『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#040[世界]08山羊の生活

//「思想でもなんでもない」
 文学に対する違和感が決定的なものになったのは、『党生活者』(小林多喜二)を誤読しているのに気づいたときだ。この作品の評価を巡る論争を知って、しばらく、その土俵が理解できなかった。[対立する、どちらの側の意見も、前提がおかしい]と、私は思った。私は、この作品を、[活動の目標が不明瞭で、実在さえ疑わしいような「党」という妄想に取り憑かれた男の喜劇]として読んでいたからだ。
  一日を廿八時間に働くといふことが、私には始めよく分らなかつたが、
 然し一日に十二三回も連絡を取らなければならないやうになつた時、私
 はその意味を諒解した。─個人的な生活が同時に階級的生活であるや
 うな生活、私はそれに少しでも近附けたら本望である。
                               (同)
 こんなことを、本気で、正気で、言ったり書いたりする人間が実在するとは、私には信じられない。だから、この部分は、[この語り手を信じてはならない。裏読みせよ]という、作家の暗示として、私は受け取った。つまり、「現在から見ればここに肯定的に描いている闘争方法自体には多くの問題があるであろう」(蔵原惟人「蟹工船・党生活者」解説、新潮文庫)というようなことを伝えることこそが真の執筆動機だと解釈した。内部告発の書。[語るに落ちるような語り手を設定することによって、この作家は、「官憲」と「党」という、両極の検閲者の目を眩ませつつ、読者に秘密の情報を送っている。苦し紛れとはいえ、かくも複雑な仕掛けを施すことのできる日本人がいたことに驚嘆すべきだ]と思った。しかも、「党」を批判する作家を高く評価していた「党」の度量の大きさに、感心しさえした。
  始めこの新しい生活は、小さい時誰が一番永く水の中に潛つてゐるか
 といふ競走をした時のやうな、あの堪へられない、何んとも云へない、胸
 苦しさを、感じはしたが。
                               (同)
 この文を蝶番にして、「党」は、軍隊に反転する。
  「ぼくはここにいるよ!」と、すずの兵隊さんがさけんだら、見つけられ
 たでしょうが、制服を着ていたので、大声でさけぶのはみっともない、と
 思いました。
       (アンデルセン『しっかりしたすずの兵隊さん』高橋健二訳)
  私たちは何杯も強い支那の酒を飲んだ。私は久しぶりで、しみじみと兵
 隊の日に焦げた顔を眺め、私は何かすばらしい発見をしたように、愕然と
 するものがあった。それはまず何よりも、私が今日まで、このようによく
 やって来たということである。我々は出征した当初とはまったく違って
 しまった。兵隊は見違えるばかりたくましくりっぱになった。我々の間に
 は限りない信頼と勇気とが生まれた。かつて私がその思惟の大きさにお
 どろき、新しい生活の方法を自覚したことは、何ものよりも簡単なことで
 あることが明確になった。私は私の部下を死の中に投じ得るといわれた
 偉大なる関係にたいして、その責任の重大さを思い、その資格について
 危惧していたけれども、それは何も考えるほどのことではないことがわ
 かった。それはまた思想でもなんでもない。私が兵隊と共に死の中に飛び
 込んで行く。兵隊に先んじて死を超える、その一つの行為のみがいっさい
 を解決することがわかった。私たちは弾丸と泥濘の戦場において最も単
 純なるものによって、最も堅確に結ばれた。それはもはや考える価値のな
 いほど簡単なものである。それはつまり、そのようにして我々兵隊は、し
 だいに強く、たくましく、祖国を守る道を進むことが出来ると知った。最
 も簡単にして単純なるものが最も高いものへ、ただちに通じている。その
 ようにして我々が前進をはじめ、戦場に現われ、弾丸にたおれるとき、自
 ら、口をついて出るものは、大日本帝国万歳の言葉であると知った。私は
 そのような感慨にとらわれ、ただ何も言わず、おたがいの無事を祝し、こ
 れからも気をつけてやろうぜ、みんななかなか勇ましいぜ、高橋や内藤が
 いたら面白いな、などというような話ばかりする兵隊を、りっぱであると
 思い、見惚れるような思いで眺めた。ひとたびは堪え難いと考えられた
 我々の苦難というものが、こんなにもわけなく揚棄され、こんなにも単純
 に高いものに昂揚されるものだということは、単純過ぎるためにおどろ
 くばかりである。
                       (火野葦平『土と兵隊』)
 自分の頭脳に自信のある人が自己欺瞞に陥るときの過程を、作者は見事に描出している。そして、「私」に、「部下を死の中に投じ得るといわれた偉大なる関係」を超える、世界史的、国際的な関係について無知であるかのように語らせていることについて、「単純過ぎるためにおどろく」よう、作者は読者に促している。本音を綴れない立場にある兵士が、わざと型に嵌まって見せ、反面教師を演じていると、私は思った。
 『自衛隊に入ろう』(高田渡+マルビナ・レイノルズ)を、「何を勘違いしたのか自衛隊からぜひPRに使いたいといってきた」(古茂田信男他『新版日本流行歌史 下』)という話があって、笑ったものだが、似たような「勘違い」を批評家はしているのではないかと、左右、二つの作品について、思っていた。
//「知らんふり」
 ソビエト連邦と日本の市民が衛星中継で議論をするTV番組があって、日本人が、[ソ連には、言論の自由がない]と批判したら、[どんな国にだって、言論の規制はある]と反論されたので、[しかし、日本には、日本の首相の悪口を言う自由がある。ソ連には、あるまい]と再批判したところ、[ソ連にだって、日本の首相の悪口を言う自由はある]とでも答えるかと思いきや、[なぜ、我々に、我々自身の指導者の悪口を言う必要があるのか]と反問した。[日本の政治体制では、悪口を言いたくなるような指導者しか、持てないのか]
 TVの中の日本人達は呆れ、二の句が継げないふうだったが、TVの外の私は感じ入った。彼らは、[ソ連では、権力者を批判できないどころか、批判的な心情を抱いているのではないかと疑われるだけで、十分に危険だ]というような情報を送ってくれたと思ったからだ。そして、相手側に言論の自由が保証されていないと思っていながら、[真実を語れ]と迫る、日本の市民の矛盾、思い遣りのなさに、私は呆れ、怒った。
 言いたいことが言えないような状況では、例えば、『カプリコン・1』(ピーター・ハイアムズ監督)の宇宙飛行士のように、特殊な文脈を下敷きにして情報を発信することになる。その情報は、少しも、暗号らしくない。検閲者に暗号かと疑われるだけでも、十分に危険だからだ。受信者の方でも、とりあえず、知らんふりをしている方が、お互いのためだ。
 『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダ監督)のラスト・シーンは、少なくとも二つの解釈が可能だ。そして、その解釈は、政治思想的に正反対の意味を持つ。私達は、そのどちらか一つだけを真実として取り上げるわけにはいかない。私達は、検閲官ほど、おめでたくはないが、監督ほど、映画を愛してはいない。だからと言って、二つの立場を折衷することは、なおさら、できない。もし、折衷案を選択すれば、[この映画は、偽物の共産主義者と資本主義の犠牲者を演じるジェームス・ディーンの偽物との闘いを描いた、本物のアクション映画だ]とでも言うしかない。ところで、所詮、映画というものは、記録映画も含めて、偽物なのだから、こんな解釈は無用だ。今だから言えることだが、この映画の歴史的意義は、描かれた物語について、制作者が二重の解釈可能性を施した、そのこと自体にある。
 『陸軍』(木下恵介監督)のラスト・シーンも、二重の解釈が可能だ。ただし、この場合、当時の検閲官は、二重の解釈が可能であることを、ある程度は承知していて、上映を許可したのだと思う。ということは、三番目の解釈もあるということになりそうだ。単純な検閲官向けの解釈1は、[愛国心は、愚かな母性愛を超越する]というものだ。裏の解釈2は、[切実な母性愛は、上辺だけの愛国心を拒む]となる。複雑な検閲官向けの解釈3は、[愛国心を拒む母性愛を、愛国心は包含する]となる。そして、ここで、上映許可が下りる。しかし、その後、複雑な観客向けの解釈4が控えている。それは、[母性愛を包含する愛国心の基礎は、母性愛にある]というものだ。そこから、解釈5が出現する。解釈5は、[愛国心を拒む母性愛を包含する愛国心を拒む母性愛を、愛国心は許容する]といったものだ。こうして、解釈は果てしなく出現し続ける。愛国心と母性愛は、どれだけ接近しても、溶け合わない。結局、[こうした愛の混交物こそが戦中の日本人の気分だった]と、解釈を越えて、想像することになる。そして、[こうした想像は、当時の日本人が、腹を割って語り合うことのできなかった同胞に対して抱いていた想像と、同質のものなのではないか]という、別の想像を引き寄せる。
 アメリカ合衆国政府は、『陸軍』を国策映画と見做したのだろうが、日本人なら、『陸軍』が在り来りの国策映画ではないことに、簡単に気づく。気づいていながら、知らんふりをしている。『戦ふ兵隊』(亀井文夫監督)では、知らんふりはしづらい。
 ところで、私の仮説は、こうだ。あらゆる表現には、あらかじめ検閲官が組み込まれていて、それが通俗的に表現主体と見做されているものと鬩ぎ合った結果、表現が完結する。したがって、真実の表現主体というものは、実在しない。真実の意味というものもない。解釈はいくつもあり、その何番目かの解釈をもって真実の意味だと主張することは、許されない。裏には裏がある。私達に許されているのは、永遠に解釈し続けるか、あるいは、誰にでも自明であるはずの一番目の解釈、いや、解釈とは言えない受信の段階で止めるか、そのどちらかを選び取ることだけだ。
  「ワトソン。うしろをふり向くな……。もしかしたら、つけられているか
 もしれん。その場合は、つけられても知らんふりをしよう……。ところで、
 ワトソン、ルパンはなぜあのレストランにいたのだろう? 君の意見は?」
  ワトソンはたちどころに答えた。
  「食事をするためですよ。」
  「ワトソン、きみといっしょに仕事をすればするほど、きみがいよいよ
 もって進歩していることが、ますますよくわかってくる。いまや、きみは
 とてもすばらしくなった」
          (モーリス・ルブラン『ルパン対ホームズ』竹西英夫訳)
 このワトソンは正しい。では、このホームズは間違ったのか。いや、ホームズは、皮肉めかしてはいるが、本当にワトソンの「進歩」を認めている。なぜ、そのような解釈が可能なのか。いや、私は、解釈などは施さず、文字通りに読んでいる。そもそも、ホームズは間違わない、たとえ、偽典のホームズであっても。


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