『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#049[青]05

 Bは、急ぐまいとした。こういう場合、急ぐまいとするのが通例だと思う。こういう場合が、通例、起こるかどうかは、考えていない。
 道行く人の目が彼に集まるようだが、多分、本当のことではない。だが、道行く人が彼を見ないわけではない。見られていると思うのは思い違いだと自分に言い聞かせながら、でも、見られているようなのは否定できない。彼はみられている。彼の形相、尋常でない雰囲気。
 町は出来損ないの"Sim City"だ。"TETRIS"をやり過ぎたときのように、空から降る、幻のブロックを建物の隙間に、せっせと詰め込んでいる。吐き気と頭痛。微熱ぐらいは、あるのかな。半透明のブロックが、何本か、高架線に引っ掛かって揺れている。
 目頭を押さえ、立ち止まる。Bの足元の、その一歩前は、かつて、大きく窪んでいた。およそ30年前、その場所が舗装されるとき、窪みは埋められた。およそ200年前、その辺りは草原で、窪みが人間の目に触れることはなかった。およそ1億年前、イグアノドンが転んだ。窪みはその跡だ。イグアノドンは転んでも、Bは転ばない。窪みの化石を迂回したから。
 ある店の前を、わざと行き過ぎて引き返す。広い、半地下の喫茶店。ざっと見渡す。空席はない。おかしな髪形のウェイタが、異常接近。店の外へ押し出すかのよう。半歩後退し、話し掛けようとする人の脇に、無理矢理、回り込む。お一人様? 目もくれず、片手で追い払う。Bにしては、乱暴なやり方。やってみて、どきどきした。一つだけ、空席を見つける。だが、飲み物が残っている。青い液体。氷が解けて、曲がったストローが回る。誘うようだ。その横に、本が伏せてある。青い! ここだ。
 わざと隣のテイブルに着く。そこには、先客がいた。断りもなしに座るBを、Bを老けさせたような男が、横目で睨む。が、無効と知り、憮然として立つ。一度、振り返る。そのとき、視線を感じて身を捩るBと、初めて目が合う。二人は、同時に、弾かれたように顔を戻す。まるで、視線の衝突した所に見たくもない異物が浮かんでいたみたいに。
 ウェイトレスに、隣の席を指さす。すると、飲み物の名らしい、カタカナを口にして去る。そんなつもりではなかったB。だが、どんなつもりだったか、もう、思い出せない。どんなつもりだったにせよ、つもりを言葉にはできなかった。
 Bは、青い本に手を伸ばしかける。震える手。引っ込める。また、伸ばしかけ、引っ込める。そのたびに、距離が縮まる。そのことに、朧げながら気づいている。思い切って取り上げようとしたとき、音もなく腰を下ろす影。女だ。青い眼鏡。Bは、この女を知っていると思う。こういう場合、そう思うことがすべてに優先するのだと、誰かに耳打ちされた気がした。いつだったか。語られたのがいつにせよ、その声は、今、届いたかのようだ。Bは、いつの間にか自分の前に出現した青い飲み物を啜り始め、ほら、啜ってますよ、あなたの飲んでるのと同じですよと言うように、激しく啜るので、すぐに啜り終える。ずずずずっと、ストローの下品な音に、女が咎めるように目を向ける。あるいは、向けない。どちらだろう。思い出しただけなのか、彼の存在を。思い出し、錯覚ではないことを確かめた。思い出そうとしているのか、彼が誰だったか。
 女の口元が、微かに綻ぶようだ。そして、青い眼鏡を、ゆっくり、時間を掛けて外し、肘の横に置く。そうして、肘で眼鏡を押しやる、じりじりと。顔は、本で隠したまま。眼鏡が落ちる。眼鏡は割れない。まるで、眼鏡ではないかのようだ。Bが拾おうとして身を屈めると、女の脚が開き始める。スカートは長い。脚が開くにつれ、スカートがたくし上げられる。Bは、拾った眼鏡を握り締める。首を寝かせた。見えるはずはないと思っていたが、見えたので、天板に頭をぶつけそうになる。見えたのは、股間に象眼されたような目だ。目のような何かだ。目のような何かは、閉じられている。長い睫が風もないのに戦ぐんだなと思った瞬間、膝の横に何かが降りて来る。何が。本だ。本は、読んで、というように、開いている。彼の目は、本に引き付けられる。すると、脚の間で目が開きそうになる。開いた目を、一度でいいから、見てみたい。彼に向けられる目を見たい。彼のために開かれる目が、どんなものか、見てみたい。死ぬまでに、一度でいいから、見ておきたい。見てから、死にたい。そう思って、目の方に気を取られると、本が閉じられそうになる。彼は、閉じられそうな本と開かれそうな目の両方を同時に見ようとして、立体視のやり方を思い出す。
 Bは、最初、立体視ができなかった。昼休み、人々が、砂嵐のような印刷物に顔を近づけたり離したりしながら、見えた、見えないと騒いでいた。「成る程、何か、見えるようだね」 沈黙が広がる。そういうことではないのか。「本より遠くに焦点を合わせるんですよ」「ああ」 だったら知ってる。いつだって、そうして来た。現実よりも遠くを見た。そう思ったとき、砂嵐の中から、思いがけない像が浮き上がった。しかも、砂嵐は窓から見るようで、枠の外側にも世界が広がっているようで、だから、その世界に飛び込みたかった。そこでなら、何かができる、何かが、今は、何も思いつかないが、きっと、何か、思いつくことができる。
 Bは思いつく。もしかしたら、人々には、あれが見えているのかもしれない。Bには見えなくても、彼らには、あれ、Bが話でしか知らない、あれが見えているのかもしれない。あれが見えなくても見えるふりをするのが、この国の習慣だと思って、必死で見えるふりをしてきた。だから、本気で見ようとしたことはない。必死だったが、本気ではなかった。もしかしたら、人々には、本当に見えているのかもしれない、あの山、あの川、あの空、そして、あの、あれが。ときどき、ふっとなって、はらりとして、目配せしたようで、脇の方から、ひゅっと取り出し、くるりと回し、おやっと見れば、もう、引っ込めている、あのあれ。彼らは、あのあれを、いつ、どこで発見したのか。少なくとも、学校では教わらなかったな。人々は、いつ、どこで、仕入れるのか、あれを。だれも教えてくれない。いや、聞いてみようとしたこともない。聞いてはならないと思い込んで来た。どこから仕入れるのか、誰も教えてはくれまい。そのことを尋ねるのさえ、憚られる。あれをあれと明言することさえ、難しい。
 レジスタの横に、Bに似た男が、大きい札を、貼り付けるように置く。店員は、大きすぎる札を見て、大きすぎる腹を見る。腹を見られた客は、誰でもいいから話をしてみたいという腹を読まれたと思う。少しだけなら話してやってもいいかなという胸の店員が、小銭を並べる。一緒に、胸の奥で小銭を数える客。小さすぎるカウンタを挟んで、対峙。ある意味では、決闘。言葉の大砲は温存され、まず、小さな悲しみと小さな恥じらいとの矢合わせ。鏑矢の唸り。だが、実際に交わされるのは、手垢に塗れ、変色した硬貨、手垢に塗れ、変色した後悔。なぜ、私達は愛し合えないの。人間の可聴閾から外された声で投げかけられる、未来からの原始的な問い。
 その頃、北極の氷の下では、忘れかけた歌を探る人魚の唇のように開いては閉じる、不定形の生物が発見されようとしていた。それが、後に、「寄る辺ない夜の火口」と名付けられるのを妨げることになる、空白の一日、「永久源泉、花を散らす午後」号の内部で起きた、研究者間の感情的な対立を記録した媒体は、急速に凍結される。そして、テイブルの下では、Bの目が、二つの対象の間で、逡巡を続けていたが、不意に、潤む。今や、Bには、泣くことしかできない。大地震が町を襲ったから。
 彼は死ぬのかもしれない。だとしたら、彼は泣くために生きて来たことになる。あるいは、Bは死んでしまった。しかし、まだ、死んだことを知らされていない。彼は生きていて、本と脚の間で目を酷使しているつもりだ。ぎょろぎょろ。眼球は押し出され、腐り始めた、彼の死体を映す。
 GAME OVER
 何が足りなかったのか。経験値か、アイテムか。あるいは、黄金の法則を無視した? まだ、訪ねていない地下街があった? 地下水道には降りたくなかった。臭いし、暗いし、ダンジョンは嫌いだ。暗いし、狭いし、ねとねとして、進まない。どこかに照明のスイッチが埋め込まれているのか。そのスイッチを探すためには、ランプが必要。魔神のランプは、捨ててしまった。何を頼んでも、魔神は、「慌てなさんな」としか言わなかった。青い蜻蛉の眼鏡を掛けていないと見えない凱旋門。曲がってはならなかった、あるいは、曲がるべきだった、冬の三差路。話し掛けるだけではなく、話し込むべきだった、宿屋の主人。双子の花売り娘の父親の病気の話を、姉からしか聞かなかった。二人は、同じことを言った。「隣にいるのは、私の姉です。姉は、ときどき、嘘をつきます」 だから、病気は嘘だと思い、薮の中に医者を呼びに行かなかった。そのくせ、薬代の足しにでもと、花を買ってやった。花は、使い物にならず、売り物にもならず、捨てることもできなかった。袋の中で、花は、腐りもせず、実も結ばず、場所を取るばかりだった。だから、棍棒にも使える松明を拾ったのに、持てなかった。毒の卵を呑んだ蛇を呑んだ銀狐を呑んだ海亀を見殺しにした。卵の毒には、珍しい薬草が効く。でも、珍しい薬草は高い。値段が高い。あるいは、高い崖の上に生えている。Bは、高所恐怖症。高い場所へは、二頭立ての馬車で飛ぶ。ある高さで忍耐すれば、空飛ぶ馬車の窓から、災害を見下ろすことができた。乗り逃げすべきだった、黄色のヘリコプタ。いずれは沼に墜落すると分かっているが、もう少し、先が見えたのかもしれない。
 町は全滅しました。あなたは死にました。
 おお、Bよ。死んでしまうとは、情けない。もう一度だけ、チャンスを与えよう。
 復活しますか? [Y/N]
 Y
 これまでの旅を、青い本に記録しますか? [Y/N]
 N
 なるほど、それも一つの見識ではある。では、行け、愚者よ!
 Bは、イグアノドンが転んだ穴の化石の上に、じんわりと立ち、自分は転ばないことを確かめると、喫茶店に向かわず、行きつけのバーに入った。HP回復。しかし、所持金、激減。梯子酒で、午前様。二日酔いで出勤。ノルマ、達成できず、上司のお小言に、硬直。夕方まで固まっていた。溶ける頃には、渇きのために、家まで持ちそうになく、またもや、バーへ。バーテンダのお決まりの慰めは、そろそろ、聞き飽きた。でも、聞いてやらねば、ご機嫌斜め。酔う程に、HP回復すれど、GOLD激減。自宅と会社の往復だけの人生。飲み代を稼ぐのが、やっと。いくらか余裕があれば、カジノに入り浸り。物語は停滞。先は見えている。見えた見えたと泣き喚き、自棄を起こして、雑魚キャラとストリート・ファイト。勝っても稼げる経験値は僅かで、チェーンを振り回されると、病院行き。モラル、低下。パーティの仲間となるべき、頼もしげなキャラクタにも、見限られる有り様。もう、誰も相手にしてくれないよ。
      夜の蛙の歌
                 作・耳の毛を抜きながら怒っていた人
  蛙の姿で 男達が泣いている 夜
  うおう うおう うおう
  蛙に成っちまったぜ
  へい へい へい
  蛙に成ったから 泣いてんのかい
  うおう うおう うおう
  泣いてたら 蛙に成っちまったのかい
  うおう うおう うおう
  帰るとこ ないって 泣いてんのかい
  うお うおお おおう
  俺帰る 俺帰る 言ってて ちっとも 帰んなかったら
  俺 蛙に成っちまったんだよお
  うおう うおう うおう
  うおう うおう うおう
  俺もだよお
  うおう うおう うおう
 公園の堅いベンチが柔らかに感じられそうで怖い頃、見知らぬ人に、「どうです、やりませんか」 ぬるいカップ酒、恵まれて、しみじみ、並んで、黙って呑めば、名も告げず去って行く人の後ろ姿に縋りそうな視線のよろめきを遮断する瞼の裏で、補色のネオン・サインが飴のように蕩けた五月闇。男のベルトが、二回、確かに捩れていた。
 行き惑い、塞ぎ込み、悴んで、寒い夏、葉の先の黄ばむ、立ち枯れの苗のようにして、GAME OVER
 暗闇に、電話のベルが鳴る。受話器を取る。ちょっとだけ耳に当て、黙って切る。また、ベルが鳴る。無視する。いくら無視しても、無視が、相手に伝わらない。また、掛かって来る、昼となく夜となく。電話の声は、出て来いとは、もう、あからさまには言わない。だが、その意図を、Bは感じ取る。電話の声は、いつも違う。知人の声を真似ていることもある。しばらく話していて、声帯模写だと悟る。いくら装っても、声には、共通の特徴が認められる。声は、いつも、彼をせかす。声は、いつも聞こえるようになる、電話を受けても、受けなくても。死体に群がる虫を追い払うように、Bは声を払う。その仕草に、人々は気づく。しかし、黙っている。Bは死体と見做される。死体に、何を言っても始まらない。Bは死体になる、ときどき、しばしば、いつも、ずっと。人々は、死体が立って歩き回ることに慣れる。慣れることができないのは、Bだけだ。どうしたら慣れることができるのだろう。そう問う相手もいない。
 暗闇に、電話のベルが鳴る。受話器を取る。ちょとだけ耳に当て、黙って切る。ガッチャン! 
 GAME OVER その後、二度と、彼の姿を見た者はいない。
 復活後、すぐさま、大地震。どうやら、彼は呪われているらしい。呪いを解くことのできる、首長族の王女を、冬の砂漠に遺棄した? ああ、あのひとはまだあそこにあのままでいるのでしょうか。
 砂嵐は、刃のように、私共に斬り付けました。私は、自分のことだけで、精一杯だったのです。あの前、紫狼の群れに襲われていたのでなければ、こんな私でも、もう少しは、何とか、できたのでは、ないかと…… 
 GAME OVER
 あのとき、あの人の胸が私の背中を柔らかく押すようだったと思うのは、卑怯な私の嘘なのでしょうか。私を突き放すあの人の優しさが放浪のささくれを抜くのだと思うのは、私だからこそつける嘘なのでしょうか。逃げて、あなただけでも。あの人が私に囁いたと思う言葉の掠れが、今も、私の耳元で小さな竜巻を起こします。
 GAME OVER
 死に損ないのBが、稲妻型の地割れを見つけ、滑り入る。地割れの底には、転んだきり、二度と起き上がる気のないイグアノドンがいて、滅びこそ栄えだと語る。Bは、滅びようと思う。滅びよう、今こそ。すると、開いては閉じる本の幻影が現れ、小さく縮んだ、Bの顔に、弱々しい笑みが浮かぶ。もう、いいよね。我ながら、よくやったと思うよ。お休み。
 自分で自分を眠らせた。
 GAME OVER
 ……逃げて、あなただけでも。
 GAME OVER
 逃げて! 
 GAME OVER
 孤独ながらも、現時点で最高の武装と魔法と秘薬で、Bは闘っている。敵は、巨大で、Bの視野に収まり切れない。巨大な敵は、笑っている。ビリビリ、耳に痛い、笑い声。それだけでも、戦意を喪失させられるのに、十分だ。Bは、すでに、何度か、倒されている。息絶えるたび、RESETし、考えられる限り、すべてのテクニックを駆使して闘う。しかし、青い鱗に覆われた敵の胴体には、矢も刃も通らぬ。炎も氷も雷も、春風のように受け流される。敵の青竜刀は、勇者の肉を、骨を、菜っ葉のように、ザクザク、刻む。防御不能。Bは諦める。もう、何もしない。されるがままになっている。微塵に刻まれた肉体は、さらに細かい粒子となって、伝説の大陸の乾いた風に運ばれ、消える。残った、ちっぽけな魂は、腐った卵のように踏み潰された。
 巨大な敵は、破れ鐘のような声で、笑い続ける。巨大な敵は、笑いながら、もっと巨大に成る。もっと巨大に成った敵は、もっと笑いながら、もっと、もっと巨大に成る。もっと、もっと巨大に成った敵は、もっと、もっと笑いながら、もう、これ以上、巨大には成れないほど、巨大に成り、最後に、一度だけ、小さく笑い、そして、静まる。
 ふん。行ってしまったな。もう、私の所には、いないな。私のいない所で、泣いているな。明るく輝く水に落ちて泣いていた朝のように、初めての朝のように、震えながら、泣くのだな。泣け。泣け、今夜こそ、おまえ自身のために。
  母も覚えず
  父さえ解せぬ
  もはやはるかな方言(くにことば)で
  アオアオアオ アオアオアオ
  ただついたという挨拶ばかり
  母でもなくて
  父でもない
  とおくのとおくへ呼んだのか
                     (まど・みちお「はるかな歌」)
              (3D/GAME OVER/16行)


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