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#032[犬]

 なぜ、[夜]02のようなことが起きるのかと言えば、[私にしてみれば、全く誤解の余地はないと思えるようなことさえも、誤解されない保証はない]と思っているからだ。ところで、この文は、矛盾を含んでいる。まるで、[私]が二人いるかのようだからだ。このことは、説明できる。前者の[私]は、通常の社会に属している。後者の[私]は、黄色の家に属している。黄色の家では、言葉は、例えば、数学のように、現実の諸関係から超然としていることもない代わりに、私が現実だと信じている物語の綻びを縫い合わせる糸となることもなかった。そこでは、言葉は、現実を裏返すために使用される。言葉が現実を裁断する。現実は切り刻まれ、ばらばらにされ、そうして、裁ち直される。そして、私は、立ち直れない。
 あの家の通路に、生き腐れの犬が、横たわっていた。犬は、いつも同じ日陰にいた。死と生の狭間のような薄暗がりにいて、悪臭を放っていた。毛は抜け、赤い肉が覗いていた。ふてぶてしい様子なのに、ちょっとしたことにも怯えた。近づく者があると、低く唸り、誰彼構わず威嚇した。私の足音さえ聞き分けられないようなのが、情けなくもあり、不愉快でもあり、わざと、ばたばた、歩き、驚かせ、辱めた。私だと分かると、彼は、すまなさそうな、しかし、迷惑そうな表情になり、力なく尾を振り、首を起こして、ちょっとだけ、手を嘗めた。そして、また、あの、私には窺い知ることのできない、生と死のあわいに戻って行く。毎日が別れだった。しかし、そのことに重要な意味を与えないようにしていた。そのくせ、私は、誰かに、こんなふうに言ってもらえたらと、ぼんやり、期待していたのではなかったか。
  「ジョディ、フラッグを殺してやるがいい。そして、苦しみからすくって
 やるんだ」
               (ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳)
 だが、私の期待は裏切られた。
  「これから、おまえをおとなとして話すことにしよう。おまえは、わしに
 うらぎられたと思ったんだろう? だけどな、おとなはだれでも、いつかは
 知らなければならないことがあるんだ。おそらく、おまえも、それを知っ
 たんじゃないかと思うがね。わしだけのことじゃない。それからまた、殺
 さなければならないのは、おまえのあの子鹿だけじゃないんだ。ジョディ、
 人生そのものがおまえをうらぎるんだ」
                                                                (同前)
 2年前の日記の筆写を中断している間に、毛皮を買った。ムートンの敷物。安かった。毛皮など買うのは、生まれて初めてだろう。動物愛護団体のことが、ちょっと頭を掠めた。でも、羊なんて、絶滅種ではないのだし、第一、肉を食っている。そんな言いわけを考えながら、ベルトも皮だということを忘れていた。靴だって、鞄だって、皮。毛が生えてないだけ。毛は重要だけど。
 売り場で、毛皮に触っていた。あんなに素朴に物を欲しそうにしている私を見たのは初めてだと、Lは言った。風呂に入る前、裸で毛皮に横たわると、心地よい感触が肉まで通るようだった。知っているようで知らない、薄い、淡い快感。撫でていると、飼っていた犬のことが思い出され、生き物の匂いの伴わないのが、不思議なほどだ。常に頭のどこかにある死の意識が、そのとき、消えていた。
 私には、人間がどれくらい固くて柔らかいものか、分からない。犬や猫の固さ、柔らかさは知ったつもりでも、人間のこととなると、まるで知らない。人間の皮は、恐ろしい。人間がそれを被って生きているから。
 この仕事に戻ってから、苛めが原因で、子供たちが次々に自殺し始めた。原因は学業の不振にあるとされることもあった。だが、成績が悪くて死ぬのは、苛められたせいではないのか。すれっからしの教師か、あるいは、臆病なくせして勘定高い親か、かつての私のような、自分の恐怖を他人に向ける同級生に追い詰められたせいではないのか。
 [自殺するぐらいなら、思いの丈を吐き出してからにすればいいのに]とは、誰しも思うところだろう。私も思った。でも、思うだけ。自分の日記を書き写すのさえ、青息吐息。


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