『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#042[膿]

 ザ・ベンチャーズのレコードを買ったとき、親達は眉を顰めた。しかし、客があると、近頃はこういうのが流行だなどと言って、レコードを掛けさせた。捌けた親だという演技をする。私は、腹が立って腹が立って、蹴るようにして中座した。
 箪笥の上に、安っぽい雑誌が積んであって、見ると、叱られた。だが、わざと見せられることもあった。美しいヌードに対する鑑賞眼は磨くべきだと言われた。[奇麗な物ならいいが、汚い物はいけない]と言う。
 その後、至る所で聞かされることになる、この種の小市民的見解、いや、見解に見せかけた美学者気取りを話題にするのは、時間の無駄だ。かまとと達までを読者として想定していたら、この仕事に終わりはない。
 小島功の漫画を盗み見ているのを見つかり、慌てた。その慌てようが滑稽だと、母は屈託なく笑った。『オシャカ坊主』なら、いいのよ。父の説では、バレエは、ストリップティーズ紛いの下品な見世物だった。[医学書]や『ファニー・ヒル』のような物は、箪笥の上ではなく、もっと別の、見つかりにくい場所に隠してあった。思うに、本当に見せたくない物と、見たら叱るための罠のような物と、見せて反応を楽しむ物と、その他、いろいろ、あったようだ。白黒、はっきりさせず、いろいろあるのが、実際的な配慮なのかもしれない。
 父が便所に入ると、母が子供達を呼び寄せる。父は、「性教育」と唱えて、尿が迸るところを、息子と娘に、得意げに観察させた。
 『ルパン三世』(モンキー・パンチ)を、週刊誌から切り取って集めて隠していたら、妹に見つかった。[親に告げ口されたら、私の人生は終わりだ]と思った。[口を封じるには、殺すしかない]と思った。自分がそう思っていることに気付き、愕然とした。足元には、怯え切って横たわる妹がいた。泣き声を聞き付けてやって来た母は、狼狽した。怒りつつ、逃げ腰だった。私がこの世で最も恐れている人間が、私に怯える。不思議な気がした。
 私は、いつも、監視されているような気がしていた。二度目に精通があったとき、失禁だと思い、慌てて窓から腰を突き出した。一度目のときは起き抜けで、快感はなく、胸苦しい感じで、便器に垂れた粘液を見て、膿かと心配した。二度目は昼間だったので、いや、二度目ではなかったかもしれないが、窓から腰を突き出したら、門と門柱の隙間から覗く人があった。
 しかし、考えてみると、そのようなことは、ありえない。道行く人が、そのときを選んで覗く理由はない。太い門柱と門扉の狭い間隙に顔を押し付ければ、他の人に怪しまれる。しかも、そこは、短い橋の上なのだ。覗かれていると思ったのなら、そのとき、私は見られるがままになってはいなかったはずだ。しかし、見られているはずの私が、記憶の中では、じっとしている。見せつける気分はない。
 私を見ていたと思うのは、中年女だ。知らない人。美しくも醜くもない。ただ、甘く疲れたような感じ、人生に失望しながらも、その失望と慣れ親しんでいるような感じがあって、その感じが、今も、私に実在感を齎す。
 別のときも、見られていた。そのときは、若い女だった。若いとは言っても、当時の私よりは年嵩で、窓の目隠しの上から、侮辱するように見ていた。だが、その場所に顔が来るには、身長が2m近くなければならない。目を合わせた記憶もない。このときも、私は見られるままになっている。隠れようとしていない。私は、俯いている。その人と目を合わせないようにしている。そういう気分は思い出せる。その人の顔が嫌悪と軽蔑と当惑のために冷たく歪むのも、思い出せる。
 今、私は、その若い女に会いたいと思った。会って、弁解したい。いや、別のことがしたい。別のことというのは…… 
 いや、あのとき、橋の上で、私のことを覗き見ていたのは……
 あ、あの小母さんだ。小母さんは、[私達]のことを覗いていたのかもしれないな。でなければ、どうして、あの[遊び]を知ることができたろう。小母さんは、私の母に言い付けた。私は、怪我をして、尿道から膿が出て、その膿を見たがったのも、きっと、あの小母さんだ。しかし、自分の娘が[遊ぶ]場面を覗き見する母親なんて。小母さんは、子供の遊びを見て欲情して。でも、そうだとしたら、告げ口などしない。告げ口のつもりではなかったか。戸惑いを冗談にして、いい加減に始末しようとしたか。猥談でも楽しむ雰囲気。現場に踏み込む勇気がなかった。しかし、そうだとすると、あの、何もかも弁えたような、からかい半分の口調の意味は? 
 とめどなく、一挙に噴き出す印象の溶岩。
 この話は、随分前に書いている。[肉桂紙]だ。
 


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