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#039[世界]07故郷と大衆

//「希望」
 自分は文学とは縁のない人間だと思ったのは、中学校で、『故郷』(魯迅)を読まされたときだ。
  思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえな
 い。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く
 人が多くなれば、それが道になるのだ。
                           (同、竹内好訳)
 国語教師は、異様な熱意を込めて、読解させようとした。私は、[その手に乗るものか]と思った。一方で、[自分は、ひねくれているのだろうか]とも思った。文部省は、なぜ、こんな作品を教科書に採用することを許可したのだろう。[今、行われているのは、授業の形式を借りた思想調査かもしれない]と疑った。教師が民主主義者でないことは、生徒には明白なのに、なぜ、彼は民主主義を唱導するかのように振る舞うのか。
 おとなは、自分の考えを自分の口で言わない。子供に言わせる。そして、その響きを懐かしむかのように、沈黙する。瞑目する。一通り、懐旧を楽しんだ後、目を見開き、さあ、どうなることか。
 約20年後、次の論文に出会うまで、私は、自分の言語感覚に自信が持てずに生きていた。
  まさに「まどろみかけた」寝ぼけ頭から出るたわごとにすぎない、この
 ような文章は、入念に読んで批判すべきものである。それこそが書かれて
 いる表現を大事にすることなのである。これに対し、右のような虚偽的比
 喩の問題点に気づかせずに、「『私』は民衆を信じ希望を捨てないのだ。」な
 どと思い入れをし、文章をろくに読ませずに感じ入らせる指導が大勢で
 ある。このような思い入れ読みは、入念・誠実に読もうとする意欲を殺し、
 思考力を弱め、頭を悪くさせる。
   (宇佐見寛『思い入れ読みを排す』「国語科授業における言葉と思考─  「言語技術教育」の哲学」所収)
 文学とは、賢い人だけに見える服(アンデルセン『皇帝の新しい着物』)のようなものらしいと思った。童話の中では、子供が[王様は裸だ]と言うと、その言葉が人々に伝わる。しかし、[文学は、裸の王様だ]と、私が叫んでも、誰にも伝わらない。なぜか。
 中学校の敷地の一端が草の斜面になっていて、塀がなく、生徒はそこを勝手に出入りするので、自然に道ができていた。ある朝、その道を上っていると、例の国語教師が見張りに立っていて、門へ回れと命じた。『故郷』の授業中、そのときのことを思い出し、言ってやろうかと思った。でも、思っただけ。俯いて、唇の端で笑った。
 その国語教師は、宿題を忘れた生徒などに、しばしば、花瓶のような、堅くて重い物に「頭をぶつけろ」と命じた。「教育委員会なんかに告げ口したって、無駄だぞ。[生徒が、自分で頭をぶつけたんだ]と言いわけできるように、ちゃあんと考えてやってんだからな」
  形式上は阿Qの負けになる。色つやのわるい辮髪をつかまれ、土塀にコ
 ツンコツン頭をぶつけられる。それでやっと相手は満足して、意気揚々と
 引きあげる。阿Qはしばらく立ったまま考える。《倅にやられたようなも
 のだ。ちかごろ世の中がへんてこで……》 そしてかれも満足して、意気
 揚々と引きあげる。
  阿Qは、心に思ったことを、ついあとで口に出してしまう。そのためこ
 の精神的勝利法の存在が、阿Qをからかう連中のあいだに知れわたった。
 それからは、色つやの悪いかれの辨髪を引っぱるとき、事前にこう通告す
 るようになった。
   《阿Q、これは伜が親を殴るんじゃないぞ。人間さまが畜生を殴るんだ
 ぞ。自分で言ってみろ、人間さまが畜生を殴るんだと》
  阿Qは、両手で辨髪の根元をおさえ、首をねじ曲げる。
   《虫けらを殴るんさ。これでいいだろ? おいら、虫けらさ……もう放し
 てくれ!》
                     (魯迅『阿Q正伝』竹内好訳)
 民主主義とは、他人の手を借りずに、自分で頭をぶつけることの許される、ありがたい主義のことらしい。とか、「希望」を理解できない私は、「精神的勝利法」に頼る。
//「ほんとうのこと」
 [作家が明示しなかったことを、読者が読み取らねばならない]というのが文学のルールだとすれば、作家らしい『故郷』の主人公は、彼の旧友が明示しなかったことを、なぜ、読み取らなかったのだろう。[作家は、明示できないが、立派な考えを持っていて、庶民は、明示したことが全部で、頭の中は空っぽだ]とでも言うのだろうか。
  「でも、父さんはレムに、ほんとうのことをいったんじゃないか。」
  「わしのことばに、うそいつわりはないさ。しかし、わしの心は、まるでオ
 クラワハ川のようにまがっていたんだ。」
  「ほんとのことがわかったら、レムはどうするだろう?」
               (ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳)
//「宇宙」
 「思い入れ読み」を促す例として、『老妓抄』(岡本かの子)を見てみよう。この小説は、神のように語る語り手がどん詰まりで作中人物として登場するご都合主義もさることながら、変な女主人公が人々に疎まれて行く過程を描いておきながら、いきなり、「華やぐ」と歌い収める手際の鮮やかさというか、鮮やかだとでも言ってしたり顔で周囲を見回しておかなければ[間抜けな読者だ]と笑われそうな不安を醸し出すことに成功している。老妓、偽証。歌語では、[焦る]とか、[苛立つ]とか、[更年期障害で取り乱す]というようなことを、「華やぐ」というのかしら。
 「悲しみは深くしていよよ華やぐ」というのが終いの歌だが、[悲しいから、華やぐ]というのは、ちょっと、理解に苦しむ。[悲しいけれど、華やぐ]という意味なら、[悲しみは深いんだけど]などとすべきところだ。「この物語の作者」(同前)が「多少の添削を加へた」(同前)のだそうだから、「原作」(同前)が[深いんだけど]だった可能性は否定できない。歌人や俳人は、しばしば、[この方が、あなたの気持ちに、ぴったりよ]などと言って、孫悟空が分身の術を使うように、「添削」ということをしてくれるから、油断ならない。
 この歌は、「作者」の作った「物語」とは符合しない。逆に言えば、「添削」後の歌に符合する詞書を作り出すことは、至難の業だ。推理小説で言えば、犯人らしくない人物の自首で話が終わるようなものだ。[彼は、犯人ではあり得ない]とは言えなくても、動機や犯行のプロセスは不明。「思い入れ」をさせたがる作者の意図は許容するとしても、「思い入れ」によって作られる物語が、原作より奇怪で複雑になるとしたら、読者はつらい。
 要するに、[華やいでいる]とでも強弁しなけりゃ、恥ずかしくて人前に顔を出せないような女主人公の境遇に同情した「作者」が、読者にも同じ同情を強要し、しかも、こんな強要を教養の一種として甘受する読者がいることを前提にして歌を作る人々がいるということらしい。しかし、まあ、こんな悪循環の手品を、日本人は愛好しなければならないのだろうか。
 ところで、「ちはやふるかみよもきかすたつたかはからくれないにみつくくるとは」という31文字について、日本文学は、三つの前文を持っている。
 前文* 歌人は、屏風絵を見て詠んだ。(『古今和歌集』)
 前文* 漂白の歌人が、実際に景色を見て詠んだ。(『伊勢物語』)
 前文* 遊女の千早と神代に関取の竜田川が云々。(落語『千早振る』)
 私達に、簡単に理解できるのは*であり、次に理解しやすいのは*だ。*は、簡単には思いつかない。それは、[憂鬱な旅人は見た! 赤い川の水が括られる怪現象]ではなかろうし、[憂鬱な旅人が、目の前の景色を頭の中で絵にして、その絵を冗談にして歌を作り、そして、笑った]というのでは、時間差ボケツッコミだし、[絵を見ていたら歌ができたものだから、絵の中の場所で作ったふりをするために、ちょっくら、旅に出た]という風狂でもなかろう。
 『老妓抄』が間接的に暗示している、[「華やぐいのち」の物語]は、前文*の型に相当する。前文*の型なら、[主人公は、『巴里祭』(岡本かの子)の中の粋人を気取る]という物語だ。前文*の型は、[寝ん寝ん俄かな染みは不覚指定夜々花屋悔いの地鳴り蹴り]と、文明の利器が変換してくれる。ここに、何やら、物語の雰囲気が漂えば、良し? さて、前文*の型を想像するのは、やはり、難しい。
 『巴里祭』だったら、今なら少女漫画にもできないだろうが、[日本ちょっと昔話]として、一応は、通じる。しかし、『老妓抄』だと、老妓が人をおもちゃにすることに成功したとしても、自己満足に過ぎないのだから、[無理かもしんないけど、頑張っちゃうの。みんな、私を応援するのよ]なんて歌い上げられても、[なんじゃ、そりゃ]と突っ込む気にもなれない。女主人公を飾り立てることに手詰まりを感じた作者は、語り手を「作者」と名付けて自分から分離し、女主人公と共に作品という箍で締め上げた。そして、近代小説を歌物語の形式に退行させることで、教養豊かな読者を韜晦できると高を括ったようだ。ところが、どっこい、私には教養がないので、さっぱり、通じないよ。
  河には無限の乳房のような水源があり、末にはまた無限に包容する大
 海がある。この首尾を持ちつつ、その中間に於ての河なのである。そこに
 は無限性を蔵さなくてはならない筈である。
                      (岡本かの子『河明かり』)
 たったこれだけ、不用意に漏らされる感慨のような、無意味な文から、私達は、何を受け取ればいいのか。不可解なことを書いてはならないという法律はないから、書くのは勝手だが、「こういうことは、誰でも知り過ぎていて、平凡に帰したことだ」(同)と続くのだから、多分、この私でも知っていなければならない何かが、ここに日本語として表現されていることになるわけで、それを知らなければ人間の顔をして歩いてはならないような感じがするのだけれども、私には思い当たる節がないので、困る。こうした文に出会うたびに、私がどんなに困惑し、苦痛を覚え、おおげさに言えば、この世からおさらばしたくなって、せめて、日本からいなくなってしまいたいと思っているか、この作品を称賛する人々には分かって貰えないと思う。
 「無限の乳房のような水源」は、おかしい。[乳房、あるいは、水源の数が、無数にある]という意味にしか取れない。「水源」は枯渇することがある。「乳房」は、勿論、人間の寿命より長くは授乳できない。「水源」と「乳房」を比較すれば、常識的に考えて、「水源」の方が長持ちする。したがって、長持ちという観点から見ると、「水源」が「乳房」の比喩にはなっても、その逆はない。
 [河が流れている限り、水源は枯渇していないと言えるし、海がある限り、河は流れ続けていると言える]とでもいったような主張が裏にあるということか。それなら、[人は、死ぬ場合を唯一の例外として、無限に生きる。だから、人生には、霊魂の不滅性が秘められている]などと主張することも許されるのではないか。もっと言うと、「無限性を蔵さなくてはならない筈」の「河」は「無限性」よりも大きい筈だから、[無限大よりも大きい河がある]というような意味になって妙だし、「無限性」が無限小を意味するのなら、それは何にでも含まれるのかも知れないが、ここは、そんな話ではなさそうで、後略。
 ここに記された「無限」という言葉は、私達が普通に使っている[無限]という言葉から、語り手が勝手に連想した何かのことなのかもしれない。そうだとして、その何かというのは、何だろうな。「無限」は、[無間]の変換ミスかな。「無限に包容」は、[夢幻泡影]の洒落かな。でもって、「河」は、和歌の逆さ言葉かいな。
 自然現象としての水循環を無視し、[水源→河→大海]という一方通行の流れを真実として語ってみたい意志があって、[「乳房」→(「無限性」)→「包容」]から連想される何やらのことも混ぜたくて、[大量]とか、[豊か]とか、[長期間]とか、そんなふうに、逐一、分けて考えるのはかったるいような気分もあって、だから、「無限」という言葉でべた塗りして、闇夜に烏、心眼で見分けよと読者に迫る作者の迫真の演技が読者にとって、何かであれということらしい。
 もし、文学としてではなく、感情の表出としてみるなら、この不可解な文は、落ちのつかない身悶えを万歳に仕立て上げようとして失敗し、その悶えが言葉のようなものに変化しつつも、意味を形成するには至らない段階にあるものと考えられる。で、そういう段階にある言語を文学というのか。
  Row,row,row your boat,
  Gently down the stream.
  Merrily,merrily,merrily,merrily,
  Life is but a dream.
 この歌には、立派に意味がある。韻を踏んでいるから、文学に見えるし、深い意味があるようにも見える。浅くも深くも、取るのは勝手だが、韻を無視し、文学か否かという問題を無視しても、なお、世界中の人間に共有可能な意味のある言葉として、この歌は存在し、そして、これを愛することもできる。
 さて、言うまでもないことだが、[誰かと誰かが、私には理解できない方法で通信し合っている]という話を否定しようと、私はしているのではない。
  はじめ昭青年は、問答に当って禅の古つわものとの論戦に、あれこれ
 言ったのではかえって言いまくられるであろうから、勝負は時の運に任
 して、幸い師の三要から暗示(ヒント)を与えられた鯉魚の二字を守って、守
 り抜こうと決心したのですが、どの問いに対しても鯉魚鯉魚と答えてい
 ると、不思議にもその調法さから、いつの間にか鯉魚という万有の片割れ
 にも天地の全理が籠っているのに気が付いて、脱然、昭青年の答え振りは
 活きて来ました。(中略)こうなると大衆はだんだん黙ってしまって、ただ
 ただ驚嘆の眼を瞠るのです。
                        (岡本かの子『鯉魚』)
 こんな話は信じられないと、私は思うが、疑う理由もない。しかし、「昭青年」と「大衆」との間に起きたようなことが、『河明り』の作家と読者の間にも起きるとは、到底、思えない。だが、もしかして、「大衆」的な読者というのがいて、その方々との間では了解が起きるのだろうか。どのようにして? 
  「聖人ノ、年来法花経ヲ持チ奉リ給ハム目ニ見エ給ハムハ、尤可然シ。此
 童・我ガ身ナドハ、経ヲモ知リ不奉ヌ目ニ、此ク見エ給フハ、極テ恠キ事
 也。此ヲ試ミ奉ラムニ、信ヲ發サムガ為ナレバ、更ニ罪可得事ニモ非ジ」
         (『今昔物語集』20-13「愛宕護山聖人、被ル謀野猪ニ語」)
 [思うに無限とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の河のようなものである。もともと地上に河はない。流れる水が多くなれば、それが河になるのだ]
 仲達の賢を示すためには、空城の計(羅貫中『三国演義』)に引っ掛かって苦しんで見せなくてはならないのだろうか。
  つまり、宇宙ぜんたいを論じてもよいだけの才能と充実さと理解力を
 持ちながら、物語という狭い範囲に閉じこもって踏みださないのだから、
 その苦労はさげすんでくれるな、かれが書くものに対してでなく、かれが
 書かずにおいたものに対して、称賛を惜しまないでくれと、要求するのだ。
            (セルバンテス『ドン・キホーテ続編』永田寛定訳)
 そもそも、教養豊かな読者なら、小説の節穴から宇宙を覗く必要はなかろうに。
 私達は、『蒟蒻問答』で、蒟蒻屋が蒟蒻に関する文脈で発信していると思いながらも、わざわざ、蒟蒻型宇宙論として、雁擬きと竹輪ならぬ、含蓄を味わうべきなのか。
 [思うに世界とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは蒟蒻屋の蒟蒻のようなものである。もともと蒟蒻屋に蒟蒻はない。食べる人が多くなれば、それが蒟蒻になるのだ]


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