『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#037[海]

 死にたがっている部分と生きたがっている部分とが、綱引きしている。その争いは、しかし、静かだ。そんなもんだよと、誰かが言う。そして、また、静かになる。降り出しに戻る。死にたがっている部分と生きたがっている部分とが、綱引きしている。その争いは、しかし、静かだ。そんなもんだよと、誰かが言う。そんなもんですか。ああ、そんなもんだよ。何で、知ってるの、そんなこと。誰でも知ってるさ、親から子に伝えられることだからね。
 そして、また、静かになる。
 賽子を振るように、人生の荒海に飛び込むか。人生は上がりのない双六だから、疲れ果て、どうせ、溺れる。溺れたくはなかった。泳げるような気がした。ふと、そんな気がした。と、思い出すとき、すでに溺れている。溺れている自分を思い描くのは、引き上げられてからなのだが、溺れながら、すでに引き上げられたかのように、溺れている自分を思い描こうとするのは、溺れる者の悲しさか。救われるときを思い描けば、本当に救われるとでも思うからか。そんな寒々しい反省について語ろうとする欲望が微塵に砕け散り、目覚める私。
 小舟、あるいは、筏。舟子たちが、私を生き返らせようと忙しく立ち働く。みんな、小さい。まだ子供だ。本当の子供。
 「ボク……」と、私は呼びかける。一人が、恐る恐る、私の顔を覗き込む。彼らは、私に驚く。おとなというものを見たことがない。絵や写真でなら、見た。死んだおとななら、鱶の腹を割いて見つけた。生きて動くおとなというのは、初めてだよな。生き返るかどうか、試してみようぜ。ということで、やってみました。そしたら、生き返った。やったね!
 顔を近づける。海賊の帽子を被っている。新聞紙の帽子。雨にでも降られたら、一発でおしまい。鼻の下に、濃く、カイゼル髭を描いた。その髭、取れないぞ。後で叱られても知らないからね。そう言うと、いや、そうは言わなかったが、そう言われたような気がしたのだろう、袖で擦っては、取れた? 仲間に訊いている。指に唾して、ごしごし。一体、誰に叱られると思ってんだ。ママに? ママなんか、知らない、お話でしか。妖精か、化け物の一種? ママの椅子なら、知ってるよ。トランポリン。スプリングが、びよよーん、飛び出してて。
 びよよーん。私が身を起こすと、子供たちの誰かが、びよよーんと言う。歓声が上がる。象でも手に入れた気分。黒い眼帯をしたのが、その眼帯を引っ張って、ぱちん、痛がって笑わせる。口を窄め、寄り目をし、鼠の声で鳴く子がいる。おしろいを塗りたくり、真っ赤な口紅は唇からはみ出し、女のふりをする男の子もいる。長い袖をぶらぶらさせて階段を上り、上り切らずに、片足を踊り場に掛け、斜に構えて口笛を吹く。頬に刃物を当て、貰えなかった、お休みのキスの代わりに、向こう傷を描く。わざと片足を引きずる。空咳を落とす。噎せる。吐く。目をぱちぱさせる。淫らに腰を振り、調子の合わないツイストのようなフラ・ダンスのような安来節を踊る。意味もなく転ぶ。起き上がり、また、転ぶ。少し離れ、高い所で、誰にも顧みられない子が、引き付けでも起こしたように、イヤミの「シェーッ」(赤塚不二雄『おそ松君』)を繰り返す。充血した目。爛れた皮膚。曲がった背中。爪を噛み切って、遠くへ飛ばす。鼻糞を食卓の裏になすり付ける。貧乏揺すりを心行くまでやる。物干し竿を上げ下げする、先が二股の棒を、なぜか、気に入って、どこへでも持ち歩く。風呂敷で、空飛ぶマント、鞍馬天狗の頭巾。
 彼らは、ボク達だ。岸の見えない海に閉じ込められた子供の私、括弧開く、複数形、括弧閉じる。ボク達は、舵のない船に乗せられ、私の命の果てるまで漂流し続ける。[私のことなんか、放っておいてくれたらいいのに]と、私は思う。私が生きている限り、ボク達の悩み、苦しみは、尽きることがない。でも、ボク達ったら、まるで本物の船長に出会ったみたいに、はしゃぐ。無理なのに。私には無理なのに。無理なんだよ、私には。ボク達を、どこか、ここではない別の場所に連れて行くなんて、そんな力、ない。
 「知ってる」 知ったかぶりが即答する。知りもしないくせに。「知ってるってば」 どうせ、誰かが決めなくちゃならないんだ。だから、私を生き返らせることにした。
 でも、無理だよ、私には。
 「ふうん。どうして。でも、それなら、それで、いいんだ」 分別臭いのが言う。「このままでも、このままじゃなくても、同じことだよ」「まあ、気にするなって。生き返らせてみたらどうかなって、ちょっと思っただけなんだから」 別のボクが、慰めにもならない慰めを言う。
 私を責めないのか、ボク達の無限の可能性を奪ってしまった私を。
 「何のこと」
 何のことだろう。口にする前は、分かっているつもりだった。ところが、言葉にしてみたら、分からなくなった。私は考える。何から考えればいいのか、考える。考えに考える。そうして、何を考えているのか、あるいは、本当に考えようとしていたのか、分からなくなった頃、私は不意に立ち上がり、拳を振り上げた。
 お、何か、言うぞ。ささやきが漣のように広がる。決めたんだ。決めたね、とうとう。
 私が手を胸に当てたのは、「誤解だよ」とでも言うつもりでしたことなのに、ボク達は、その仕草を「静粛に」の意味に取った。膝を抱える。座り直す。まっすぐに目を上げ、鼻は出ていないか、髪は乱れていないか、背は曲がっていないか、自分なりに気を付けている。襟が折り込まれたままなのには、気づかない。短い腕を組む。奥歯を噛み締める。
 ボク達の瞳! 
 私は、あることを言おうとしていた。しかし、口を開くと、別の言葉になっていた。そして、何を言うつもりだったか、忘れていた。まただ。
 「死ぬかもしれないよ」
 ボク達は、ふっと小さな息を吐き、そして、ちょっとして、顔を見合わせた。聞こえたのは、南風の悪戯ではないんだよね。「なあんだ、詰まらない、そんなこと」とでも言うように、首を竦める。そして、もう一度チャンスを呉れるために、顔を上げた。
 私は、何かを言わなければならなかった。義務? しかし、その感じは苦しくないので、私は思いきって尋ねることにした。
 「私で、いいの?」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 「いいよ」
 ボク達が死を恐れるとでも思っていたのかい。日々、生まれては死んで行くボク達だ。そんな簡単なことも知らなくて、よく、生きて来られたね。ボク達が恐れているのは、死なんかじゃない。ボク達が恐れているのは、ただ、ボク達が恐れているのは、たった一つ、恐れているのは…… 
 その後は、声にならない。声になる前に、伝わっている。私は、了解した。だが、あなたには、読者よ、聞こえない。声にならない言葉を、ここに書き留める義務はあるか。ない。知っている人は知っている、簡単な言葉。
 私は分かったので、頷いて見せようとした。すると、その前に、いや、頷きの前の息を吸うよりも早く、ボク達は了解した。そして、消えた。ああ、いや、そうではない。私は、ちらちらする水の照り返しを眺めていただけだ、もともと。
 ボクを怖がらせたのは、誰でもない、この私だ。ボクのスケッチ・ブックを破いたのは、私だ。ボクの好きな女の子にあかんべをして見せたのは、私だ。私の吸うタバコの煙が、ボクの声を潰した。私の飲む酒で、ボクの目が回った。誰かが、「いいから、そうしろ。そうしないと、おまえをおまえとは認めないぞ」と言って脅迫したのだが、その脅迫に屈したのは私だ。その誰かは、私を怖がらせることに成功したが、ボクを怖がらせることには失敗した。なぜなら、ボクが恐れるのは、ボクが恐れるのは…… 
 半世紀前に発せられた、一億玉砕の絶対指令は、未だ解除されていない。その指令を解除するためのパスワードを捜して、私は、いろんな言葉の組み合わせを試している。
 ボクが恐れるのは…… 


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