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#024[雪] 自分の気持ちを素直に表現できなかった。人に調子を合わせた。お調子者になった。客が来ると、親達は私に芸を披露させた。ところが、客が帰った後、正座させられ、「恥ずかしい真似をした」と説教された。「顔から火が出そうだったぞ。客も呆れていた」「でも、笑ってた」「あれは、苦笑いというのだ。知らないか」 しかし、また、客が来ると、芸をやらされる。いい加減で切り上げようとすると、「もっと」と親は言った。耳を疑いつつ、従うと、また、後で叱られた。「もっとやれって言った」と反論すると、「あれは客の前だから、仕方なく言ったことだ。そのくらい、分からなくてどうする。[もっとやれ]というのは、[やり過ぎだ。もう、止めろ]という意味だ。何度か、目で合図したぞ」 目で合図? ああ、確かに、おかしな目をしていたな。それが、私には、慈しみの目に見えた。来客があっても、私は挨拶に出なくなった。「変な子」と、親達は客に言っていた。 私には、分からないことがあった。あり過ぎて困るほどあった。説明されても、納得できなかった。知ったつもりでいたことが嘘のこともあった。4歳のとき、下町の一戸建の持ち家から、高台の二間の長屋に引っ越した。水害を避けるためだと父は言った。ずっと後になって、その話をすると、母は「そんなこと、信じてたの?」と呆れた顔をした。借金の形に取られたんじゃないの。 あるとき、母が、電話しているのを、通りすがりに耳にした。母は、「うちでは、[勉強しろ]なんて、一言も言ったことがないんですよ」と言っていた。私は、[ひどい嘘つきだな]と思った。しかし、その口調に嘘の雰囲気は感じられなかった。ずっと後になって気が付いた。そういえば、「勉強しろ」と言われたことはなかった。私が言われたのは、「勉強しなくて、いいの? 成績の悪い人達と遊び歩いてて、後悔しない? 困るのは、あなたでしょう? 後で泣いても知らないわよ。ノイローゼになるぐらい勉強したって、いいのよ。あなたにはプライドってものがないの? まさか、自信喪失してるんじゃないでしょうね」など。 書き写すだけで、苛々する。洗って干してある、広い布をシャーッと切り裂きたくなる。 初めてできた、学校の友達に、私は、彼の成績が悪いことを理由に絶交状を送り付けた。小学3年生の時。答案用紙を返され、彼の顔が赤く染まった。教師に叱られたらしく、舌を出しながら教壇を降りた。私は、盗み見た。ひどい点だった。薄い闇が降りる感じがした。怖かった。自分よりも成績が上の人を友達にしなさいと、母に言われていた。 半年ほどして、彼と二人きりになることがあった。校庭に人影はなかった。授業が始まろうとしていた。並んで靴を脱ぐはめになった。彼の方から口を利いて来た。あることについて、私は同意を求められたのだと思う。冬だった。風が吹いていて、堅く締まった黄土色の地面に、雪が疎らに、斜めに降っていた。彼は何と言ったか。とにかく、私は、同意した。私にも同意できるようなことだった。すると、彼は微笑した。私の葉書など、まるで届かなかったみたいだった。届かなかったのか。いや。 横ざまに飛ぶ小雪、揺れる糸杉、堅く乾いた土、風。 思い出した。彼は、「あの人、いい人だね」というようなことを言った。ああ、そうだ、学校の近くの商店に新しく来た店員のこと。その若い店員は、二人だけ残っている子供達に、優しく、時刻を告げたのではなかったか、せかしたり、叱ったりするのではなしに。その店は、朝、始業のベルが鳴るまで、生徒達で賑わう。そこで、彼と、偶然、一緒になり、私は、出口で鉢合わせしたくなかったので、彼が先に出て行くのを待ちながら、商品に目を奪われているふうを装い、小腰を屈め、陳列棚を見ていた。だから、時間が過ぎ、客がいなくなったのに、気づかなかった。 もしかしたら、遅刻しそうになりながら、彼は私を待っていたのかもしれない。 私を待つ人がいるという想像を、今、初めてした。 |