『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#048[青]04

  おれはちょっとだったけどあのヒョウシのちぎれた青い本を読んだと
 きバカにいい気モチになったことおぼえている。も一ペン一生けんめい
 やろうとしているのもあんな気モチにも一ペンなりたいからです。いろ
 んなことを知ってリコウになるのはいい気モチがするよ。あの本がいま
 あったらな今あったらおれすわっていつも読むんだがな。
        (ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』稲葉明雄訳)
 (物語は、週日の午後5時55分に再開する。Bは、残業している。私にとっても、この仕事は残業のようなものだ。残業とは、何か。それは、未来を拒む潜在意識によって選択される苦行のことかもしれない)
 どこへ行っても、Bは軽んじられる。私が誰であるかではなく、私が何を考えているか、そのことに、もう少し注意を払ってもらえたらいいのだが、とBは思うときがある。私がそのようなことを思っているということについて、少しでもいいから、注意を払ったら、どうなんだと、言ってみたい。あれこれ、言ってみたいことについて考えていたので、壁の上を平べったい物が這うのを、それは夕暮れの淡い自分の影なのだが、そうとは思わず、啓示のようなものだと思うことにした。小さい突起の疎らに立つ背中をくねらせ、鮮やかな毛色の生き物が、Bの足元から冷たい深海へと向かうようだ。潜る。潜り込む。自分の体を折り畳める人の話を、誰か、していた。骨は、前以て抜いておくのだという。まさか、そんなこと、できるもんか。できるさ。雪原に点々と青い実を落としながら、着膨れた人が歩いてったことだって、あるんだから。ふん、でも、あいつ、いつか、倒れる。倒れるとしたら、今だ。倒れろ。念じる。小学校の裏の駄菓子屋に、新しい籖が入った。当たると、輝く仮面が貰える。当たれ、当たれ。当たるまで引き続けりゃ、そのうち、当たるわな。ううん、その気持ち、分かるけど、現実ってのは、ね。へ、現実なんて、殊勝な言葉、誰に教わった。
 考えを纏めようと、用紙を一枚、束から剥がす。紙と机の辺が平行になるように、置く。天板の角は円いのに、紙の角は直角だ。斜めに、ずらす。直角が、円弧を刺す。痛そう。もう、やめようよ。痛い。何かが、どこかで、痛い。誰かが、どこかを痛がっている。さらに、ずらす。きききき、きり、き。痛そうな円弧が、隠れる。落ちそうな紙を、ふっと持ち上げ、机の断崖から離れた場所に置く。辺の傾きなど、気にしないで、置けた。紙は、見下ろされ、狭い。白い発着所。そこへ、ペン先が降りて行くんだな。遠いな。遠いよ。うまく着陸できるかしら。できるさ。できるよ。きっと、できる。でも、もしかして、万が一…… 
 胸に、ペンを探る。胸に、ペンはない。いや、ある。ない。あった。取り合えず、線を一本。
 あ。
 赤。軸は黒いのに。で、だから、どうなんだ。幻の声を聞く。(何色なら、素敵だった?)
 線の下に、線を引く。平行にならない。思った通りだ。思った通り、思い通りにならない。
 こんなふうに、日常のいろんな局面で、面白くないことが立て続けに起きる。面白くないことというのは、はた目には、きっと、面白い。誰かが笑ってる。笑ってたって、ちっともおかしかない。人が笑うのを止める権利は、誰にもない。権利? じゃあ、笑う権利なら、あるってのか。あるさ。Bにだってある。便所に隠れて、一人で笑え。
 引き出しに、ペンを捜す。小さな物がぶつかって立てる、かさかさという音が、耳に誇張されて届く。胸が締め付けられるようだ。
 あち! 
 そっと画鋲を抜き、睨みつけ、指をしゃぶる。ペンを捜すのは、止めだ。さっき引いた線に、斜めに、見せ消ちの短い線を何本か、赤く記す。と、それは赤錆の鉄条網になって、Bの侵入を阻止する。関係者以外立ち入り禁止。おまえ、関係者か。だと思うんだけど。証拠、見せろ。証拠って? 証拠だよ、証拠、男の証拠。は、胃が重いよ。証拠を見せれば、取り上げられ、また、証拠を要求される。昼、何、食ったっけ。チーズ何とか。何とかはフランス語だ。いや、ナルニア語。ナルニアには、行ってみたかったな。もう、行けないな。行けないと思うから、行けないんだろうな。指をしゃぶり続ける。傷のせいだと言いわけしながら、しゃぶる。はて、しゃぶるためにこさえた傷だっけか。
 Bは待っていた。Bだけが待たされている。全人類は消えた。午後5時、突然、全社のコンピュータが歌い始めた。
 最初、Bは、壊れたのは自分のデータだけだと思った。反射的に、画面を体で覆おうとした。以前、データを壊された。FDの上に、ちょこんと桜ん坊が載っていた。誰からのプレゼントだろう。だが、それは厄介なプレゼントだった。桜ん坊のデザインのマグネット。FDを起動させると、ボロボロ。見たこともない記号のような、模様のような斑点が、ずらっと並んだ。誰がやったのか。自分でやったんだろうと言われてしまう。Bの人徳のなさを如実に語るエピソード。作り直すのに、徹夜続き。つい、家族に当たる。母子は、彼を避け、何事か、耳打ちし合う。始まったなと思う。終わるんだなと思った。マグネットは、ホワイト・ボード用。その日、Bは、ボードのある場所には近づかなかった。いや、近づいたよという証言が出る。小さな字で、何か、コチョコチョ、書いては消し、腕組みをして考え込むふうだったとか。記憶にありません。別の日のBと取り違えられたか。同じ日の別の人と取り違えられたか。別の日の別のBがいたか。書いては消し、考え込む自分の姿を想像してみる。危ない。想像と記憶を取り違えそうだ。結局、犯人は不明。監視カメラの設置を提案したくなる。が、間違いなく、総好かんを食う。自分のデスクにだけ、置くか。いや、変に誤解されたら、大変。
          GO HOME
 いつまで仕事をしている振りをし続けるつもりかというようなことが、数か国語で記されていた。何をと力む気分を押し流すかのように、文字列が滝のように崩れた。
 ウィルス駆除協会から誰か来るはずだから、後、頼むね。ウィルスと聞いて、手を洗いに行きたくなる。でも、比喩。比喩でも、汚染は肉体に及ぶよう。と、口にすれば笑われるから、用事を拵えて出て行こうとしたら、誰しも思いは同じらしく、先を越された。Bだけ、残る。なぜなのか。なぜ、私なのか。いつもそうだった。誰かが残らなければならないとしたら、それは私なのだ。その理由は、多分、いつもそうだから。
 本当の理由を、彼は、ずっと、考える。残っていないBを、Bは見たことがない。なぜかと、あてどもなく考えている。だが、考えているのは、作者である私なのでもある。私は、どこにもいないBを想像できない。Bは、いつも、どこかにいる。Bについて考えるとき、Bは必ずどこかにいて、そして、私に気づく。私に見つけられ、私の意向を探るように細められるBの眼の曇りについて、私は描写したくない。ぼうっと夢見る気分で世界の秘密を探ろうとする、Bの眼差し。世界の本質を夢に見ようとする、幼い頃からの癖。
 今頃は、わざとばらばらに消えた社員達が一堂に会し、祝杯を挙げている。目に見えるようではないか。Bがいないと、人々は幸せ。誰かが、突然、カウント・ダウンを始める。10・9・8…… 声を発するたび、手にしたグラスから滴が飛び散る。滴の、羨ましいほどの輝き。落ちながらも、滴は輝き続ける。落ちても、まだ、しばらく、きらめいている。カウント・ダウンに唱和する声が増え、ほとんど、怒号に変わる。顔は怒っているようでも、彼らは幸せ。数字が0になれば、新しい世界が始まるから。キッスの嵐。新しい世界とも、キッスとも、Bは無縁だ。しかし、嵐だけは、彼を見捨てまい、決して。
  ダルマサンガコロンダ
 振り返ると、みんな、じっとしている。彼の見ないとき、人々は動く。目に見えるようだ、彼らの動くのが。
 不意に、電話が鳴る。電話とは不意に鳴るものだが、この電話は、わざと不意に鳴った。作者が、焦れて、話を進めるために、安直な手段に頼ったのだ。Bには分かる。Bには、何だって分かる、自分を利用しようとする人の気持ちなら。分かって、そして、迎合してしまう。
 Bは、あることを予感していた。期待していたと言ってもいい。だから、もし、彼が耳に当てた受話器を、顎を引きながら離し、一瞬、見詰めたとしても、驚いたからではない。驚いたとすれば、予感があまりにも見事に的中したからだ。誂え向きに電話が鳴り、そして、予感していたとおり、不可解な声。驚く演技の自然さに、自分でも驚く。
 もしもし、もしもし。もしもし。それだけ、言って、吐く息、吸う息が続く。腕が構えるふう。自分の肘の尖り具合を、腕を捩って見ている。見えにくいので、受話器を持ち替える。何のために尖っている腕だか、分かりにくい肘が、見えにくい。
 「何」「もしもし」「何」 誰だろう。女だ。馴れ馴れしい。妻を思う。妻だったら、なぜ、そう言わない。机上の紙を、そっと指先で動かす。さて、どこに持って行くつもりでいたか。「もしもし」「あなたは?」「Bですけど」「どこのBさん」「どこのって……」 
 女子社員の顔を、あれこれ、思い浮かべる。新人か。パート・タイム? 先日、ロビーで、学生風の女が柱に寄りかかり、本を読んでいた。ソファに座るよう、促すと、じろり。で、また、本へ。通りに邪魔だから言ってんだよ。通じないか。ふ、じゃ、もう一度言おう。さあ、もう一度言うぞというような息を吸ったら、「お構いなく」 乾いた声もあてどない、昼下がりの憂愁。口が開いたようには見えなかったぞ。どこから漏れた声か。
 言葉とは裏腹に、女は座る。本は膝に載せた。膝が見えなくなる。スカートがずり上がり、一瞬だけ見えた太ももが見えない。表紙も見えない。それは青かったと思う。彼女の本か。でなけりゃいいけど。来客用に置いてある一冊なら、いいのに。いや、きっと、そうだ。だから、みんな、読めた。思いもしなかった、こんな所にあったなんて。だったら、この女を追っ払いさえすれば、いいわけだ。
 本を引ったくりたかった。本を手に入れるためか、太ももを見るためか。疼くような衝動を押さえながら、女の横顔を盗み見る。相手は気づかぬふうを装い、だが、装っているということは明らかに示し、長椅子の端に寄る。彼が座りたがっていると考えたか。座ってほしいのか。座れるものなら、座ってみなさいよ。
 彼は、座りたくなかった。だが、並んで座り、二人は哲学の話をする。彼女は哲学を勉強していて、彼は哲学には疎いというような話をして、そして、謙遜と取られたらいいがなと思う。若い女は、中年男というものは、人生というものは哲学では割り切れないよというようなことを言うんだろうと思っているのだろうから、そういうことを言ってみればいいと思うのだが、どうやって切り出せばいいのか、見当もつかず、要するに、二人は、何も言わず、座っていた。えへん。そりゃ、咳払いぐらいはしますよ。
 女は、求人広告を見て来たのだろう。Bは、「あの件なら、もう、別口が」と言った。口から出まかせ。女は、息を吸い、途中で止め、そして、出て行き、本は残されなかった。
 「例の件ですか」と、電話に言う。「ええ。どうなって」「変わりありませんね」「じゃ、行くわ」「どこへ」「決まってる」「決まりなんですか」 やっぱり、ウィルス駆除の人だ。
 「現在の環境は?」「あ、はあ、言葉が、あの……」「足りないのよね」「壊れていくようなのです。崩れていくようなのです」「砕けるようなのではありませんか」「ええ、そして、挫けるようでもあるのです」「ははあ」 いかにも専門家って感じの溜め息。ちょっと真似してみたいね、別のとき、別の場所で。
 「ああ、そいつは"Yellow Dog"よね。ワクチンは"Blue Bird"かな」「滅びるのでしょうか」「さあ。あまり、深刻に考えないようにね。かといって、楽観は禁物よ」「悲観的でいたらいいのでしょうね」「そういうのこそ、楽観的と言うのでしょう」 ほら、これも専門用語だよ。
 受話器を置いて、ほっとする。ほっとしたかったので、受話器を置いたか。考えて見れば、話は終わったようには思えなかった。相手が終わったつもりのようだったから、Bも終わったような気分を拵えたのかもしれない。だったら、ほっとしていてはいけない。
 ほっとしないで、ほっとする以外の、別の何かを、Bはしなければならない。何をするのか。待つ。確かに、待つのだけれど、何かをしながら待つのだった。環境を変える? Bの視線は、室内を一巡し、受話器の上にまだある自分の手に落ちる。一瞬前の視野に、揺れる葉があった。植物は、水をほしがっていた。植物の乾きが、Bに移る。乾きを、植物の映像ごと、消す。いや、早送りするように、やり過ごそうとする。ところが、意識は巻き戻され、本によって隠される前の膝が現れた。スロウ再生。膝の肉は、薄かった。皮を突き破って、骨が飛び出しそうだった。骨は、石か合金でできていた。堅い物が、ギリギリ、噛み合う音もしなければならなかった。さあ、足を高く挙げて。油を差したげようね。Bは、自分の指の骨を透視するように、手を光に向けた。指を閉じたり、開いたり、しゃぶったり。
 女は、青いシャツを着ていた。胸の文字が白く染め残され、読まれたがっていた。だが、読めない。呼吸とともに上下するシャツの字は、歪んだ。読もうとすると、勘違いされそうだった。乳房に興味はない。わざわざ、そんなような弁解をするのも、どうかと思われる。だが、胸の辺りを、うろうろ、∞を描く、Bの視線が、彼女に何らかの決断を強いなかったとは言えない。女の胸は、薄かった。薄い印象の女だった。彼女とは二度と会うことはないと思う。そのことが、どんな感傷も伴わず、銛のように、Bの脳髄に突き刺さった。本当は、事実ではない。作者がその気になれば、再会も有り得る。しかし、それを、Bは、作者にも、神にも、自分自身にも、願わない。願わないことの熾烈さが、彼を貫く。思い出の中の、去って行く、青いシャツの女を呼び戻そうとした。呼び戻し、そして、何をしようというのでもない。一言、何かを言わなければならない。それを言いさえすれば、気持ちよく、別れられる。彼は彼女を呼ぶ。彼女は彼を振り返る。そして、彼は、やはり、口ごもる。真空の銛が抜けた。予防注射を済ませたときのようだ。腕を揉んでいると、再び電話。
 「どう?」 この声、さっきのとは違うような、でも、どこかで聞いたような。妻が声を做っているのか。妻に、声帯模写はできない。ちっとも似ていない戸川純の真似はあるが、その声とも違う。誰かが誰かを真似しているのか、いないのか。誰かは誰かを真似するものだと、Bは信じていて、だから、そんなふうに聞こえるのか。耳を澄ます。人の声とは、本来、どのようなものだったか、探るように。
 「どうしたの」「いや、今、急に」「胸騒ぎ?」「言われてみれば」「うふふ」「ふ」「あはは。おかしい」「えへ」「出てらっしゃいよ」「は?」「駄目なの?」「そういうんじゃなくて」「何よ、今さら」「でも」「何」「ちょっと難しい」「たくさん難しいわけじゃないのね」「ええ?」「いいもの、上げる」
 電話は一方的に切られる。そして、また、電話。さらに不明の声。
 「急いで」「ちょっと無理、いえ、たくさん、無理です」「まだ、分からないの」「何が」「急いでるって」「ああ、おっしゃってますね」「私が言うのよ」「そうでしょうね」「だから」「無理です」「なぜ」 なぜだろう。「なぜなの」「たとえば、その、あなたの場所が知れない」「たとえばって、どういうこと」「たとえばは、たとえばです」「たとえ話なんか、聞いている暇、ないのよね」「事故でも?」「ふうん。まあ、事故と言えば、事故と言えるのかもね」「事故じゃないんですね」「事故じゃないわ、今のところは」「これから起こるんですか」「あなた次第よ」「何のことです」「傷ついてるの」「誰が」「誰もがよ」「私は違う」「でも、私は、そうなの」「傷って、どこ」「どこも、かしこも」「冗談ですね」「冗談じゃないわ」「切りますよ」「切れるもんならね」 切る。
 今のは誰だ。さっきから一人の女が、次々に声を做っているようにも思える。でたらめに押した電話番号に出た男をからかうというシナリオがあって、それを複数の女が交替で演じているのかもしれない。
 画面に、見知らぬ女が現れる。ぎくしゃくした動きで音楽に合わせて踊る。唇を窄め、小鼻に皺を寄せた。わざと古臭い媚態。投げキッス。肩紐を指で弾いて落とす。
 電話。「寂しかった?」「別に」「強がり」「そんなんじゃない」「じゃあ、何なの」 「何だろう」「そっちは、どう?」「別に」「快適?」「そちらこそ」「ほっといて」「ありがたい」「冷たいのね」「どうしろと」「私が行くか、あなたが来るか」「お待ちしています」「そう来ると思ったわ」 沈黙。「私に、1分間だけ、時間を頂戴」「1分」「あなたは、何にも分かってないのよ」「10秒経過」「今、何してるの」「20秒」「まだ15秒だわ」「20秒」「本当は、優しいのね」「30秒」「私のこと、まだ、分からない?」「40秒」「嘘よ。あなたの時計、壊れてるわ。まだ、1秒も経ってやしない」「私のじゃありません。会社の時計です。50秒」「ひどい嘘つき。私、まだ、何にも言ってない」「はい、1分。さようなら」「嘘つき。嘘つき。嘘つき。でも、本当は、いい人だわ。嘘つきで、いい人。嘘つきだから、いい人なのかも。分かるわ、私も嘘つきだから。でも、傷ついてるっていうのは、本当よ。これだけは、本当。これが本当なもんだから、ほかはみんな嘘になってしまうのね。私はね、傷ついてるの。どこが傷ついているかなんて、そんなこと、とても口に出しては申せません。口では言えないくらい、私、傷には拘ってるの。そもそも、その傷が自分のものなのか、自分が傷のものなのか、分からないくらいよ。だから、傷口を見つけたら、その近くに私がいると思ってね。その傷口をね、あなたは探すの。だって、そこまで面倒見られやしないでしょ。と言うより、義務だわ、傷口を探すのは。きっと怖いのね、傷口を見るのが。まるで自分の傷口を見るようで。男の癖に。男だからかな? いいから、さっさと出てらっしゃい、男らしく。これが最後のチャンスかもよ」
 傷? 傷って何だ。それは、目のような傷だ。閉じてるときは優しげだが、開くと、惨い。
 画面が点滅を繰り返す。無駄だと分かっていながら、RESETを押し続ける。くねくねするBの体。
 電源は切れない。切るなと言われた。切れば、もう二度と……。二度と、何だっけか。二度目があるからには、一度目がある。一度目は、いつだったか。Bは、一度目のことを思い出そうとする。思い出せない。きっと、そのとき、自分はいなかったのだろう。まだ、生まれていなかったんだな。僕が、一度目のとき、まだ、生まれていなかったってことを、知られては、まずい。
 「こういう電話は、初めてじゃない。でも、僕は行かなかった。今度も行かないと思う。僕には分かってる」「あなたに、何が分かるもんですか」「僕には分かる。僕に分かるのはこのことぐらいだと言ってもいい。僕は、行かない」「今度こそ、来るんだわ」「いやだ。行きたくない」「駄目。来るの。分からないの? 最後のチャンスなのよ。まさか、そのことまで疑ってるわけ?」「疑うなんて。疑うって、どういうこと。とにかく、もう、遅い。遅いんだと思う」「遅いなんてこと、あるもんですか。じゃあ、いつだったら遅くなかったって言うの」「それは……」「さあ、思い出すのよ、いつなら」「いつならって……。いやだ。思い出したくない。僕に思い出させないでくれ。僕に思い出させようとしないでくれ。僕が思い出そうとするのを止めさせてくれ」「だったら、いらっしゃい」「いやだ」「じゃあ、思い出すのね」「そんなことばかり言うんなら、僕、やっぱり、行かないぞ」「いいえ、来るのよ。来るわ」
 Bは、天井を振り仰ぐ。腕をまっすぐに伸ばし、突き上げ、手首を曲げ、存在しない目薬を差す。歪む、天井の格子。
 彼女は、言わば、壷の中の悪魔だ。壷から出してくれたら言うことを聞くと、悪魔は誓う。その言葉に偽りはない。しかし、言葉には、罠が仕掛けられている。どんな言葉にも、罠は仕掛けられる。その罠を逆用すれば、悪魔を元の壷に封じ込めることもできる。封じ込めるためには、一度、出してやらなければならないのかな。この疑問こそ、悪魔の囁き? 
 「行くよ」「信じると思った?」「思わなかった」「じゃあ、何を思ったの?」「部屋を出て行く自分の姿を思った」「嘘」「うん、嘘だ。嘘だと言われて、嘘になった」「いつまで、迷い続ける気?」「マヨイ。マヨイって、何だ。あ、迷い。あの迷いか。そういえば、迷ってるな。なぜ、迷うんだろう」「好きだからじゃない?」「そう、好きなんだ、迷うのが。だから、僕は行く。迷うのを好きじゃなくなりたいから」「嘘」「嘘じゃない。今は、行こうと思ってる。でも、電話を切った途端、その気持ちが消えてしまうことを知っている」「私も、知ってる」「でも、行くよ。行く。今は、そうとしか言いようがない」「待つわ。今は、そうとしか言いようがないもの」「ねえ、どうしたら、止めてくれる」「何を」「こういうのを」「どういうのを」「僕を迷わせるのを」「迷うのは止めるんじゃなかったっけ」「止める。だから、迷わせるのを止めてくれ」「でも、迷わなければ、忘れてしまうんでしょう」「不安なんだ、迷ってないと、何もかも忘れてしまいそうで、僕が誰なのかさえ」「不安は誰にも拭えないわ、お肌の染みと同じね」「君には染みがあるのか」「あるわ」「どこに」「誰にも見えないとこに」「じゃあ、どこで出会ったって、君が君だとは分からないじゃないか」「分かるわ。自分が誰なのか分からなくても、あなたはあなたでしょ。私が誰なのか分からなくても、私は私よ」「君が僕を見つけてくれる?」「甘えないでね」「やっぱり、行けない」「いやよ。私は、傷ついてるの。見殺しにする気? 人を見殺しにしておいて、そして、自分だけ、のうのうと生きて行こうっていうの?」「傷ついてるのは、君だけじゃない」「でも、私は傷ついてるの。私を助けないで、誰を助けるの」「誰と言われても」「でしょ。だったら、私を助けなさい。そうすることが、あなたを助けることになるのよ。そうすることが、人類を助けることになるのよ」「どうして、そうなるの」「どうして、そうならないの」「教えてやろうか」「もう、いやだ。そんな言葉を聞かされるたびに、私は傷つくのよ」「忘れろ」「忘れたくない」「じゃ、死ね」「いいわ。死ぬわ」「ああ、死ね、死ね」「死ぬ。死ぬ。だから、あなたも死んで」「死ぬ」「嘘」「死ぬか、本当に」「死ぬわ。あなたがそうしろって言うんなら」「本当だな」「本当よ」「本当に、本当だな」「来てみれば?」「よおし、分かった。待ってろ。見届けてやる」
 Bは、部屋を出る。決して、勢いよく、ではない。ドアは、そっと開かれた。そして、半開きのまま。
 室内の照明が落ちる。いくつもの青い画面が、あちこち、向いて、無用に輝く。画面の女は、服を脱ぎ始める。服を脱ぎ、下着を脱ぎ、そして、皮を脱ぐ。肉を脱いで、骨になる。骨になっても女だ、腰を振るから。骸骨の口から、赤い舌が垂れる。長い舌は、股間まで伸びる。股間に蕾が生まれ、徐々に、開き始める。開き終わる前に、あなたは目を瞑る。惨いから。
 (以上、『一人で満員』という、人工皮膚を巡る喜劇の発端を、リサイクル)


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