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#044[肉桂紙]02

 あの日、ボクは回り道をした。商店街からまっすぐに帰らず、川端の道を歩いた。まっすぐだと、走って通らねばならない道がある。しかも、その日はパンを持っている。食べ物を持っていると、その辺りの子供達に取り上げられる。以前、油で揚げた菓子を袋ごと取られた。物を取られるのが惜しいのではない。取られたのを惜しいとも思わず、ぼんやりしていて、そのことを父に詰られた。だから、取られては困る。
 彼らの声は、よく響く。けたたましい。早口で、ほとんど、意味が取れない罵声、哄笑、絶叫。家の壁は、漆喰が剥げ落ち、藁の混じった土が剥き出しになっている。格子に編んだ竹が見える。よその子が通りかかると、土蔵のような暗い建物から、ばらばらと沸いて出て、寄越せと怒鳴る。寄越せ。寄越さねば、通さん。こちらが手ぶらだと分かっていても、取り敢えず、そう言ってみないではいられない。持ってないと、いくら言っても、耳を貸さない。取り囲み、寄越せ、寄越せ。言葉が通じない。ボクは、頭がぼうっとしてくる。何もできなくなる。そうなって、やっと、解放される。
 彼らが恐ろしかった。でも、魅力的だった。呆れるほど大きな声で笑い、罵り合い、ちょっとしたことから、すぐに殴り合いに発展する。そうかと思えば、いつか、抱き合い、げらげら、笑っている。不思議そうに見ていると、目を吊り上げて迫るので、じっとして、薄笑いを浮かべ、見ないようにして見ている。すると、遊んでくれることがある。納屋の中二階に積んだ藁の上で、飛び跳ねる。もうもうと埃が舞う。何でもかんでも、ひっちゃかめっちゃか。喉が痛くなるほど、叫ぶ。安心していると、耳元で、わっ! 鼓膜がキーン。青鼻を、べたっと付けられる。親愛の表現かと耐えていると、突然、冷淡になる。何が原因で変化が起こるのか、ボクには、さっぱり、分からない。笑いながら寄って来るので、笑い返すと、怖い顔になり、どきっとさせておいて、にやっと笑う。笑い返すと、小突かれる。髪が固まりになって突っ立っている。肌は汚れ、浅黒い。下着姿。小さな子は、パンツだけか、シャツだけ。それも、おとな物。お下がりのワンピースを着せられた男の子もいる。ベルトの代わりに縄を結ぶ。
 頭から醤油飯を浴びせられた。少女が、路上で、碗の糸底を握り、飯を掻き込みながら、追いかけっこをしたり、縄跳びに入ったりしていた。楽しそうで、旨そうで、つい見とれてしまった。見られていたと分かり、彼女は、ぴくんと背を伸ばし、つかつかと歩み寄った。ボクは、淡い期待を抱いた。だが、彼女は、さんざんぱら、悪態をつき、何が起きたのか、分からずに、しゃがんだままで反応できないでいるボクに、「ばか、食え」と繰り返し、ボクの頭の上で碗の中身を開けてしまった。びっくりして、泣いて帰った。飯粒を、一粒一粒、母に取ってもらった。米粒がこびりついて、髪が引っ張られ、痛かった。飯粒とは痛いものだと思った。服の中にも落ちていた。飯粒は、何日もボクの体にくっついていて、思い出したように、何粒かずつ、発見された。
 ボクは、醤油飯が食べたかった。親は、顔を顰めた。ボクは、醤油飯という言葉を知らなかった。どういう食べ物かも知らなかった。しかし、それはとても旨い物に違いないと信じた。飯の上に生醤油を垂らせばいいだけだということが分からず、あれを作ってくれとせがむしかなかった。あれが何なのか、分からないという顔を、親はした。
 あそこへは行くなと言われた。でも、行ってしまう。一緒に遊ばないまでも、少し間を置いて、彼らを、ぼんやり、眺めているだけで、楽しかった。しゃがんで壁に凭れ、日なたぼっこをするような気分でいると、見ることが許されるらしかった。
 あるとき、そうしていたら、少女が、ボクの頭を、すっぽり、スカートで包んでしまった。だぶだぶのスカート。中は、明るい。でも、苦しい。ひどい臭いに、息が詰まりそうだ。スカートの下には、何も着けていない。小さく、窪んだ、黒い臍が、高い所にあった。壁に凭れたまま、尻餅を搗き、立ち上がれない。頭の芯が叩かれるような、凄まじい臭気。いや、本当に叩かれていた。スカートの上で、何本もの手が働いている。泣き出すと、押し倒され、胸の上に跨がられた。身動きできない。やっとのことで、スカートの中から目だけ出すと、ボクが泣いているのに、少女は、ボクに跨がったまま、空を見ながら、陽気に歌っている。その向こうに、曇り空。
 母は、同じ階層の子供達の溜まり場に、ボクを連れて行った。デビュー。そこにいたのは、女の子達と、小さな男の子だった。玄関の前に莚を敷いて、二三人ずつ固まって遊んでいる。ボクは、じっとしていた。そうするのが作法だと思った。一人の少女が、おかっぱ頭の髪を、ばさっと前に垂らし、「ゆうれえ」と言った。幽霊が何なのか、知らなかったが、髪が固まりのようになって動くのが怖くて、散々、泣いた。
 その女の子だったか、大きな家の窓の下に、何人かでいたら、一人でやって来て、意味不明のことを言った。子供達は、構わないようにしていた。彼女は、肉桂紙を嘗めていた。原色に染まった舌。嘗めさせてやろうか。子供達は、ちょっと息を呑んでから、断った。ボクは、嘗めたかった。でも、言えなかった。薄ら笑いを浮かべて見ていたら、惜しそうに少しちぎったのをくれた。甘いのか、辛いのか、何とも形容不能の強烈な味。ぱちぱち、弾けるよう。目の中で小さく破裂する光の粒。
 肉桂紙も、親にねだったが、許されない。色紙を嘗めてみる。違うと分かっていても、試さないではいられなかった。
 (いや、このあたりは複雑だ。買う前に、色紙は肉桂紙ではないと言われた。知っていると答えた。しかし、おとなには別物だと思わせておけばいい。そうでないと買ってもらえないから。そんなふうに考えていた。奇妙な欺瞞。指しゃぶりを禁止され、足の指をしゃぶった。手の指だと叱られるのに、足の指だと、子供の体は柔らかいものだなどと感心され、放っておかれる。曲芸を見せるふりをして、唇の欲求を満たした。鉋屑が花鰹に見えて、口に入れた。違う、違うと思っていながら、僅かな可能性に賭けた。味はなかった。何とも味気無い味。でも、色紙よりはましだ。赤い色紙は、途轍もなく嫌な味がした。吐き気がした。吐き気というのを、その言葉は知らずに、初めて体験した。肉桂紙をくれた子は、嫌な子だった。日本語にはないような、嫌な感じ。nastyという単語を思い浮かべる。自分のことをnastyだと思い、布団に頭を突っ込んで歯軋りしていた青年の私を思い出す。[もしも、私が私を町で見かけたら、後ろから殴るね]と、誰かにそう言って、笑ってもらいたかった。でも、話す相手はいなかった。正義は私にあると思われるときでさえ、私は卑しい。いや、そんなときこそ、最も卑しいのだろう。私が正しいと思うことを語るとき、人は汚い物でも見るような目をする)
 あの子は卑しん坊だと、みんなは言う。何でも欲しがる。物でも、人でも、人の心でも。手に入らないと、癇癪を起こす。 「帰れ」というのが、口癖。他人の家でも、そう言う。その家の子に向かっても言う。「ここは、私の家」と言い返されているのに、皆まで聞かず、「いやあ、帰れ!」なのだ。手が付けられない。無視されても、言い募る。しばらくすると、忘れたように輪に入って来る。そのとき、まだ、みんなの方で彼女を受け入れる気になれないようだと、手近な子を呼び、「帰ろう」と言う。うっかり、頷けば、「この子は、家来」と宣言される。かといって、返事を渋っていると、「あんたは、あの子のことが好きなんだろう」と来る。よくあることだから、そうそう、その手は食わない。無視され続けると、今度は、「あんたなんか、ここのうちの子じゃないよ。防空壕に、お父ちゃんってって走ってってごらん、中から、『はいよ』って顔を出すから」
 女の子なら、ここらで泣き出す。防空壕に住んでいる男は、近所の有名人。ぼろぼろの服、長身で、黒髭、ぼうぼう、きつい顔をして、無口。出歩くとき、籠を背負っている。後をつける子を恐ろしい顔で睨み、怒鳴り、石を投げる。追い回され、引き付けを起こした子がいるとか。
 「嘘つき!」と、泣きながら抗弁する。
 「へえ、じゃあ、あんた、自分がどこで生まれたか、知ってんの。私は、あんたが橋の下から拾われて来るのを、ちゃあんと見てたんだからね。あんたのお母さんに、どこから生まれて来たか、聞いてごらん。本当のことは、教えてくれないから」と来る。
 作り話だと思っていても、寒気がする。人間は、本当は、どこから生まれて来るのか、教えてはもらえない。なぜか、そのことは、何の前提もなく、信じられている。
 「知ってる。私、病院で生まれたもん」と、半べそで少女が言い返す。しかし、「へえ、そんなこと、嘘だよ。かわいそうだから、本当のことは言わないんだよ」と決めつけられる。そうなると、もう、返す言葉がない。
 嘘とも本当ともつかない話を、子供達は、好む。例えば、「楠のてっぺんには、お化けが住んでいる。子供のお化け」「川底のお化けは、足を引っ張る」「便所には、お化けがいる」「裏の原っぱには、子供のお化けがいる」「あの家の庭には、お化けがいる」
 お化けという言葉から、ボクは、あの貧しい子供達を連想する。彼らが実在するように、お化けも実在する。あるいは、ボクと彼らの間に、薄い、隔ての幕があって、その薄い物がお化けになる? 
 (その薄い感じが、あの子にもあったのではないか。あの子の家は、貧困ではなかったが、貧相だった。あの、だぶだぶのスカートの中の臭気の薄まった物が、あの子からも発散されていたような気がする。そして、その薄い感じが、今、私からも漂うか)
 


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