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#025[壁] かつて、[二つの勢力が鬩ぎ合い、終わりのない戦いを続ける]という物語の枠組みがあった。[その戦いは、現実でもなければ、妄想でもない]と悟ったのは、18歳の春だ。 早朝、私は地下道に座り、ぼそぼそと喋り続けていた。隣に、膝の間に頭を突っ込んだ人がいて、打つ相槌は、ふにゃふにゃで、徹夜明けの疲労が顕著に表れていた。半分も聞いていまい。天井の蛍光灯の光は、白かった。私は、長い間、あることを言おうとして、言うチャンスを狙っていたのだと気づいた。長い間? 10年も前から、私は、何となく、誰かに、あることを言い掛けようとしていた。そして、そのことに気づいた瞬間、自分が、なぜ、隣にいる人物と徹夜までしてしまったのか、やっと、分かったように思った。 私は、人といて、始終、苛々していた。あることが言えないからだ。しかし、そのことを口にすれば、人は去る。だから、言えない。この堂々巡りに、やっと、気づいた。 [そのことは、言いたくても言えないことだ]と気づいた。私は、[言いたくても言えないようなことを言いたい]と言いたいのだが、同時に、[そのことを言う相手がいない]ということも言おうとしていて、こんがらがっていた。そして、[以上のことを言う相手としては、隣にいる人は相応しくない]ということも言いたかった。また、[このことは言えないようなことだから、今、言うか、一生、言わないか、どちらかになる]とも思えた。要するに、[言うなら、今だ]と思った。私のお喋りは、核心に近づいていた。しかし、核心に近づいていけたのは、相手が寝ぼけていたからだ。 私は、長々と、一人で喋り続けていることに気づいた。私の言うことは、誰にも通じない。わざと通じないように喋っているようなものだった。まるで、通じては困るかのようだ。この調子では、私のお喋りは一生かかっても終わるまい。まるで、終わらせたくないかのようだ。 私が言おうとしたことは、言いたくても言えなかったことは、[言いたくても言えなかったことのように自覚された、あること]とでも言うべき事柄だ。そのとき、私は、[理解して貰えなくてもいいから、言ってしまおう]と臍を固めた。 言葉にすれば、長くなる。まだ、言い足りない。だが、何かが起きて、それが起きたのは、一瞬のことだが、ある感覚があって、前触れもなく、了解のようなものが来た。その瞬間、私は、口では言えないようなことを口に出そうとした。そのこととは、「赤紙は、来ないんだよね?」 ところが、そのことが言葉として頭の中で形を取り始めた途端、別の言葉が決定的な確信となって降りて来た。 「赤紙は来ないんだよ!」 すると、まるで湧き水のように、未来が出現した。 戦争はない。革命はない。少なくとも、この先、20年は、日本では、戦争もないし、革命もない。先進国の繁栄は続く。その繁栄は、今の私達には想像もできないような、明るいものだ。明るく生きている、多くの人々の姿が見えた。幸せそうではないが、とにかく、恐怖からは免れている。花屋の店先には花が溢れ、人々は昂然と顔を上げて歩く。その花屋というのは、小一時間前、夜明け前の冷気を避けるために降りた地下道の入り口付近にあった店だろう。そのとき、シャッターは降りていて、[準備中]の札を見たか。やがて、この朝は明けきり、花屋が開く。そのように、平和と繁栄もやって来る。 自然に、口元が緩んだ。私は、寝入ってしまったらしい人に一瞥をくれ、空費した時間と労力の大きさについて、情けなく思った。少し笑った。そして、少し慌てた。私には、もう、することがなかった。今まで、いろんな人に向かって言って来たことは、すべて、枕のようなもので、肝腎の本題は忘れられていて、今、その本題を思い出して、そして、それは、もう、言う必要がないと分かったのだから、今日から、することがない。何かをするふりをすることも含めて、何も思いつかない。赤紙を待っていたので、二十から先の計画は立てていなかった。 赤紙については、私は騙されたような気がしていたことだ。キューバ危機のとき、父は、郷党のために死ねるかと問い、[日本人として、親から子に伝えるべき秘密]について語った。 子々孫々に至るまで篤く斯旨を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの 義を存して、再び中世以降の如き失体なからんことを望むなり。 (「軍人勅諭」) 日本は、戦後、アメリカ軍の占領政策に屈し、民主主義の体制を採用しているが、これは、あくまで体裁だけのことだ。政府や学校で民主主義を是としているのは、侵略者を欺くための方便に過ぎない。民主主義国家を装い、隠忍自重、国力を蓄え、臥薪嘗胆、いつの日か、捲土重来、真に民族の自立を勝ち取るための秘密の作戦がある。ある日、忽然として、我々は西洋かぶれの衣を一斉に脱ぎ捨てて、起つ。その時、バスに乗り遅れるな。民主主義を唱える教師の顔を、よく見よ。苦汁が読み取れるはずだ。彼らは、その言葉によってではなく、表情によって、何事かを察するよう、おまえたちに訴えている。だから、教師の語る言葉のとおりに行動しても、教師は、内心では喜ばない。立場上、口先で褒めることはしても、心の中では、悲しんでいる。「ははあ、この子は、親から何も教わっていないんだな」と思われる。だからといって、察したことを、そのまま、行動に移してもいけない。今は、時期尚早。政治家だって、役人だって、みんな、耐えている。しかし、このことは、誰に訊いても教えてくれない。どんな本にも書いてない。秘密。公然の秘密。勿論、日本人全員が、この秘密を知っているわけではない。赤旗を振っているような連中は、日本人の秘密を打ち明けられる前に、親に反抗して家に寄り付かなくなったので、何も知らされなかった。哀れなもんだ。彼らは、本当の意味では、日本人とは言えない。また、日本人のふりをした共産主義のスパイもいる。反対に、右翼的な言動をひけらかす連中にも、心を許してはならない。彼らは、実は、アメリカの回し者で、秘密を知っている日本人の数を数えようとしている。とにかく、このことは、どこまでも秘密にしておかなければならない。教師が本当は民主主義を信じているのかどうか、そのことを確かめることは不可能だ。質問されたら、嘘を答えることになっている。こうしたことについて仄めかすだけでも、人は、おまえのことをスパイではないかと疑うことだろう。かく言う自分も、もう、二度と、このことについて、語らない。おまえが、このことについて質問したとしても、こんなことは言わなかったかのように振る舞うことにする。おまえも、こんなことは聞かなかったかのように振る舞わなくてはならない。どんなに親しい友人とも、このことについて語り合ってはならない。決起の日が来るまで、我々は民主主義を謳歌しているかのように暮らして行かねばならない。私が、自堕落なこと、滑稽なことをしているように見えることがあったとしても、偽装工作だ。人を、その外見や言動だけで判断してはならない。人の心には、秘密が隠されている。口に出さなくても、秘密を知る者同士なら、目と目を合わせれば、分かり合える。秘密を知っている日本人の目とは、こんな目だ。さあ、よく見ろ。そして、覚えておけ。この目だ。本当は、おまえが元服の年になるまで、このことは言うまいと思っていた。だが、時が時だけに、仕方がない。自分も、いつ、戦地に赴くか、知れない身だ。少し早いが、言っておく。今、日本中の家庭で、このような話が、親から子にされているはずだ。明日、学校で、友達の顔を見てみろ。何も言わなくても、秘密を聞かされた子は、顔付きが違っている。覚悟ができている。だが、くれぐれも言っておくが、このことは、決して、口に出してはならない。目と目を合わせ、軽く会釈するだけで、十分なのだ、日本人なら。 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ 念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華 ヲ発揮シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意 ヲ体セヨ (「終戦の詔書」) 汝等軍人其レ克ク朕カ意ヲ体シ忠良ナル臣民トシテ各民業ニ就キ艱難 ニ堪へ荊棘ヲ拓キ以テ戦後復興ニ力ヲ致サムコトヲ期セヨ (「陸海軍人に賜りたる勅諭」) 翌日、私は、会う人ごとに、その目を覗き込んだ。だが、期待していたような反応は、誰からも得られなかった、父からさえも。偽装は徹底的なものに見えた、ともすれば、あの話は嘘だったのではないかと、心弱くも疑うほどに。 そんな[世界]が砕けたのは、母から詫び状が届いたときだ。少年の私を折檻したことを詫び、帰省を促していた。私は読み始めると、すぐに泣き始め、読み終わると、声を上げて倒れた。こんなふうに泣くのは、飼い犬が死んだ日以来、初めてだと思った。 犬は長く患っていた。私が不在のときを見計らい、処理された。帰って来て、彼がいないので、私はうろたえた。積んである座布団を抱くようにして号泣した。母は、最初のうちこそ同情していたが、しつこい泣きように苛立ち、「そんなに泣くくらいなら、生きてるうちに、もっと面倒を見てやるべきだった」と怒った。まさにその通りだった。そんなことぐらい、分かっている。私が泣いていたのは、別の理由からだった。私は、子犬の彼について、作文に書いていた。その作文の中の私と、その後の私とは、随分、違ってしまった。犬を可愛がる私は嘘になり、犬は死んだので、自分を変える機会は失われて、嘘だけが残った。取り返しが付かない。そのことで泣いた。犬は、皮膚が爛れ、数メートル離れていても鼻を摘まみたくなるほど、ひどい悪臭を放っていた。彼の死を、しばしば、願った。だから、いなくなって、ほっとした。ほっとしている自分が呪わしかった。自分の肉体も、また、彼のように汚れていると感じた。その日までにも、いくつかの恥ずべき行為があるにはあったが、これほどの恥辱はないと思われた。 犬を始末しなければならなかった理由を、親達は、あれこれ、言い立てた。しかし、そんなことを言われても、始末してからでは遅い。私は、彼と別れていなかった。私は、彼に許されていない。彼は許していたという物語を、私は作れない。 死んだ犬のことを思い出しながら、私は、涙に心地よく浸り始めているのに気づいた。すると、さあっと心が冷えた。涙によって洗われた心の地肌が、めりめりと裂け、黒く、汚いものが押し出された。それは赤く熱いものに変わり、噴出した。そのものは、怒りだった。 あの頃はどうにかしていたと、母は書いていた。だが、あの頃とは、どの頃か。私が生まれてから十余年のことか。父と出会った頃からか。 危ない、危ない。また、騙されるところだった。母は、被り易い罪だけを被って、また、私を閉じ込めようとしている。私が親達を疎むのは、見掛けの暴力や遺棄などのせいではない。そういうことなら、私の生まれる前に、文学が[和解]させてしまっている。私が怒りの矛先を向けているのは、[和解]を可能にする文学なのだ。 彼らが私に何かを与えるとき、それは私の欲するものではなく、彼らの欲するものだった。彼らは、私が欲するものを私に与えるという口実で、自分の欲するものを手に入れた。私が、そのときには欲さなくても、将来は欲するはずだとされることもあった。私は、自分が何を欲するのかを知らない存在と見做されていた。私が彼らの欲するものを欲さないとすれば、私が価値を知らないせいだ。しかし、あるものが彼らの予想よりも価値の小さいものだということが明らかになったときも、やはり、私が価値を知らないせいにされた。彼らは、私の[お下がり]を貰いたがった、玩具でも、友人でも、驚きでも、喜びでも。だが、本当は、私が[お下がり]を貰っていた。癪に障るのは、それが[お下がり]だからではない。新品だとされることだ。彼らには欲望する力がなかったので、私に欲望させた。そして、欲望することの愚かさを私になすり付け、笑い飛ばし、叱り付けた。 [ふるさと]という言葉に出会うと、私の脳裏には、黒々とした焼け野原が広がる。それは、終戦後、鮨詰めの列車から飛び降りて改札口を通り抜けた少年である父の目に飛び込んだ風景だ。駅前から遠くの山脈まで見渡せた。父は[俺の人生は終わった]と思った。私の人生は、その終わりから始まっている。 まだ、年に何度か、帰省していた頃、空港からの車中、締め切った窓を通して、どんよりと重い空気、焦げた臭いを感じた。帰省中、私は、眠れなかった。そして、体に変調を来した。 最初、私が帰省したがらないのは、私が父を嫌っているせいだと、母は思っていたらしい。無理もない。父の振り上げた腕を掴んだのは、私なのだから。母が、その下を潜って逃げた。父はへたり込み、泣いた。そして、「みんな、出て行け」と言った。「みんな」とは、誰だろう。母や私は、ともかく、妹は突っ立ち、めそめそ、泣いていただけだ。もう、癖になったような泣き方。 あっけないほど、力ない腕だった。暴力は表現に過ぎなかった。 私は、にやにやしていた。今更、何を言い出すことやら。それぞれの生活の便宜のため、家族の体裁を維持しているだけだ。そんなことぐらい、了解済みではないか。この家には、不幸などない。あるのは、退屈と窮屈と鬱屈ぐらい。高校を出たら、言われなくても出て行くつもりでいた。父は、数時間後、へらへら、笑いながら、私に擦り寄って来た。何事もなかったかのような目を男達に同等に注いで見せる母親の狡猾というよりは邪念、干からびた茶目っ気に、今更、驚く私ではなかったが、男の媚を受け流す器量はなかった。あたふたと、父は席を立った。母は、はっとした。そして、家庭内別居が始まった。「家庭内離婚」という言葉は、まだ、発明されていなかった。イアン・フレミング『007号の冒険』の中の一編に、そういう夫婦を描いたものがあって、実際にもこういうことはあると示したが、知人達は聞いて聞かぬ様子をした。私は、もともと、信用されない。夜ともなれば夫婦は昼とは違うなどと教えてくれる、親切な童貞もいた。そのような疑いについて、母は、訊かれもしないのに、手紙で否定していた。 「戦争で生き残った男なんて、臆病者か、卑怯者よ」と、母は言った。そのくせ、加川良の厭戦歌、『教訓*』を褒めたりした。 母は、父の不興を買った後、「女の言うことを、いちいち、真に受けて目くじらを立てるなんて、男らしくない。[どうせ、女の言うことなんだから]と笑い飛ばせばいいのに」と、言った。ところが、恐るべきことに、この発言さえ、この発言によって規定されるらしかった。 当時、私は、世界平和を望んでいて、その第一歩として、家庭の平和を保とうと考えた。しかし、この考えは倒錯している。本当は、私は、私の周囲で、家庭で、学校で、社会で、私を置いて進行しつつある、すべての活動を停止させたかった。私の思想は、[暴力反対]の四文字に集約されていたが、暴力停止後のことは想像していなかった。強いて言えば、映画『人間の條件』の1シーン。中国大陸で捕虜となった日本兵が収容所に向かって過酷な行進を強いられているとき、主人公が独断で「停止!」と叫ぶ。号令は口から口へと伝えられ、泥塗れ、痩せさらばえた兵達が眠るように崩れる。ちなみに、ここは皮肉なシーンだ。反軍思想の持ち主である主人公が、上意下達のシステムを利用することによって、人々を救うから。私は、この種の皮肉が気に入っていた。 「停止!」 ベッドに横たわり、天井を見据え、小さな声で命令を発していた。「停止!」 私のお節介によって、静かな日々が訪れた。怒号、罵声、暴力とは無縁の日々。静かだった。静か過ぎた。襖一枚向こうで、シュッ、シュッ、と耳障りな音がして、人のいるのが知れた。初め、何の音だか分からず、気味が悪かった。ゴルフのクラブの素振りらしいと、何年か後、隣の部屋を覗くと、ゴルフ・バッグがあったので、そう思った。ゴルフ道具は、母が反対して買えなかったものだ。その、シュッ、シュッ、シュッという音ばかりでなく、人のいる気配、咳、足音などを塗り潰すように、居間ではTVの音量を上げた。 昨日の残り物が冷蔵庫から消えていると、母は、「誰かが食べてしまった」と言った。その「誰か」が、隣室で、私と同じ番組を見ていて、同じギャグで笑う。押し殺した笑い、ひくひく。違う局を見ていて、チャンネルを換え、たまたま、同じ局になると、不意に、現実の音が消えたようになる。無音以上の無音。無反響室に入ると、むっと、体全体が包まれたようになる。あの感じに似ている。さっきまで隣の音に苛々していたことに気づく。が、次の瞬間、咳払い、摩擦音などが、急に生々しく届き、居たたまれない気分に襲われる。 古いアルバムを見ていて、写真が膝の上に滑り落ちる。二つに引き裂かれた、新郎新婦の写真。そのあざとさに、辟易させられる。 私は過食を始めていた。半ば、意図的だった。私は、この行為を政治思想的なものだと考えていた。親達が子供の偏食を諫め、「戦争中は、食べる物も食べられず」などと説教するのを、耳に胼胝ができるほど聞かされたせいもあるのだろう。ビアフラでは、子供が餓死していた。社会的に無力な私にできることはと言えば、出された物を残さず食べることぐらいではないか。贅沢は敵。冷蔵庫の中を漁り、捨てられそうな物を胃袋に納めるのが、私の政治的行動だった。旨い、不味い、ではない。多い、少ない、ではない。そうした感想なり印象なりを意識にのぼせること自体が、不遜なのだ。ただ食え。飲み下せ。詰め込め。家の中にある物は、見つけ次第、吐くまで食べた。満腹で、「もう、食べたくない」などと思うのは、傲慢なのだ。そもそも、空腹を感じることからして不道徳なのではないか。少しでも空腹を感じると、それが膨満した胃袋が動き出すときの、偽の空腹感でも、急いで物を詰め込まなければならなかった。餓死寸前の子供に代わって、私は食べ続けた。私が自分のために何かをしようとするとき、私の知らない、痩せた子供が、自分のためには何もできないで、死ぬ。 空腹と満腹の違いが分からなくなり、いろんなものが分からなくなった。頑なに分かるまいとしたのだろう。自他の区別があやふやになる。私とは、誰か。この肉体によって外界から切り離された私とは、誰か。その肉体に宿ると噂される精神は、誰に属するのか。家だって、借り物。壁や柱など、少しでも汚すと、叱られた。物を大切にする心からではない。持ち主に叱られるからだ。私は、汚して回りたかった、動物が繩張に自分の匂いを付けて回るように。教室に入る。自分の席が見つからない。始業のベルが鳴り、他の生徒が着席し、席が残っていたら、そこが私の席だ。だが、ベルが鳴っても、他人の席にいる奴もいるから、油断ならない。名前を呼ばれる。そっと辺りを見回す。反応する者がなければ、呼ばれたのは私だ。しかし、確信はない。別の誰かが、私のように空席を伺っていないとは限らない。 灰色の刑事が、写真を持って、聞き込みに回る。人々は、首を横に振る。私の名前が告げられる。作業手袋を外した手が、額の汗を拭い、坂道を指す。私は坂道を見上げ、誰が下りて来るのだろうかと待つ。しかし、誰の下りて来る気配もない。私は、写真を見ていない。あれに、誰の顔が写っているのだろう。刑事は、私に背を向ける。去り際に、くたびれたコートの裾を、風が、そっと引いてみる。 自分の顔に馴染みがない。指など、じっと見ていると、変な気がする。誰かの指を切り取って付けたみたいで、はらはらする。その指の持ち主は、今頃、どうしているのだろう。生きていてくれればよいが。まさか、私が殺したのではあるまいな。殺さなかったのなら、顔を見られている。危険だ。指のない人が、私の人相風体を刑事に告げる。刑事は、遠くからでも、私を見つける。まるで犬だ。高速道路を、トラックが走り抜ける。広い道の向こう、顔を伏せて歩く私に、刑事が目を細める。 自分の声が耳障りだ。真剣であればあるほど、嘘っぽく、耳に、びんびん、痛い。ちょっと静かにしてろよ。他人事のように思う。しかし、黙れない。喋っているのが自分なら、黙らせられるのだが。 一と月、風呂に入らないこともあった。自分の体を洗うことの意味が、分からなかった。不快だというだけの理由で、垢は落とされるべきか。垢は、私の所有物か。私の物でもない垢を、私に落とす権利はあるのか。そもそも、快不快が行動原理として採用されて然るべき時と場合を、誰が決定するのか。不快に思うのは、誰か。 やがて、どんなことであれ、何かを感じることは不道徳だと思えて来た。意欲を持つなど、とんでもない。夢や希望など、もってのほか。友人など、とても選べない。人が人に働きかける権利は、どのようにして得られるのか。人と会う前には、複雑な論理を組み立てて、その交友が世界平和に寄与するものであることを証明しなければならなかった。 知らない横道に、冒険の気分で入り込むと、私は知らないうちに事件現場に舞い戻ってしまう犯人になる。そこには、犬の嗅覚を備えた刑事が待ち構え、足元に、タバコの吸い殻を並べて、数える気もなく数えている。 未来は見えなかった。過去は見なかった。瞬間だけがちらちらして、目が痛んだ。瞬間にだけ、[私]が爪先で立っていた。いや、立っているなどと言えたものではない。[この肉体は、精神は、盗まれたものだ]という、どんよりとした意識が、[私]だ。 いろんなことが思い出されてくる。だが、それを書き留めて、どうなることか。結局、思い出は、思い出されるたびに改変され、[私]の物語のバージョンが未完のまま増え続けるばかりだ。収拾がつかない。それらは、所詮、物語の佇まいを見せたら見せただけのことで、やんわりと持続の意識に溶け込むに任せるべきだ。 ちゃらちゃら、音をさせて手錠を弄ぶ刑事の正面に立ち、私だ、私が、全部、やりました、何をやったか、思い出せないが、全部、やったのは私…… あの頃、懸命に考えているようで、ひどくぼんやりしているのでもあったのだろう。沼の底を、のろのろ、這い回る感じか。同時に、溺れる人のように我武者羅にもがいてもいた。 誰が敵で、誰が味方か、区別できないので、取り敢えず、全員を敵だと見做すことにした。しかし、そのことを悟られては不味いので、全員を味方であるかのように扱うことにした。だが、わざとそうしているのだということを悟られないために、時々、敵のようにも扱ってやった。そうして、仮想敵を改心させようとした。しかし、その意図を悟られては不味いので、自分こそ転向したがっている者のように装った。友情を求めているように見せかけることによって、友情を求めていることを隠蔽した。 スパイ気分。見るからにスパイだと知れるスパイ。スパイらしいスパイほどスパイではないのだと思わせるためにスパイらしく振る舞うスパイ。 私の思想は、人々には無意味なものになった。私は、誰かを説得する、録音された自分の声に反論した。反論されると、声は録音機の中で考え込むようだった。 私は、予め反論の予想されるような考えしか口にしなくなった。そうやって、相手の[世界]の有り様を探った。このやり方は、最初、有効であるように思われた。だが、相手に[世界]のない場合は、功を奏しなかった。 どのみち、私は助かりっこない。私には生きて行く力がない。私にできることは、[世界]があるかのように見せかけ、そして、しくじって見せることだけだ。そう考えた私は、[世界]がある人々の戯画となることを目指した。そうやって、彼らを辟易させ、反省を促そうとした。しばらくして、タモリが出現したので、止めた。彼の力で、文化人の醜さは、かなり愚かな人の目にも明らかになった。 私は、孤立を恐れたのではなかった。いや、恐れたのかもしれない。孤立は、あまりにも文学的だったから。孤立も、自殺も、破壊も、反抗も、堕落も、無頼も、病気も、不倫も、とにかく、[文学]的な臭気を放つ、すべてを忌避した。嫌悪する。 私は、私の奇怪な戦術が母親に対して応用できるだろうかと考えた。だが、本当は逆だった。この戦術は、専ら母親のために編み出されたものだ。実は、母親に通用しない、どのような戦術も無効だと思われていた。[すべての母親が覚醒すれば、次世代では世界平和が訪れる]というような考えが頭にあった。母は、私にとって、すべての母親の中から偶然に選び出された母親の一人に過ぎなかった。私が偶然に生まれたように。 さて、この戦術、すなわち、[世界]を内側から破壊するために[世界]を受容するふりをすることによって、私は母に私が母の味方だと思わせることに成功した。私は、息子として、女親に甘くなっていた。両親が離婚できないのは私のせいだという罪悪感も手伝っていた。父にとって代わろうとした少年の心が淡く蘇ってもいた。 私は、父が長男で、自分は次男だと思っていた。母の弟が別の家に住んでいるように、父も、いつかは、家を出て、私が父の代わりを務めることになると思っていた。3歳の頃のことだ。 「こんな家、出ていこうね」と、母は言った。小学生の私は、その言葉を信じ、出奔の日を、今日か明日かと待ち焦がれた。あからさまに聞くことは、なぜか、憚られた。父に聞かれては不味いからか。まだ、まだと縋る目を向けられながら、なぜとは問わず、母は、驚きの中にも心地よさをたっぷりと味わうふうだった。すでに何人もの少女たちに恋をしかけ、まるで通じないのに業を煮やしていた私は、女を身近に発見し、わざと勘違いした。母親が着飾るのは、私のためなのだ。父のためであるはずはないのだから。だが、だとしたら、なぜ、長い時間を化粧に費やしながら、鏡の中の私に罵声を浴びせるのだろう。敵を欺くためか。しかし、父がいないときでさえ、そうする。 ついに、脱走の日は訪れなかった。じりじりと煎り付けられるように、私は熱くなっていた。そして、どうやら、騙されたらしいと思い当たり、それとなく母に謝罪を求めた。が、得られず、屈辱感から報復を開始した。母を嘲笑する父の片棒を担いだ。 家のなかが平和におさまるように、男は男どうしで力をあわせなくちゃ いけない。 (ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳) ことあるごとに母に楯突いた。料理でも、母の作ったものは口にしたくなかった。渋々、食べた。[旨いと思ったら、負けだ]と思った。母の手が触れたものを体に入れるのが気持ち悪かった。嫌いな物だと、頬ばって席を立ち、便所や庭で吐いた。育ち盛りで、身長は伸びているのに、体重が減るので、保健室から注意が来た。アレルギー性鼻炎が始まった。やがて、皮膚も弱る。爪で、肌にレリーフが描けた。 母の手紙は、この頃の反抗に対する厳しい態度を詫びたものだった。私は一読するや、胸が詰まり、ああ、もう、駄目だと思った。息を吹き込んだ紙袋を、ぱんと割ったような感じだった。誰が割ったのか。母だ。 駄目ではないか、こんなことを書いて来ては。過去は振り返ってはならない。ありふれた離婚家庭を演じ続けるのではなかったのか。演じ続けて来たことのすべてが、水の泡になってしまう。つらいことには目を瞑り、que c* la c* la、どんな不幸も温かいユーモアで包んで、さりげなくやり過ごすのではなかったのか。けせらせらが、幼い私には、笑い声に聞こえた。 母は、捨て身の博打に出た。普通の人間なら、うかうか、乗ってしまう。普通の人間? 彼女の周囲に、普通の人間が寄り付くのだろうか。騙されるのも私なら、騙されまいと抗うのも私だ。妹だって、騙されない。 と、そのようなことを書き送ろうとした。だが、うまく書けなかった。うまく書こうとすると、母の読みたがるようにしか書けない。来た手紙を読み直した。冷静な目で見ると、母の文は解読困難だった。私だから[分かる]ようなもので、普通の人には分かりっこない。私は愚かだと思われたくなくて、[分かる]ふりをして来た。だが、私は、もう、愚か者扱いされてもいい。諦めた。そして、[分からない]と書いてみた。すると、途端に、本当に、分からなくなった。その代わり、今まで分からなかったことが、すうっと分かり始めた。私は普通になり始めた。普通でいたければ、親達とは不通でいるべきだと悟った。 折り返し、居丈高な返事が来た。予想通り、私は愚か者扱いされていた。[親の気持ちを察しろ]と書いてあった。[察する] 何と、恐ろしい言葉だろう! 世の中に、これ以上、暴力的な言葉はない。いっそ、[自我を殺せ]とでも言うがいい。察しようとしたために、私の心はぼろぼろになってしまった。私は、[詫びは本心ではなかったことが証明されたに等しい]旨、書き送った。絶望の素振りの返事が来た。私の知らない[世界]の中での絶望。 その後、しばらく、郵便受けを覗くのが怖かった。その前を通るとき、背筋の凍る思いがした。次は、どんなことを書いて来るか、不安でならない。手紙が来なければ来ないで、母が暗い部屋で首を吊ろうとしているところを想像し、ぐっとなった。すると、その反動でか、何だか、わけの分からない、ぎざぎざの、曲がりくねった、異様な形の、恐ろしげな武器を振り翳し、前触れもなしに、Lと私のいる部屋の扉を押し破って、悪鬼のごとく、踊り込む母の姿を想像した。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。 恐ろしがると、また、そのことを種に、笑われるのだろう。 その頃に描かれたらしい、小さな漫画を、先日、見つけた。三センチ角内にすっぽり納まる、萎縮した心をそのままに表した絵。 (絵/8字×8行) その数年後、ベルリンの壁が崩壊した。私の予感した通り、大きな戦争はなかった。核兵器は使用されなかった。革命は起きなかった。核兵器と全体主義の脅威で私達の夜の眠りを脅かした文化人は、どのように謝罪したか。あるいは、謝罪の必要を認めないのかもしれない。危機が回避されたのは、彼らの警告のお陰だとでも言い抜ける気か。まるでヨナ気取りで。 共時性というか、不思議な偶然を感じた。私の精神的転機と世界史的転機が、相前後して起きた。もし、母に対する対応を誤っていたら、私は、ベルリンの壁崩壊後の社会の変化を素直に受け入れられなかったと思う。冷戦は、ベトナム戦争の頃には、すでに[世界]になっていた。私は、そのことを知っていた。そして、多分、普通の人々も知っていた。普通の人だったら誰でも思っているようなことを、私の場合、自覚しないようにしていたために、18歳の春、自分の思いを外側からの言葉のように聞いてしまったのだろう。 その日から数カ月して、日中国交回復が成立した。以後、石油危機のようなことはあったが、ベトナム戦争も終結し、日本経済はバブル期を迎える。私の予感は、概ね、当たっていたことになる。 ところで、[明るい未来]の印象は、1990年あたりで、ふっと暗くなり、見えなくなっていた。まるで、時間がなくなるかのように。人間は、自分の生きた年の分だけしか、未来を感じられないという、そのためか。あるいは、ソビエト連邦の解体を想像することが難しかったからか。 70年代前半、右であれ、左であれ、政治的な人々に私の予感を語ると、希望的観測だと一笑に付された。あるいは、恫喝された。危険はないと発言することが、危険だった。その頃、社会的な問題に関心のないような人に向かって、私の予感を語ろうとしたことがある。初対面同様の人で、どう思われても構わないと思い、ずばり、言ってのけた。 「この平和は、まだ、しばらくは続くと思うよ」 すると、その人は、にっこり、笑い、自分もそう思うと言った。あっけなかった。私は、この人の思いは希望的観測だろうと思った。そして、こういう人とは付き合わないようにしようと思った。どこの誰だったか、記憶にない。だが、そのときのその人の笑顔の印象は、今も残っている。素朴な笑顔。 |