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#029[針]

  わたしは、お日様の光から生まれてきたんじゃないかしら。それでこん
 なにきゃしゃなんだわ! 気のせいか、お日様がしょっちゅう水のなかの
 わたしを探しているようにさえ思われるわ! ああ、わたしがこんなにも
 細いものだから、お母様もわたしを見つけることができないのよ。もし、
 あの時折れてしまったわたしに目があったら、きっとわたしは泣いてし
 まうわよ!―でも、わたし、泣いたりなんかしないわ―泣くなんて上
 品じゃないもの!
                (アンデルセン『かがり針』大畑末吉訳)
 「困ってるの」と、Lが相談を持ちかけるふうだった。そういうのは、珍しいことだ。Lの母親が献体を希望しているという。だから、どうだと言いたいのか。例によって、要領を得ない。私の方から、いろいろ、言ってみる。「西洋医学の発展に貢献したくない?」「そんなことじゃない」「近親者の肉体が傷つけられるのが、嫌?」「ううん」
 通じない。私は、匙を投げた。「とにかく、本人の意志を一番に尊重すべきことだろうから」と言いかけたら、Lの顔に、私を見下すような薄笑いが浮かんだ。生きて来て、何度もお目にかかった顔だ。何となく、Lにだけは、それが浮かぶことはないと思い込んでいた。母が、父が、すれっからしの教師共が、そして、ほとんどの少女が、その顔を私にして見せた。
 私は、一瞬にして、事態を了解した。私の喉から怒りの声が漏れた。しかし、それは、いつもの怒鳴り声や甲高い声ではなく、古い壁紙を剥がすような、嫌な声だった。初めて聞く声だと、自分でも思った。自分のものでないような、その声を、元に戻すことはできなかった。涙が、まるで飛び出すように、ぼろぼろ、出て、体を起こしていられなかった。肘を付いて半身を支え、弱々しく畳を叩いた。怒りながら泣くという、初めての体験をした。
 要するに、Lの母親は、周囲の人間を困らせて、甘えているらしい。人々は、愛の試験に合格するためには、彼女の[意志]に逆らわなければならない。そのような解決不能な、というよりは、無意味な試練を他人に課すことのできる権能の保持者を、私は、Lとともに礼讚しなければならない。罠。私は、初めて、絶望ということを、自分の感情として実感した。私は、本当の敵の懐に飛び込んでしまった。Lは、私の恐怖を思い過ごしだと見做すことだろう。アブラハムの息子は助かったのだから。確かに、アブラハムの息子は助かった。しかし、私は、彼の息子ではない。繁みに角を取られた羊だ。
  ある日のこと、すぐそばにたいそうぴかぴか光るものが来ました。かが
 り針は、これはダイヤモンドだと思いました。けれども、ほんとうは、瓶の
 かけらでした。でも、あんまりきらきら光るものですから、かがり針はそ
 れに話しかけました。そして、自分はネクタイピンだと名のりました。「ね
 え、あなたはダイヤモンドさんでしょう?」―「ええ、まあ、そんなもので
 す!」 こうして二人はおたがいに、相手はたいしたものだと思いこみまし
 た。そして、世のなかの人って、なんて高慢なんでしょうと話し合いまし
 た。
                              (同前)


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