『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#047[渦]

 早く、この仕事を終わらせたい。いい終わり方はないかと考えている。だが、そう考えている間は、終われないようだ。私の物語に、いい終わりなど、あるはずがない。
 先日、何か考えながら、歩いていた。その前を、人が歩いていた。白いビニール袋を提げていた。買い物帰りか。せっせと歩く。脇目も振らず、歩く。疲れそうなのに、そうとも思わず、歩いている。急ぎ足だが、急用でもなかろう。倦むことなく歩く。[ああ、もう少しだな]とか、[車に乗ったら]とか、そのほか、どのようなことも考えているふうではない。考え事をしているのかもしれないが、自分が歩いていることについて、何か考えているとは思えない。[人間だから歩くのさ]とも思わず、[生まれたときから歩いているのだし、死ぬまでは歩くのだ]と信じているようでもない。[考えてみたって、今は、歩くか立ち止まるかしかないのだし、立ち止まったところで、どうせ、また、歩き出さねばならないのだから、黙って歩くしかないのだ]と、自分に言い聞かせているのでもあるまい。理由はどうあれ、歩くと決めたから歩くというのでもなかろう。ただ歩く。運命を受け入れるように、歩く。
 感心して見ていた。数日後、[もしかしたら、あの人は私から逃げようとしていたのかもしれない]と思い当たった。通りを歩いているのは、私達だけだった。私は、まるで、その人と競争でもするように、ぴったりと後ろに張り付いていた。そして、その異様さに気づかなかった。その人に興味はなかった。その歩き方に、惹かれた。
 病院の受付で、老人が私の隣に座った。待合室にいたのは、私達二人だけだった。受付にもいない。混雑を厭い、診察時間の前に来て、端に座った。老人は、順に詰めて座るものと勘違いしたか。私は、[わざわざ、端に座ったのに]と思い、不愉快だった。そして、いろいろ、不愉快だったことが思い出された。心臓が高鳴り、呼吸が苦しくなった。目の前が赤くなり、その中央に黒い物が見えた。すると、彼は、ふっと席を移った。苦痛が伝わったのかと思った。しかし、すぐに、私は、自分が「殺すぞ」と呟いたのを思い出した。彼に言ったのではない。思い出の中の人間に言った。でも、聞こえたのだろう。悪いことをしたと思った。しかし、しばらくして、[先に仕掛けたのは、彼の方だ]と思い直した。彼は、私に、妙な[気]を送っていた。そして、反応を伺っていた。だから、小声でも聞こえたのだ。
 戦中世代の間合いの取り方は、おかしい。行進や行列に慣らされたせいか。1970年以降に生まれた若者の間合いの取り方も、おかしい。いや、間合いという感覚が希薄なのかもしれない。そのくせ、言葉では、ちまちま、間合いを測ってばかりいやがる。
 近くの町の通りに、演説する女が立つ。言葉は分からない。日本語とは思えない。擦れ違いざま、日本語で挨拶された。だが、演説の言葉は、分からない。人々は、彼女を無視する。私も避ける。だが、歩いていて、ふっと、目の前に現れるときがある。大声を出すくせに、[気]が薄い。
 歌う男がいた。イヤフォンをして歌う。時々、叫ぶが、言葉のようではない。買い物をしていて、店の人が舌打ちをした。私がいけないのかと思ったが、そうではなく、通りで歌う男のことが気に障るらしい。外に出ると、女が話し掛けていた。男は、イヤフォンを女の耳に差し込んだ。女は、聞く顔になり、その顔を綻ばせた。頷き、イヤフォンを返し、頑張ってと言って去った。歌には、振りが付いていた。
 なぜ、一人は無視され、一人は無視されないのか。[気]の強さの違いか。私が無視されないのは、私が演説したり歌ったりしないからか。私が、こうして金にならないものを書いていると知ったら、人々は私を無視するのだろうか。[人々が許容するのは、理解可能な思想だけだ]というのは、甘い考えだ。人々は、理解可能かどうかを点検する前に、素早く無視する。理由なんか、考えているようでは、手遅れなのだ、生きて行くためには。
 名前を呼ばれるのは、用があるときだけだ。用もないのに呼ばれたことはない。そう言うと、Lは、私の名を呼んだ。私は応えず、目を逸らした。また、希望を抱いてしまいそうで、苦しかった。
 家電売り場の前で、凶悪な顔を目にした。大画面に、険しい顔の老人が映し出された。[世の中には、こんなにも恐ろしい顔があるか]と驚愕した。そして、それが自分の顔だと気付くのに、たっぷり、1秒は掛かった。その間、自分の顔に驚く自分の顔に驚く自分の顔……を眺めていた。戸惑ったのは、不意打ちだったせいか。いや、それだけなら、不審人物と出くわしたのと同じで、怯えていたろう。目が合わなかったせいか。見たことのない角度から見た自分の顔だったから? 
 こんな顔をして歩いていたら、少年達に後ろから殴られるかもしれない。反省した。内面の悪さを偽るのは悪だと思っていたが、善人ぶる方が正直なのかもしれない。人の好さそうな顔をして、実は、身勝手な老人というキャラクターも、いいかもしれない。
 [夢/19950107]
 (寝る前、明かりを小さくして、目を瞑ると、例によって、あいつが現れた。長くて疎らな体毛。薄汚い。そんな格好でいると嫌われるよ。頭の中で声を掛けた。からかい半分。すると、彼は、見ていておかしいほど、慌て、スーツを着て現れた。いかがわしい。私は、スーツは嫌いだし、ネクタイも嫌い。[そうまでしなくても]と言い掛けると、困り切った様子で、今度は、半ズボンを履いて来た。厚手の生地、人形の服のような。肩紐を、大きなボタンで留めている。そんな可愛らしい格好は似合わない。笑いながら、寝てしまった。彼は、笑われたうえに眠られてしまい、いよいよ、立場がない。さっきまで中腰だったのが、今は積み上げた段ボール箱に腰を下ろし、悄然と脚を垂らしている)
 切れ切れの、複数のソプラノが、砂の渦になって、そこに視線が吸い込まれる。耳障りで、重苦しい。目覚めると、母はいない。布団を1メートル程積み上げた所に寝ていて、頭がずり落ちそうだ。その苦しさに目覚めた。(現在の)部屋の玄関。書斎のドアは開いている。妹は、どうしたろう。眠いが、歩く。寝室のドアの前で、胸が苦しくなる。ずっと昔、妹と何度か性行為したという、暗い思いに苛まれる。後悔。吐き気がしそう。
 (自らを閉じ込めた、あの黄色の家で、妹を苛めた。その記憶の変形か。妹は、母親の真似か、男である兄を嘲笑した。私の頭は破裂しそうになった。泣くのを目にして、安らいだ)
 寝室には入らず、台所に行く。台所には[妹]がいた。台所は薄暗く、[妹]の肌は浅黒い。すらりとした、長い脚を組み、椅子に掛けている。立ち上がれば、私より背が高そうなのに、小さい顔。バタ臭い。モデルのようだ。
 (現実の妹とは、似ても似つかない。母は、[妹は、背が高ければモデルに成りたいのだが、無理だから、和服のモデルに成りたいのだ]と言った。ねえ、そうでしょう。その問いかけに、妹は、俯いたまま、否とも応ともつかぬ、低く濁った声を押し出した。[私が慶応大学のヨット部に入りたがっている]というのと同工異曲の作り話らしい。譲歩はするが、妥協はない。[あなたの欠点に、ここまで目を瞑ってあげたのだから、それから先は頑張るのよ]とでもいった雰囲気。いい大学に入って、ヨットに乗って、エレキを弾いて、いいうちのお嬢さんと交際する。「若大将」の[世界]か。ヨットから落ちたら、ボクは泳げないのに。しかし、そんなことを仄めかしただけでも、母の目は三角になるのだろう。なぜか。今頃になって、思いついた。察するに、母は気持ちのいい夢を見ていたかっただけなのだ。だから、それに水を掛けようとする私は無粋だったのだ。母は、子を、有名にしようと努力することはなかった。有名に成ってほしいと頼みもしなかった。[有名に成りたい]という子の煩悩を否定する親に成りなくないという嘘。有名になりたいのは、子の煩悩であって、親の希望ではない。自分は、そんな煩悩の持ち主ではないと思っている。いや、思わせたい。誰に思わせたいのだろう。母の、死んだ父か、死んだ母か。とにかく、[親は努力も強制もしないのに、子は有名になる]という夢を見ていたかったのだろう。そして、今、私は、このような駄文によって、その夢を叶えてやれるとでも思っているのか。いや、母は、自分に近い誰かが煩悩のままに生きる様を見て、我がことのように楽しみたい。快楽を掠め取りたい。そして、私は、それを掠め取られまいと抗う。そのためには煩悩を捨ててもいいとさえ思う。奪われるくらいなら、初めから持たないがいい。昔、ガール・フレンドができたら紹介してねと、約束させられた。私は、その約束を守るために、ガール・フレンドを作らなかった)
 [妹]は、パッチリした目で、私を見上げた。
 (妹は、夢の中で、しばしば、私を裁く。無垢と無罪が混同されているようだ。ところが、この[妹]は、別人の姿で現れ、けばけばしい雰囲気を醸し出すことによって、インセスト・タブーに抵触せずに、成熟していた)
 彼女は、「歌っていた」と言う。さっきのソプラノは、彼女の声だったか。気が置けて、台所の入口に立っていると、彼女は微笑し、言った。
 「お母さん、男の人ができたみたいよ」
 ほっとする。近頃帰りが遅いのは、あるいは、外泊するのは、そのせいか。納得する。証拠があるわけではないが、女の勘というやつだろう。
 遅くまで、店で飲んで騒いでいる[母]達の光景。何人もいる。水太りで、陰性の中年男女、数人。遊び友達。落ち着かない座り方。力のない乾杯。酒が好きなのでも、おしゃべりが好きなのでもない。人が好きなわけはない。性行為が好きなのでもない。何が好きなのか、自分でも自分のことを知らない人々が、薄暗い店の奥に、ぽつんとある、囲われたようなソファにいる。広いフロア。
 (ほっとして、目覚める。解放された感じ。明かりを点けると、午前3時。近くに置いたファン・ヒーターの音が、耳障り。夜、静かなのが怖くて、雑音発生装置として使っていた。Lに、[羊水の音]と指摘される。砂の渦は雑音だが、ソプラノは、それに混じっている高音だろう。あるいは、私の耳鳴り? ヒーターのスイッチを切ると、静かになった。静か過ぎて、眠れるか、心配だったが、1時間もすると、眠りに入っていた)
 大柄な女がいる。Lのようだが、ラテン系のようで、年は知れない。路上にしゃがみ、小動物を調教している。私は、その背中を見ている。筋肉質? 
 市場の向かい? 白い、小さな建物。2階建て? (私の古里の町にあった、大きな市場の向かいの、道から少し引っ込んだ、新しかった花屋の前?)
 女のそばにある、白く塗った鉄柱は、街灯? 小動物というのは、3匹の家鴨だったかもしれない。3匹は、きちんと並び、首をもたげて彼女を見ている。家鴨と思っていたが、子猫だ。しかも、1匹。子猫は垂直になり、身を反らし、低く宙に浮いている。前足が手羽のように幅広で、立ち泳ぎをするように、空気を掻く。私は、夢の外で、小さく笑っている。
 この女は、[スキンシップ]の重要性について説き、社会的な成功を収めた。彼女の師であるらしい、ある著名なドイツ文学者が、彼女の説は実証不足であるというような批判をしている。彼は、苛立ちを抑さえきれない様子だ。
 (私は、その老年の学者に反感を抱いていた。どんな本を書いているのか、知らないが、印象が悪い。世の中には、印象の悪い人がいる。彼は、私にとって、[印象の悪い人]の代表だ。また、[スキンシップ]という和製英語も、好きではなかった。あるネイティヴ・スピーカーは、「スキンシップという言葉は、kinkyだ」と語った。kinkyというのは、ちょっと、やりきれないと、私は思った。スキンシップという言葉を説明するために、日本人女性が西洋人女性に頬擦りをしようとして気味悪がられたのが、強く印象に残っている)
 学者は、女調教者の出入りを差し止める。破門? 
 ([破門]というのは、恐ろしく旧弊な物言いだ。かつて、ある教え子について、[不行跡のゆえに、破門を言い渡した]と、胸を張る教師がいた。入門を許した自分の眼識について反省する様子は、微塵もない。また、破門された側にしてみれば、入門した覚えすらなかろうと思われ、不気味で、滑稽だったことだ)
 破門されたくなければ? 彼女は、実証ということをしなければならない。彼女には、若い男の協力者が二人ばかりいる。実験は、屋外で行われた。水辺。飛び石のように、平らな岩が、いくつか。石は四角。彼女は、そこに、黒眼鏡をかけた、漫画的な人形を立たせる。(それは、瞬間接着剤の実験CMで、ローラーコースターに立つ人形に似ている)
 人形の立っている岩が、ハンマーで叩かれる。何度も。だが、その程度では、人形は動かないと思われる。
 彼女は、レイプの悪についても説く。私は、少しずつ、不愉快になる。
 視点は、ぐうっと後退し、水辺の道を越えて、広い池になる。[カメラ]は、その上を滑る。不安定? 左の方に、白い、低い柵。女は、私についてくるようだ。有名な、大きな橋の上に、若い男女がいる。
 (その橋の架かる川の岸には、若い男女が密着して座っている。自然と、等間隔に座る。昼間、スカートの中に手を入れられてのけぞっている女を見たことがある)
 近くに歌舞伎の小屋があるはず(事実)だ。二人は、日本人ではない。西洋人。貧しげ。男は、欄干を背にして立っている。その顔を、私は何かで見かけたのではなかったか。ネオリアリズモ? 戦後の青春映画? 着ているセーターは、やや、くたびれ、縁がよれている。前が10センチほど開くようになっていて、ボタンを掛けていない。だらしない。貧乏臭い。男のエロがグロ。セーターの色は、モノクローム映画だから、分からない。薄茶色か。
 (以前、Lの部屋に貼ってあった、ジェームス・ディーンのポスター?)
 景色が青っぽい。夕方の印象か。女の顔は、私の方からは見えにくい。髪は長く、緩くうねり、薄い色。女は、頻に、男に何事かを訴えるようだが、男は取り合わない。そのうち、女の顔をひどく殴りつける。私は、どきりとする。感情の伴わない殴り方なので。それから、男は欄干に背を持たせ掛けるようにして女を抱え上げ、巴投げのようにして川へ投げこんだ。
 もう、見ていられない。映画だと思って見ていたが、作り物ではないのかもしれない。マニア向けの殺人映像か。見るのは止そうと思う。だが、止めたところで、犯罪が止まるわけではない。殺人は、すでに行われてしまっている。事実から目を逸らすべきではないと思い返す。すると、さっき、男が殴ってから女を投げ落とすまでの間に、レイプが行われたのではないかと思い始めた。別に男が二人いて、手伝った? 立ったまま、次々に犯された? 膣は濡れていなかったのに違いない。だからこそ、男は憎悪を捏造できた。あり得ることだ。濡れていたとしても、それは血だ。
 真っ逆様に落ちて行く女の映像。カメラは、それを真横から撮っている。川面には、平らな岩が、いくつも顔を出している。いや、岩の間を水が流れていると言った方が適当だろう。流れは速く、白い飛沫。そこへ頭から落ちて行くのだから、とても助からない。
 落ち続ける女の映像で終わる夢から醒め、私は、夢を書き留めるために、布団の中で、腕を堅く立てて書く。用紙ではなく、使い古しの、透明なビニール袋に書く。あるいは、使用済みコンドーム? 空気が抜けきれぬまま結んであるので、ぶよぶよで、書きにくい。
 (目が覚めると、朝だった。近年にない、すっきりとした目覚め。時間的には長い眠りではなく、体には重い感じも残っているが、気分はすっきりとしていた。立ち上がり、部屋を出ようとして、隣にLの寝ていないのが、不思議な気がした。さっき、私の目には、横たわるLの上半身がありありと映っていた。橋から落ちたのは、女装した私なのかもしれない。数日後、私は、玩具だが、ウォーキートーキーを買う)
//─と、このように完結する予定だった、この仕事。ほのかにコミュニケイションへの希望を漂わせつつ、てな趣向だったりして。
 しかし、根拠のない希望の後には、決まって幻滅が訪れる。帰ったLは、また、怪しげな物言いをし、私は激怒した。その後、1週間の不在があって、また、戻ったLに、私は、夜、この夢の話をした。
 横たわるLの幻影について語ると、Lは、弱々しく、「私が死んだってこと?」と尋ねた。私は、「寝てたんだよ」と、ぶっきらぼうに繰り返すことしかできなかった。
 眠りに就いたのは、遅かった。しかし、明け方、私は、目を閉じたままだが、もう、覚めかけていた。10秒程して、部屋が揺れ出した。初期微動の時間が長かったので、震源は近くないと思った。その割りに揺れが大きいから、大地震だ。Lに、しがみつかれた。そういうことを人からされたのは初めてだなと思いながら、箪笥の上から何か落ちて来ないか、心配して見ていた。
 揺れが収まり、TVを点けた。アナウンサーの声が時間の経過と共に深刻さを増し、死傷者の数が、一桁ずつ、跳ね上がる。崩れ、倒れた高層建築、高速道路、炎上する街を眺めながら、私は、少しも厳粛な気持ちに成れないことに気づいた。鈍い既視感のようなものがあって、[どうだ。分かったか。これが日本だ。これこそ、本当の日本の姿だ]と、胸の中で言葉にしていた。そして、期待した。人々は、もう、見誤ることはないはずだ。50年前の戦争は、まだ、続いてた。空襲の炎は、街の底に埋み火となって、燻り続けていた。そして、それが、ついに、発火した。
 1時間ごとに100人の単位で死者の数が増えるのを、手品のように感じながら、知ってる、知ってると、口にこそ出さないが、はっきりと言葉で思っていた。長時間、いたぶられていると、だんだん、感じが鈍くなって、手を出す方の感情も平板になるらしく、このまま永久にやられっぱなしでもいいような気がしてくる、ああ、あれだな。知ってる。
 しかし、[私の見ているものを、世界中の人も見ているのだ]と思うと、少し、落ち着かなかった。私にしか見えないように思って来たものを、みんなが見ている。私は、現実には目にしなかった戦乱に、やっと遭遇したような気がした。報道では、「空襲」の比喩が何度も使われていた。
 妹は、災害のあった地域に住んでいるはずだ。私は、連絡を取るべきなのだろうか。しかし、どうにも意味のない質問のようだった。解答の糸口が見えない。その質問は、私の心を動かさない。何も感じない。[何も感じない]と言葉にして、やっと、感じるものがあるような、ないような。
 身も心も、ぎゅうっと絞り込まれて、消し炭のようになるのを感じた。妹の後ろに、母が立っている。
 私は薄情だと思われたくないためだけに、お見舞いをしようと思っている自分に気づいた。
 結局、私は、何もしなかった。
 何日か後、避難用雑貨を買い求め、エスカレイタで下りていて、ふと、[このまま、死んでも、いいな]と、素直に思った。私は、ずっと前から、避難用のリュックサックを寝室に置いていた。死を恐れながら、死と戯れていた。ダイエットをしながら、自殺を夢見ていた。私の[死]は、具体的な死のことではなく、死を恐れつつ、死と戯れる生活の中断のことを意味するのかもしれない。この考えは、すっきりし過ぎているようだが、さらに考えを推し進めてみると、いや、ああ、もう、進まない。要するに、大して考えちゃあ、いないね。
 「死にたい」というのは、母の口癖だった。鏡の前で、長い時間をかけて、遊びのように化粧をしながら、「死にたい」と呟くのだった。その癖、ドラマなどで自殺を仄めかす人物が出てくると、ぎりぎりと歯を噛み締めるようにして、「自分一人が、世界中の不幸を背負ったみたいに」と、厳しい突っ込みをした。
 私にとって、[死]は生きることの基調だ。[死]を前にしてしか、生きられない。死ぬのは、難しいようで、簡単だろう。怒りの最中、頭の皮がピキッと音を立て、そして、頭痛に襲われることがある。一怒一老。あれが続けば、死ぬのではなかろうか。怖いのは、[死]ではなく、死ぬしかないと思われる状態にあることだ。私は、死んだ人よりも、生き埋めになった人達に、深く同情した。生き埋めだけは、御免だ。
 考えてみれば、こうしている間にも、いつ、地震に襲われるか、知れない。人生とは、もともと、生き埋めのようなものだ。しかし、生き埋めになったとしても、手の届く所に紙と鉛筆があれば、と考えた。すると、どうだろう、どこかで、[青]が立ち上がる気配だ。


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