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#043[肉桂紙]01

                    肉桂紙、肉桂紙、
                    噛めばうれしい、泣かれます、
                    弟をつねるより強く。
                        (北原白秋『肉桂紙』)
 帰路、川向こうの商店街から小橋を渡り、通い慣れた道を歩き始めているのに気づいて、首を傾げる。ああ、こちらに来るのではなかった。冬から持ち越した、首を竦める癖が出て、辺りを窺う。いつも注意される、みっともない癖。小橋まで取って返し、背筋を伸ばし、一歩一歩、踏み締めるようにして、川端の道を歩き出そう。
 川向こうまで一人で行ったのは、今日が初めて。一人でだよ、ボク一人で。ボク、一人で来たか。ガラス箱からパンを取り出しながら、小父さんが驚いてくれた。自分のだもの、自分で買いに来た。お昼に食べるパン、一個だけ。袋の絵に大きな乳房を持つ牛が横たわる牛乳パン。
 「ボク、好きなんだよね、牛乳パン」
 そうだろうか。そうかもしれない。
 「ボク、好きでしょ。好きだったじゃない? くちゅくちゅってすると、おっぱいの味がするから」
 ああ、そうだった、くちゅくちゅって。
 足下に落ちた短い影の中から、くちゅくちゅ、くちゅくちゅ、音がしそうで、笑いをこらえる。
 ぴちゃぴちゃ、小さな川の流れ。水面は、道と、ほとんど同じ高さ。つい、この間まで、どんより、重たげだったのが、今日は、日の光を浴びて、きらめく。空を見上げる。眩し過ぎて、太陽は捜せない。暖かい矢印の束を、顔面で受ける。
 「もうすぐ、春よ」と言われた。
 ああ、春。そうか、春。はあ、知ってる、春。
 厚手のセーターを脱いで、薄いカーディガンに着せ替えさせられる春。脱がされるとき、万歳。顎や耳に引っかかって、痛い。この前の春、そんなふうだった。思い出す。その前の春は、ぼうっと霞み、さらに、その前の春となると、もっと前の春、ずっと、ずっと前の春とも一緒になって、暗くて、暖かくて、眠くなる。
 去年、縁側で、日なたぼっこ、してたら、水色のセイラー服の人が、「赤ちゃん、見せて下さい」と言って来た。あの人が来ると、ボクは、ご機嫌。でも、ある日、素っ裸でいたので、パンツを履かせてもらおうと部屋の中を走り回るのを、人々は笑った。何がおかしいのか、ボクは泣いてるのに。あの人も笑った。母も笑った。祖父も笑った。
 「おかしいねえ、あの走り方」
 走り出すと、止まれない。走るのより、止まる方が難しい。走り始めると、止まらない。何かにぶつかるまで、止まれない。ぶつかれば、止まる。止まるには、ぶつかればいい。だったら、なるべく、柔らかい物にぶつかろう、積んである座布団とか、人間とか。でも、人間は、時々、痛い。男の体は、大体、痛い。
 祖父が捕まえようと、立ちはだかる。ふらりとよけて、襖にぶつかる。泣く。痛くて泣くのではない。きっと痛いぞと思って、泣く準備をしていて、そして、泣いた。でも、泣きながら、思う。おや、こいつ、意外に痛くないな。今度から、ぶつかるんなら、これだな。的も大きい。
 裸のまま、外で抱かれていた。腹を出して抱かれて、前があらわ。あの人が通りかかる。
 「小さいでしょ」
 「ほんと、小さい」
 あの人の目が、ボクの腹の下に吸い寄せられる。ボクは、その視線を背で遮ろうとする。だが、母は抱きにくそうにしながら、腹を向けさせ、背後から抱く。そんな抱き方をされるのは、初めてだ。逃げ帰りたい。地面に降りようとした。でも、降ろしてもらえない。投げ上げるようにして、抱き直される。母親の体を、初めて、堅いと感じた。
 「ね、小さいでしょ」
 その言葉と自分の見ている物とを初めて照合し、あの人は顔を赤らめる。そして、あの人は、もう、「赤ちゃん、見せてください」と言って来なくなった。ボクは、赤ちゃんではなくなった。時々、外で見かける。でも、あの人は、うっすら、笑いかけて通り過ぎるだけの人になった。赤ちゃんなら、よかった。赤ちゃんでもないのに、小さいのは、悲しい。
 (最近、その人の写真を見つけた。誰かに似ていると思った。誰に似ているのだろう。よく考えたら、記憶の中のその人に似ていた)
 (これは証拠写真ではない。このボクは、パンツを穿いている。人物の配置は、同じだが。カメラを向けられながら、私は、なぜ、あのときと同じ構図なのか、不思議に思った。写真は、現実の再現ではない。現実の再現の、そのまた再現。要するに、やらせ。芝居を現実に見せかけるための小道具。実際に起きた出来事を写したものでさえ、写真家の語りたい物語を補強するための小道具に過ぎない)
 (通りで写真を撮っていると、たまたま、少女が通りかかり、写真に入った。彼女は待ち伏せされていたのかもしれない。その前、しばらく、あたりをうろうろしていた。何の用だろうと思っていた。母は、活人画で母子像を作り出そう                 としたのか。少女は、この母子像を、畏
                敬の念を持って仰ぎ見るべきだったの
                 だろうが、彼女は、そうしなかった。そ
                 うしなければならないとさえ、思わな
                かったはずだ。彼女は、まるで自分一人
                が被写体であるかのように立っている。
                 奇妙なトリミングを施された、この写
                真は、本来なら、[講和条約調印式風景]
                と題されるべきものだ。いや、この写真
                こそ、調印を意味するはずだ。高度に政
                治的な決着。誰の勝利も認めない代わり
                に、敗北も認めない。敗者もいなければ、
                勝者もいない。戦争などなかったことに
               してしまおうという魂胆。母の首から肩、
                胸にかけての堅さを、私は思い出す。そ
                の体は、ボクを拒否している。写真の中
                の母は、恐怖を押し隠し、作り笑い。それ
                は、ボクとは特別な関係にない人の笑い
                だった。ボクの視線は、執拗に絡み付く
母の視線から逃れて、一旦は、少女の横顔へと向かうのだが、その異様な輝きに弾かれて、フレイムの外に、要らぬ物のように投げ出される。旧式の写真機を覗き込む父。ちらちら、上げる、浮わついた父の目とは、出会いたくなかった。少女は、真の被写体は自分だと信じ込んでいるかのように振る舞うことに、活路を見出している。父は、その奸計に落ちて、ひっそりと楽しむ。一旦は母の勝利に終わるかに見えた作戦が、少女の本能的な逆襲によって、無効になる。母は、またもや、戦いなどないかのように振る舞おうとして、一層、母子像の模写の模写に没頭する。攻撃のための武器が、防御に転用され、余剰の攻撃性が、父に向けられる。父は、すでにうろたえ始めている。今度は、父が母子像を仰ぎ見る番だ。女達は二重に戦っている。異性を得ようとすれば子を失い、子を得ようとすれば異性を失う。この戦い、どう考えても、母であり妻である者にとって有利なはずだが、実際は、そうではない。無垢の生地を見せつけるのと、良妻賢母を演じるのと、どちらが容易であるか、想像するまでもない。少女には、失う物は何もなかった。無垢を主張する限り、少女が敗北を喫するはずはない。しかも、彼女には、勝利を求める理由すらなかった。所詮、売られた喧嘩に過ぎない。さて、こう書きながら、私は平気か)
 (母は、息子のペニスによって、息子のペニスを奪おうとする処女から、息子のペニスを守った。penisでpunishされ、Venusはvanishした。作文するボクの鉛筆[penis*pistol⇒pencil]は、それがボクのものである限り、機能不全であることを証明するために使用される。母は、私のPを利用した。母の母は、夫のPを拒否した。そのことによって、私に母の父のPが押し付けられた、改めて母が奪うために。祖母は、花火で痛めたという目のために、いつも、青眼鏡を掛けていた。だから、どこを見ているのか、分からなかった。1DKに一人で住んでいた。一度だけ、一週間ほど、一緒に過ごした。寒天を、初めて食べさせてもらった。食べたことがないと言うと、おいしくないよと言いながら、作ってくれた。確かに、うまくなかった。そう言うと、そうでしょうと言って、笑った。平気で無駄なことをする女の人がいることを、知った。嫌いだった玉葱炒めを、初めて、うまいと思った。そう言うと、別に何もしてないよと苦笑した。自分で料理をするようになって、よく火を通してあるだけだと分かった。祖母は、人間が苦手のようだった。ボクが退屈してぐずりだすのを恐れていることが、手に取るように知れた。昼間見た雑誌の挿絵が女の幽霊で、夜、怖くて寝付けなかった。心の中が、はふはふした。祖母の肌に救いを求めた。彼女は、眠っているはずなのに、ぴくんと身を反らし、拒んだ。決定的な拒否だった。その拒み方は、子供にするようなものではなかった。私は、自分の性を思い知らされた。彼女は、彼女の夫を、そうやって拒みながら、早死にさせたのに違いない。私は、手のひらを近づけ、人の体温を感じるだけで満足しなければならなかった。幻の肌に触れることで、恐怖から逃れようとした。布団に潜り込み、少しずつ手のひらを近づける。寝間着に触れそうな所で、すっと、離れる。布の作る複雑な襞の尾根になら、時々は触れられた。しかし、それを潰すのは、危険だ。彼女の熱が感じられる近さ、でも、決して触れはしない、指の幅ほどの隙間を作って、あてどなく滑空する手のひらの翼。空気が蒸しパンのようになるのを感じ、手のひらは肉付けを始めた。痩せた老女の体を芯に、豊満な女体を作り出す。皮のないゴム毬の弾力を試している間だけ、恐怖を紛らすことができた。幻の肉が、ある確かさを持ち始めた頃、私は眠りに落ちる。翌朝、私は、彼女が私を恐れることを恐れなくてもいいのだと思った。気易い口を利いていた。同年代の少女のように、もてなした。その変化は、彼女の目にも明らかなようで、戸惑うふうだった。彼女自身の知らない、本当の彼女を、私は知っていると思った。私が彼女を作ったのだから。昨日は怖がってたみたいね。寝る前に、変な物、見るからよ。彼女は、私の恐怖を察知していた。なのに、抱かなかった。私が男だから)
 (10代の初め、ある少女を苛めた。彼女は、都会から転校して来た。都会と言っても東京ではないので、私の負けではないと思った。そうは思っても、気は晴れない。彼女が目障りだった。彼女の面差しがあの少女に似ていたからではないかとは、当時は、思い至らなかったことだ。私の印象では、彼女は無実だが有罪なのだ。彼女は、私が彼女を信じる前に、私を裏切っていた。信じれば裏切られるだろうと予想したのではない。その美貌が裏切りの証拠だった。背信が親交の前触れであるときにだけ発現する美。少年の無力感そのものが光源であるようなきらめきに対し、鎧う心の技法としては、憎しみの擬態しかなかったか)
 この間までは小さかった。でも、もう、大きい。何でもできる。じゃあ、一人でパンを買いに行ける? うん、どこへだって行ける。どこまでも遠くへ。
 右手は川、左手は煉瓦塀。積まれた煉瓦は、小ぶりで、灰色で、触ると、ぼろぼろ、崩れそうで、旗のようにうねっている。危ないから、近づかないようにね。でも、塀を離れ、川岸に寄るのも怖い。
 向こう岸には、民家の白壁が岸辺に迫っている。その岸にしがみつくようにして生える柳が、柔らかそうな、薄緑の小さな若葉を付けた枝の先を、水面に遊ばせている。水のきらめきを眺めていると、鼻に水が入ってしくしくするのに似た感じになる。
 小脇に抱えたパンから、袋を通して、いい匂いがする。前、後ろと伺う。誰も通らない。誰も見ない。体の中で、ぷちぷち、胡麻が弾けるようだ。笑いたくてならない。わざと、口を手で押さえる。ボク、笑ってるよ。でも、笑ってるってこと、誰も知らないよ。これからやろうとしていることも、誰も知らない。知っているのは、ボクだけ。袋の端が、買ったときから、少し、開いていた。指を突っ込み、小さくちぎって、急いで口に入れる。ミルクの味が、歯茎に沁みる。誰にも見られなかった。でも、惜しいような気もする。もう一度、辺りを見回す、今度は見られたくて。
 少し前、買ったばかりの食パンの端が欠けていた。母は難しい顔をして、鼠が齧ったのかしらと言った。ボクは、「鼠が齧る」ということが面白くて、そうだよ、きっと、鼠が齧ったんだよと繰り返して、はしゃいだ。
 わくわくしながら帰宅し、気づいてもらえるか、どきどきしながら待つ。気づかれないので、自分から指摘する。そして、付け加える。これ、きっと、鼠だよ。すると、母は笑いながら、ボクの頭を撫で、それは頭の黒い鼠ねと言う。どうして、ボクだって分かった。そりゃ、分かるわ。
 そうか、分かるのか。ボクが嘘をついても、すぐに分かってしまうんだな。
 初めての嘘の思い出。
 (この調子で写していて、最後まで辿り着けるか、心配になって来た。柳のことなんか、描写のための描写に過ぎない。くどい回り道。しかし、私には重要なことのようにも思える。柳は、あの日が現実のものであったことを示す、記憶の証拠写真にほかならない。と、思っていたが、そう書いてみると、自信がなくなった。柳ぐらい、どこにでもある。川ぐらい、どこでも流れている。だから、柳の糸は、どこでも、川面を撫でている。現に、プールへの行き帰り、そんな景色を見る。10年前、その景色を見ながら、あの下町の風景と重ね合わせ、この部分を綴ったのではないか)
 あの日、初めて嘘をついた日、ボクの没落は始まった。あるいは、回り道。終わりの始まり。
  You always know after you are two.Two is the biginning of the
 end.
                      (J.M.Barrie"Peter Pan")
 


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