『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#045[肉桂紙]03

 ある日、あの子が帰ろうと誘って応える者がなかったので、ボクが選ばれた。あの子は、立って動いている物体を珍しそうに見上げていたボクを見詰めた。おいで。ボクは、人に逆らうことを知らない。
 あの子は、歩きながら、子供達の一人一人を論う。ボクまでが俎上に載せられる。あんたは、すぐについて来なかった。ほかの子と遊んでいた。あたしが笑ったのに、笑わなかった。あたしは笑わなかったのに、笑った。あたしが欠伸をしたのに、しなかった。縁側を見たのは、「猫を連れといで」ってつもりだったのに、連れて来なかった。
 抓られ、小突かれ、涙ぐむと、あの子はボクを抱き寄せ、「おお、おお、ごめんよ、ごめんよ、母さんが悪かったね。よしよし」とあやす。あやされたくて、ちょっとだけなら抓られてもいいかなと思う。
 「花一匁」で、あの子はボクを欲しがる。子供達は、にやにやする。あの子はむっとして、ボクの腕を掴み、群れを離れる。
 あの子の部屋で、「花一匁」をやる。二人でやっても詰まらない。勝った方が相手に何でもしてもらえることになる。ボクが勝つ。ボク、何をして欲しい。思いつかない。撫で撫で? ああ、撫で撫で。撫で撫で。
 負け続けて、あの子が命令する。あんた、今度、グー出しなさい。
 ボクが負ける。もらった! 叫び声を上げ、ボクを抱き締める。あたしの物。ボク、く、苦しい。
 あの子の母親が顔を出し、昼寝をするから静かにするように言う。しばらく、静かにしている。やがて、春から使っていない、ストーブの囲いを横にしたのを指して、それは天蓋付きベッドだと宣言される。
 「あんたはね、泥棒だよ」「泥棒? いやだ」「嘘の泥棒だよ」
 時は飛び去り、夜、眠そうな大欠伸。眠いわ。わざとらしい。もう、寝ましょう。ベッドへ。
 泥棒は、最前から室内を伺っていた。窓は錠を忘れてある。音もなく侵入し、あちこち、物色。
 「引き出し、開けて。箱、あるよね? 宝石箱よ」
 開けて見る。宝石らしき物は見当たらない。が、それでも、宝石箱なのだから、中身は宝石だ。
 「いひひって笑う」
 いひひ。
 そのうち、泥棒は、美しい乙女が眠っているのに目を付け、宝石箱を包んだ風呂敷を置いて、そろそろとベッドに這い寄る。
 「そろそろって言ったでしょ。やり直し」
 そろそろ。そろそろ。
 「うん。もう、いいよ」
 近づき、そして、触れようとして、目を覚まされる。「きゃあ! 泥棒よ、泥棒。誰か来て」
 泥棒、泥棒と、あの子の真似をして騒ぐボク。
 「あんたは、逃げるのよ」
 泥棒は、入って来た窓から飛び出す。床を踏み鳴らす音。小母さんが、隣室から、静かにするように言う。
 別の日、別の泥棒が、別の乙女の部屋に侵入する。泥棒でも、おとなの役がやれるので、ボクは嬉しい。この泥棒は、悪賢い泥棒よ。貴重品は肌身離さず身に付けるものと知っていて、掛け布団を捲る。きゃあ、泥棒よ! 逃げろ。どたばた、どたばた。
 泥棒は焦り過ぎた。今度は、もっと慎重に振る舞う。そろそろ、そろそろ。寝息を伺う。掛け布団を、そっと、捲る。そっと、そっとね。でも、何も見つからない。
 「もっと捜して」
 もっと捜す。スカートを捲りなさい。捲る。きゃ、泥棒よ! 
 別の夜、そろそろ、そっと、そおっと。
 何だ。本当に眠ってしまったんじゃないか。揺する。動かない。ふて腐れていると、眠そうな目で続行を命じる。
 下着の中まで捜せ。でも、ない。
 「あるってば」
 肌に触れる。すると、泥棒! で、退散。
 別の日、別の泥棒が、あるいは、同じ日、同じ泥棒が、抜き足、差し足、忍び足。そこらの物をごっそり、風呂敷に包む。糸のように細い目を合図に、ベッドに近付く。スカートを捲る。ううん。不満なのか。そうではない。まどろみのうちに寝返りを打ち、裾が割れる。泥棒は大胆になり、下着を脱がしにかかる。うまいこと、足が片方ずつ、上がる。下着は脱いであって、天蓋の上。泥棒が見つけ、にたりと笑う。笑う意味は、ボクには分からない。
 ベテランの泥棒なら、女の脚の間に、珍しい物を見つける。でも、新米だから、難しい。待ちくたびれて目を覚まし、女は、「そっと触ったら、脚が開く」と、譫言を言う。触る。焦ると、目を覚まされる。様子を見ながら、太ももの内側を撫でる。脚が、少しずつ、開く。
 「もっと上。違う。その横。そう、そこ。そこじゃない!」
 「そこ」だった所が、少し経つと、「そこ」ではなくなる。「そこ」は動くのか。動くのなら、いつ、どのようにしてか。まるで分からない。仕方なく突っ立っていると、乙女が目覚めて騒ぐ。
 ある日、ボクは奴隷で、王女様の足を洗う。排便後の股間も洗う。王女の排泄物を桶に汲み、天秤棒で担いで、野に捨てに行く。ちょっとしたお笑い。
 ある夜、王女は、王子のことを考え、眠れない。テラスで風を受ける。生温かい風。南の国の王宮の物語。藍色の空に、銀色の三日月、輝く星屑、実を付けた椰子の木。部屋は、青い光に満たされている。薄く透き通った布が、微風に揺れる。
 王女は、自分でも分からない、胸の火照りに悩まされ、寝つかれない。室内を無用に往復し、ベッドに身を投げかける。そして、溜め息。ああ、ああ、ああ。
 「王子様、王子様! あああ」
 暑い。誰にともなく言い、服を脱ぐ。脱いだ服は、天蓋に掛かり、繻子のカーテンとなる。最後の一枚まで取ると、胸を抱え、瞑目。風を送っていた奴隷の、大きな団扇の動きが止まる。卑しい奴隷が、王女の肌に、おずおずと手を伸ばす。
 「おずおず」
 おずおずした手が、王女の夢の中で、王子のものに変わる。
 手は、宝石を捜す。が、見つからない。
 
 息が荒くなり、やがて、静かになる。眠った。本当に眠っている。声をかけても返事がない。揺すっても、だるい声が返って来るだけ。眠っている人を見て、寝息を聞いていると、さっきから眠いような気持ちを作っていたボクも眠くなり、あの子の横で丸くなる。
  屈め 屈め
  籠の中の鳥は いつ いつ 出会う
  夜明けの晩に つるっと 亀が滑った
  後ろの正面 誰
 (庭に、緑色の亀がいた。すぐにいなくなる亀だった。忘れた頃、草むらから半身を出しているのに、お目にかかる。ぬっと長い首を伸ばし、手足を踏ん張ったまま、動かない。見えなくなってから、[ずっと、ここにこうしていたぞ]とでも言うように構えている。変な奴だと、ボクは思っていた。探すといない。探すからいなくなるみたいだ。だったら、探さなければ見つかるのだろうか。一旦、甲羅に閉じ籠もると、なかなか、出て来ない。構うほど、縮こまる。庭に、緑色の金属製の亀の甲羅みたいな物があった。機械の部品か。花留めの七宝? ずっしり、重く、両手に余る。たっぷり、厚みがあり、大きな六角形の穴が並んでいた。ボクは、それを、亀の死骸だと言い張り、水を掛けた。そうすれば生き返ると思った。いつか、甲羅に閉じ籠もった亀を、叔父か、誰か、水を掛けて生き返らせた。干からびて死んだと思われたのが、のっそり、手足を伸ばした。だから、また、水を掛けてやれば、きっと、生き返る。[いや、いや、それは亀ではないよ]と笑う人を、その人こそ、亀の蘇生を見せてくれた人だったのかもしれないのだが、ボクは低い所から睨み付け、たじろがせた)
 (亀、再生のイメージ。亀とは、甲羅という籠に閉じ込められた鳥なのかもしれない。夜明けの晩、つまり、人間には夜明けだと思わせておいて、実は、晩。一晩中、番をしていたら、つるっと籠から滑り出た。自分でも意外な展開だったようだ。裸の亀は、自分が、どこにいるのか、分からない。どこ。後ろの正面。つまり、後ろと思わせておいて、実は、正面。違う。どこでもない場所に復帰した。そこは、恐ろしくも懐かしい世界)
 麦焦がしのような匂いが、あの子の体からしていたと思う。ボクは、あの後、いつも、空腹を覚えた。
  大豆まめ 大豆まめ
  もう 煮えたかな
  食べてみよう ぼり ぼり ぼり
  まだ 煮えてない
  隣の小母さん 今 何時
  6時
 暗い中に、ぽっかり、明るい広がりがあって、子供が遊ぶ。街灯の下か。輪を作った。輪の中央に、「小母さん」が、顔を手で覆って蹲っている。むしゃむしゃ、味見をするとき、子供の指が、小母さんの頭をつつく。わざと髪を引っ張り、逆立てる。俯き、両手で顔を覆う子供は、泣いているように見える。本当に泣かせてしまうこともある。泣いたら、負け。
  隣の小母さん 今 何時
  9時
 小母さんは、火のそばにいて、とろおり、とろり、鍋をかき回している。土間の扉が、半分、開いていて、子供は、怖いから、そこから、声を投げ入れるようにして尋ねる。小母さんは振り向かない。ぶっきらぼうに、答えを投げ返すだけ。そのたびに、更けていく夜だ、ひたひたと。ひりひり、恐ろしい夜の口が裂け、小母さんの口も、また、暗く裂けていくのだろう。ああ、いや、口は、ともかく、角は伸びる。髪が、霜柱のように立ち上がる。
  大豆まめ 大豆まめ
  もう 煮えたかな
  食べてみよう むしゃ むしゃ むしゃ
  もう 煮えてきた
  隣の小母さん 今 何時
  12時
  小母さんの名前は なあに
  幽霊! 
 その答えを聞くが早いか、ぎゃっと叫んで、四方に散る。おばさん役の子は、頭をいいようにされた恨みから、荒れる。鬼を作ったのは、子供達だ。鬼に成りつつ、誰が一番ひどくするか、心の目で見ていた。常日頃は隠している心を見通されたかという恐れに、子供は、痙攣的に笑い、逃げ惑う。捕まえられ、ボクは泣き出す、この恐怖は既知だと思いながら。
 「通りゃんせ」の恐怖は、教えられるまで分からなかった。最初、ボクは、人の腕が組んだ門に捕まるのが楽しくて、わざと捕まろうとした。
 あの子が巡礼の姉となり、「どうぞ」と手を擦り、「この子の七つのお祝いに」と高音に移るとき、ボクの背を押し、深く腰を折る。関守達は、「ちょっと、やり過ぎ」という顔。それを見ぬふうに、低い所から、「怖いながらも」と歌い上り、姉は弟の体を抱き寄せて、裏道に走った。人の輪を外れ、夕焼けの中を、夕暮れの風のように、ふわふわと駆けた。
 あんな子供っぽい遊び、やめよう。歌の世界を、ただ、ぐるぐる、回るなんて、あんなんじゃ、駄目だ。
 住み慣れた物語の森を、見知らぬ僧が来る。鮮やかな緑の中を一巡し、名乗り。水車小屋の娘に、一夜の宿を乞う。ベッド、一つしかないよ。僧は若い。が、有徳の僧だ。笑って手を振り、心配ご無用。夜更け、娘は、夢の中で恋人と会う。まざまざとした夢。彼女は恋人の手が自分の胸に触れるのを、本当のように感じた。恋人の手は夢だったが、触れられた肌は本当だった。触れようとして触れる手ではなかった。娘は、夢現で、隣の体を抱き締める。僧は驚き、着る物を抱えて、表へ飛び出す。
 翌朝、恋人が訪ねて来る。娘の不行跡について小耳に挟み、嫉妬に駆られた。何もなかったとの弁解では、不足。二人は、まだ、手さえ繋いだこともない。
 若者は、昨夜の再現を迫る。と同時に、彼は旅僧の役を演じることになる。この僧は、若者の疑いを身に引き受け、複雑な性格を帯びることになる。女の肌に触れたのは、偶然か、それとも、意識下の願望か。女は、謎。無垢か、女神か、魔女か、云々しつつ、触っている。一方、娘はと言えば、昨夜の彼女自身を演じるのだが、その際、アレンジが施される。そのことは、物語を通して見ているボクには、分かっている。彼女は、恋人を嫉妬させるために、わざと大胆に振る舞っている。やがて、若者も、そのことに気づく。だが、黙って、したいようにさせておく。その方が、彼にとっても、都合がいい。娘は、これ見よがしに、服を、一枚一枚、脱いでいき、全裸になる。脱ぐほどに覆われていく真実。若者の頭は、船酔いのように、くらくらする。娘の頬は上気し、膨張する嘘に、自ら、興奮させられ、堪え切れず、男の胸に飛び込む。
 肉弾が、ボクを直撃する。受け止められない。この子は誰だろう。水車小屋の娘なら、もう少し優しいはずだ。この子がこの子に戻ったのなら、なぜ、ボクに痛くするのだろう。ボク、何もしてないのに。
 「そんなこと、したの?」
 母が、小母さんと、庭に立っている。逆光線。母が顔を向け、「本当?」と尋ねる。ボクは、「もう、しない」と、誓いを立てさせられる。子供を叱るような母親には成りたくないのだから、あなたも叱られるようなことはしないでね。
 (小母さんに見咎められた覚えはない。なのに、母に告げ口した。このことを、40年間、少しも不思議に思わなかった。小母さんは、[男の子が、女の子に、いたずらをした]という話をでっちあげたのだろうか。あるいは、女同士の猥談にしてしまいたかったのだろうか。彼女は、どんな気持ちで盗み見ていたのだろう。なぜ、その場で止めようとしなかったのだろう。快楽と道徳のはざまを、ふわふわ、漂う、眼球だけの生き物にでも変身していたか)
 「本当なの?」
 ボクは頷く。母親の心が読めない。ボク達は、「してはならないことをした」と言われている。だが、してはならないことをしたにしては、叱られないから、変だ。
 「今度したら、叱りますよ」
 でも、また、してしまう。
 水車小屋から逃げ出した僧が、田舎の一本道を、とぼとぼ、戻って来る。途方に暮れる感じ。水車小屋の娘の出迎え。彼は、実は、遠い国の王子だ。王子は、遠い国の王女の美しさを伝え聞き、自分の目で確かめようと、僧に身を窶し、旅に出た。王子は、水車小屋の娘の手引きで、王女との密会を果たす。王女は、意地悪な継母によって、軟禁されていた。夜、蹄の音がして、ああ、あれは王子様の御成り。バルコニーに出て、熱い投げキッス。光を背負い、王女の裸身が透けて見える。熱帯夜。王子の触れた手の温もりを懐かしみながら、いつしか、微睡む。
 と、泥棒が侵入。手当たり次第、そこいらの物を集める。一陣の風が、ベッドの垂れ幕を巻き上げた。驚き、ためらい。葛藤を乗り越える力が、どこからやって来るのか、愚かな泥棒に分かるはずはない。ボクにも、分からない。
 昼寝の後、小母さんは自分の手を割烹着の前に当てがい、指をおかしな具合に動かして見せながら、「あんた達、また、****いじりしてたろ?」と、笑いながら言った。(****には、あなたの国の言葉を挿入して下さい)
 その屈託ない問いかけに、ボクは白状しかける。が、あの子の否定は素早かった。おばさんは、事実はどうであれ、否定されたことで安心し、大きな、金属製の櫃に、無造作に手を突っ込んで、落花生を、一掴みずつ、くれた。
 ボクの家の庭で、茣蓙を敷いて座り、落花生を食べている。母が来て、「いけないことは、しなかったか」と尋ねる。ボクは白状しそうになる。だが、あの子は否定する。ボクは、息を飲む。その截然とした態度に、ボクまでが騙されそうになる。あの子の顔を見る。まるで悪びれた様子がない。ボクは幻惑される。そして、思う。きっと、「いけないこと」はしなかったのだろう。あれは、「いけないこと」ではないのだろう。「しなかったよおお」と、歌うように答えた。そうやって、嘘を見破るチャンスを与えたつもりだ。そんなこと、しなくたって、母なら見破るべきだと思った。見破りながらも騙されてくれていると思うことにした。母は、微笑んで、菓子をくれた。嘘の報酬の甘さ。
 堕落の始まり。嘘が物語を蝕み始める。倦怠。
 闇の中に、泥棒が蒸着する。バルコニーの下、恋を忍ぶように潜む泥棒。この泥棒は、恋を恋する人に似ていた。自分の欲しい物が何か、分からない。彼は、彼自身の欲望の不可解さに躓きがちだ。部屋を物色する動きにも、冴えがない。のらりくらり、時間を潰すふう。誰か、俺を見つけてくれ。そして、悲鳴を上げてくれ。そうしたら、この場から逃げ出せる。しかし、誰も彼を見つけない。見つけるのは、彼の仕事だ。
 彼は見つける、ベッドを、ベッドの上の王女を。王女は、だらしなく、開脚。肌に、ざらっとした感触があり、王女は目覚める。泥棒ね。叫ばない。怖い継母に聞かれたくなかった。泥棒は、別に慌てる様子もなく、体全体で舌打ちするように、一度、肩を引いてから、ふらっと身を捩り、暖かい闇の中に帰って行く。
 自宅の一室で、ボクは、明るいうちから、布団に寝かされている。ボクは怒っている。赤ちゃん扱い。それでいて、甘えられない。広間では、若い男女が畳の上でタンゴを踊っている。ターンの時、ちらりとでもいいから、母親の視線が自分に注がれることを期待する。だが、空しい。怒りが募る。いつからか、勝手が違う。ボクが、何か、いけないことでもしたか。したのだろう。でも、おとなだって、抱き合っている。蓄音機の電源が天井の電灯線から取られていて、長いコードが布団の上で緩い曲線を描いている。その曲線の、のんびりしたようなのも、無性に癪に障る。寝たまま、足を引っかけた。うゆうん。間抜けな音がして、音楽が止む。レコードに疵が入りゃしなかった? ボクを睨みつける目の数は、数え切れない。「悪い子だ」と宣告される。ボクのことをよく知りもしない人までが、頷く。
 靴下を履いた足は、畳の上を滑るとき、独立した生き物のようで、シューッと鳴く。奇妙に真面目腐って、怒りに堪えているかのように閉ざされた口。不意に振れる首。この人達は、嘘をついている。本当は、別のことをしたいのに。紅潮した頬、荒い息、流れる汗が、自白している。でなければ、この人達は知らないのだ、おとなの癖して、自分たちが何をしたいのか。おかしいな。彼らの体は、バラバラに動く。ぎくしゃく。ああ、おかしい、おかしい。ボクは、悪くない。悪いのは、おとなだ。
 ボクは悪くない。むずがる息子を、父親が、縁側から庭に降ろす。そっとだが、ボクにはショック。ボクは裸足だ。縁側の下に潜り込み、泣き喚く。犬が来て、心配そうに覗き込む。その犬にも、邪険に当たる。犬を叩くなんて、本当に悪い子。
 (ボクがもっと小さかった頃、ボクの母親のつもりでいたらしい牝犬。ボクが拳骨を口に突っ込んでも、目を白黒させて耐えたとか。彼女との交流の記憶は、ない。その存在に気づいたとき、彼女は、すでに、ただの小さい犬だった。寂しそうにボクを見上げ、匂いを嗅ぎに来た。今なら、分かる。私は、彼女に育てられたのだ。日本の近代小説に出てくる、田舎者の母親のように、知的に成り上がった息子を前に、おろおろ。
  「おまえはね、モーグリ、わたしのことを、こわがったりしたことは、一
 度もなかったよ」
  母おおかみは、高い草むらのなかに、あとずさりしていきながら、そう
 いった。そして、よく知っているやりかたで、さっと姿をかくしていった。
      (ラディヤード・キップリング『ジャングル・ブック』木島始訳)
 はて、彼女は、どうしたのだろう。一年後、引っ越すときには、いなかった。引っ越した先では別の犬を飼ったのだから、連れて行けないわけがあったとも思えない。ああ、名前も思い出せない)
 ボクは悪くない。夜、便所に連れてってもらえない。親達は、怒っている。縁側からしろと言われる。父は、遅い夕食。ボクは、縁側からする。溜まった涙を通して、星が揺らめくのが見える。泣きじゃくると、揺れる。面白い。泣くのを忘れる。気が晴れる。でも、そうなるのが悔しい。もっと泣いてやりたい。泣く。すると、星が揺れ、面白くなって、泣くのを忘れる。悔しい気持ちを、努力して再生する。が、星の揺れるところも見ていたい。
 ボクは怒っている。ボクがお漏らしをすると母は叱るのに、自分がお漏らしをしても平気な顔だ。ボクは見つけた。母の、そわそわした態度で、ぴんと来た。ふんふんと、鼻歌は緊張を隠すためだ。盥には、洗濯物が浸け置きにしてある。その下に、潜り込ませる。その間、近くにいたボクと、目も合わせない。ボクは、やすやすと証拠を入手した。案の定、茶色に汚れている。駆けて行って、その汚れた部分を、母親の鼻先に突き付ける。鬼の首でも取ったよう。自分だって、お漏らしするんじゃないか? 若い母は、答えない。歯を食いしばり、恐ろしい目をしている。なおも糾弾すると、不意に頬を張られた。あまりの痛さ、理不尽さに、ボクは声を荒げ、この世に公正さの齎されるべきことを訴える。だが、与えられるのは、沈黙と暴力。
 ボクは怒りん坊になる。誰一人、ボクの正当性を認めてはくれない。みんなは、ボクが悪いと決めつける。みんなだって、同じようなことをやっているのに、なぜ、ボクだけが許されないのか。
 縁側の下で、ひくひく、泣き続けている。町内の人が立ち寄る。話が長いので、下駄を投げつけ、帰れと喚く。根負けして、その人は話の途中で帰ってしまう。ボクは、どんどん、悪い子になる。「いけないこと」は、もう、していないのに。
 あの子も、ボクを苛める。ボクは悪くない。ボクが、あの子に痛くしたからか。いや、痛くないって言った。なのに……
 痛くないって言った。いいって言った。
 最初は、夫婦ごっこだった。夫婦ごっこというのは、初めてだから、わくわくした。妻は、台所で葱を刻んでいた。とんとんとん。あら、あら、いつまでも寝てたら、会社に遅れますよ。起きようとすると、小声で、「まだ、寝てるの」と窘められる。目を瞑り、時間を計って、伸び。さあ、もう、起きて。朝御飯、冷めちゃうわよ。夫は、昔、王女が寝ていたベッドの上に起き上がり、ぐずぐずしている。掛け布団は、泥棒が使っていた風呂敷。ああら、まだ、寝てるの? お寝坊さんね。妻は、どうやら、その台詞を口にしたくて、夫の起床時間を遅らせていたらしい。つましい膳だが、明るい朝だ。ボクにとっては初めての、だが、夫にしてみれば、ありふれた朝。おいしい? うん。あなた、もっと威張ってよ。威張るっていうのは、ううん、そうじゃなくて、おい、お代わりって。おい、お代わり。もう、ありません。御馳走様。服を着せてもらう。まだ、一人では、うまく着られない。いつまでも子供なんだから。行ってらっしゃい。チュッ。
 夫は、会社で仕事をしている。忙しい。仕事が忙しいとは、どういうことか、想像もできないのだが、忙しいふりというのをやっている。しかし、それで、そのふりになっているのか、いないのか。とにかく、妻の歓心を買うために頑張る。妻の機嫌を損ねたくない。しおらしい女に会ったのは、初めてだから。
 妻は、おとなしく家にいて、家事をしている。家事はあっという間に片付き、時間を持て余す。寂しいわ。会社に電話しましょう。リーン、リーン。ボクは電話を知らない。教えられ、想像で応対する。リーン。はい。私よ。はい。会社に電話するなって、怒らなきゃ。会社に電話するな。忙しいんだ。だってえ。だってえ? 「何だ」って。ああ、何だ。だってえ、寂しいんですもん。電話するな。じゃあ、外で会ってよ。忙しい。ちょっとだけ、ね。忙しい。ううん、もう、「うん」って言ってよ。うん。
 昼休み、ビジネス街の歩道。プラタナス。妻は、浮き浮き。買ってやったばかりのハンド・バッグ。白いツー・ピース。あなたあん。はい。もう少し威張って。うん。ねえ、怒らない? うん。怒りなさい。うん。プンプン。あら、あなた、ごめんなさい。怒ってる? うん。でも、機嫌直して。だって、ほら、私、パンツ、履いて来なかったのよ。
 公道で、妻はスカートを臍までたくし上げる。その下は、言葉どおりだ。ボクは、なぜか、照れる。我がことのように恥ずかしい。
ボクは怖くなり、外に飛び出した。表は、異様に明るかった。ひどいことをしてしまったと思った。帰る所がない気分。ああ、駄目だ。もう、ボクは駄目なんだ。耳の中がジンジンした。建物の影と日の当たる道とが、黒と白に、くっきり、分かれていて、通りに誰もいないのが救いのようだった。
 それから、あの子は、会う度に僕を苛める。つんけんする。前ほど、誘いにも来ない。おとな達に叱られるからだろう。
 (10年前、私は、このように書いている。今回、読み返すまで、[おとな達によって仲を裂かれた]という物語を、私は信じていた)
 たまに誘われて、部屋に籠もる。あの子は、風呂にでも入るように、さっさと服を脱ぎ捨てる。しかし、浮かぬ表情で、触られても反応しない。命令も下さない。苛立つボク。どうすればいいのか、尋ねても、聞こえないみたい。床の上に投げ出した自分の脚を、ぼんやりと眺めている。その足は短くて、太い所、細い所の区別がない。歩けない人の脚のようだ。沈黙で、ボクの無能を咎めるのか。不当だ。おとな達と同じだ。
 物語が進まない。物語は、始まりはするが、力ない溜め息にも吹き散らされる。雑言が浴びせられることもあるが、その調子は低く、ボクを怒らせるには至らない。
 (物語の船が座礁する入り江は、どこか、暗い海だ。インク壷の中のように暗い。空も、青く、暗く、雲が、薄く、綿埃のようにかかる、対岸の、尖った峰々)


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