『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#051[世界]11先生とA(01)「のみならず」

//「偏見」
  まあ、わたしのいうことをお聞きなさい。あの演説は勿論悉く嘘です。
 が、嘘ということは誰でも知っていますから、畢竟正直と変わらないで
 しょう、それを一概に嘘というのはあなたがたの偏見ですよ。
                        (芥川龍之介『河童』9)
  いや、僕としては、こう考えたいんですねえ。つまり、あなたのお断わり
 というのは、もちろんただ言葉の上だけにすぎない、というふうにね。
               (オースティン『自負と偏見』中野好夫訳)
  あるイヌは非常に内気なので、見知らぬ人間に自分をさわらせようと
 はしない─さわらせることができないのだとさえいえる。そのような
 イヌは、しばしばへつらうような態度をとる。彼らはしばしば、うやうや
 しくしっぽを振るから、ここにやっかいな問題が生ずることになる。経験
 を積んだ観察者だけが、イヌが、人間の触れるのを避けようとしているの
 だということ、そしてイヌにはわからない何かの理由で自分を撫でよう
 としている手の下で、ますます低くうずくまってしまうのだということ
 に気がつく。しつこい人間が不用意にも自分の気持を押し通し、実際に触
 れようものなら、おびえたイヌは自制心をなくして、攻撃してくる人間の
 手に罰を加える手厳しさで、電光石火のように噛みつくことになる。イヌ
 が噛みつく場合、その大部分は、このアングストバイセン(恐れにかられ
 て噛みつく)の例と考えることができる。この肝をつぶすような攻撃の犠
 牲者は、最初にしっぽを振ったくせにといって、ますますイヌを非難す
 る。
     (コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』「ネコめ!」小原秀雄訳)
//「のみならず」
  夏目漱石は『心』の主人公を自殺させて、自分は自殺したわけではあり
 ませんが、芥川は私小説、あるいは自伝的作家というところまで自分を追
 い詰めていったあげくに、自分自身を死なせてしまうことで結末をつけ
 ることになったんだとかんがえると、いってみれば、芥川の反復概念のい
 ちばん大きな枠組みは漱石自身だった。
                    (吉本隆明『愛する作家たち』)
  "のみならず"ということばを芥川は生涯の作品のなかに頻発するわけ
 です。(中略)この"のみならず"は師匠である漱石がわりにおおく使って
 いる表現です。(中略)「道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷い
 た石炭殻で霧雨があらわに濡れ通っていた」、この"のみならず"はもう意
 味が通らない、関係づけられないとおもいます。前の文章は「道はもう暮
 れかかっていた」暗くなっているという文章です。「のみならず道に敷い
 た石炭殻で霧雨があらわに濡れ通っていた」という。雨が降っていたこと
 と暮れかかっていることとは関係ないわけですから、この"のみならず"
 はちょっと無理ではないかということになります。
                               (同)
//「憂鬱そのもの」
   線路は油や金錆に染った砂利の上に何本も光っていた。それから向
 うの土手の上には何かしら椎らしい木が一本斜めに枝を伸ばしていた。
 それは憂鬱そのものと言っても、少しも差し支えない景色だった。
                         (芥川龍之介『夢』)
 この文を読んで、読者は、登場人物が抱いたのと同等の「憂鬱そのもの」を感じることができるか。私達は、つまり、私が私達だと思う読者は、こんな疑問を持たない。しかし、芥川(以下、A)は持ったようだ。「そのものと言っても、少しも差し支えない」という書き振りに、もどかしさが伺える。
 ここで、「それから」を「のみならず」に差し替え、「それは憂鬱そのもの」以下を削ってみる。
 [線路は油や金錆に染った砂利の上に何本も光っていた。のみならず、向うの土手の上には何かしら椎らしい木が一本斜めに枝を伸ばしていた]
  あらゆる詩人たちの問題は恐らくは「何を書き加えたか」よりも「何を
 書き加えなかったか」にある訣であろう。
                  (A『文芸的な、余りに文芸的な』37)
 人は、なぜ、沈黙に声を聞こうとするのだろう。なぜ、声から言葉を起ち上げ、意味を発見しようとするのだろう。歌われなかった愛の歌を、聞こえない耳の物語として語るためだろうか。
//「面倒」
 『歯車』における「のみならず」の用例を、面倒だが、拾ってみる。
 *「のみならず」に、特に前提が必要でない例
  彼等はいずれも快活だった。のみならず殆どしゃべり続けだった。(1)
  ベツドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかっ
 た。それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象
 だった。のみならずサンダアルを片っぽだけはいた希臘神話の中の王子
 を思い出させる現象だった。(2)
  体の逞しい姉の夫は人一倍やせ細った僕を本能的に軽蔑していた。の
 みならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。(2)
  が、硝子戸は動かなかった。のみならずそこには「定休日」と書いた漆塗
 りの札も下っていた。(2)
  僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」の芭蕉を思い出しながら、
 何か僕の一生も一段落のついたことを感じない訣にも行かなかった。の
 みならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものかを感じない訣
 にも行かなかった。(2)
  僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。のみならず
 彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた。(3)
  けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じていた。のみならずい
 つか微笑していた。(4)
  けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青
 年達が何人も群がって酒を飲んでいた。のみならず彼等のまん中には耳
 隠しに結った女が一人熱心にマンドリンを弾き続けていた。(5)
  僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。のみならずその
 動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。(5)
  僕は横町を曲がりながら、ブラック・アンド・ホワイトのウィスキーを
 思い出した。のみならず今のストリンドベルグのタイも黒と白だったの
 を思い出した。(6)
 *「のみならず」に、特に前提が必要な例
  僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の
 視野のうちに妙なものを見つけ出した。(1)
  前提[松林は、自宅付近を連想させる]
  彼は丁度獅子のように白い頬髭を伸ばした老人だった。のみならず僕
 も名を知っていた或名高い漢学者だった。(1)
  前提[彼は、僕の目を引いた]
  道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。のみならずどれも
 一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろを具えていた。(2)
  前提[樹木は不気味だ]
  それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄
 いろい表紙をしていた。(3)
  前提[黄色は不吉だ]
  僕の向うには親子らしい男女が二人坐っていた。その息子は僕よりも
 若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。のみならず彼等は恋人同志の
 ように顔を近づけて話し合っていた。(4)
  前提[僕は、母親に拘泥している]
  けれども目の前へ来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしていた。
 のみならず妊娠しているらしかった。(4)
  前提[妊婦は醜い]
  それ等の秘密を知っている彼は妙に厳かな微笑を浮かべ、いつまでも
 僕の相手をした。のみならず時々短い言葉に人生のカリカチュアを描い
 たりした。(5)
  前提[彼は、人生の達人だ]
  しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。のみなら
 ずかれの勧めた林檎はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。
 (5)
  前提[情熱は、一角獣と同様に、非現実的だ]
  僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。
 のみならずフランス語を使っていた。(5)
  前提[彼の声は聞き取りにくい]
  僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懴悔したい欲望を感じた。
 が、それは僕自身の外にも、―いや、僕の家族の外にも悲劇を生じる
 のに違いなかった。のみならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかっ
 た。(5)
  前提[僕は、懴悔すべきではない]
  それ等の一つはライプツィッヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云
 う小論文を書けと云うものだった。なぜ彼等は特に僕にこう云う小論文
 を書かせるのであろう? のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本
 画のように黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」という
 肉筆のP・Sを加えていた。(5)
  前提[女と、黒と白は、僕を苛立たせる]
  鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色さえ示さなかった。のみならずまん中
 にとまっていた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出し
 た。(6)
  前提[鴉は、人に死を告げる]
 *「のみならず」の前提が付加されている例
  タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄
 いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒を
 かけるのを常としていた)(2)
 Aは、*のような書き方をしようと思えばできた。しかし、*や*の場合のような書き方もした。もし、*のような書き方をしたくなかったのだとしたら、Aは、自分が「何を書き加えなかったか」(『文芸的な、余りに文芸的な』37)について、読者が想像することを期待していたのだろう。
//「しかも」
  するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。しかも僕を照
 らしているのは不気味にも赤い光だった。
                             (『歯車』5)
 この「しかも」の用法も、「のみらず」の用法に似ている。
 ここには、[「不気味に」「揺れている」]とか、[「不気味に」「赤い」]ということが記されているのではない。「影」と「光」が「不気味」である理由は、常識では分からない。だから、「僕の影の左右に揺れている」ことと、「赤い光」とを、ともに「不気味」と形容するような文が、「しかも」の裏側に隠されていると考えなければならない。
 こうした、言わば傷物の文は、Aの作品の至る所に見える。文を傷物にする目的は、何か。あるいは、傷物の文を訂正しないでおいた理由は、何か。Aが自分に固有の出来事や感想などを、読者にとっても既知であるかのように見せかけ、読者に、文の傷を手掛かりにして、Aが隠した文を発掘しなければならないような気にさせるためだ。
 Aの期待に応えて読者が復元した文を含む『歯車』は、[異本『歯車』]だ。そして、このような異本群が出現した暁には、『歯車』は、日本文学の[世界]カタログに登録される。こうした見取り図を脇に置きながら、Aは、『歯車』を執筆していた。つまり、『歯車』は、実在しない[原『歯車』]を[世界]化するための異本第1号だ。堂々巡り。
//「前や後ろ」
 『歯車』において、病気や偶然の一致が不思議な出来事のように思えるとしたら、書き手は、その辺りに、読み手が復元すべき文を隠しているはずだ。異変の多くは、もし、文に傷がなければ、読み飛ばしてしまいそうなことだ。
 例えば、木の「前や後ろ」(『歯車』2)など、造園家にとっては、日常的な感覚だろう。[黄色の自動車に乗っていて事故に遭い、黄色そのものを毛嫌いするようになる]のも、ありふれたことだ。空耳は、ありふれている。異臭の元を知るのは、難しい。通りすがりの誰かが転失気を放ったのかもしれない。履物が見えなくなるのも、ありふれている。もしかしたら、Aは、履物が何かを連想させて不快なので、どこかに蹴り込んでしまったのを、忘れているのかもしれない。自分の分身なんて、『粗忽長屋』ほどの本当らしさもない。何でも自分に対する当て付けのように思うのは、変と言えば変だが、道を歩いていて声がすれば、誰だって、一応、振り返る。知的動物には、参加の習性がある。歯車のようなものが見えるのは、心の病気よりは、眼病か脳疾患を疑うべきだろうが、しかし、例えば、閃輝暗点というような術語を知ったところで、語り手は、精神的な[正常/異常]という文脈を捨てはしまい。
 [正常/異常]は、個体としてのAの精神についての問題というよりも、まず、文の問題として見て取れるはずだ。Aは、文を正確に書いていない。だから、個体としてのAに起きていることが何か、読者が正確に知ることは、極めて難しい。この難しさを飛び越えてくる読者を、作者は待ち望んでいる。
 [作者が埋設した文を読者が発掘するとき、作家と読者の間で、親密なような、独特なような何かが生まれる]と、作者は思っている。Aは、文学の送受信を、[作者と読者の異本ごっこ]と見做していた。作者は、原稿用紙の裏に書いた[作者と読者の異本ごっこ]のための[世界]を透視しながら、作品を拵える。こうした倒錯的創作法を、自己[世界]化と呼ぶことにする。Aにとって、作家業は、いわば、副業に過ぎなかった。本職は、自己[世界]化という、裏の仕事だ。
//「最後の一筆」
  見なさい、若いの。かんじんなのは最後の一筆だ。ポルビュス君はそれ
 を百ぺんもやったのさ。わしはな、ただの一筆だ。だが最後の一筆の下に
 どれほどの苦労があるものか、そこをくんで満足の意を表してくれるも
 のは一人もいない。よく覚えておきたまえよ。
          (オノレ・ド・バルザック『知られざる傑作』水野亮訳)
//「世界の鍵」
 自己[世界]化は、「みづから神にしたい」(A『或旧友へ送る手記』)という野心の表出と言える。神にとって、現実は真実の[異本]だろう。Aにとって、作品は[書かれざる傑作]の[異本]だ。
  また(アッラーの)お手元には目に見えぬ世界の鍵まで全部揃っている。
 ほかの者は誰一人(その鍵のありか)を知りはせぬ。陸上のこと海上のこ
 と一切御存知で、木の葉がたった一枚落ちても必ずそれを知り給う。地下
 の暗闇にひそむ穀粒一つも、青々としたものも、朽ち枯れたものも、一切
 は皓々たる天書に書きつけてある。
                    (『コーラン』6-59、井筒俊彦訳)
//「しみじみ」
  すぐれた俳句は─そのなかの僅かばかりをのぞいて─その作者の
 境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ、前書なしの句といふもの
 はないともいへる、その前書とはその作者の生活である、生活といふ前書
 のない俳句はありえない。その生活の一部を文学として書き添へたのが、
 所謂前書である。
        (種田山頭火「行乞記」昭和5年12月7日、「山頭火句集」解説)
 一般に、[伝記は、ある人物の業績から逆算して捏造された物語だ]と言える。ところが、この俳句作者は、「すぐれた俳句は(中略)その作者の境涯を知らないでは十分に味はへない」と主張する。俳句の価値が俳人伝によって決まるというのだが、俳人伝は俳句の価値が決定した後にしか出現しないはずだから、堂々巡りだ。
 もともと、「作者の境涯」を知っていれば、「すぐれた俳句」でなくても、いや、俳句どころか、文にもなってもいないような、他愛のない片言であっても、「十分に味はへ」ると、私は思う。
 読者は、「作者の境涯」を知る前に、知るべきことが山ほどある。その一つは、文法とか、構文と言われるような、その言語に特有の規則だ。次に、語彙。そして、[世界]カタログ。カタログの中には、故事成句の類いも含まれる。この三つを準備していて、なお、「十分に味はへないと思ふ」ような作品にぶつかったとしたら、私は、その作品の「作者の境涯」を知りたいと思うどころか、その作品にぶつかったことを悔やむ。
 勿論、俳句に限らず、何にでも、「前書」のようなものがあるのは、悪くない。あって困るものではない。あって困るのは、むしろ、作者の方ではなかろうか。「前書」のようなものは、いろんな人が、いろんなふうに書く。その中には、実際の「作者の境涯」とは異なる「前書」もあろうし、作者の意に染まない「前書」もあろう。こうしたリスクを、俳句作者は、恐ろしく小さく見積もるのだろうか。あるいは、俳人は、どんな「前書」が出現しようと、ほのぼの、旅を続ける気か。
 「前書とはその作者の生活である」と主張されているから、「前書」とは、ここでは、文書にはなっていないものを指すらしい。話し言葉でもない。現実の生活のことらしい。しかし、「生活」は誰にでもあるはずだ。「生活」のない俳句というものは、当然、「ありえない」ことになる。はて、この俳句作者は、何を書いているつもりか。
 [作者の生活が反映されていないような俳句は、価値が低い]とでも言いたいのだろう。しかし、作者の生活は、「所謂前書」として書かれていない限り、読者の手には入らない。だから、「生活」が反映されているかどうか、作者以外の誰にも、分からない。ということは、[俳句の価値は、作者本人にしか、分からない]ことになる。では、ここでは、そういう主張がなされているのか。違う。違うけれど、正解に近い誤解だろう。
  しみじみ食べる飯ばかりの飯である
  草にすわり飯ばかりの飯をしみじみ
  草にすわり飯ばかりの飯
 この三つの句がこの順でできたと考え、三句を合わせて一個の文章として眺めていると、浮かんで来そうな文脈がある。この文脈が「前書」を形成すると考えて、良いか。しかし、その文脈は、後からできた物語なのだから、「前書」というよりは、[後書き]と言うべきだろう。[後書き]を「前書」として捏造したもの、つまり、「文学として書き添へたのが所謂前書」なのだろうか。
 そうだとしても、ここに浮かんで見える文脈は、「作者の生活」ではない。
 [主人公は、粗末な食事に不満を感じなくなっている自分に気づく。不満どころか、微かな喜びさえ感じていた。その気分を言葉にすれば、「しみじみ」となる。ところが、やがて、「しみじみ」している自分が草に座っていることに気づく。その瞬間、感傷を忘れた。ちょっぴり、超絶した]
 こんな「前書」があると、三番目の俳句が「十分に味はへ」ると主張されているのか。違う。この誤解は、正解から遠ざかったようだ。
 この俳句作者は、別のところで、「生活過程」(山頭火『旅心』)という言葉を出している。「生活過程」とは、どのようなものか。
 「草にすわり」という言葉によって、有間皇子の「家にあれば」(『万葉集』2)の歌が[世界]として選ばれた。「しみじみ」という素朴な言葉は、この[世界]に包含されていると見做され、「しみじみ」が削除される。「しみじみ」が「草にすわり」に置き換わる過程が、制作過程ならぬ、「生活過程」だ。この過程が、単なる制作の過程ではなく、「生活」的な過程だと考えられているのは、二番目の句で両者が共存していたことからも分かるように、「しみじみ」という感傷が[世界]に包含されるためには、作者の気分として、実際に、ある程度の時間が必要だったという理由による。芸術家は、芸術の伝統に、知識や技術だけで参入するのではない。「生活」の中で、知識や技術が熟成する時間を必要とする。
 「生活過程」という言葉から想像されるのは、[一番目の句における感傷が部分否定され、三番目の句で確かな実在感として達成された]といった物語だ。しかし、この物語を、私は、「前書」として採用しない。なぜなら、この物語を正確に記せば、[一番目の俳句における、(作者のものだった)感傷が部分否定され、(作中人物の)確かな実在感として達成された]といった物語になるはずだからだ。つまり、この物語において、実在の俳句作者は、虚構の俳人に変化している。だから、作者の主張する「生活過程」とは、[生活を素材にして虚構を作る過程]だということになる。この過程は、むしろ、実在の人間が「生活」を喪失する過程だ。
 俳句作者(達)は、自作の俳句に「前書」を必要とした瞬間、俳句を作った自分と、自作の俳句に登場する人物とに、分裂してしまうことになる。だが、この分裂は、実生活において、奇跡を起こす。読者の側で、俳句作者の生活と、作中人物である俳人の生活との統合が進行するからだ。もともと、俳句は、互いが作者であり、同時に読者でもある人々が、互いの「境涯」を知り合う目的で発展したようなものだから、[「その作者の境涯を知らないでは十分に味はへない」と思われるような俳句が、「すぐれた俳句」だ]と、最初から、定義されているようなものだ。「作者の境涯を知らない」でも「十分に味はへ」そうな「すぐれた」作品は、川柳にでも分類すれば良かろう。
 さて、Aは、俳句業界では習慣なのかもしれない、「生活過程」発掘を、小説業界にも定着させたいと願った。Aは、小説を、交際の口実にしたかったのだろう。[Aは、小説の種が切れて、自伝的作品に手を染めた]ように見えるが、Aが小説を書く目的が、その小説の「前書」である、作者の「生活過程」を暗示するためだったとすれば、自伝的作品に至るのは、時間の問題だったと言えよう。
 ところが、ことは、そう簡単には運ばない。自伝的小説の作者の「生活過程」である、自伝的小説の「前書」を書けば、それも、また、自伝的小説になってしまう。小説となった「前書」にも、また、「前書」が必要になる。物語は、自然に、後ろへと伸びるのに、「前書」は前へと伸びるから、本文は前後に引き裂かれる。個体としての作家Aは、語られるAを創造する過程で、「生活」を喪失し、[現実のA]と[虚構のA]に分裂し続ける。
 詩歌に詩歌で応答する伝統はあるが、物語に物語で応答する伝統はない。小説は、小説家同士が知り合うための口実ではないから、[現実のAと虚構のAの分裂を、奇跡的に統合してやろう]という小説家は、滅多に出現しない。奇跡を起こそうとする小説家は、Aの伝記作家には成れても、自分の小説を書くための時間と労力を失う。


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