『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#018[夜]01

 Lとは長い付き合いなのに、気づかなかった。気づかない方が、私には都合が良かったのだろう。でも、だんだんと分かってくる。夢の中で、なぜ、Lと母が混同されることがあるのか。Lといるとき、母を前にしているときのように、落ち着かない。あるいは、重いもの、長いもの、尖ったものを、寝室に置かないようにしてきた、そのわけも分かってくる。
 ある日、Lは言った。「南瓜があるんだけど、どうしたい。天麩羅?」
 私は答えた。「天麩羅もいいけど、煮た方がいい」
 Lは黙っていた。しばらくして、また、訊いた。「南瓜は、何がいい。天麩羅?」
 私は答えた。「天麩羅もいいけど、煮た方がいい」
 Lは黙っていた。しばらくして、また、訊いた。「南瓜は、天麩羅がいい?」
 私は言った。「天麩羅もいいけど、煮た方がいいって言ってるじゃないか」
 「そうね」と言ったきり、黙り込んだ。また、同じことを言うのだろうかと思っていると、本当に訊いてきた。「南瓜が……」
 「私が、天麩羅を食べたいと言うまで、繰り返す気?」
 きょとんとしている。
 あるとき、Lは言った。「私はあなたの言っていることを次のように理解するんだけど、それでいい?」
 「私が同じことを言ったら、どう答える」
 別のとき、こう言った。「私は、私の頭の中にある世界に合うように言葉を作り替えないと、私が私でなくなるようで、とても怖い」
 このような告白を引き出すのに、ざっと10年はかかった。
 「だって、自分の意見を押し付けるのは、良くないことでしょう?」
 涙で頬をべとべとにさせながら、Lは抵抗した。
 「じゃあ、誘導することは良いことなのか」
 「押し付けるよりは良いと思う」
 「よその国を植民地にするよりは、併合する方が良いってわけだね」
 長い時間をかけて聞き出したことを総合すると、次のようになる。
 人間は、自分の考えを他人に押し付けてはならない。自分の考えを表明することも良くない。自分が他人と異なる考えをもっていることを悟られるだけでも良くない。他人がある意見を持っていることを知れば、それを知った人は相手の意見に合わせなければ済まないような気分に苛まれることだろう。それでは、押し付けたのと同じことになる。
 そのくせ、陰口なら、いくらでも許される。陰口というのは、入会地のようなもので、誰のものでもないからだ。陰口は、語るものではなく、[きく]ものだ。
 Lに、もし、当たり前の口が利けたら、こう言うのだろう。
 人には、それぞれ、他人が踏み込んではならない、個人的な世界がある。
 私は、その考えに敢えて逆らおうとは思わない。哀れだとか、下らないとか、感想はあるが、人生観は人さまざま。問題は、その後に生じる。
 自分の世界を壊されないためには、そんな世界があることを悟られてもならない。
 禁域が明示されていないのに、禁域を犯すなと言われても、従うことはできない。それどころか、侵犯したことさえ分からないのだから、経験から学ぶこともできない。
 私が、いくら、口を酸っぱくして言ってみたところで、Lは、私の言葉を自分の[世界]に合うように歪曲する。否定すらしない。私が何を言おうと、私の言ったことは、所詮、私の言ったことに過ぎない。私がどんなに汚い言葉を投げつけようとも、その言葉は私の言葉でしかない。どう足掻いても、いや、足掻けば足掻くほど、私は窮地に陥る。そのさまを、Lは、平然と眺めている。嘲笑すらしない。
 Lは黙りこくる。しかし、その沈黙は、一度は言葉だったものだから、余程ぼんやりしているのでない限り、行間を読むように伝わる。「あなたは黙っているほうがかえって耳ざわりだ」(シェイクスピア「から騒ぎ」小田島雄志訳)
 Lの沈黙は語る。
 各個人の[世界]間では、吸収、合併、対立、統一、総合など、どのような関係も生じてはならない。平和を維持するためだ。その第一歩は、人と自分とを分け隔てしないこと。あたかも同一の存在であるかのように振る舞うこと。自分が知っていることも、相手が知らなければ、自分も知らないふりをしなければならない。自分が知らないことも、相手が知っていれば、自分も知っているふりをしなければならない。そうやって、平等で平和な世界を維持する。この[世界]平和のために、私が払って来た犠牲の大きさに、人々は気づかない。少しは感謝してほしいものだ。恩知らず。そう言って責めてもいいのに、責めない私の忍耐力について、私は一言も語らない。
 私は反論する。誰も、あなたの犠牲など、望んでいない。望んでもいない犠牲に対して、誰が感謝などするものか。Lは、笑う。犠牲は、無償の行為だ。私は反論を試みる。税金を納めたかどうかは、問題ではない。人より多く納めたかどうかも、問題ではない。一番多くても、足りない。一番少なくても、多過ぎる。
 きょとんとしている。
 問題は、たった一つだ。適切な金額であるかどうか。/適切って、誰が決めるの。/みんなだよ。/みんなって?/あなたが、[みんな]と思っている人々のことだよ。/分からない。/[みんな]が誰だか分からないのに、どうやって、みんなの[世界]を守る気だね。[みんな]が誰だか分からないのに、どうして、みんながあなたの[世界]を守ってくれていないと知ることができるんだね。あなたは、自分の知らない[みんな]が自分を守ってくれているのではないかと考えてみたことはないのかね。/分からない、何、言ってんだか。/私にも分からない、あなたが何を言いたくないのか。/分かってるくせに。


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