『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#017[虹]

 父に、「要領が悪い」と言われ続けた。「軍人は要領を旨とすべし」
 母の決まり文句は、「臨機応変」だった。冬、厚着をさせられる。暑いので、脱ぐと、叱られる。しかし、汗をかいても着ていたら、叱られる。抗議すると、「リンキオーヘン」と来る。「機ニ臨ミ変ニ応ズ」と読み下してもらったところで、どうなるわけでもない。嚥み下すしかない。
 彼らの台詞が、どのような文脈でなら意味を持ち得るのか、今でも想像できない。
 子供向けの商品を売りに来る人がいるので、会うように言われた。それは高価な商品なので断りたいが、義理のある人からの紹介なので、子供が気に入らなかったことにすれば角も立つまいということで、よろしく。ただし、こんな入れ知恵をされたということが知れては、困る。だから、そこは要領。
 販売員の話を一通り聞いてから、私は、要らないと言った。すると、なぜかと問われた。問うたのは、販売員ではない。父だ。私は、驚きつつも、商品の欠点を父に向かって説明し始めた。販売員は、一先ず、うむと頷いて見せたのに、反論を父がして来た。それに耳を貸し、私が納得するふりをすると、父は、さも満足そうに、ソファの背に凭れた。私は、別の欠点を探し出し、指摘した。父が、ぐっと身を乗り出し、説得にかかる。何か、合図でも送られてくるのだろうかと、父の目を見たが、無駄だった。それは、2個のガラス玉に過ぎない。
 書きながら、初めて思い当たる。問題は、時間だったのか。茶番を、一定時間、持続することだけが問題で、商品に対する不満など、どうでもよかったのかもしれない。
 販売員は、ちらちらと、父を見ていた。思えば、見破っていたのだろう。相手も商売だ。
 茶番。あの家で起きていたことは、この一語に尽きる。父と母に共通していたのは、ガラス玉のような目だ。
 高校3年生のとき、進路のことで、母と話しているうちに、おかしなことに気づいた。私が、就職を仄めかすと、「当てはあるのか」と言った。当てがあれば賛成だというような含みのようだが、決してそうではない。お芝居だ。自分の息子が優秀でないという事実を、母は受け入れられなかった。病弱だった、自分の母親に代わって、母が面倒を見たらしい弟は、優秀だった。彼女には[母親]としての実績がある。
 母は私の志望校について言った。こんな誰も知らないような学校に行くなんて、みっともない。どんなところでも、自分さえしっかりしていればいいと思っているのかもしれないけど、詰まらない学校には詰まらない人しか集まらないのよ。[私だって、詰まらない人間だ]と言おうとしたが、反応が恐ろしくて止めた。[私の息子の悪口は、誰にも言わせない]
 もしかして、自信喪失してるんじゃないの? 
 自信喪失は悪徳らしかった。
 (自尊心という言葉も、よく聞かされた。私は、この言葉の感じが、長い間、掴めなかった。自尊心なんてものは、自分とは無縁だと思っていた。成人後、見世物小屋の前を通りかかると、呼び込みが「人間としての自尊心を傷つけるようなものではございません」と言っているのを、耳にした。「人間としての自尊心を傷つけるような見世物」というのはどんなものだろうと考えた。頭の中で、人体を変形し始めた。なかなか、[自尊心を傷つけられる]感じがしない。桜の道から埃っぽい街に下りても、ずっと人体の変形を続けていた。すると、突然、気分が悪くなった。身をもぎ離すようにして、空想を止めた。近くの喫茶店に飛び込み、腰を下ろし、肘掛けに凭れて、一息つく。とりあえず、水。[自分にも、人間としての自尊心があるのだろうか]と思った)
 大学には行かなくてもいいと、私は言った。で、どうする気。就職。当てはあるの? ない。じゃあ、進学なさい。うん。どこ、受けるの。こことか、ここ。もう、こんな誰も知らないような大学、止めてよ。止める。で、どうすんの。就職。当てはあるの? ない。もっと、ちゃんとしたとこ、受けなさいよ。うん。受けたら、受かるの? 分からない。受かりもしないとこ、受けるなんて、受験料、勿体ない。うん。じゃあ、どこなら受かるの。こことか、ここ。もう、止めてよ、そんな誰も知らないようなとこ。誰も知らないなんてことはない。ここは、どうなの。無理。浪人すれば、受かる? 分からない。
 母は繰り返す、どうする気。私には、答えられない。質問の意図が不明。自問だったか。[こんな駄目な息子を持って、どうする気なの、私は]
 もっと良い大学を受けろ。うん。受かる? 無理。では、止せ。止す。どうする気。面倒臭くなって、私は黙っていた。母も黙っていた。ところが、しばらく、虚空を凝視していたかと思うと、さっきとまったく同じ口調で始めた。もっと良い大学を受けろ。うん。受かる? 無理。では、止せ。止す。どうする気。私は黙る。母も黙る。しばらくして、また、同じ問答を始める。同じ言葉を繰り返すにしても、普通は少しずつニュアンスが変わるものだが、そんな変化は認められない。まるで始めてのように、同じ言葉が繰り返される。私も、わざと過去の積み重ねが感じられないような口調で応じていた。ところが、その嫌みが通じない。問答が一巡し、沈黙があって、今までのことはなかったかのように再開。私は、あからさまに、にやにやしていた。でも、気づかない。問答が一巡する。歯を食いしばり、虚空を見る。視線の先に、約束の虹でも架かっていたか。
 思えば、夫婦喧嘩の数日後、久々に父が食卓に着くと、母は妙な遊びを始めるのだった。私には分からないことを口走り、父に目配せし、笑い掛ける。父は、くくく、低く笑いに紛らしているが、今に怒り出すことは目に見えている。子供達は、びりびりしている。椀に鼻先を突っ込み、顔を隠すようにして飯をかき込む。しかし、母は、体験から何も学ばないかのようで、あるいは、体験を作り替えようとしているかのようで、父が警告を全身で発しているのに、気づかない。あるいは、わざと警告を無視するのか。奇怪な微笑で満面をキラキラと輝かせながら、意味不明の話を止めようとしない。どうやら、母は、父を子供扱いしているらしい。
 少女期の母には、家族の疑似的父親であった弟、また、疑似的母親である自分にとっては疑似的夫でもあったらしい弟を、ときとして、疑似的息子として取り扱う習慣があったのかもしれない。だから、母は、夫のような弟が息子のように従ったのだから、自分の夫も、弟のような息子のように従うことができると考えていたのかもしれない。何も、本当に従えというのではない。疑似的に従うのだから、男の自尊心は傷つかないはずだ。そんなふうにでも考えていたか。
 (叔母には、自分の姉を母親のように立てて嬉しがらせ、その背中で舌を出すような雰囲気があった。母は、それに気づいていて、気づかないふりをすることにしていたのだろう。上の叔父は、私の父親のように振る舞おうとして、いや、そのように振る舞うことを母に依頼されて、実際に振る舞い、そして、私によって拒まれた。下の叔父は、姉達と兄の共通の息子のようで、とにかく、にこにこしていさえすれば大過はないと信じているかのようで、私の前でさえ、おとなしくしていた)
 少女期に獲得した人心収攬術を、母は、父にも適用させなければならないと決めていたのかもしれない。父を凹ませるだけではなく、子供達の前で、父に懴悔させたかったのかもしれない。夜中、二人で話し合ったこと、あるいは、二人で話し合って決めたと母が夢見ていることを、子供達に告げるよう、父は促されていたのかもしれない。あるいは、決めたことを子供達に告げるのは自分の役目だと、父は、口封じのため、軽い気持ちで約束をしていたのかもしれない。さて、何を決めたと、母は思っていたのだろう。
 ふ。冷たい風がよぎる。父の手が挙がった。さあ、また、一週間ほど、嵐。


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