『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#022[世界]04雑録(2)用例的

  ねえ、君、この位安全な、危險でない思想はないぢやないか。神が事實で
 ない。義務が事實でない。これはどうしても今日になつて認めずにはゐら
 れないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜す。義務を蹂躙する。そこ
 に危險は始て生じる。行為は勿論、思想まで、さう云ふ危險な事は十分撲
 滅しようとするが好い。併しそんな奴の出て来たのを見て、天國を信ずる
 昔に戻さう、地球が動かずにゐて、太陽が巡囘してゐると思ふ昔に戻さう
 としたつて、それは不可能だ。さうするには大學も何も潰してしまって、
 世間をくら闇にしなくてはならない。黔首を愚にしなくてはならない。そ
 れは不可能だ。どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立
 場はない。
                       (森鴎外『かのやうに』)
  非合理的な神秘的な言葉で考えるというドイツ人の伝統的な趣味は、
 決して完全に克服されてはいなかった。そしてもちろんナチにとっては、
 この傾向を強化することが大切だっただけでなく、古いドイツの神話を
 復活することも大切だったのである。そうすることによって、かれらは、
 危険な民主的思想の侵入をはばむ難攻不落の知的「ジークフリート線」
 の建設に資したのである。『意志の勝利』の発端の場面は、奇怪な雲の峰
 を通り抜けてニュルンベルクへ飛ぶ、ヒットラーの飛行機を示している
 ─つまり、軍勢を引き連れて原始林の上に猛威をふるう主神オーディ
 ン、この古代アーリア人の伝説のオーディンの再来なのである。
 (ジークフリート・クラカウアー「プロパガンダとナチ戦争映画」平井正訳、
 『カリガリからヒットラーまで』所収)
  其頃の詩といふものは、誰も知るやうに、空想と幼稚な音楽と、それか
 ら微弱な宗教的要素(乃至はそれに類した要素)の外には、因襲的な感情
 のある許りであつた。自分で其頃の詩作上の態度を振返つて見て、一つ言
 ひたい事がある。それは、実感を詩に歌ふまでには、随分煩瑣な手続を要
 したといふ事である。譬へば、一寸した空地に高さ一丈位の木が立つてゐ
 て、それに日があたつてゐるのを見て或る感じを得たとすれば、空地を広
 野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分
 自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁ひある人にした上でなければ、其感じ
 が当時の詩の調子に合はず、又自分でも満足することが出来なかつた。
                 (石川啄木『弓町より「食ふべき詩」』1)
  とくに『東京空爆』(1938)という作品は「科学を理解することができず、
 科学の嫌いな日本の家庭人」が空襲で大被害を蒙るという内容だったた
 め、大本営海軍報道部第一課長の平出英夫大佐から呼びだしをうけ、今後
 東京空襲を小説にするなといわれた。合点がいかない海野が「なぜです
 か」とたずねたところ、大佐はテーブルをたたいてどなった。「東京上空に
 は、敵機は一機たりとも入れないのだ!」
        (紀田順一郎「人と作品 海野十三」、海野十三「蝿男」所収)
  水本少尉 俺に代って指揮班の指揮をとれ/はあ?/指揮をとるのだ 敵
 を前にして玉砕の心がゆらいだか/いえ 参謀どのは/わしは兵団長閣下
 に報告する義務のあるものだ/すると我々と共に死んで下さるんじゃな
 かったのですか/人情としてはしのびないが 君達の玉砕をみとどける 
 冷たい責任があるのだ 早く突入したまえ/あなたは人に死を強要し 生
 きながらえようとなさるのですか/つめたいようだが わしにはわしの
 任務というものがある/死を命じたものは共に死ぬべきです!! 
                    (水木しげる『総員玉砕せよ!』)
  ある夜、茶椀で飲みかける所へ友だち来り
  「ヤア貴様は禁酒したといふたじゃないか」
  「サレバ願だてが有ッて、一年の内きん酒したが、二年のばして、昼の内
 ばかりやめて、夜はお許しにした」
  「フウそんならば、とてもの事に、三年の禁酒にして、夜も昼も飲んだが
 よい」
           (「禁酒」『聞童子』、宮尾しげを編『江戸小咄集』所収)
  「いい唄だわ」
  と房子は言つたが、『この女は俺の自尊心を庇つてくれてゐる』と龍二
 は思つた。女は明らかにはじめて聽く唄を、いつも親しんでゐる唄のやう
 に裝つてゐた。
  『彼女はこんな流行歌の奥底にある俺の感情、俺がときどき涙をこぼす
 痛切な情緒、俺の男の心の暗がりの底までも見とほすことはできない。よ
 し、そんなら俺は、彼女をただの肉として眺めてやるぞ』
                     (三島由紀夫『午後の曳航』)
  そらあんたお半長やがな
               (「どうらんの幸助」『米朝落語全集』第5巻)
  (人々が、もっともっと蟻のように働きますように…… 夜の11時…… 1
 時…… いえ、朝の4時半までも働きづめに働きますように……)
  人は1日3時間も眠れば十分だと思わない?! トオル君。
  なんのことだい?
                   (吉田戦車『伝染(うつ)るんです』)
  夏、いと暑き日、渡らせ給へるに、御前なる氷をとらせ給ひて、「これ、し
 ばし持ち給ひたれ。まろを思ひ給はば、『いまは』と言はざらむ限りは、置
 き給ふな。」とて、持たせ聞こえさせ給ひて御覧じければ、まことに、かた
 の黒むまでこそ、持ち給ひたりけれ。「さりとも、しばしぞあらん、と思し
 しに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか。」とぞ、院は仰せられ
 ける。
                             (『大鏡』)
  アクタイオーンは、伝説の中では、彼の見るところのものを言い表わし
 えないゆえにこそ見るのである。もし言い表わすことができたら、彼は見
 ることをやめるであろう。けれども、洞窟の中で思いをこらしているアク
 タイオーンは、ディアーナが水浴をしている聖域に断わりもなくとびこ
 んでくるアクタイオーンに、つぎのような言葉を吐かせるのである。わた
 しはそこにいるべきではないだろう、だからこそわたしはそこにいるの
 だ。けれども実際の体験はこういう荒唐無稽な命題に還元されるだろう、
 わたしはそこにいるべきだった、そこにいるべきでなかったゆえに、と。
        (クロソフスキー『ディアーナの水浴』宮川淳+豊崎光一訳)
  悪魔と協定を結んだんです。といっても、私は実際に悪魔の存在なんか
 信じているわけじゃありません。ともかくも、何かしないわけにはいかな
 かったからです。そうでしょう? それで、こういう契約を悪魔と結んだん
 です。つまり、もし私が自分の衝動に負けてその場所にもどったら、私の
 その"考え"がほんとうになるよう悪魔がとりはからう、という契約を結
 んだんです。
        (M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』森英明訳)
  若い男性が、恋人やガール・フレンドに、自分を「ベイビー」と呼んでほ
 しいと言ったり、また、まるで幼い子どものように自分を扱って欲しい
 と思ったりする姿が想像できるだろうか。とんでもない! この歌はママ
 (母親)に向けられているのであって、やはりサブリミナルな同一視の好
 例となっているのである。
     (ウィルソン・ブライアン・キイ『メディア・セックス』植島啓司訳)
  「さあ、そんなに泣いたってむだよ!」とアリスはいくらかきびしい口調
 で自分をしかりつけました。「たった今泣くのはおやめなさいと言ってる
 のよ!」アリスはよく自分に向かってなかなか立派な忠告をするのでした。
 (そのことばを守ることはめったになかったのですが)。そしてときには、
 目に涙が浮かぶほどきびしくしかりつけることもありました。いつかな
 んか、自分を相手にクローケー遊びをしているうちに、自分をだましたか
 らと言って、自分で自分の耳をぶとうとしたことがあったのもおぼえて
 います。この風変わりな女の子は、ひとりで二役を演ずるのが大好きなの
 でした。
          (ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』生野幸吉訳)
  その手はすばやくひっこめられた。しかしジュリアンは、自分の手がふ
 れても、その手をひっこめさせないようにするのが、自分の義務だと思っ
 た。
             (スタンダール『赤と黒』桑原武夫+生島遼一訳)
  私の一生を引受けようとせられた人々の中には、私を主役とした小さ
 な劇をまるで私の発案ででもあるかのように仕組み、それがよく行かな
 かったおりなど少なからず、面目をつぶされるようなかたもありました。
 カルメン・シルバという雅号で文通しておられたルーマニアの国の美し
 い王妃は、かつて国じゅうのすべての盲人を一か所に集めて、楽しいホー
 ムと仕事を与えてやろうという計画を立てられたことがありました。そ
 の町は「光の炉辺」とよばれることになっておりました。王妃はその計画
 のために私に出資してくれようとのことであったのです。計画としては
 たいそうりっぱなものに違いありませんが、それは盲人を独立させるた
 めの近代的の方法ではありません。それで私は王妃に残念ながらお手伝
 いはいたしかねますという返事を差し上げましたところ、ことのほかご
 不興で、なんだか私が自分の利益になることしか考えない女で、盲人のほ
 んとうの幸福を願っていないものででもあるかのようにお考えになり、
 文通はそれきりとだえてその後は一度も直接にお手紙をいただくという
 ことはありませんでした。
              (ヘレン・ケラー「わたしの生涯」岩橋武夫訳)
  1988年11月、北極海沿岸のエスキモーの村、ポイント・バローの近くで3
 頭のコクジラが氷海に閉じ込められた。世界中のマスコミが見守るなか、
 必死の救出作業が展開された。しかし、南へ移動するクジラが氷に閉じこ
 められることは、昔から北極海のどこかで常に起こってきたことなのだ。
 付近にはたくさんのホッキョクグマが徘徊している。このときの1頭の
 クジラが、過酷な自然の中で生きるホッキョクグマのどれだけ多くの生
 命を支えることになっただろう。大きな自然の約束がどこかで見えなく
 なっていた。夢中でシャッターをきっていた僕に、ひとりの古老のエスキ
 モーが呟いた。「時代は変わった………昔だったら、このクジラは自然か
 らの贈り物だよ」
               (星野道夫『アラスカ 極北・生命の地図』)
  ジャン・ヴァルジャンの首筋に向かって痙攣的に手をあげるたびごと
 に、その手は非常な重さに圧せられるように再び下にたれた。そして彼は
 自分に叫びかける一つの声を、異様な声を、頭の奥に聞いた。「よろしい。
 汝の救い主を引き渡せ。それからポンテオ・ピラトの盥を取り寄せて汝の
 手を洗うがいい。」
                (ユゴー『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳)
  この作品の欠陥─私の考えでは、倫理的にも美学的にも建物全体の
 倒壊の原因となりかねない裂け目は、第四部第四章に発見される。それは
 殺人者ラスコーリニコフが少女ソーニャを通じて新約聖書を発見すると
 いう、贖罪の始まりの場面である。ソーニャは彼に、イエスのこと、ラザロ
 の復活のことを読んで聞かせる。そこまではよろしい。だがそのあとに、
 全世界に知られた文学作品では他に例を見ないほど愚劣きわまる一つの
 センテンスが現れる。「消えかけた蝋燭の炎はゆらめき、この貧しい部屋
 で永遠の書を読んでいる殺人者と淫売婦をぼんやり照らし出していた」。
 「殺人者と淫売婦」それに「永遠の書」─なんという三題噺だ。これはド
 ストエフスキー的修辞の典型的な癖がよく現れている、決定的な文章で
 ある。では、この文章のどこがそんなにひどく間違っているのか。どうし
 てこれがそれほど粗雑で非芸術的なのか。
  私は主張したいのだが、真の芸術家あるいは真のモラリストは─良
 きキリスト教徒あるいは良き哲学者は─詩人あるいは社会学者は、い
 かに雄弁の弾みであろうと、殺人者と(人もあろうに!)貧しい街娼とを一
 緒くたに並べてはならないのだ。一緒に聖書を読んでいる二人の頭の中
 身は全く異なるのである。キリスト教の神を信じる人たちが理解してい
 るところによれば、キリスト教の神はすでに千九百年前から売春婦を赦
 している。一方、殺人者は何よりもまず医者の診察を受けなければならな
 い。両者は全く異なるレベルの存在である。ラスコリーニコフの非人間的
 で馬鹿げた犯罪と、肉体を売ることによって人間の尊厳を損なっている
 少女の苦境と、この両者には、ほんのかすかな共通点すら見出すことがで
 きない。殺人者と淫売婦が永遠の書を読んでいる─なんというナンセ
 ンスだ。汚らわしい人殺しと、この不運な少女とのあいだを繋ぐ修辞は存
 在しない。あるものはただゴシック小説や感傷的小説の因襲的な修辞ば
 かりである。
        (ウラジミール・ナボコフ『ロシア文学講義』小笠原豊樹訳)
  ああ、ノラ、お前にはまだ本当の男の心というものがわからないんだ。
 男が自分の妻を許してやった、─それも心の奥底から許してやったと
 いう意識を持つ時には、なんとも言えない穏やかな満足した気持になる
 ものだ。妻はいわばその時から二重の意味で自分の物になる。つまりこの
 世の中に改めて妻を送り出したような気持になるんだよ。だから妻のほ
 うは、いわば夫の妻でもあり、同時に子供でもあるというわけさ。そこで
 お前は、これからはわたしにとってそういうものになるんだよ、頼る者も
 ない途方に暮れたお前はね。もう心配することはない。ただわたしに向っ
 てなんでも打明けてくれさえすればいい。そうすれば、わたしはお前の意
 志にもなり、良心にもなってやるから。
                 (イプセン『人形の家』矢崎源九郎訳)
  あたしは八年の間辛抱強く待っておりました。奇蹟なぞというものが
 そう毎日のように現れるものではないということぐらい、あたしだって
 よく知っておりますもの。そこへ、こんどの災難があたしの身にふりか
 かってきました。そこであたしは、こんどこそいよいよ奇蹟が現れるもの
 と、固く信じてしまいました。クログスタットの手紙があそこにはいって
 いた時は、─あなたがあんな男の条件に折れて出ようなどとは夢にも
 思いませんでした。あなたはきっとあの男に向って、世間にぶちまけるな
 らぶちまけてみろ、とおっしゃるだろうと固く信じていたのです。そして
 そうなった暁には─(中略)そうした暁には、あなたが名乗り出て、一切
 を自分の身に引受けて、その罪人はおれだ、とおっしゃるものと思いこん
 でおりました。(中略)あたしがあなたのそんな犠牲を決して受取りはし
 ないだろうとおっしゃるんでしょう? ええ、もちろんですわ。でもあたし
 がいくら言い張ったところで、あなたのお心が動かなければどうにもな
 らないでしょう? ─あたしが恐れながらも望んでいた奇蹟というのは
 これです。そしてそれを防ぐために、あたしは命を捨てる覚悟でおりまし
 た。
                              (同前)
  私は一人の婦人を知っていますが、その人は偶然ながら、「ドイツ処女
 同盟」に加入するまで一人もユダヤ人を知らなかったのでした。子どもの
 ころ彼女は大変厳しいしつけを受け、ほかの兄姉(兄二人に姉一人)が家
 を出た後は、家事をさせられていたのです。そのために彼女は手に職をつ
 けることができませんでした。本当はとてもやりたい仕事があり、その仕
 事に向いてもいたのに。ずっと後になってからのことですが、彼女は私
 に、『わが闘争』に描かれている「ユダヤ人の犯罪」の部分をどんなに夢中
 になって読んだか、そして、ユダヤ人ならこんなに徹底的に憎んでもかま
 わないんだと知ってどれほど嬉しかったかという話をしてくれました。
 彼女は兄や姉が職に就くことができた時も、それをうらやむことを許さ
 れませんでした。しかし、たとえば、叔父さんが借金していて、そのため
 に利子を支払わなければならない相手のユダヤ人の金融業者、こいつは
 貧乏な叔父さんを苦しめる搾取者なのだから、彼女も叔父さんと一緒に
 なってこいつを憎んでもよいわけです。実際のところ彼女は両親に喰い
 ものにされていたのですし、兄姉を羨み、ねたんでもいましたが、そんな
 気持はまともな娘としては決して持ってはいけないことになっていまし
 た。それが今やまったく思いがけなくも、こんなに簡単に解決できるので
 す。今や、憎みたいだけ憎んでもよいのでした。そしてそれでもと言うよ
 りはむしろそうすればするほど、父に愛される子であり、母国の役に立つ
 娘だということになったのです。それに、自分自身の中にあり、常に軽蔑
 しなければならないと教えられてきた「悪い」弱い子どもも、ユダヤ人に
 おっかぶせてしまえるのでした。ユダヤ人はちょうどその時弱くて孤立
 無援の状態でしたから。そして自分はひたすら強く、ひたすら純粋(アー
 リア人として)、ひたすら善良であると感ずることができたわけです。
  ヒットラー自身は何をしていたのでしょう? この大がかりな芝居のす
 べてはそこから始まったのです。ヒットラーにとっても、ユダヤ人の中に
 かつての自分そのものである何もできない子どもを映し出し、それを、自
 分の父が自分にしたのと同じやり方で虐待することが大いに大事なこと
 だったのです。そして彼の父が決して満足せず、毎日改めて折檻を繰り返
 し、十一歳の時には息子をほとんど殴り殺すばかりであったのと同じよ
 うに、アドルフも決して満足せず、六百万人のユダヤ人を死に至らしめた
 後に認めた遺言書でなお、残ったユダヤ人を撲滅せねばならぬと書いた
 のでした。
  アロイスやその他の、子どもを殴る父親と同じように、ここでのアドル
 フには、自分自身の自己の引き裂かれた部分がもしかして復活し、戻って
 くるのではないかという不安があります。だからこそこの暴力は終わり
 なき使命なのです。その裏には自分自身が抑圧してきた自分の無力、屈
 辱、孤独が再び頭をもたげるのではないかという恐れがあります。彼らは
 こういうものからなんとかして逃れようと一生の間威勢を張り続けるの
 です。アロイスは上級税吏になり、アドルフは総統になりました。他の人
 は、あるいは精神病医となって電気ショックを使うぞと脅したり、医師と
 なって猿の脳の移植をしてみたり、教授となって自分の見解を学生に押
 しつけたり、あるいはただの父親になって子どもを教育したりするわけ
 です。この人たちが目指しているのは決して他の人(ないし猿)のために
 なることではありません。この人たちが人にしていることはすべて、自分
 以外の人間を軽蔑し侮辱するもので、もともと、自分のかつての無力を存
 在しなかったことにし、悲しみを否認することだけをねらっているので
 す。
       (A.ミラー『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』山下公子訳)
  「無論、科学的意味において人種など存在しないことは、知ったかぶりの
 インテリと同じ程度には、わかっている。だが君は農業家・家畜飼育家と
 して、種という概念なくしては、その育種を成功裡に達成することはでき
 まい。
  私は政治家として、これまでの歴史的関連に基づく秩序を解体し、全く
 別の新しい反歴史的秩序を強制して、これに思想的な支持を与えること
 を可能にするような概念を必要としている。私の言うことがわかるかね」
 と彼は、いったん言葉を切ってたずねた。「私は世界を歴史的過去への従
 属から解放しなくてはならない。民族とは現代史の外的可視的な形態で
 ある。したがって、もし不条理と化した歴史的過去の混沌を抹消したいと
 欲するなら、諸民族をより高度な秩序へと溶かし変えなければならない。
 そのために、人種という概念が好都合なのである。これは、古き秩序を解
 体し、新たな結合の可能性を与える。民族という概念によって、かつてフ
 ランスは、大革命を国境を越えて運び出した。人種という概念によって、
 ナチズムは、革命を海をこえて運び世界を改造するであろう」
  ヒトラーはしだいに情熱をたぎらせつつ結論した。
  「すでに民族という概念が、純王朝的な封建国家に対して、革命的変革で
 あり、国民という生物的概念を導入したように、われわれの革命は、歴史
 的秩序の廃棄と純生物学的価値の承認へ向かう一歩前進であり、むしろ、
 それへの最後の一歩なのである。私は、ドイツにおいてはナチズムが遂行
 している、そのような新しい淘汰の過程を、全ヨーロッパ、全世界を通し
 て、開始させるであろう。社会体制がどれほど古くかつ強固な結び目をな
 していようともあらゆる民族において解体と再編成の過程が進められる
 であろう。諸民族の中で、能動的な部分、好戦的な部分、北方的な部分は、
 再び擡頭し、平穏を願う小商人、商売にいそしむピューリタンを乗り越え
 て、支配的な要素となるであろう。
  フランス大革命のちょうど正反対となる今度の革命を前にしては、い
 かなるユダヤの神も、今のデモクラシーを守り通すことはできない。厳し
 い時代がやってくる。そうなるよう私が配慮する。厳しさと男らしさのみ
 が持続できる。世界は新しい様相を見せるに至る。
   だが、いつの日にか、われわれはイギリス、フランス、アメリカにいる、
 これら新たな人間を糾合する。即ち彼らが、世界的転換の巨大な過程に身
 を投じ、進んで協力する時である。その時には、今行なわれているナチズ
 ムの常套語句から残さねばならぬものは多くはあるまい。わがドイツ人
 においてもそうだ。そのかわりに、さまざまな言語を持つとも、同じ支配
 者人種に属するものの間には、相互の了解が生まれるであろう」
  (ヘルマン・ラウシュニンク『ヒトラーとの対話』船戸満之訳、山田太一編
  『不思議な世界』所収)
  著者コーラーはこのようにポーシアとザラストロの名によってかれの
 いう新たな法律学の門出を祝うのだが、この二人のほかにもう一人、ヴェ
 ニスの総督をも加えて然るべきであろう。それまではまだ「旧来の法律
 学」に縛りつけられ、「夜の力」にとらえられていた総督は、ポーシアの救
 いの言葉によって解放され、「世界史的」使命なるものに目覚めて、みずか
 らもこれを担うことになったわけである。かれは過去の怠慢を完全に埋
 め合わせる。まず第一に、シャイロックの殺人未遂を有罪とすることに
 よって。「この有罪宣告に正しくない点があるとしても、世界史的に見れ
 ばそうした不正行為をあえてすることに十分な理由が存するのである。
 それは一箇の世界史的必然である。まさにこの件を入れたことによって
 法制史家シェイクスピアは非凡な存在となった。─シャイロックの請
 求を棄却するだけでなく、かれに刑罰を課することが、勝利を飾るために
 必要だったのである。この勝利によって、新たな法理念が神々しく登場す
 べきものであったから」(同書95頁)。第二に、このユダヤ人にキリスト教
 徒への改宗を命ずることによって。「この要求もまた一つの普遍史的真実
 を内在させている。この要求は、われわれの感覚からすれば非難に値し、
 信仰の自由に反するものであるが、世界史の進展には合っている。世界史
 においては、何千人もの人びとが、改宗を説く穏やかな言葉によってでは
 なく、死刑執行人の[転べば助けてやるぞという]眼くばせによって、今ま
 でとは別の宗派に入るようになったのだから」(同書96頁)。「進歩の太陽
 が法廷に投げかける「暖い光」とは、実際にはこうしたものなのだ。
            (イェーリング『権利のための闘争』村上淳一訳)
  タッパンは言った。
  「だが本当のことを言えば、彼らが生きているよりも死んでしまった方
 が、われわれの闘いのためには価値があるんじゃないかな」
  ジョードソンは、言葉を失って友人の奴隷制廃止論者の顔を見つめて
 いた。いま耳にした信じられないような発言は、本当に彼が口にした言葉
 だろうか? 
  「殉教っていう言葉があるだろう、ジョードソン君。キリスト教が生まれ
 たころから、聖人は死ぬことによって大きな変化をもたらしたんだ。死ほ
 ど強い力はないんだよ。君だってそれが真実だっていうことはわかって
 いるだろう」
    (J・A・バーンズ『アミスタッド 誇り高き自由への闘い』加藤耕一訳)
  学生はいつも “次は何をする?"と言います 私は悲しくなります 目指
 すは ─“流血"なんて誰が言えます? 政府を追いつめて 人民を虐殺さ
 せる 広場が血に染まって 初めて民衆は目覚める それで初めて一つに
 なれる これを学生にどう説明するんです? すごく悲しいのは 一部の名
 の知られた学生が 政府のために働いたこと 運動の崩壊を企んだこと 
 私欲に駆られて 政府と取り引きし─運動をつぶそうとした 政府が事
 を起こす前に 撤退を企んだのです
   (リチャード・ゴードン+カーマ・ヒントン監督『天安門』松岡葉子訳)
  二重思考(ダブルシンク)とは一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持
 ち、その両方とも受け容れられる能力のことをいう。党の知識人達は、如
 何なる方向に己れの記憶を変造せねばならぬか熟知している。従って己
 れが現実をごまかしていることは承知の上だ。ところが二重思考を行使
 する事により、彼は現実が侵されておらぬと己れを納得させるのである。
 その過程は意識的なものでなければならぬ、さもなければ充分な精確さ
 によって実行されないであろう。然し同時に無意識的なものでなければ
 ならぬ、さもなければ虚構を造ったという感情、更に罪悪感も伴うであろ
 う。二重思考はイングソックの核心である。何故なら、党の本質的な行動
 は意識的な欺瞞手段を用い乍ら、完全な誠実さに裏打ちされた堅固な目
 的を保持することだからである。一方で心から信じていながら意識的な
 嘘を付く事、不都合になった事実は何でも忘れ去る事、次いで再びそれが
 必要となれば、必要な間だけ忘却の彼方から呼び戻す事、客観的事実の存
 在を否定する事、それでいながら自分の否定した事実を考慮に入れる事
 ─以上は全て不可欠な必須要件なのだ。二重思考という用語を用いる
 場合とても二重思考により行なわねばならぬ。その言葉を用いるだけで
 も、現実を変造しているという事実を認めることになるからだ。そして二
 重思考の新たな行為を起こすこと、この認識を払拭する訳だ。かくて虚構
 は常に真実の一歩前に先行し乍ら、無限に繰り返される。結局、二重思考
 の方法によってこそ党は歴史の流れを阻止できたのである─そして恐
 らくは今後何千年もの間、阻止続けられるかも知れぬ。
              (ジョージ・オーウェル『1984年』新庄哲夫訳)
  この話の続きを、わざわざ芝居にしてお目にかけるまでもあるまい。そ
 れどころか、われわれの想像力が、《ハッピー・エンド》じるしの既製服や
 セコ半ママを大量にとりそろえている古着屋に毒されていなければ、この
 続きを語ることさえ必要ないであろう。
   (バーナード・ショー『ピグマリオン後編(要旨)』倉橋健+喜志哲雄訳)
  海にゐるのは
  あれは人魚ではないのです。
  海にゐるのは、
  あれは、浪ばかり。
                        (中原中也『北の海』)
  話題指示の「あの」は、話し手・聞き手の両者にとって既知である話題を
 指すときに用いられる。(中略)不特定多数の読み手に対して、それがあた
 かも筆者と同一の場にあるかのごとく意識させ、共通の視野において眺
 め考えていこうとする表現様式で、文章表現の一つの手法であり、話し
 手・聞き手双方の既知の事柄に対する話題指示の一つの応用でもある。
                 (森田良行『基礎日本語辞典』「あの」)
  え、それじゃ、狼谷に封じ込められていると、この里に古くから言い伝
 わる、あの…… 
                      (安田公義監督『大魔神』)
  えっ、何だって、ブラック・デビルだって。あの世界各国を股にかけて、
 世界的な美術品や国宝級の宝石を盗んだまま、突然、姿を消してしまっ
 た、あのブラック・デビルが、日本にやってくるというのかね。
              (斎藤益広+野呂知也監督『少年ジェット』)
  分裂病患者には皆“彼ら"か“あれ"がある
     (ジョン・カーペンター監督『マウスオブマッドネス』菊地浩司訳)


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