『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#050[世界]10サラの場合

//「偽りの青」
  わたしは窓ガラスに映った偽りの青空に
  殺された連雀の影だった。
  わたしは灰白色の綿毛のしみだった─しかもわたしは
  生きつづけ、飛びつづけたのだ、ガラスに映った空で。
  さらに屋内からもまた、わたしは二重写しにしてみたものだ
  自分自身を、ランプを、皿の上の林檎を。
  (ジョン・フランシス・シェイド『青白い炎』富士川義之訳、「筑摩世界文学
  大系81ボルヘス/ナボコフ」所収。以下、同)
  この詩が書き出されたのはその年のちょうど真ん中で、つまり七月一
 日の午前零時を数分まわった時刻であったが、ちょうどそのときわたし
 はわが大学の夏期講習に出席していたある若いイラン人とチェスをして
 いた。わたしはわれらの詩人が、ある運命的な事実、すなわち王殺しを企
 んでいるグレイグスがゼンブラを出発したという事実とその日付を一致
 させたいとする注釈者の気持をわかってくれることを疑わない。実際に
 は、グレイグスは七月五日にコペンハーゲン行の飛行機でオナーヴァを
 立ち去ったのだが。
                   (キンボード「『青白い炎』注釈」)
 シェイドの個人的な回想に、キンボードは、なぜ、政治的な解釈を施したがるのか。そのわけは、もともと、解釈が政治的な作業だからだ。[政治的な解釈]と[解釈という政治手法]は、容易に越境し合う。過剰な解釈とは、作品への「はいりこみ」のことだ。対象である作品を[世界]に、読者が自分の物語を趣向することだ。
  孤独な文献学者であり、詩人の長年の崇拝者であるキンボード(彼は
 シェイドの作品をゼンブラ語に翻訳している)には、シェイド家の敷地に
 「はいりこみ」、(シェイド夫妻は日除けを下ろさないので)窓の側柱のと
 ころや植込の陰から双眼鏡で夫妻の姿を盗み見るという、不幸な癖があ
 る。
           (メアリイ・マッカーシー『晴天の霹靂』加藤光也訳)
//夢の猫
 『更級日記』(菅原孝標女)に、迷い猫の話がある。この猫が、作者(以下、サラ)の姉の夢に出て、「おのれは侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり」と告げる。サラは、その話を聞き、「心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず」と思う。父親は、「めずらかにあはれなることなり。大納言に申さむ」と言う。
 ここで、三者の態度は、微妙に異なる。姉は、超常的な知覚を信じている。サラは、信じてはいないのに、楽しんでいる。父親は、社会人として振る舞おうとしている。
 姉の夢は、一家の秘密である、父の能力に対する疑問を基礎にして、サラの物語愛好への同情と、大納言の娘の死という事件からできている。彼女は、夢という形式で、大納言家とのコネクションを作ってみせたわけだ。父親の出世欲と、サラの『源氏物語』の[世界]に入り込みたいという希望の両方を叶えてやりたいと思っていたからだろう。
 父親は、サラが姉の夢を自分のごっこ遊びの[世界]にしなければ、無視することもできた。あるいは、宗教的技術者によって押さえ込むように取り計らうこともできた。しかし、既に、姉妹が揃ってこの遊び始めてしまったので、いずれは大納言家に知れてしまう。困ったことだ。
  昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこな
 ひをせましかば、いとかかる夢の世は見ずもやあらまし。
                           (『更級日記』)
 「夢の世」とは、[世界]によって人生が蝕まれつつある状態だ。サラは、『源氏物語』を耽読しても、それを[世界]にして創作に向かうことはなかった。天照を信仰しても、「空の光を念じ申すべきにこそはと浮きておぼゆ」といったふうに、個人的に宗教ごっこを始めてしまうだけだ。こうした態度を不徹底というような言葉で批判しても無駄なので、もっと複雑な家族の病気が潜んでいると見なければならない。病気は、文化と言い換えてもいい。
 サラ自身も、夢を見るが、その夢は素朴な願望の表出に過ぎない。「聖などすら、前の世のこと夢に見るは、いと難かなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう」云々とは、本人は謙遜のつもりなのかもしれないが、見苦しいことだ。サラは、願望の実現を望んでいない。夢の中でさえ、本気になることを恐れている。この辺りは、父親の性格を受け継いでいるのかもしれない。「稲荷より賜はるしるしの杉」は、もう少しで、自分の願望を明瞭に自覚できそうになっているが、受け止めることはできない。その代わりに、「杉のしるし」を歌に詠むことで、また、夢現つの状態に浸る。
 サラの遊びを封じることは、難しい。サラの姉に対しては、お払いなり、夢解釈のようなことをやってやれば、治癒に至ると予想できる。しかし、猫が迷い込むように、サラが[世界]に入り込むのを止めさせるのは、難しい。
//慈円のマニュアル
  後鳥羽院の御時、信濃ノ前司行長、(中略)遁世したりけるを、慈鎮和尚、
 一芸あるものをば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひけり。此の
 行長入道、平家の物語を作りて生仏といひける盲目に教へ、語らせけり。
                       (吉田兼好『徒然草』226)
 慈鎮(=慈円)は、「故法皇は下賎の者を御側近くに召し寄せられ、世間では狂い者と呼んでいる巫女・巫・舞・猿楽といったともがらや、また銅細工などというような者どもが出入りしておりましたから、そうした連中が仲国の妻のことばに調子を合わせているのがまのあたりに見えるような心持がするのです」(『愚管抄』6、大隅和雄訳)と書くような人物だ。この矛盾を、どう考えればいいのか。
 慈円のマニュアルでは、世の乱れの原因が政治的なものなら政治的に、宗教的なものなら宗教的に対応すればいいことになっていた。こうした対応の仕方は、私達が、サラの姉の問題行動を、彼女の夢のよくない部分を、払ったり分析したりすることで、消してしまうのに似ている。
 解釈と調伏は、社会的機能としては、同じものだと言える。そもそも、私は、私にとって好ましい対象を、敢えてでなければ、解釈しようとは思い立たない。私達は、私達が私達の外側で起きたと見做したい出来事に対し、私達が傷つかないために、解釈したり調伏したりして、そして、安心する。安心するのは、患者ではなく、私達だ。そして、私達の安心が患者に映ると、患者は治癒したかのように行動することがある。解釈や調伏は、それ自体として、有効に機能することを証明して見せる必要はない。所謂、抑止力として、あるいは、ドグマとしてであっても、機能したかに見えさえすれば、十分だ。機能すると私達が信じていさえすれば、機能するのと同じことだ。同時代人にとって、両者を見分けることは、不可能に近い。
//織田無道は死んでいる
 ねえねえ、知ってる? 織田無道って、本当は、死んでるんだって。今、出てる織田は、[織田無頭エビ]って芸人がやってんだってよ。ほら、最近、織田って、妙に芸人っぽくない? だって、芸人なんだもん、ははは。しかも、もともとのそっくりさんに、織田の霊が憑いっちゃったってんだから、似てないわけ、ないのよね。
 織田を殺っちゃったの、誰かって言うと、大槻教授? ビンゴ! オカルト番組の本番中に、教授に悪霊が乗り移って、そいで、殺っちゃったんだって。そんときのVは、しっかり、封印されて、局のお偉いさんも知らない、倉庫の奥にしまってあるんだってよ。それを、この間、友達の友達がADやってて、偶然、見つけて、こっそり、見ちゃったんだって。
 事件が起きたのは、節季毎の改編時の特別番組の収録中だった。向かって右側にオカルト派、左側に反オカルト派が座っている。司会は、世界の巨匠、北野武。御定まりの屁理屈合戦が暗礁に乗り上げた頃、業を煮やした教授が立ち上がった。
 「私が、[私に霊が取り憑いた]と言ったら、あなたは、私に取り憑いた霊を取り除けますか。あなたが何をしても、私が[駄目だ]と言い張れば、あなたには何の力もないことになりますよ。力のないあなたの主張は、霊の存在を含めて、すべて、疑わしいものになりますよ。そういうことで、いいんですか。あなた、私の言っていること、分かりますか」
 すると、織田は、「悪霊は、調伏されたくないものだから、科学者に憑り付いて、[霊はいない]なんて言わせるぐらいだから、出任せでも何でも口走るものなんだ。私は、霊とは法力で闘うし、嘘つきとは拳法で闘ってきた。何があっても、大丈夫」と言い返してしまった。
 「じゃ、あなた、死になさい。死んで、霊になって、私に取り憑きなさい。そしたら、信じてあげます」
 言い終わるや否や、教授は、肌身離さず持ち歩いている「理科年表」を織田に投げ付けると、席を蹴飛ばし、ふわりと浮き上がった。カメラは、風のように空中を移動する教授の動きに、ついていけない。
 「近代科学の威力を、思い知れ!」
 その声を、マイクロフォンは拾っている。
 次の場面では、織田は金縛りにでもあったように動けないでいる。彼の頭に「理科年表」が、ぺちゃっと張り付き、呪術を封じているらしい。教授は、巨漢の織田を軽々と抱え、高い壇に駆け上がった。そして、力任せに、床に叩きつける。ぐしゃっと音がして、むうと織田は唸り、落命。大童の教授は、悪鬼のごとき有り様で、息も乱さず、駆け降りると、次の獲物を狙うのか、オカルト派の連中をねめまわす。その場を納めようと、男気を出した北野は、哀れだった。芸人の命である顔面に、教授の強烈な頭突きを受け、危篤に陥る。
 殿危篤の一報が入ると、ガダルカナル・タカは、「この日のために耐えて来たんだ。TAKESHIを襲名するのは、俺だかんな」と、軍団メンバーに電話をかけまくった。
 北野の代役としては、当然のように、松村邦洋の名が挙がる。しかし、ダイエットが間に合わない。着ぐるみ、着せてりゃ、分かんないよと言う者もいたが、やっぱ、まずいよ、そういうの。これまで、原稿を書いたり、映画を撮ったりしていたのはダンカンだから、本人が死んでも、仕事は続けられる。しかし、松村は、何せ、アド・リブに弱い。
 仕方なく、スタッフは、重傷の北野を路上に放置し、オートバイを倒して、交通事故に見せかける。臨死体験後、復活した北野に、そのときの記憶はない。だから、今でも、暢気な顔で、近代科学とオカルトの融合を夢見ている。自分に起きたことを知れば、無駄な努力だと分かるはずだが、彼を怒らせればどんな目に会わされるか、分かっているから、怖がって、誰も本当のことを告げない。
 北野が倒れた直後、松尾貴史が、田原総一朗の真似で、しゃしゃり出た。
 「まあ、まあ、まあ、まあ」
 教授は、松尾を見た。怯んだ松尾は、元世界の巨匠、大島渚の真似で、怒鳴りつける。
 「馬鹿野郎。おまえは、何者だ」
 「オッペンハイマー」
 「じゃ、もしかして、さっきの荒技は?」
 「原爆落とし〜」
 松尾に真似された田原が、吐き捨てるように言った。「とりあえず、CM行きます。いい? 行ける? はい、じゃ、CM」
 それから、藤本義一が真似される。
 「霊は礼、礼節に通じるんだな。いくら悪霊と言っても、礼儀ぐらい、弁えとかな、あかん」
 それを聞くと、教授は、急におとなしくなり、自分のコーナーに戻った。そして、椅子を起こし、その上に、どっかと座ると、すぐに、ゴーゴーと高鼾をかいて眠り始めた。
 数十分後、控室で目覚めた教授は、「不慮の事故で、収録が中止になった」と告げられると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、「あ、そう」と、澄まして帰って行ったという。その話を聞いて、「さすが、火の玉教授だけあって、肝っ玉が据わってるよ」と言いながら、大竹まことは、言い終わる前から自分の拙い洒落に照れまくるという、拙い芸で動揺を隠そうとしたが、隠せなかった。
 芸能界全体に、箝口令が敷かれる。警察は買収された。特番オン・エア予定時間には、警察官のお仕事を褒めちぎるドキュメンタリーが流された。
 本物の織田の死骸は、ミンチに挽かれて、社員食堂のスペシャル・ハンバーガーとして供された。一発屋とか挨拶のできない芸人なんかを[潰し]て、ハンバーグにするのは、芸能界の掟だ。「あの人は、今」でも捜し出せない「あの人」は、大体、ハンバーグになっている。TVの人間が[人を食ったような顔]をしているのは、当然だ。
 さて、あの日、照明の消えていくスタジオに、ポツンと一人、その場に根が生えたように松尾が残され、小刻みに震えながら、喋り続けていたという。
 「霊は零、ゼロに通じるんだな。零というのは、無いってことなんだな。零という字はあるんだが、零という字がないと、[無い]ということが表せないから、零という字があるんだな。零である[無]とは、有無以前の無なんだな。有無を生む無なんだな。こういうことは、ほかでもあるな。たとえば、松尾貴史という人間は、本当は、いないんだな。[松尾貴史は、いない]ということの記号として、[松尾貴史]という名前が発明されたんだな。だから、今、僕のことを真似している松尾貴史という男は、実は、いないんだな。だから、真似されている僕も、本当は、いないんだな。だったら、こうして喋ってる僕は誰なんだということになるな。僕が誰だか、分かってるか、君」
  ケント なんの意味だ、阿呆、なんにもないではないか。
  道化 それじゃあ無料奉仕の弁護士だ、せっかく弁論してやったのに、
 お礼にくれたのは「なんにもない」ときちゃあ。なんにもないものをなん
 とかできないかね、おじさん? 
  リア なんともできぬな、小僧、なんにもなければなんにもならぬ。
               (シェイクスピア『リア王』小田島雄志訳)
 それから、呪文を唱えると、道化は声だけの存在になった。その呪文こそ、[揶揄は、阿諛。阿諛は、愛。愛は、憎しみ]
 すでに、スタジオは、闇に満たされていた。
 「ふむ。分かるさ。自己とはね、時々刻々、変化する、不定形の流動体であり、思念や感情や形相によって規定され得るような何かではないのだよ。僕に分かっていることはと言えばだね、誰かに模倣されることによってのみ露呈される僕の何かがあるということなんだ。我、模倣さる、故に、我あり。でもね、模倣されることによって露呈されるのは、本当の僕の姿などではないのだよ。露呈されるのは、[本当の僕を、君は知らない]という事実、ただ、それだけなのさ」
 人には、二種類ある。子供のとき、本当のことを知らされた人と、知らされなかった人。日本の風習では、数えで七つの夏の一番暑い夜、親を信じる子供だけに、本当のことが知らされる。本当のことを知らされた子供は、本当のことを信じるおとなになる。本当のことを知らされなかった子供は、本当のことを信じられないおとなになる。本当のことを知らされた人には、[本当のことを知らされなかった人に、本当のことを信じさせることはできない]ということが、よーく分かっている。
  だが、これまでの人生を振り返ってみて思うのは、いちばん大切なこと
 を私に教えてくれたのは、学校の先生でも、大学の教授でもなかったとい
 うことだ。もうずいぶん昔の一九三九年という年に、私は暗闇の中を手探
 りしはじめた。そのとき、最初の助け、闇を照らす灯火となってくれたの
 は、科学のことなど何も知らない両親だったのである。
     (カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』青木薫訳)
//猿男の場合
 流言飛語を始末する方法はない。なぜなら、まず、何が流言飛語なのか、つまり、さまざまな噂の一つ一つが、何から始まっているのか、本気で信じられている世界観からか、大衆を操作する意図からか、世界観から遊離した[世界]からか、錯誤からか、あるいは、その他の何かからなのか、見分けることが不可能に近いからだ。そして、人間には、科学的合理性や宗教的合理性などが与えられているのだが、どの合理性が支配的な時代であれ、[世界]への入り込みに対して有効な処方箋を書くことは難しいからだ。だから、慈円は、逆手を取り、流言飛語の温床である芸能集団を、丸ごと抱き込むことにした。
  私は博士の死が惹き起こす混乱と危険を察知したので大声で言った。
  「博士は死んでいない! 主はただ姿を消したのだ! ほらあの空から見降
 ろしているぞ。掟を守らない者は罰せられるだろう」
  私は動物人間たちを睨み据えた。猿男が空を見上げながら言った。
  「主はイダイだ」
       (H.G.ウエルズ『モロー博士の島』18、橋本槇矩+鈴木万里訳)
 サラの浮ついた性向は、彼女が芸能集団に対して抱く憧れと無縁ではない。言うまでもないことだが、技芸に携わる人々が、特に浮ついた性向の持ち主に限られるというわけではない。浮ついた印象を醸し出すことがあっても、そうやって客の気を惹くのに過ぎない。もともと、どんな集団にも、浮ついた人物は紛れ込んでいるものだ。
//オーラさん
 技芸の力を信じるためには、技芸以外のどのような要素も必要ではない。宗教も哲学も政治も地縁も血縁も、必要ではない。『ビルマの竪琴』(竹山道雄)で、敵味方は、歌詞は違っていても、同じ旋律を歌うことで、互いを仲間として認め合う。その仲間とは、どのような仲間か。[人間]ではない。[歌う仲間]だ。
 技芸が技芸として存続するために、特殊な才能は必要ではない。だから、特殊な才能を大衆に受け入れられやすいように剪定するスタッフも、必要ではない。技芸を伝えるシステムがありさえすれば、技芸の集団は成立する。
 とは言え、確かに、異能の出現によって、集団は活気づく。小さな劇団や、楽団に、そのような人物が、一人ずつ、いる。二人以上いることは、まず、ない。彼、もしくは、彼女は、俳優だったり、歌手だったりする。トランペット吹きでもいい。ダンサーでもいい。彼らは、技芸において秀でているとは限らないが、どことなく、魅力がある。近頃は、[オーラが出てる]と言うようだから、[オーラさん]と呼ぼう。
 オーラさんは、技術的な修練を積んだメンバーのサポートがなければ、魅力を発揮することができない。ところで、サポートするメンバーの中に、奇妙な人物が存在する。彼は、オーラさんの魅力を表現として定着するための[世界]を提供する。彼は、オーラさんと技術者の仲立ちをする。オーラさんは、本質的には、芸能者ではないことが多い。だから、自分のために用意された[世界]が気に入らなければ、芸能生活から足を洗ってしまう。そして、自殺してしまう。あるいは、水商売に入る。あるいは、おかしな宗教に入る。たまには、真正の芸術家に成り上がる。だが、多くは、地道な生活に入り、友達のいない剽軽者として生涯を終える。
 オーラさんがいなくなれば、[世界]提供者の仕事もなくなるので、彼は、オーラさんを集団に繋ぎ止めようとする。女優と演出家は、四畳半で同棲を始める。彼は、彼女に、自分がいなければ、女優として大成しないと、信じ込ませようとする。オーラさんは、手鏡を弄ぶ。
 遠くを、豆腐屋が通るか。喇叭。出窓に、生乾きの手拭いなど、下がる。化け物の舌のように
 ある日、突然、オーラさんは失踪する。稽古場にも出て来ない。人々は、手分けして、心当たりを探す。みんなの頭は、オーラさんのことでいっぱいだから、新入りの照明係を見かけないことに気づかない。数カ月後、[結婚しました]と、カードが届く。オーラさんの隣に、眩しそうな目をした照明係が、七五三のような格好で寄り添っている。
 数年後、懐かしいメンバーが集まる。技術者達は、それぞれ、芸能界に職を得て、ちまちま、やっている。演出家は、いや、元演出家は、アルコール依存症になっている。オーラさんは、乳飲み子を抱え、二番目の子が、もう、おなかに入っている。今度は双子だ。オーラさんは、ちっとも、変わっていないね、老けた以外は。オーラさんは、抱いた子の名を呼び、あやしながら、元演出家の視線を手繰り寄せる。この子の名前、あなたから一字、貰ったわよ。え? 息を呑み、元照明係を見る。すると、彼は郷里の中学の教師になり、演劇部の顧問をしているのだが、何とも言えない、悲しいような、困ったような顔をして、元演出家に言う。僕、先輩のこと、尊敬してましたから。
 過去形で言うな、過去形で。
 彼女は、なぜ、照明係を選んだのか。彼女が求めていたものは、舞台ではなかったからだ。[世界]でもなかった。彼女が求めていたのは、自分だけを温かく包み込む、明るい光だった。
 女優は、消え物。お持ち帰りできます。
 さて、こうしたステレオタイプの生活の全体が、芸能集団を成り立たせている。芸の披露は、その生活の一部でしかない。彼らは、このような生活をするために、芸能者でいようとする。あるいは、このような生活は素敵だと、観客に思わせるために、幕を上げる。
 幕が下りても観客の拍手が鳴り止まなければ、演出家は返り咲く。カーテン・コール。オーラさんは、おなかからクッションを抜き取り、客席に放り投げる。花束が来る。わざとらしく驚いて見せ、赤ちゃんの人形を、それに頬擦りしてから、演出家に押し付ける。
 この日をもって、オーラさんは引退する。照明は、くるくると舞台を踊り回った。演出家は、オーラさんの面影を持つ新人を求め、夜の町を彷徨う。
 といった作り話で、少女を口説く飲んだくれの物語がある。君さえOKしてくれたら、メンバー、あしたにでも、全員集合なんだけどな。でも、あたし、何したらいいの。だからさあ、言ってるだろ? 
 本当は、愛だったんだよね。分かったように、観客の一人が呟く。分かるもん、だって、私もオーラさんだから。
//「単なる音」
 サラは、最終的に、阿弥陀仏の夢を「後の頼み」にする。この夢について、サラは、わざわざ、その期日を記し、「さすがにいみじくけおそろしければ、簾のもと近く寄りてもえ見たてまつらねば」などと記す。この夢は、その恐怖を重視すれば、彼女にとって切実な何かではあったように思われる。しかし、本気で阿弥陀仏を信じているのかという点になると、疑わしい。
  阿弥陀仏の教えのみがひろまり、それによって得られる救いのみが増
 していくということが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救い
 で罪障が消えて極楽へ行く人もあるであろう。しかし、そのような世には
 まだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教え
 に従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきこ
 とである。
                            (『愚管抄』6)
  猿男は自分の指も五本あるから私と同等だと考えたのか、私に途方も
 なく馬鹿げたことを話すのだった。彼は物の名を羅列することがすばら
 しい会話だと思い込んでいて、それを「偉大な思考」と呼んでいた。彼は意
 味もわからない私の言葉を丸暗記して他の者に聞かせることがよくあっ
 た。
  私が彼らの喋り方や身ぶりの変化に気づいたのは五月頃だったと思う。
 彼らは発音が悪くなるにつれて口数も少なくなっていった。猿男の無駄
 話の意味がさっぱりわからなくなって、なんとなく猿のキャッキャッと
 いう鳴き声に似てきたのである。言葉が明晰さと意味を失い単なる音へ
 と変化してゆく過程を読者諸君は想像できるだろうか。
                       (『モロー博士の島』21)
  人々はみなほかに住みあかれて、ふるさとに一人、いみじうこころぼそ
 く悲しくて、ながめ明かしわびて、久しうおとづれぬ人に、
   しげりゆく蓬が露にそほちつつ人にとはれぬ音をのみぞ泣く
                           (『更級日記』)
//別れ道
 別れ道に、女が立っている。女は、微笑している。猿田彦を迎えに出て来たか。女は、神か、宗教者か、芸能者か、物売りか、春を鬻ぐか、道に迷いでもしたか。あるいは、痴呆症。そのことは、会って話してみなければ、分からない。ところが、彼女の方でも、その気分でいるのだとしたら? つまり、彼女は、あなたに思われた通りの人間を演じるのだとしたら? 
 彼女は、孫の帰りを待っているのかもしれない。あなたは、そんなふうに思う。すると、その瞬間、彼女は、あなたに向かって、孫よと呼びかけるのかもしれない。
 あなたは、古里で草毟りをする祖母の姿を思い出す。祖母は、腰を叩いた手を額に翳し、あの長い坂道を喘ぎ喘ぎ上って来るはずのあなたの姿を探す。あなたは、見つけられ、喉の奥で叫びそうになる。
 祖母は死んでいる。
 あなたは、道を曲がる。あなたは思う。彼女は、なぜ、笑っていたのだろう。私は、そのわけを知っている。彼女は、笑っていたのではない。彼女は、なぜ、あなたは笑っているのだろうと思って、あなたを見ていた。すると、あなたの笑いが、彼女に映った。しかし、あなたは、自分が笑っていたとは思わない。笑っているように見えたとしても、その笑いは彼女のものが自分に映ったのだと思う。
 ふと、あなたは、ルーム・ミラーに、猿田彦の横顔を認める。しかし、それは、あなたの、泣き出しそうな、不機嫌そうな顔だった。
 待っているのは、あなただ。やって来るのが、彼女だ。
 あそこを通るのは、止そう。


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