『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

文字を大きくする 文字を小さくする
#026[世界]05鏡

 [鏡は、右と左が逆に映る]という文が、理解できなかった。何度も実験した。鏡に向かい、右手を挙げる。すると、私の右手が挙がる。私の左手ではない。確かめるために、右手に物を持ち、そっと動かす。私は自分の目を疑ってみるが、やはり、動くのは右だ。手に印を付ける。同じこと。いくらやっても、右は右、左は左。
 筆記試験でも答えられず、教師から頭ごなしに罵られた。鏡の問題で誤答したのは、私だけだったらしい。教師は、私がわざと間違えたとでも思ったか。
 鏡の問題は、誰に訊いても、納得できる説明を得られなかった。そのうち、[世間では、そういうふうに言うものなのだ]と思うことにして、忘れた。
 後に、[鏡は、線対称ではなく、面対称だ]ということを知って、やっと、救われた気がした。左右が逆なのではない。逆なのは、前後だ。さもなければ、[鏡に映る像は、左右が逆だ]と言うときの[逆]と、[凸レンズが作る像は、上下が逆だ]と言うときの[逆]とは、丸っきり逆のことを言っていることになる。
 最近、気づいたことだが、人々は、[鏡の中の世界]を想定するらしい。なぜ、そんな、ややこしい考え方をしたがるのだろう。鏡というものを理解できるのは、人間と、ある種の猿だけだと聞く。人間なら、鏡を見ながら髭を剃るとき、[実物と鏡の中の像は、逆になっている]と考えずに、剃っているはずだ。自分の右半身は、向かって右側に映っている。そのことを話題にしなければならない必要が、どこにあるのだろう。まあ、考え方は個人の趣味だから、好きなように考えていいのだけれど、[鏡の中の世界]を想定するのなら、はっきりとそうと言ってくれなくては困る。人々は、なぜ、きちんと言わないのだろう。
  かつて、植物学では、アサガオのつるは左巻きだとする意見が主流をし
 めてきました。「アサガオを上から見て、つるを根元から手前へたどると、
 左巻きだ」とされたのです。(中略)ネジなどで、このように決めると、へん
 に思えます。しかし、「植物は、根の方から上へと成長する。それで、植物の
 つるだけは、ほかの科学とは反対の決めかたになってもよい」という考え
 かたもありました。(中略)立体の渦巻きを、面で考えさせてかんたんにし
 ようとして、かえって混乱させる結果になったのです。
            (永田英治+長田火出良『うずまき右まき左まき』)
 視点とか原点を固定しないで論述すると、こういう混乱が生じる。鏡の場合、鏡の前に立つ人物の目と、現象を横から見る人物の目があって、主語が何の断りもなく変わる。朝顔の場合、上から見る目と、下から見る目がある。育てと願う人間の目と、育とうとする朝顔の芽の、二つのメが混同される。
 蔓の巻き方については、教師が、[言葉では教えられない。見た目で覚えろ]と笑っていたのを思い出す。
 小学校に上がってすぐのこと、父兄面談で、教師が私の授業中の態度について指摘したという。私は、挙手しない。だが、指名すると、正解を答える。どうも、授業というものが理解できていないようだ。そうだ。できなかった。
 教師は質問する。だが、教師がその質問に対する解答を知りたがっているとは、私には思えなかった。思えないどころではない。教師は答えを知っているはずだ。だって、たった今、板書して説明したばかりではないか。私は、問いの答えに相当するものを、黒板の上に見出す。まさか、あれのことを言っているのではあるまいな。自分が知っていることを人に訊いて、どうしようというのだろう。そんなことを考えていたような気がする。要するに、[教師は答えを知りたがっている]ふうには見えなかった。だから、きっと、何か、別のことが問われているのだろう。あるいは、真実の問いは隠されているのだろう。そんな気分でいたと思う。
 [学校とは、学校ごっこをするところだ]と考えるしかないようだ。しかし、[ごっこ]ではない学校というものがどういうものか、私に分かっているわけではない。


[前頁へ] [『いろはきいろ』の目次に戻る] [次頁へ]


© 2002 Taro Shimura. All rights reserved.
このページに記載されている内容の無断転載を禁じます。