『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#041[世界]09賢い女官の物語(『枕草子』から)

//「七日の日の若菜を」
  つめどなほ 耳無草こそ あはれなれ あまたしあれば きくもありけり
 といはまほしけれど、またこれも聞き入るべうもあらず。
//「この冊子」
 ナゴンナに、美しい紙が下される。彼女は、なぜ、その紙が自分に託されたか、速やかに了解する。妃の代作と言えば、おこがましい。その意を酌みつつも、文責はナゴンナにありとする、文化的、政治的情報の発信。その紙は、ミカドでは歴史書を筆写されるのに使われるとか。女のすることならば、古い歌でも筆写すべきところだが、彼女は、迷うことなく、[世界]カタログの編纂に取り掛かる。宮廷内の緊張は人々の意識を[世界]へと収斂させることによって緩和できると信じたからだ。
 かつて、歌が政治に対して保っていた特権は、失われて久しい。いつからか、歌は祭りを主導しない。今、私達を[私達]として認識させてくれるものは、[世界]だけなのだ。
 平和のために、個人的虚栄心や党派的利害を超えて、この冊子は伝播されねばならない。彼女の虚栄心が、甘く疼く。私には、腫れてゆく[世界]を見せびらかす、絶対の義務がある。
 さて、この国における、最高にして最大の[世界]となるべき作品が、後に敵方の女官となるムラサキによって、執筆されつつあった。ムラサキは、ナゴンナの企図を察知し、彼女の人生的帰結をも予見している。一方、ナゴンナには、ムラサキの営為は、すでに死んでしまった文学に拘泥する、古臭い立場でなされるものとしか見えなかった。ムラサキは、まだ、作品の有効性を信じている。作品の価値が、その作者の属する党派の政治的地位を高めるという神話を信じている。だが、社会は、そのような神話的段階を、良くも悪くも、通過してしまっていた。今や、何が、[世界]であり、何が[世界]ではないか、その認定権を確保した党派が優位を占めることになる。
 この冊子は、[世界]と、その用例集として、宮廷生活に必須のアイテムにならねばならない。現実の政治に即して言えば、この冊子は、失地回復の望みの薄い側から発せられた講和のための婉曲的な打診という性格を持つ。同時に、作者自身を敵方へ高く売り付けるための文化政策企画書という性格を持つ。努めて味方の不幸を描かないのも、そのことで敵方の心証を害さないためだ。このような計らいは裏切りめいていて、実は、自身を党争の潤滑油と見なす犠牲的精神によるものと欺瞞されることになる。そして、この計らいの有効性を、妃だけはご理解遊ばされるに違いないと、ナゴンナは考える。いや、是非とも、そうあって頂かなくては、困る。さもなければ……
 さもなければ、著名な歌人の家に生まれた者としての文学的コンプレックスと政治的混乱とを強引に重ね合わせ、一挙に霧散せしめようとする彼女の試みは、下手な道化に終わってしまう。あ、いや、道化でもいいんだ。むしろ、道化ても見せよう、そうすることで[世界]が[私達]を再来させるのなら。
 蛇足ながら、申し上げます。この冊子は、いわゆる作品ではないので、中身を褒めてもらっても困ります。また、不備があれば、いくらでも追補、改訂できる仕掛けになっています。知っていただきたいのは、[世界]を生活に利用する方法、これなのです。私は、私の趣味を押し付けようとは思っておりません。私達の言葉が通じ合うように、あれこれ、[世界]を用意してみました。お好きな[世界]をお選びください。
//「九月廿日あまりのほど」
 美しい景色を眺めていたら、歌が口をついて出て来たって経験、誰にも一度や二度はあるよね。ない人もいるのかもしれないけど、私には、ある。でも、翌朝になって思い出したら、意外に平凡な歌だったってことも、また、ありがちよね。私の場合、「平凡」っていうのは、謙遜なんだけど。ええ、そりゃ、自己満足って大事だとは思うの。でも、それだけじゃね。つまり、方法に対する意識っていうのかしら。難しいことは、殿方にお聞きになって。
//(「春は曙」
 「春」という題を頂いたら、明け方の風情などを歌おう。例えば、山際が白み始め、明けるにつれ、薄紫の雲が細い筋を引いているのが見えてくる。そんな移り変わりの微妙さを、日頃から、よく観察し、描写力を身につけよう。春と言えば宵などと頭から決めてかからないこと。ちゃんとした作品でなくても、断片でも、優れた描写があれば、それを[世界]にしてもいいんだよ。
//「正月一日は」
 春を歌うなら、明るく歌おう。年度代わりの政治向きのことなど、背景としてなら用いてもいいけれど、具体的な事柄には言及すべきではない。不幸は、文芸の[世界]にない事物を話題にすることから始まる。
 逆に言えば、私達が[世界]に覆われている間、不幸は生じないことになっている。そのとき、生活は歌だ。だから、あからさまな詠歌は要らない。少なくとも、新しい歌は要らない。だから、私の歌も要らない。私は、そのことを、よく知っている。だから、歌わない。
//「雪のいと高う降りたるを」
 「香炉峰の雪」とのご下問に、ナゴンナは御簾を巻き上げて見せる。このパフォーマンスによって、[世界]は生活を被覆し得るものであること、そして、[世界]による生活の被覆こそが具体的な困難の克服よりも優れていることを、彼女は示し得たと信じる。と、彼女は書きたかった。が、書いてはならない。書いてしまえば、生活と[世界]の間の、いやらしい溝が見えてしまう。言葉にしなくても、妃は、この暗示を正確に受け止められた。微笑んでおられるのが、何よりの証拠。妃の返し技としての微笑は、しばしば、ナゴンナの闘いの正当性を保証するものとして記録される。
 「白氏文集」を読んでいるくせに読んでいない振りをすることが、要点。つまり、単純な謙遜ではなく、謙遜するさまを見せつける。ナゴンナは、歌わずに[世界]のみを現出せしめる技を会得する。その日から、彼女の孤独な闘いが始まる。あるいは、堕落が。
//「職におはします頃、八月十よ日の」
 一度は、やってみたかったこと。秋、月夜に、ただ座っているだけで、「唯見江心秋月白」みたいな情趣を醸し出して、鈍感な人達を恥じ入らせてやるの。
 問いかけを待つ彼女の耳は、抑えた楽器の演奏や、ささめきのような談笑さえ、嵐のように聞いていた。それらの物音は、その発生源に対する違和感によって固化し、彼女を囲繞する。その壁を取り払うことができるのは、妃ばかり。
 といった事情を、妃は知悉していなければならない。
 月は鏡。私の心を映し出す人の言葉を、私は待っていますよ。
//「五月ばかりに」
 歌わない女、ナゴンナに歌わせようと、ある夜、呉竹が突き付けられる。[世界]コントローラとして超越的に振る舞う彼女を、贈答歌交換のレベルに引き下ろすための策略。だが、彼女は、竹の異名を唱えて[世界]を呼び出し、敵を幻惑させ、歌うことを免れる。と同時に、挑発から身を躱す方法も学び取った。ナゴンナは、レベル・アップする。
 このとき、彼女は、呉竹の[世界]について、無知を装う。何であれ、[世界]についてあからさまに言及した瞬間に、[世界]は生活から剥落し、シグナルが点滅し始めるから。
 [世界]によって生活を被覆するためには、[世界]を明示してはならない。これが、鉄則。
 敵は、味方の中にもいる。彼女の企図を察知し、その成就を阻もうとする者は、すべて、敵だ。敵の挑発は、日常的に、しかも、不意打ちの形で、繰り返される。彼女は、この夜の出来事を種に、政治を罪のない遊戯や誤解であるかのように語ってみせる。例えば、正月15日の望粥の節句での遊戯的騒乱、今はその意義の薄れた儀礼の一種と同様のものであるかのように。
 ところで、その夜、月は出ていなかった。そう記憶しているナゴンナがいる。彼女にとって、やはり、恐ろしい一夜だったのだろう。ぎりぎりのところで、敵の文学的暴力を見切ることができたのは、僥倖に近い。
//「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」
 ナゴンナは、希代のパフォーマー、コーゼフと、後ろ手で手を組み、党争を終息に向かわせようと目論む。妃は、そんな夢をナゴンナが持つことを黙認した。と、ナゴンナは空想する。
 ナゴンナがコーゼフを愛するふりをするのは、誰にも語れない遠大な計画があるからだ。と、彼女は欺瞞する。ナゴンナは、同志にしか魅力を感じてはならないと考えるので、魅力を感じた相手を同志と見做す。
//「頭の辨の、職にまゐりたまひて」
 ナゴンナは、自分は歌えないのではなく、歌わないのだということを人々に思い出させるために、時々は、歌ってみせなければならない。
 コーゼフが[後朝(鶏鳴,逢い引き)]を呼び出すと、ナゴンナは、[孟嘗君(鶏鳴,関)]+[逢坂(関,逢い引き)]で応じた。すぐさま、コーゼフは、[関/(世界化されたときには)破壊のための建設]と切り返す。
 ナゴンナは油断していて、息が詰まる。二重の[世界]に守られていたし、二つの喜びにうっとりしていた。二重の喜びとは、素晴らしい歌と素晴らしい同志を得た喜びのこと。
 気が付くと、ナゴンナは、崖っぷちに立たされていた。このままでは、自分は賢い関守だと白状してしまったことになる。自尊心を守る、賢い関守。関は破られるためにあるのだと知っていて、そして、守るのだから、賢い。彼女は、自分の賢さを証明するためには、男に屈服しなければならない理屈になる。
 そこで、ナゴンナは、本音を偽ったふりで、さらに本音を吐き続ける。二人は会話のための会話を高揚させる。そして、お互い、何を話し合っているのか、理解できなくなる。頭がくらくらする。シグナル、点滅。彼女の口は渇いている。だが、いや、だからこそ、しゃべり続けるしかなかった。不安を悟られたら、負け。
 あなたが私の歌を他人に見せてしまったのは、私の歌が素晴らしくて、それを広めずにはいられなかったからで、決して、私を軽く扱っているからではないのよね。でも、私があなたの歌を人に見せないのは、あなたを重く扱っているからではなくて、あなたの歌の出来が悪いからよ。だから、やり方は違っていても、相手を思う気持ちは一つなんだわ。うふ。私達が愛し合ってるって噂を広めて、みんなを騙してやらないこと? 
 騙されるもんか、騙されるもんか…… 
 誰が彼女を騙せるのだろう。彼女よりも賢い人間など、いるはずはないのだから。ところが、彼女には、だんだん、分からなくなる。自分は、どれくらい、賢いのか。賢いとしたら、コーゼフよりも賢いのか。コーゼフよりも愚かだとしたら、どれほど、愚かなのか。一筋に信を願えばいいのに、と説く人もあろう。でも、そんな人は、騙されているんだ。騙されたくなければ、騙すしかない。
//「頭の中將の、すずろなるそら言にて」
 みんな、騙されている。あの頭の中将さえ、下らない噂を信じた。
 その噂がどのような噂なのか、当時の読者は、頭の中将が具体的には誰のことを指すのか知っているのと同じくらい、知っている。ナゴンナは、弁明しない。根も葉もない噂でも、掘り起こせば種ぐらいは見つかる。彼女は、自分という人間の危険性について、誰よりも知っているつもりだ。
 中将は、ナゴンナとの根比べに負けたと称して、実は、ナゴンナの沈黙の要塞を搦め手から襲う。
  蘭省花時錦帳下
 この句の続きを書けと迫る。ナゴンナは、勿論、次の句を知っている。だが、素直に答えては、危ない。どんな仕掛けがしてあるか、分からない。例によって、知っていて知らないふりということを、表現として通じさせなければならない。だが、相手は、[次の句に表現されているような惨めさを自分に味合わせている張本人があなたであることを認めよ。すなわち、例の噂が本当であることを認めよ]と、言って来ている。だから、知っていることと知らないことのぼかし具合が、難しい。知っていると言えば、容疑を肯定したことになる。しかし、知らないと言えば、虚言だと取られる。どう答えても、嫌疑は晴れそうにない。答え方次第では、新たな火種を作りかねない。何だか、きな臭い。ナゴンナは、いつものように外国文学の[世界]を呼び出して男を煙に巻くということができない。和歌に頼る。
  草の庵をたれかたづねん
 挑発の意図が不明なので、手掛かりを与えないよう、筆跡まで曖昧にした。
 返事はなく、代わりに、男が来る。そして、彼女を「草の庵」と呼び、敗北を認める。あの歌の上の句は思いつかなかったという。
 ところが、ナゴンナには勝利の実感がない。当然だ。ここで彼らがやっていることは、ほとんど、無意味なのだから。そもそも、男達の遣り口は手が込み過ぎていた。そこへ持って来て、さらにナゴンナがジャンプしたため、[世界]が錯綜し、物語が見失われた。さらなるジャンプは、不能。上の句を思いつけるわけがない。
 ナゴンナたちが、ここでしでかしてしまったような[世界]の混在は、原理的には無意味をしか招来しない。このとき、[世界]を次々に使い捨てながら、連想の石蹴り遊びに興じられるほど、状況は平穏ではなかった。また、個体の思想を棚上げしたまま、[世界]から[世界]へと果てしなく通底し続ける何かを共同性にとっての価値と見做すほど、社会は柔軟でもなかった。
 さて、どの時代でも、物語が見失われれば、人は途方に暮れる。[世界]の石蹴り遊びの果てに勝利したのは誰でもない。[世界]だ。おや、[世界]の勝利こそ、ナゴンナの夢ではなかったのか。そうだったと思う。でも、何だか、違うようだ。あのとき、無我夢中で答えていた。知らず知らず、和歌の[世界]に逃げ込んでいた。そこに帰れば、誰かが抱きとめてくれそうな気がした? 
 多重に呼び出された[世界]が、機能したりしなかったりする根拠は、何だろう。
 [鳥の空音]では、ナゴンナは遊戯めかしてだが、敗北を認めた。[草の庵]では、そうすることが不可能なような状況だった。この差に秘密がありはしないか。すなわち、信と不信のバランス。好感度の問題だと早とちりしないでほしいなと、ナゴンナは言いたげだが、実は、ほとんど、好感度の問題だと思わせたいのかもしれない。いやはや、ややこしい。だが、本当に、好感度の問題ではない。男女間の好感度は、[恋物語]の[世界]に属する尺度であって、生活の尺度とはなり得ない。
 さて、後に、周囲の人々がはしゃぎ回るのを見て、ナゴンナは、自分達がどんなに危険な状態に置かれていたか、改めて思い知らされる。そして、「下手な答え方をして来たら、あんな女、抹殺してくれよう」と、冗談交じりにではあるが、凄まじい言葉を中将が漏らしたと聞き、怯える。
 この話を伝えたのは、ノリミッツであった。以前から親しくしていた彼に対してさえ、ナゴンナは、警戒の目を向け始める。危機よりは、危機の情報を齎したものを恐れるという倒錯は、誰の心にも生じる。かてて加えて、恐ろしい疑問が彼女の頭を掠めた。男達って、もしかして、物語のためには[世界]の破壊さえ平気で試みるのでは? 
 [世界]の崩壊ほど、恐ろしいことはない。なぜなら、[世界]と共に私は滅亡しないから。私だけ、取り残される、生活のただ中に。でも、もしかして、と彼女は思う、私だけは[世界]と共に滅ぶことができるのでは? あら、私って、嘘つき、かな。
 とりあえず、ナゴンナの機敏性がアップする。
//「里にまかでたるに」
 ナゴンナは、潜行する。アジトを教えろと責められていると、ノリミッツが泣きつく。ナゴンナは、「隠し通せ」との意を、謎で示す。が、彼には解けない。仕方なく、その答えを歌にして見せる。が、歌の多義性に翻弄されることを潔しとしない彼は、歌を見ようともしない。「自分に歌を贈る者は、その内容がどうであれ、敵と見なす」というのが彼の口癖だ。それを承知のうえで、甘えとも嫌みともつかないやり方で、ナゴンナは男を試す。彼の方から折れて来る。だが、レベル・アップし、コーゼフを知った彼女に、ノリミッツは「お荷物」となり始めていた。絶縁の歌を送る。
 ところで、内容がどうあれ、歌を送ることは、それはそれで一つの友誼の証しだから、絶縁は戯れの雰囲気を帯びる。男の心を宙吊りにし、その反応を見よう。
 挨拶もなしに、男は都を去る。不毛な党争に倦んじ果てたか。あるいは、女の仕打ちに耐えている自分の姿が、怯懦の象徴と映ったか。彼は、[世界]の専横を逃れ、新天地に新たな夢を繋ぐ。
 「彼は、私の歌を見なかったのだろうか」と、ナゴンナが白々しくも記すのは、間接的な和解の申し入れを装った、実は、自己防衛。つまり、[捨てられたのは、私の方なのよ]という含み。あるいは、[私達、いつまでも、お友達でいません?]とでも? 
 とりあえず、ノリミッツの去勢には成功したようだ。彼は知り過ぎてしまった。彼が[歌う](=白状する)と危険だ。恨みを買わないようにしてだが、切り捨てるべき時期に来ていた。その際、彼が[歌う]かもしれないことを考慮して、彼の言葉に、人々が信を置かないよう、愉快な人物として彼の像を描き、流布しておく必要があった。
 ところで、本当は、ナゴンナが、[自分は捨てられたのだ]と心のどこかで感じているとしたら、彼女は何に捨てられたことになるのか。
 非政治化しつつある歌に代わって[世界]を持ち込んだために、却って、人々は争い方を思い出したかのようだ。歌合戦から[世界]合戦へと、戦法が変化しただけなのかもしれない。結局、男とは、女を置き去りにして、闘いから快楽を引き出す動物なのか。
//「殿などのおはしまさで後」
 このエピソードは、「頭の中将の、すずろなるそら言を」や「里にまかでたるに」などと同じ構成になっている。すなわち、[ナゴンナに対する中傷→教養の競い合い→はぐらかし]という流れ。ナゴンナは、そのたびに同じことを訴えようとしているが、その訴えは、必ずしも明瞭ではない。彼女自身にとっても、明瞭であったのか、どうか。
 彼女は、妃に対する忠誠の表明と敵方の大臣に対する懐柔策とを両立させるために、野心など持てない、粗忽な人物であるふうを装おわねばならなくなる。
 潜行するナゴンナのもとに、妃から帰参の要請がある。手土産が必要だ。ナゴンナは、自分の失敗談を披露する。妃の手紙に記されていた古歌の、上の句を失念したという話。どこまでが本当か。女官達は、「おばはん、また、やってはるわ」と、肘で小突き合う。しかし、妃は、受け入れて見せる。実は、受け入れたかに見せて、釘を刺すことは忘れていない。政治に関しては、妃の方が何枚も上手だ。高名とはいえ、学者の娘などに信を置くはずはない。しかし、ナゴンナは、[本当に、上の句を忘れていたのだ]と思う。いや、忘れていたと思いたい。極めて短い時間だったが、歌が聞こえて来なかった。当意即妙、条件反射が彼女の存在意義になっていて、その能力が損なわれたかに思えることは、正直、彼女にとって、恐怖だった。ところが、過敏になった自意識は、常に先回りし、彼女の意識の遅延をあざ笑うかのような昨今ではなかったか。
 ナゴンナが内通者であるかどうか、妃にとっては、もはや、問題ではなかった。内通者であるという噂のある人間を疎外すること自体が迫害の口実にされかねない。そのことを、勿論、賢い女官、ナゴンナは知悉している。だからこそ、恥を忍んで帰参した。ナゴンナにしてみれば、そこまでの展望を持って潜行を始めたのではない。しかし、妃は、第二の本能とでも言うべき政治センスに導かれ、後退戦において捨て駒として用いるために、ナゴンナを放し飼いにしておいた。
 というようなことは、言わなくても、賢いあなたなら、分かりますね。
 というような心を読み取ったと思い、ナゴンナは感涙に咽ぶ。そして、その瞬間、歌を忘れた。歌を忘れた瞬間の、空を飛ぶ夢の恐怖にも似た解放感について、ナゴンナは、明瞭には自覚できない。彼女に自覚できたのは、[自分が内通者であるかどうか、もう、どうでもいいことらしい]ということぐらいだ。その自覚は、妃による評価と、一周遅れて一致する。実は、[私を理解してくれるのは妃だけ]という[世界]でしか、彼女は、もはや、何事も認識できなくなっている。
 ともあれ、彼女は理解されたことになるのだろう。彼女が欲していたことは、理解されることだった。小さな頃から、自分が何者なのか、分からなかった。いや、分からなくなってしまうことが望みだったような気もする。男勝りの利発さに、自分で混乱していた。分かることをやめてしまいたかった。分かるという仕事を、誰かに押し付けてしまいたかった。その望みを、妃は叶えてくれた。私は何をしようとして、何をしたことになるのか。けだるい困惑が、仄かな喜びを呼び起こすのは、なぜ。[自分は、歌を忘れてまで、妃を守りきった]と信じられるから? やっと、恩返しができたと思う。でも、その恩というのが、歌を忘れさせてくれたこと、そのこと自体のようでもあるのだけれど。
 彼女を内通者として誹謗した者の中には、妃の死後、敵方に寝返りながら、恬として恥じぬ者もいた。だが、ナゴンナは、恩に報いるため、また、亡き妃の名誉を守るため、冊子の補填、改訂に勤しむ。そうしている間だけは彼女の政治的安寧が保証されるからというだけの理由によってではなく、そもそも、妃に理解されてしまったナゴンナに行く当てなどなかったからだ。彼女は、[美しい妃と賢い女官の物語]という、掛け替えのない[世界]を失った。後の仕事はと言えば、そんな[世界]が可能だったという夢を補填し、改訂することぐらいだ。
//跋文(偽)
 物暗うなりて、文字も書かれずなりにたり。筆も使い果てて、これを書き果てばや。わが心にもめでたく思ふ事を、人に語り、かやうにも書きつくれば、君の御ためにもかるがるしきやうなるを、いとかしこし。されど、この草子は、目に見え心に思う事の、よしなくあやしきも、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書きあつめたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしなどしつべき所々もあれば、清う隠したりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
  わが恋を人知るらめや しきたへの枕のみこそ 知らば知るらめ
                    読み人知らず(『古今和歌集』)
  枕よりまた知る人もなき恋を 涙堰きあへず もらしつるかな
                            平貞文(同)
//『無名草子』から
 主家没落後、ナゴンナは、世に捨てられるよりも素早く世を捨て、辺境の地でつましく暮らし始める。青菜を干し終えた後など、誰にともなく、「あの頃は、身分も教養もある男達を、軒並み、振ってやってさ」などと呟く。で、だから、どうと、後は続かない。
//「われやはわれと」
 たまに客があっても、恥じて出ない。
  とふ人に ありとはえこそいひいでね われやはわれと おどろかれつつ
                          (『清少納言集』)
 もしもし、生きてますか? 
 生きてるって、誰が。私? 
 どの私。
 一度は死んだ私? 
 二度とは死なない私? 
 ああ、知らなかった、生きて行く私がいたなんて、[世界]の外側に。


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