『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#034[橋]

 ない物をあるように思うことは誰にでもあると思っていた。だから、敢えて人に問うことはしなかった。錯覚とも、想像とも、違う。幻覚ではない。直観視像というのだろうか。Lには、そんな体験はないと聞き、驚いた。以前、恐ろしい物ばかりが浮かんで困ると言って、Lは瞑想を止めたが、そういう物とは違うようだ。ひどく疲れて歩いていて、停めてある自転車のそばに蹲る老人の幻と目が合い、笑いかけられ、ひゃっと言うと、Lも怯えた。Lにも見えたのかと思っていた。ところが、怯える私に怯えたと言う。何年も経ってから、知らされた。
 思えば、その老人は、自転車を買ってくれた祖父に似ていた。
 こういうことは、慣れてしまえば何でもないことで、張り詰めた気を抜けば、いつでも簡単に見える。ただ、何が見えるかは、前以て分からない。その点は、夢に似ている。白日夢も同じ。見えないと思う人は見えないという暗示にかかっているから見えないのだし、見える人は見えるという暗示にかかっているから見えるので、つまり、見えるのも、見えないのも、暗示の作用に過ぎない。では、暗示を解けば、どうなるのか。しかし、その質問をする前に、あなたは、あなたにかけられた暗示を解いておかなければならない。
 さて、幻は指で終わりかと思っていたら、次があった。寝る前、明かりを消すと、天井の隅、高く積んだ段ボール箱の上に、蹲る影がある。そいつには見覚えがあった。夢魔を思わせる、小柄で、貧相、細く長い毛が疎密に生えていて……。思い出した、こいつ、いや、全く同じではないが、仲間だ、お目にかかったことがある。
 二十頃、夢を、手紙でも書く気持ちで物語にする方法を覚えた。ペンを擱き、仰向けに倒れ、一息ついていると、そいつが現れた。そいつは、鴨居の上、幅1センチほどの所を、するすると移動していた。壁に穴を開け、覗くふうだ。背を丸め、肩を怒らせ、熱心に覗く。だが、すぐに別の穴を開けに移る。落ち着かない。穴は、手際よく開けられる。その穴の様子は、ちょうど、手のひらにできる穴に似ている。
 (片方の目に筒を当て、もう一方の目で手のひらを見ると、穴が開いて見える。見慣れた景色が切り取られ、異世界への通路のようだ)
 壁の向こうは台所で、襖は開いていた。見るほどの物はない。でも、何かが、見えるようだ。何が見えるか、訊いてみたくなった。すると、彼は、私に見られているのを察したらしく、気弱に肩を落とした。恥じた? 徐ろに振り返り、視線が合いそうになったところで、ふっと消えた。
 夢の毛糸で編んだ物語が呼び覚ましたかのようなあいつの再来は、私にとって、か細い期待の糸でなくもなかった。あいつを物語の精であるように思いたがった。とは言え、不気味であることに変わりはない。短い眠りと駆け引きをしながら、夜を過ごす。
 私は考える。あいつは、なぜ、高い所に出現するのだろう、黄色の肉が高い所に出現したように。
 私は、小学校の高学年になっても、一人で風呂に入るのが怖かった。黄色の家の風呂場には、大きな窓があった。窓の向こうは、狭い通路を隔て、高いブロック塀になっている。母が、いつか、言った、[あの窓から、誰かが覗きそうで、怖い]と。 昼間、塀の上を歩いて来て、風呂場を覗き込んだ。[誰かが、こうやって覗くのかな]と考えた。
 あいつは、あの貧相な覗き魔は、私なのだろうか。私は、自分を見る[私]に怯えているのか。私は、よく、塀の上を歩いた。そうして、自分で自分を閉じ込めた家の外の空気を吸った。塀の上には、有刺鉄線が数段、張られ、錆びは手を赤く汚した。うっすら、傷もできた。夕焼けを見ながら、歌っていた。
 家の外を歩くのが、怖かった。だから、犬の散歩さえ、億劫だった。近所の人に声を掛けられたくなかった。私がどこに住んでいて、なぜ、越境通学しているのか、尋ねられたくなかった。そして、そんな気持ちでいることを、一番、知られたくないと思ったのは、親達に対してだった。
 いつからか、どうかすると、頭の中で、窓から塀に向かって板を渡そうと、あれこれ、工夫している。飛び移るのは、結構、疲れた。塀の内側の支えの部分へ、窓の下枠から、板を渡す。支えのブロックは一個分の幅しかないから、板の幅も、そうはない。板の表面に三角柱の角材を等間隔に貼り付け、滑り止めにする。そして、やおら、乗り移る。大丈夫? そろりそろり、一歩、二歩、バランスを取って。と、不意に、板は外れ、私は落下し、顎のあたりをしたたかに打っている。歯なども、折るか。失敗。失敗は成功の元。今度は、板の端の裏側にも三角柱を貼り付けるとしよう。下枠と塀を密着させる。できた。乗る。ちょっと、ぐらつく。危ない。落下。
 板を固定するという発想は、浮かばない。[持ち家でないのだから、改造は許されない]という観念に、現在も捕らわれている。
 疲れて、意味もなく目を開けていると、どことも知れない空間に、板を渡している。その板の橋は、きっと、外れ、そして、どこかをぶつけ、ぴくっとして我に返る。落ちない工夫はないものか。だが、そんな工夫など、何の役に立とう。あの家は取り壊され、今はない。いや、そういう問題ではない。では、何が問題か。何が問題であれ、とにかく、幻の塀の上に立ち、一息つくことが、先決だ。そのために橋を架けている。架けても、架けても、落ちる。架けてから落ちるまでのターンの所要時間が、だんだん、短くなる。焦る。息苦しい。いよいよ、外の空気を吸わなければ。
 夕方、塀の上を歩いていて、私と同じ年格好の子に声をかけられたことがある。君、何年生。何組。え、学校、違う? どうして。
 どうしてなんだろう。私には、うまく答えられない。今も、答えようとすると、舌が縺れ、もう、部屋に向かって飛び降りる構えだ、少年のように。


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