『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#028[傷]

 自分の文体に、自分で耐えられない。こんな文体を要求する読者を、私は憎む。
 小学校の遠足の後、決まって書かされる作文に、[私は、友達の冗談に笑い、握り飯を落としてしまった]と書いた。その話は事実だ。しかし、語り手の私は嘘をついている。私は、遠足に行く前から、[握り飯を落として笑ってもらおう]と考えていた。そして、そのことを作文に書いて、母に信じさせようと考えた。弁当を残して帰ると、叱られた。捨てたのに、食べたと嘘をつくのは、もっと恐ろしいことだった。
 私は、誰に向かって書いているつもりなのか。 
 RPGで、無駄な操作をすると表示される文。[誰に話しているのだ/そこには誰もいない/その方向には何もない/特に変わったものは何もない/宝箱は空っぽだ/返事がない。屍のようだ/返事がない。冷たく凍りついている]
 18歳の頃、[自分のようなものは、いくら頑張ったところで、まともな文章は書けないだろう]と思った。書けるとしても、50歳にならなければ、無理だ。
 50歳を、どんな年齢だと思ったか。私がその年齢になる頃には、親達はこの世にいないと思ったか。そして、そうなれば、私は自由に言葉を使えるようになるとでも思ったか。だが、平均寿命は年とともに上昇し、まるで、誰も死なないみたいだ。時々、わあっと叫んで、どこまでもどこまでも、まっすぐに駆け出したくなる。あの人達は永遠に死なないのではないか。サイボーグ。冷凍睡眠。脳の情報をコンピュータに移植し、人格を模造すれば、人は観念的には不死になる。いや、そういうことではない。彼らに会わなくなって20年にもなるのに、軛は外れない。私にとって、すでに、彼らは不死だ。
 と、このように、誰かに語りかけ、誰かの目の色を窺い、その裏で媚びるような文体に、自分で耐えられない。
 書かなければ[世界]に監禁され、書けば[世界]を補完してしまう。
 スーパー・マーケットで、母親が子に言っている。ねえ、今晩、何にしよう、ハンバーグ? ウーン。子供は、捩った体を陳列台に擦り付け、斜め上方を見る。体と心の間に入った罅を合わせるかのようだ。ハンバーグにしようか。ウーン。ハンバーグ、好きでしょ? ウーン。好きじゃないの? ウーン。ハンバーグにしようね。ウーン。
 延髄斬りを食らわしてやりたい。
 「おまえは、もう、子供ではないのだから、選ぶ権利がある」と言われた。父か、母か、選べ。父は、そう言うと、一仕事終えた体になった。母も、父の言葉を支持する顔をして見せた。私は、口うるさい母よりは、子供に甘い父といたかった。いや、そうなるものと思っていた。ところが、子に見られ、父の眉間は迷惑そうに狭まった。妹は幼いので、母が連れて行くことに決まっていた。選ぶ権利のない妹は、眠った。私は、母を見た。母は、子供二人の面倒を見るなんて、考えてもみないふうだ。
 離婚すると聞かされ、私は、母と妹が出て行き、新しい母が来ることを想像して、うきうきした。新しい、優しい、若い、姉のような母。今も、こう書きながら、うきうきした。
 母に疎まれ、父寄りの発言をした。父は、1点先取した顔で、母を見た。すると、母は、私を裏切り者のように見た。母が、1点、取り返した。私は、彼らの名誉を賭けた爆弾だ。取り合いながら、押し付け合う。ソロモンの知恵、大岡裁き。手放すのは、愛の深さの証明。
 あの夜、あるいは、明け方、結局、どちらかを選ばされ、私は寝た。起きると、[起きたら、いない]はずの母が、台所にいた。鼻歌交じりで味噌を溶いている。私は、驚き、まだ出掛けないのかと尋ねた。すると、その時の母の顔。[何を言っているのか、分からない]という顔。私は、夢でも見たのだろうか。あれは、何だったのか。食い下がる私は、[おかしな子]にされた。怒って背を向ける主婦の腰に、前掛けの蝶結び。
 だが、夢ではなかった。数日後、またもや、諍いは始まり、私は二人の前に座らされる。そして、選択の権利を与えられたことに、感謝しなくてはならなかった。どちらかを選ぶと、[よく考えたか]と詰問された。選び直し、寝る。翌朝、母は、また、いた。そして、何事もなかったかのように振る舞う。私は、[自分の頭は、おかしいのだろうか]と疑ってみた。自尊心を傷つけ合った後の男と女の体がどうなるかなど、想像の埒外にあった。
 3度目からは、喜劇だ。妹でさえ、どことなく軽蔑するようで、さっさと寝に行った。深刻ぶった言葉とは裏腹に、浮ついた心が透けて見える男女の体を前に、私はうんざりしながらも、やはり、明け方には、涙で顔を腫らしていた。横座りし、長いスカートを広げた母の体は、不気味に女っぽかった。父は、ほとんど、母を顧みず、女の目に横顔を晒す男の得意に満ち、私の目を覗き込んだ。父親が息子の目に溜まった涙を見たがっていると直感した。私が泣くと、二人は満足し、これから起こる悲劇について、睦むように語り合った。妹と私が、成人後、肉親と知らずに出会い、恋に落ちないよう、何か、印が必要だなどと話し合われている。銀のロケットに写真を入れる? 戦時中は、よかった。胸に大きな名札を縫い付けていたから。
 私は、依坐に使われたらしい。二人は、自分達がどれほど本気なのか、自分で自分の心を計りかね、自覚できない心の有り様を、私の涙の量で占った。それがもっと多ければ、どうだったのか。少なければ……
 と、ここまで、書いて、この話は、普通の人には理解できないのかもしれないということに気づいた。普通の子なら、両親に[別れないで]などと泣きつくのだろうか。そうでなくとも、どちらかの親に執着するのだろうか。だが、そんな事態は、こうして書くまで、夢にも思わなかった。親達は、[施設]に預けられている子供の悲惨さで、私を脅かすことがあった。私は、その[悲惨な暮らし]を羨まないでもないことを隠すのに、かなり苦労しなければならなかった。
 私は、依坐でなければ、あの「かわいそうなぞう」なのだ。
  ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと、体をおこして、ぞう
 がかりの前にすすみでてきました。おたがいに、ぐったりとしたからだ
 を、せなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。
  後ろ足で立ちあがりました。前足をあげておりまげました。はなを高く
 高くあげて、ばんざいをしました。しなびきったからだじゅうの力をふり
 しぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。げいとうをすれば、も
 とのように、えさがもらえると思ったのでしょう。
                   (土家由岐雄『かわいそうなぞう』)
 この語り手は、ひどい勘違いをしている。象は、餌が欲しくて芸をしたのではない。芸のような体の動かし方しかできなかったのだ。本当は人間を踏み潰してしまいたかった。しかし、何かをしようとすると、芸になってしまう。
  ついに、ワンリーもトンキーもしにました。てつのおりにもたれ、はな
 を長くのばして、ばんざいのげいとうをしたまま、しんでしまいました。
                              (同前)
 象は、想像の中で、人間を踏み潰した。そして、万歳を唱えた。ところが、お人よしの人間共は、そのダイイング・メッセイジに感傷的な物語を読み取り、流布した。死んだ象は、作家も読者も踏み潰せない。
 私が、今、万歳をしているように見えたとしても、ただそうすることしか、私にはできないから、そうしているだけだ。私は、誰かを殴る代わりに、書きなぐっている。
  アレアレ、今のを御覧になされしか、打ち殺さるゝ鞭とは知らず、船漕
 ぐ真似をしますわいの。
                     (中村重助『花舞台霞の猿曳』)
 象の私が万歳をするのは、それは[お手上げ]という意味だ。私が、キーボードに向かうのは、私の脳味噌に書き込まれた、自爆プログラムを消去するためのパスワードを捜し当てるためだ。でも、それが、Lには、”All work and no play makes Jack a dull boy."の羅列(スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』)にしか見えないのだろう。
 私の言葉がLに伝わらないのは、[あなたが人間の言葉を知らないからだ]と、Lは言うか。[言葉が伝わると、心が伝わらなくなる]と、Lは言うか。[言葉だけ伝わって、心が伝わらないと、大変だから、わざと言葉が伝わりにくいように、言葉に傷を付けておく。その傷は、自分の思いは言葉では言い尽くせない世界に属しているという証拠になる]と、Lは言うか。[というのも、あなたが私に言わせたことだ]と、Lは言うか。
  返事がない・・・。しかし よく見ると つくえの上に 冒険の書が 置いて
 あった。こっそり 冒険の記録を 書きとめておきますか? 
                     (RPG『ドラゴンクエスト*』)


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