『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#023[爪]

 [青]には、[世界]がある。そんな感じがする。でも、感じだけがあって、どんな[世界]だか、分からない。だから、気持ちが悪い。どこかに青い本を捜す男はいて、彼には妻があり、子がある。ローンは払い終わっていないが、家もある。家の周囲には集落が広がり、山あり、谷あり。谷には川が流れ、川辺には小石が転がっていて、私が拾って来たのは、そのうちの一個だろうとでも言われかねない風情。
 私が語り始めるに先立ち、私の知らない[世界]が存在している。その[世界]について、私だけが知らない。Lは、私に、そう教えてくれようとしているのかもしれない。私は、Lの[世界]では、どんな人物として設定されているのだろう。Lは語らない。
 要するに、何なんだ。言え!
 「別れよう。でないと、どちらかが死ぬことになる」
 返事がない。
 死んでやると言い捨てて、包丁を懐に呑み、夜道を走った。切っ先を銜え、橋の上から真っ逆様に飛び降りる自分を思った。どのみち、私の人生には、このような終わり方しかなかった。確信のような思い。[何度か、死のうと思ったことはあったが、今度こそ、本当に死ぬのだな]と思った。死なずに引き返したのは、刃物を持っているのを警官に見咎められたとき、どう答えたらいいか、考え始めるうちに、冷静さを取り戻したからだ。[言葉が通じないから、死ぬ]とでも? それこそ、通じない。投獄され、反省文を書かされる自分を想像した。書くことを強制されるなんて、思っただけでも反吐が出そうだ。だが、どのみち、私には、書くしかないらしい。観念した。
 翌朝、手のひらに、いくつもの傷を見つけた。数か月後、爪にショックの窪みが現れた。
 なぜ、通じないのだろう。言っておくが、心ではないぞ、言葉だ。ただの簡単な言葉だ。反対なら、反対でいい。拒絶さえ、応答だ。その拒絶すらない。返事がない。私が、何も言わなかったかのようだ。刺々しくはない。冷たくもない。むしろ、温かい。生温かい。暖簾に腕押し。慇懃無礼ではない。何もない。まるで私が存在しないかのようだ。私は空気か。自分で指でも落として見せたら、効くか。私の攻撃性は、自分に対してであれ、他人に対してであれ、結局は、大事に至る前に霧散するものと読まれてしまっているので、軽んじられるのか。荒れながら、[成る程、こんなこともしてみたかったんだよな]と、肩に止まった鸚鵡のように囁く声があって、それまでも聴かれてしまうからか。私には感情などという贅沢品が回って来る惧れはなく、ただ、みんなの感情を模倣するのが関の山なので、声は鼓膜を震わすだけで、脳神経を刺激しないのか。あるいは、Lは理性も感情も信じず、感情を模倣する理性だけを許容しているのに、私の理性が感情を模倣できるほどには洗練されていないからか。
 あなたは、自分を完璧な人間だと思い込まなければならない、と思い込んでいるんでしょう?/思うわけない/なぜ、思うわけないの?/何を思うの? 
 ここで、切れる。
 あなたは、[自分のことを完璧な人間だと思う人間は、思い上がりも甚だしく、完璧には程遠い人間だ]と思っているんでしょう?/そうね。/じゃあ、完璧な人間というのは、完璧でありながら、自分のことを完璧だと思っていない人間のことなのね?/そうね。/じゃあ、あなたは、自分のことを完璧だと思わないために、わざと不完全なやり方をしているわけね?/証拠があるの? 
 切れる。
 完璧な人間とは、完璧でありながら、そう思わない人間のことなの? それとも、完璧だとは思っていても、そう思っているようには見えないような人間のことなの? あなたは、[自分のことを完璧な人間だと自惚れているのではあるまいか]と人から疑われると困るから、わざと、完璧でないようなやり方をしているの? 
 沈黙。
 あ、そうか。分かったぞ。世間の人間に合わせるために、少し、レベルを落としてやってるんだな。そうやって、完璧に合わせてやっているつもりなんだな。あなたは、あなたの[世界]では最下級の聖霊だが、しかし、この世の人間とは比べものにならないぐらい高い存在だってわけだな。
 Lは、私が母親に向けるべき憎悪をLに向けていると言う。
 母は、私が母親に向けるべき愛情をLに向けていると書く。
 私には、悪い冗談だとしか思えない。こうした言葉は、死んだ言葉だ。何も始まらないし、もっと悪いことに、何も終わらない。廃墟のように、ただ、あるだけ。
  それに、女というものは、同じことばをしゃべっても、それぞれ意味が
 ちがうようだ。それはちょうど、同じ犬の吠え声でも、あるものは威嚇的
 で、あるものは親愛をあらわすのと同じだ。
               (ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳)
  (A)スティックベーカリーは、体にいいのに、おいしいのよ。
  (B)スティックベーカリーは、おいしいのに、体にいいのよ。
  (C)どっちだっていいんじゃないの。
  (A+B)そうはいかないわよ! 
                    (CM「スティックベーカリー」)
 Lが泣いている。洗面台の下に頭を突っ込み、仰向けに寝て泣く。なぜ、泣くのか、言わない。机の下に入り込むこともある。狭い所を見つけては、頭を入れて泣く。一頻り泣いた後、何事もなかったような顔で寄って来て、ぺたんと座る。仮面のように動かない顔で私の罵声を浴び、しばらくすると、つっと立って、また、泣きに行く。
 あるとき、中華レストランで、Lは、不意に、涙ぐんだ。明るい照明の下、自分の目の前に座っていたのが風采の上がらない中年男だったというので。その顔に表情が生まれかけ、すぐに消えた。涙は一粒ずつ宿り、しかし、流れなかった。私は、Lに拾われたのだと思っていたが、拾われたのは、私の知らない男だった。
  あなたは何でも知ってるけど、何にも分かってないのね。
                         (CM「おさつドキッ」)
 私は、もしかしたら、あのスーパーマンなのかもしれない。普段は冴えない男のふりをしているが、いざというときには超人的力を発揮する。しかし、私は、[いざというとき]を見逃すので、嘲笑されるわけだ。しかも、[いざというとき]でもないのに冴えていると、傲慢だと言って非難される。
 母は言っていた。「勉強なんか、ちっともしていないように見えて、いつも満点というのが、格好いいわね」 
 父親が息子に期待していたのは、[レギュラー・メンバーになるな]と言われても、敢えてなって、しかも、学業は怠りないという、負けん気の強さだったのだろうか。
 親の方では[中の上でいい]と思っているのに、子は親に逆らって、[上の上]になってしまうという、そんな[世界]が、私のために用意されていた反抗期の過ごし方だったのかも知れないのに、私と来たら、そんなこととは夢にも思わず、浮いたり、沈んだり。
  おまえが落としたのは、金の斧か、銀の斧か。/鉄の斧です。/そら、鉄の
 斧を返したよ。
                            (出典未詳)


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