『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#033[指]

 隔週毎に、Lと別れて暮らすことになる。そして、しばらくして、[青]に操られて、この仕事が始まった。一人暮らしに不便は感じない。でも、困ることがある。夜の闇が怖い。
 闇が恐ろしいのは、何も見えないからではない。何でも見えてしまうからだ。見えるのは、見たい物ではない。見たくない物でさえない。予め、見たくないと思っている物ではない。
 旅先の独り寝で、恐怖は感じない。自分の部屋だと、恐ろしい。越して来た当座は、怖くない。住み慣れると、怪しくなる。住まなくても、通い慣れるだけでも怪しくなる部屋、路地。要するに、慣れがよくない。
 隠れん坊が好きだった。小学校の高学年になってもやりたがるので、同級生に呆れられた。一人でも、よく、押し入れなどに入り、じっとしていた。おとなになっても、隠れた。隠れて、Lの姿を覗き見る。他人の秘密を暴きたいのではない。
 (と、こう書かないではいられない自分が疎ましい。私は、誤解を恐れる。もっと、正確に言えば、誤解を解く方法を知らない。理解されたいわけではない。理解するのに努力が必要なほど難解な主張を試みているつもりはない)
 私が見てみたいのは、私がいないときの他人の姿だ。人は、私がいないとき、どんなふうに振る舞うのだろう。私の不在と、どのように付き合うのだろう。私が座る場所に手を当ててみたり、そっと、私の名を呼んでみたりするのだろうか。しない。つい、二人分の茶碗を持って来たり、するのだろうか。しない。見ていて分かるのは、[私のいないとき、私の場所はない]ということだ。姿を現すときは、ばあっと、大袈裟に冗談にしなければならない。冗談でしか、私の場所はない。
 町を歩いていて、ちょっとした隅があると、そこに潜り込みたくなる。通路でも、曲がり角の、人が滅多に踏み込まない、三角の空間を見つけると、勿体ないと思う。太い柱は中が空洞に思え、[その中に住めたら]と考えてしまう。誰の物でもないうちは、安心だ。私の物になると、恐ろしくなる。
 私は、あの家に自分を閉じ込めていた。越境通学をしていたので、近所の子供に苛められるのを恐れ、滅多に家から出なかった。
 (この説明は、正確ではない。この説明は、当時のボクのものだ。事実は、少し、違う。私は、今、説明し直そうとした。しかし、うまくできそうにない。うまくできたとしても、それは、今の私の説明ではない。きっと、父か母に吹き込まれた説明だ)
 じめじめした中庭で、犬や鳩や妹や地蜘蛛と遊んだ。地蜘蛛の腹は小豆色で、艶やかだった。鳩には、餌をやるのに、血が出るほど、手をつつかれた。妹は、すぐに泣いた。中庭は狭く、やがて、犬の糞の埋め場所がなくなった。青苔の生えた地面を掘ると、廃材が、ごろごろ、出て来た。朝は遅く、夜は長かった。堅い毛の生えた、ざわざわしたものがあって、それは誰かの影だ。床の間の壁は砂で、キラキラ、輝き、零れた。零れるところは見ないが、掃いても掃いても、いつも、落ちている。ボクの体は、まだ、あの家のどこかに隠れている。
 隙間があると、そこから人が覗くように思うのは、私だけだろうか。以前、覗く、その人は、女だった。老いて、枯れたように痩せ、目だけ、光らせていた。それは私の母親だろうと、Lは言った。私の母親よりは、Lの母親に似ていた。しかし、そのことは言わなかった。その女は、誰でもなかった。20年ほど前、Lと知り合ったばかりの頃、雪の夜道を、二人で歩いていたら、石灯籠の前で、親しげに、にこやかな笑みを浮かべながら、前で手を揃え、一礼して消えた老女でもなく、古い寺の近くのLの部屋の天井から舞い降り、こんこんと説教を続けた老女でもなかった。その女は、以前住んでいた部屋の台所にいた。日本の着物を着て、細い帯をしていた。着物の柄は知れない。くすんでいる。私が着物のことに疎い、その疎い感じのまま、あやふやな柄。恐ろしいというよりは、疎ましい。[恐怖が疎ましい/疎ましいような恐怖]と言って、通じるか。
 転居後、嘘のように老女の気配は消えた。私は、[恐るべき母親]から解放されたと思った。でき過ぎだとは思いつつ、一仕事終えたような誇らしさを舌の付け根に感じた。ところが、ある夜、Lのいない夜、窓を閉めながら、ガラスの向こうに、男の顔を認めた。思えば、数日前から、そいつはそこにいた。でも、気にしないようにしていた。顔だけの男で、その顔は潰れている。漫画で見た。ストレイト・パンチをまともに食らって凹んだ顔。裏側から鼻を持って引っ張ったみたい。目も鼻も口もないから、誰だか知れない。本当は、顔だということさえ、疑ってかかるべきなのだろう。だが、私は顔だと思っている。目はないのだから、覗くことなど、できっこないのに、覗く気配はあって、その気配で私の気を惹くのかもしれない。その顔を曝すこと自体が目的か。
 老女のことで成功していたから、今度は、目を逸らすまいと決めた。[その潰れた顔は、父だ]と思ってみた。息子達は、父親の[顔を潰す]ような生き方をせざるを得ない。このことに思い当たると、顔の幻影は消えた。
 もう、大丈夫だろうか。恐る恐る、自分の胸に訊いてみる。返事はない。[論理的には、もう、この後はないはずだ]と思った。母が消え、父が消えた。この世に、他に恐ろしいものといって、何がある? 
 ところが、手が現れた。手は、カーテンを引く私の手が夜のガラスに映った、その残像だろう。しかし、それは、私の手とは似ても似つかない物だった。爪が尖り、猛禽類の鈎爪を思わせる。指は、異様に長い。節槫立ち、そして、何よりも特徴的なのは、その指の一本一本に、青黒い入れ墨のようなものが施されていることだ。それは、幻影と呼ぶには、痛切に過ぎた。老女も、潰れた顔も、私を窺うことしかしなかったが、手は部屋に侵入しようとしていた。この恐怖は、私の内部からやって来るのではない感じだ。
 「黥面文身」(『魏志』「倭人伝」)という句が思い出された。背の高い植物の生い茂る湿地を、風のように駆ける男がいて、私を狩りに来たか。
 私は、覚悟を決めた。この幻影は、私には関わりがない。対決すべきだ。幻影が見えそうになると、私は、わざと手を彫像のように空中に静止させ、それをガラスに映し、網膜に映し、幻影と比べた。心理的なエクササイズの応用。
 [ここが夢の中ではないことを確かめる方法]というのがある。現実にはあり得ないようなことが起きるように念じ、そして、わざと失敗する。例えば、目の前に嫌な奴がいたとする。私は、その顔に、[潰れろ]と念じる。夢なら、念じたとおりに成るかもしれない。現実だと、成らない。勿論、ひどく現実的な夢というものもあるわけだから、夢のようなことが起こらないからといって、[ここは現実だ]と即断してはならない。しかし、ここがどこであろうと、夢のようなことが起こらない限り、私が現実だと考える世界の道理が通用すると考えて差し支えない。現実と寸分違わぬ夢なら、それを、わざわざ、[夢]と呼ぶ必要もない。で、一息つける。
 ガラスの向こうに浮かぶ手は、目を凝らしただけで消えた。微笑まれた。部屋を振り返る。と、その瞬間、私は思い出した。あの手は、やはり、私の手だった。以前、ブラインド・タッチを覚えるために、指に青いペンでアルファベットを書いていた。幻影の手に施された入れ墨は、その名残だ。でも、本当だろうか。その感じを確かめようと、今、キーボードの上に指を置いてみた。そして、何を打とうか、言葉のうねりがやって来るのを待っているのだが、言葉は、どこからも降りて来ない。もう少し微妙な言い方をすれば、言葉のうねりを堰き止めるものがあって、指は悴んでいる。[だったら、こうしてたって無駄だろう]と、そう思った途端、指が勝手に動き始めた。
 指は、今、私の意志とは無関係に、いや、私の意志をはぐらかすように動いている。指は、私から自由でいたいらしい。指は、私のことが嫌いなのだ。嫌いというのが言い過ぎなら、疎ましい。私という奴は、何とまあ、七面倒くさい奴であることか。
 だから、私は、私の……。私? 
 私は誰でしょう。これらの言葉を画面に打ち出しているのは、私? それとも、指? 誰の? 
 誰かの指が、遠い所から来た流れを、苔の下水のように受け継いでいる。石の握り方、竹の撓め方、草の編み方、革の鞣し方、ぐるぐる、渦巻の描き方。いろんな流れを思い出したくて、指はキーを叩く。私が指を動かすのではない。私にできることは、せいぜい、指を止めることぐらいだ。
 この指、止まれ。
 青空に向かって、細く伸び上がる1本の指に、わあっと、幾千もの指が射掛けられる。指の塔に、先を争って攀じ登る小鬼共。最初に頂上に立った者が、身を投げる権利を得る。そんな光景を眺める私は、どこにいるのか。おそらく、指の先端から見れば、仰角60度の高み。二日酔いの朝、キオスクで瓶牛乳を買い、偉い人のように手を腰に当て、ごくごく、ラッパ飲み、虚ろな目が仰ぎ見る、その先に、いつも、いたのが…… 
 [私]
 [私]は、私のようで、私ではない。指の付け根にできた、一種の腫瘍のような物だと思えばどうだ。指は、自分に、体や目や脳のあることが、疎ましい。
 切除しますか。しばらく様子を見ますか。
 さて、新しい日が来るとして、その日の終わりに、きっと、夜が来る。夜には、自分の作り出す幻に怯える人がいて、怯える人は怯えを撒き散らす。撒き散らされた怯えの種から、芽が出る、芽が出る。苗でも植えるように、ディスプレイに記号を並べる指。
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 意味は? Vサイン、強拍、ブレス、チェック……。いや、意味はない。[意味はない]という意味。私がほしいのは、無意味な夜だ、不気味な夜ではなく。
 昔、繕い物をする母親のそばに腹這い、糸屑を指に巻いて、叱られた。鬱血し、肌が紫色になる様子が面白かった。[腐って落ちてしまう]と言われた。言われて、どきどきしながら、指を縛る遊びを続けた。腐って落ちるのを見てみたい気がした。そのとき、壊死するのは、指か、[私]か。


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