言葉が私自身の心から出たものだと認めるまで、次の文に進ませてもらえない。
  裁判官さま。何を申し上げたらいいか、言ってください。私がどんなこ
 とをしたのか私にはわからないのです。綱をゆるめてください。ほんとう
 のことを申しますから。何を言えとお望みなのか、私にはわかりません。
 おっしゃってください。その通りに申します。
  (H.C.リー『スペイン異端審問史』所載、森島恒雄『魔女狩り』より再引用)
 書いては消し、消しては書く。消しゴムの滓を畳に捨てるんじゃありません。原稿用紙に滓を載せて捨てに行くのが、ささやかな息継ぎ。滓を製造するために、書いては消す。
 父を欺くようには、母を欺けなかった。父なら、わざと失敗して見せて、嘲笑に耐えていたら、放免される。しかし、母は、母の考えている言葉を私が私の考えた言葉であるかのように記すまで、手綱を緩めてくれない。しかも、母は、自分の頭にある言葉とは違う言葉を使って、私を試みているようだ。私は、必死になって、母の頭にある言葉を推測する。そして、どうにかこうにか、探り当てるのだが、しかし、それは自分の気持ちとは違うので、書きたくない。母の考える[私の気持ち]は母の頭の中にあるのに、母は、[私の気持ち]が私の頭の中にあると私に思い込ませようとして、躍起になる。歯を食いしばり、原稿用紙を睨みつけている。たとえ、私が私の気持ちを言葉にできて、それが母の頭の中にある[私の気持ち]を言葉にしたものと同じだったとしても、書きたくはない。本当の気持ちだから書かねばならないとか、書いて嬉しいとは限らない。そもそも、母が私に思い込ませようとしていることを、母自身が少しも信じてはいないのは、明白だ。ただ、淡い夢を見ているだけ。私が優しい兄で、妹を可愛がっているという夢。私に[優しい兄になれ]と命じているのでさえない。夢を現実として信じるように示唆している。
 苦痛は判断力を低下させる。私は、夢現つで、最終行に辿り着く。
  裁判官さま、言ってください。ほんとうのことというのを教えてくださ
 い……
                              (同前)
 後、一行だ。この一行を書けば、許される。
 [それでも、やっぱり、かわいい妹です]
 終わった。
 終わった。その時、ボクも終わった。
 次第に感覚が戻って来て、自分の前にある文字を眺める。紛れもなく、自分の筆跡だ。しかし、そこに自分の気持ちは現れていない。どこにもいない「ぼく」という少年が語る、どこにもない家庭の喜劇。
 母の両親は病弱だったので、兄弟姉妹で家事を分担していたらしい。子供達は、互いが親になり子になりして、疑似家族を営んでいたのだろう。だから、私と妹も現実とは別の物語を綴っていなければならないと思っていたのかもしれない。あるいは、そうしなければ、子供時代を生き延びることはできないと、暗に教え込もうとしていたのかもしれない。暗に? そう、大事なことは、いつも、暗に伝達されていた、あの黄色の家では。明言されるのは、決まって、冗談か、嘘だ。
 叔母は、自分の書いた童話が初めて活字になったとき、見せに来て言った。
 「作文は、本当は、お姉さんの方が上手だったのよ」
 母は、聞きながら、耳まで真っ赤になっていた。意外だった。初めて目にした、ひしゃげたような姿。肩が、ちぐはぐのまま、動かない。目は弱々しく伏せられていた。小娘みたいに首を揺らしている。はあと、熱いような溜め息を落とした。


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