『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#052[世界]12先生とA(02)「……」

//「A先生」
  私は墓地の手前にある苗畑の左側から這入って、両方に楓を植え付け
 た広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端れに見える茶店の中か
 ら先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡の縁が日に光るま
 で近く寄って行った。そうして出抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生
 は突然立ち留まって私の顔を見た。
  「どうして……、どうして……」
                           (N『こころ』5)
  「何か御用ですか?」
  「いえ、唯お目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」
  僕はもうその時にはちょっと帽をとったぎり、彼を後ろに歩きだして
 いた。先生、A先生、―それは僕にはこの頃では最も不快な言葉だった。
 僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。しかも彼等は何かの
 機会に僕を先生と呼びつづけていた。僕はそこに僕を嘲る何ものかを感
 じずにはいられなかった。何ものかを? ―しかし僕の物質主義は神秘
 主義を拒絶せずにはいられなかった。僕はつい二三箇月前にも或小さい
 同人雑誌にこう云う言葉を発表していた。―「僕は芸術的良心を始め、
 どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである。」……
                             (『歯車』2)
 語られるAが「あらゆる罪悪を犯している」という事実は、どこにも語られていない。きちんと読めば、「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」と書いてあることが分かるが、そもそも、「あらゆる罪悪を犯している」ような人物など、実在しそうにない。「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」という文は、その内容ではなく、その文自体が怪しげなものだ。勿論、この文は、誇張のつもりで書かれているのだろう。しかし、この文のどの部分が誇張なのか。「あらゆる」か。「信じていた」か。「罪悪」も誇張か。もしかして、「僕」も誇張か。どの部分の熱を冷ませば、合理的な文に格下げできるのか。
 [人間は、「僕」と語り出すこと、そのこと自体によって、自己自身を「あらゆる罪悪」の温床に変えると、Aは「信じていた」のかもしれない]という意味か。
 [語られるAには、「あらゆる罪悪」らしきことを犯す可能性があると、語り手Aは「信じていた」みたいに語る]という意味か。
 [語られるAは、「あらゆる」異本『歯車』で、個別に「罪悪を犯している」と、語り手Aは「信じていた」かのように語る役目を果たす]という意味か。このとき、語り手Aは、『歯車』作者に近い。勿論、作者は、語り手Aや語られるAと、自分とを、読者に同一視してもらいたいのに違いない。だが、牧歌的な地平において、語り手Aと『歯車』作者は、溶け合っていない。
 この『歯車』作者は、未来に出現するかもしれない『歯車』異本群の中で語られるAが、それぞれ、「罪悪を犯している」様子を想像している。この想像上の異本群の出現の時期は、想像の中では、過去になっている。[原『歯車』]は、その過去の、さらに過去において、完成しているはずだ。Aは、[原『歯車』]作者ではない。異本第1号である、この『歯車』の作者だ。
 この異本作者は、単純に物語を拵えるのではない。拵えかけた物語を、拵える先から解体し、個体としての作家Aの伝記の一部に、あるいは、彼の人生の物語の暗喩に作り替えようとする。そのとき、基本的な[世界]となるのが、[まだ/ついに]出現しない、彼自身の人生の物語だ。
 Aは、こうした自己[世界]化の技法を、夏目漱石(以下、N)から学んだつもりだ。『こころ』の「先生」と、「夏目先生」と、「A先生」の共有部分は、「先生」という尊称によって象徴されているが、自己[世界]化は、この「先生」達がしでかすことだ。
  するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこ
 れ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通った
 ことのない建物だった。十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少なくと
 も平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」の芭蕉を思い
 出しながら、何か僕の一生も一段落のついたことを感じない訣には行か
 なかった。のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものか
 を感じない訣にも行かなかった。
                             (『歯車』2)
 [「先生」という言葉から、「夏目先生」を連想し、墓地へ足が向いた]という作文を、語り手Aは退ける。「何ものか」が、気まぐれでもなく、「良心」でもなく、「夏目先生」の霊魂でもなく、「神経」であることをコンセンサスにしたいからだ。作者の「神経」は、語られるAにとって不快なことであっても、実現してしまう。[そういうことって、言われてみれば、ありがちよね]みたいなことを、読者に思わせたがっている。
 さて、この場面で、Aが「憂鬱」(『歯車』2)になるのは、「夏目先生」の到達したかもしれない境地に達していないからではない。『こころ』に拮抗すべき作品を持たないからだ。しかし、この「憂鬱」は、語られるAや、語り手Aのものではあっても、作者のものとは言い切れない。作者は、[自分は、今、『こころ』に拮抗する作品をものしつつある]と考えているからだ。その作品とは、この『歯車』だ。
 [『こころ』で、Nは、個人的な心象を[世界]として執筆することに成功した]と、Aは思った。Nにとっては必ずしも自覚的ではなかったのかも知れない、自己[世界]化の技法を、Aは意図的に試みる。作品内部の異変は、異本間の齟齬を意味する。Aは、この齟齬を、あくどく見せつけながら、読者に囁く。
 [見せかけの言葉の奥にある、別の言葉を拾い出せ。作者が「書き加えなかった」(『文芸的な、余りに文芸的な』37)言葉を復元せよ。『歯車』の異本を作り、『歯車』を日本文学の古典にせよ]
 この『歯車』は、[原『歯車』]の異本に過ぎない。そのことを、作者は、手を替え品を替え、暗示する。作者は、この『歯車』以外の異本の出現を期待するが、その期待は、この『歯車』では叶えられない。その代わり、誰かの異本の中のAが、物語の外側をうろつく。ただし、その気配だけだ。「Doppel gaengerは仕合せにも僕自身に見えたことはなかった」(『歯車』4)という。このAは、別の異本の語り手Aではない。別の異本で語られるAだ。
//「第二の彼」
 分身Aは、[Aが語る/Aの物語]では、噂の中に登場するだけだが、[Aには語り得ぬA/の物語]では、実在する。[Aには語り得ぬA/の物語]とは、[Aには語り得ぬ/Aの物語]が間違って区切り直されたものだ。[Aには語り得ぬ/Aの物語]とは、[人々が語る/Aの物語]のことだ。[人々が語る/Aの物語]と[Aが語る/Aの物語]の齟齬が決定的であるように思われながらも、そのどちらにも心理的な軸足を置けないでいる状態を、Aは再現しようとする。人々と自分の疎隔感を、Aは、[自己分裂]として、暗示する。
  「彼」の言葉を理解するものはいつも「第二の彼」であろう。しかしその
 「彼」も亦必ず植物のように成長している。従って或時代の「彼」の言葉は
 第二の或時代の「彼」以外に理解することは出来ないであろう。いや、或時
 代の彼自身さえ他の時代の彼自身には他人のように見えるかも知れない。
 が、幸いにも「第二の彼」は「彼」の言葉を理解したと信じている。
                         (A『十本の針』10)
 「罪悪を犯している」(『歯車』2)のは第一のAで、「罪悪を犯していることを信じていた」(同)のは第二のAだ。そして、「罪悪を犯していることを信じていた」と語るのは、第三のAなのだろう。
 Aの「罪悪」とは、何か。自伝の異本作者であることだ。Aは、自分で自分の言動を後付けできなくなるほど、自伝の異本を増やし、混乱する。つまり、その場凌ぎの思いつきを口にする。その場凌ぎの思いつきを、人々は、嘘と呼ぶ。しかし、Aの語彙では、嘘ではない。
 [借りた金を返す気はないが、盗む気はない]という弁明を、嘘と呼ばず、別の言葉で呼んでみても、事態に大きな変化はない。要するに、溜まりに溜まった借財を取り立てるように、[Aの物語]群が、中年のAに襲いかかる。
//「……」
  三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつ
 ぶったまま、烈しい頭痛をこらえていた。すると僕の目匡の裏に銀色の羽根
 を鱗のように畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはっ
 きりと映っているものだった。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天
 井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにし
 た。しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。僕はふとこの
 間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついていたことを
 思い出した。…… 
                             (『歯車』6)
 「……」という記号は、原典や異本との断層の標識で、この段落は、[原『歯車』]の錯簡と見做される。不連続の文に過剰な意味付けがなされていないから。第二のAが[原『歯車』]を再読しているところと考えてもいい。
 ここへ、Aの「妻」が現れ、Aの死を予告する。[「妻」の物語]では、予告ではなく、心配というのだろう。「妻」の心配は、[語られるAの知らない/「妻」の物語]に属するので、[Aの物語]の語り手Aには、語ることができない。
 言うまでもないことだが、作者なら、どのようにでも作り替えることができる。作者は、語り手Aを退場させ、『薮の中』でやったように、[「妻」が語る/Aの物語]を起動することができる。その結果、『薮の中』発表後の日本人にとって成句であるところの「薮の中」状態に、作者自身が陥るとしても。
 [「妻」が語る/Aの物語]を含む[A以外の人々が語る/Aの物語]は、Aにとって、「地獄よりも地獄的」(A『侏儒の言葉』「地獄」)であるところの「落丁の多い書物」(「人生・又」)であるところの「人生」(同)に、Aを突き落とす。
 「地獄よりも地獄的」という言い回しは暗示的だ。これは[AよりもA的な人物]の存在を仄めかす。[AよりもA的な人物の物語]を、Aは知らない。それは、[AよりもAをよく知ると主張する人々が語る/Aの物語]だ。[AよりもAをよく知ると主張する人々]とは、Aの保育者(達)のことだ。保育者(達)は、Aの人生を「地獄よりも地獄的」なものにする。
 [「妻」が、Aの憂悶に同調し、心配すると、その心配が妥当であればあるほど、「妻」は、Aの保育者に似た存在となり、Aの「人生」を「地獄的」なものに変える]と、Aは予感する。
 「妻」が予感したAの死は、「妻」が語られるAの変化を望んでいることの表出に過ぎまい。普通に言えば、[Aの妻は、Aの回復を望む]という文になる。しかし、[Aの回復]は、[Aの物語]では、作家廃業、そして、餓死を意味する。
 実際には、Aは、生きることを止める必要もないし、作者であることを止める必要もなかった。[Aの物語]の語り手であることを止めるだけで、十分だった。厳密に言えば、[Aの物語]を前提として仄めかすような作品の語り手であることを止めれば良かった。そして、単なる作者になる。死人ではなく、詩人になる。心の赴くままに、「叙情詩」(『或阿呆の一生』37。以下、『阿呆』)を作り続けるという方法が、あることはあった。
//「夢の冒険」
  「ね、アルベルティーネ、ぼくたちはどうすればいいんだろう?」
  アルベルティーネはほほえんだ。ちょっとためらってから口をひらい
 た。
  「運命に感謝すべきではないのかしら。あらゆる冒険から無事に抜け出
 てこられたんですもの。現実の冒険と、夢の冒険と─」
  「ほんとうにそうだと思う?」
  フリドリンはたずねた。
  「ええ、思いますとも。一晩の出来事が、一生の出来事の全部を合わせた
 よりも、もっとその人の心の底をあらわすことがあるものなのよ」
  「それにどんな夢も─」
  ほっとして吐息をついてフリドリンが言った。
  「けっしてただの夢ではない」
  アルベルティーネは彼の顔に両手をそえて、いとしげに胸に押しあて
 た。
  「わたしたち、いまやっと目がさめた」
  つづいて、つけたした。
  「これからさきも、このまま─」
  ずっと、ずっと、とフリドリンは言おうとしたが、その先にアルベルティ
 ーネが指を彼の唇にあてて、ささやいた。
  「さきのことを言ってはだめ」
      (アルトゥーア・シュニッツラー『夢小説』池内紀+武村知子訳)
//「奥の間」
  彼は退屈のうちに細いながら可なり鋭どい緊張を感じた。その所為か、
 島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子の葢を通して油煙に燻った洋燈の
 灯を眺めていた時とは全く変っていた。
  「隙があったら飛び込もう」
  落ち込んだ彼の眼は鈍い癖に明らかにこの意味を物語っていた。自然建
 三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。然し時によると、そ
 の身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付を与えて
 遣りたくなる場合もあった。
  その時突然奥の間で細君の唸るような声がした。建三の神経はこの声
 に対して普通の人以上の敏感を有っていた。彼はすぐ耳を峙だてた。
                           (N『道草』49)
 建三と島田の会話を盗み聞きしていた「細君」は、「緊張」に耐えられなくなり、「奥の間」に逃げ込み、発作を起こす。「細君」は、島田に介入されることによる自分の苦しみを夫が承認しないので、孤独と不安からパニックを起こす。そういうのが癖になっている。
 「細君」の発作は、建三には「突然」だと思われる。しかし、「細君」にとっては、自分の口で説明はできなくても、「突然」であろうはずがない。[建三の物語]における「突然」という言葉は、[「細君」の物語]では「自然」と語られるはずだ。この二つの物語を融合するために、超常的な概念は、必要ではない。「神の前に己を懴悔する人の誠」(同54)も、「慈愛の心」(同54)も、余計だ。「懴悔」そのものが、まどろっこしい。欠けているのは、ちょっとした語り合いだろう。
 私の「自然」な動きは、しばしば、他人から見れば「突然」であり、また、私の目には、他人の動きが、しばしば、「突然」に見える。このことは、不可避だ。だから、私達は、自他の相違を乗り越えようとはしないはずだ。適宜、語り合いによる妥協を図る。だから、生活の問題は、自他の相違などにはない。ところが、Nは、問題がそこにあるかのように記す。なぜか。語り合いを拒みたいからだ。なぜか。語り合いの過程で冷静さを無くし、損を承知で、「飢えたような相手の眼に、落付を与えて遣りたくなる場合」が、しばしば、あるからだ。
 一つ屋根の下で暮らす限り、語り合いは、「学校の講義よりも遥かに大切」(同54)だ。「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」(同65)なんて、嘗めてかかってた日には、いつ、寝首をかかれても、知らないよ。しかも、こういう思想を奉じるのなら、建三は、島田と「一所にいさえすれば」という仮定を検討しなければならないはずだ。さらには、この思想を「敵」に押し付けることは、もし、「敵」が真っ当な闘いを望んでいるときには、最大の侮辱と取られ、無事で済む話も無事では済まなくなる。
//「私は死んだ」
  私は死んだ。
  私はいまどこにもいない。
  イタリヤの天は美しかった。
                     (草野心平『ケロッケ自伝』)
 ケロッケが「私は死んだ」と語ることは、不合理ではない。しかし、「どこにもいない」はずの語り手が語り続けることは、不合理だ。ただし、「どこにも」という言葉に条件をつけて、例えば、[私はいま(あなたがたの知る)どこにもいない]などと言ったつもりなら、不合理ではない。
 [ケロッケは、いま、どこにもいない]という文があって、それを「私の名前はケロッケという」(同)という文と合成して、[ケロッケという名前の私は、今、どこにもいない]という文を作ることができる。勿論、この文が、『ケロッケ自伝』に含まれるのは、おかしいようだが、例えば、[日吉丸物語]の中で、日吉丸が名前を変えても物語は続くのだから、ここでは、[元「ケロッケ」の物語]が続くと考えれば、筋は通る。
 一般的には、[いま、ここにいない私]というものについて、どのようにも考えようがない。[今、私が、ここに、いないとしたら]と仮定することは、極めて、ありふれているが、そのときの話題は、[私]ではなく、[ここ]だ。
 [ケロッケは、今、どこにもいない]と語ることは、ケロッケ以外なら、誰にでもできる。だからと言って、[ケロッケ]を[私]に置き換えて、「私はいまどこにもいない」という文ができたから、この文が示す状況も発見できるはずだと考えるのは、おかしい。状況はなくても、文はある。
 文法的にはおかしくないのに、指し示す状況などが見つからないような文に出会えば、読者は、語り手を飛び越えて、作者の意図を詮索する。作者の意図を仮定するからには、当然、作者の実在が前提となる。この作者は、言葉によって、いや、言葉によってのみ出現した存在だ。言葉によって何かを出現させるのが詩歌の機能だとすれば、[『ケロッケ自伝』作者は、自己自身を出現させた詩人だ]と言うことができる。
 この詩人は、[人々に語られる私]を囚人のように感じ、[私について語る私]を幽霊のように感じ、そのどちらの[私]をも拒否する姿勢を示したかったのだろう。そして、その姿勢を保つことができさえすれば、「イタリヤの天」が美しかろうが汚かろうが、「イタリヤ」が月面だろうが、地獄だろうが、何でも成立してしてしまうと思ったのだろう。[何でもあり]という可能性を示すために、「イタリヤ」云々の一文が置かれている。
 [人々に語られる私]と[私について語る私]とを消去しさえすれば、特徴のない言葉でも、それを詩と強弁することが可能になると、詩人は考えた。そして、まあ、長生きした。
 言葉が作り出す、自由な仮想空間を、現実に作り出そうとする錯誤が、自殺だ。イタリアを歌うのではなく、イタリアに行ってしまうような錯誤だ。語り手が退場するのではなく、登場人物が死ぬように、個体としての作家があの世へ行ってしまうのが、自殺だ。
  若し僕の神経さえ常人のように丈夫になれば、─けれども僕はその
 為にはどこかへ行かなければならなかった。マドリッドへ、リオへ、サマ
 ルカンドへ、……
                             (『歯車』5)
 ここに羅列された地名は、言わば、歌枕だ。ただし、出典不明。
  ジョディも、そのことを心配した。しかし、それは物語の登場人物にたい
 する心配に似ていた。おばあさんもオリヴァもフラッフもトウィンクも、
 物語のなかの人物のように川をくだって消えさった。オリヴァは、彼がい
 つか話してくれた遠い異国の物語の人物になってしまった。そして、いま
 その物語には、おばあさんとトウィンクとフラッフがくわわっていた。
  「おまえのことはわすれないよ。たとえシナ海へいってもな」とオリヴァ
 はいった。遠くはなれたところにいるオリヴァを思い、また、彼が、彼と同
 じ架空の人物のために苦しめられているのではないかと思うとき、いつも
 舞台はシナ海だった。
         (マージョリ=K=ローリングズ『子鹿物語』大久保康雄訳)
//「誰か」
  それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。―僕はもうこの先
 を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているの
 は何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め
 殺してくれるものはないか? 
                             (『歯車』6)
 ここに来て、不意に、カメラ目線のA。読者への挑戦? だったら、当時の読者で、Aを殺しに行ったものはないか。Aの言葉を理解するものはなかったか。あるいは、「嘘に依る外は語られぬ真実」(『侏儒の言葉』「虚偽・又」)を読み取り、傍観していたか。その後、「真実」と歴史的事実の間に齟齬が生じるわけだが、でも、構わないか、どうせ、文学なんだから。
 語り手は、なぜ、殺害依頼の形式を採用するのか。「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」という文の、どこからどこまでが、[文学]なのだろう。全部が、そうか。「殺して」というのが[文学]か。「誰か」も[文学]か。あるいは、「僕」が[文学]か。「?」も、そうか。
 しかし、結果的には、個体としての作家Aは、誰にも殺されず、自分で死んだ。個体は死ぬべくして死ぬのだから、死そのものについて、特別の問題はない。考えるべき問題は、[なぜ、Aは、殺害依頼をしておきながら、自殺してしまったのか]ということだ。作家Aは、殺されるのを待てなかったのだろうか。いや、自分が他人に殺してもらえるとは、本気で信じていなかったのだろう。本気で信じていないことを、なぜ、書いたのか。[文学]だからか。
 殺されることに重要な意味があるのではなさそうだ。Aは、自殺できないと思っていたのだろう。そのことの表現として、殺害依頼が形式として採用される。すると、[文学]になるのだろう。
 では、なぜ、Aは、自殺できないと思ったのか。
 語られるAは、死ぬ予定をしている。しかし、[Aが語る/Aの消滅の物語]は、記されない。もともと、こんな物語は、言葉遊びとしてしか、成り立たない。
 作者について言えば、[作者とは、創作機能を擬人化したもの]だから、死とは無縁だ。
 [「書きつづける力を持っていない」から、「殺してくれ」]という文がターゲットにしているのは、語り手Aだ。語られるAも、作者も、「書きつづける力」の有無によって、生きたり死んだりなど、しない。
 では、語り手Aは、なぜ、作家Aのように自殺しないのだろう。理由は、簡単だ。語り手Aは自殺できないからだ。[死んだAが語る/Aの物語]は、語り手Aが「神秘主義」(『歯車』2)を奉じないので、成り立たない。
 作者は、[「妻」が語る/Aの物語]と[Aが語る/Aの物語]がニアミスを冒したために、[「妻」が語る/Aの死の物語]が、[Aが語る/Aの死の物語]として実現しそうだという、確信めいた「恐ろしい経験」(同)を記し、擱筆する。だが、言うまでもなく、こんな確信は成り立たない。作者は、[Aの物語]の語り手として、「妻」を選びたくなかっただけだ。
//「誰か」
 一般論として、ある出来事の[体験談]と、その談話を整理して作り上げた[調書]と、その[調書]から作り出された[作品]があるとする。その場合、[体験談]の元になる[体験]の体験者が、『歯車』では、語られているAだ。この[体験談]そのものは、『歯車』読者には入手できない。実在するものは、語り手Aによって、[調書]に作り直されたものだけだ。ところが、この[調書]そのものが、『歯車』なのではない。『歯車』は、語り手Aに語らせるという形式で作り出された[作品]だ。そして、この[作品]を作っているのが、作者だ。この[作品]は、[体験談]以前の[体験]を暗示するが、[体験]そのものではない。[体験]そのものは、言葉ではない。少なくとも、言葉だけではできていない。
 『歯車』で見落としがちなのは、[体験談]の消失という事実だ。『歯車』作者は、語られるAの[体験談]に見せかけながら、実は、[体験]を暗示しているのに過ぎない。作者は、語られるAに[体験談]を語らせないために、語り手Aに語らせているようなものだ。
 語られるAの[体験]は、語られるAには、必ずしも、了解可能ではなかったはずだ。了解可能ではない[体験]を了解可能な[調書]に作り替える段階で、異変が作り出される。あるいは、小さな異変が誇張される。だから、[異変は、異本と同時に出現する]とも言える。[Aに起きた、瑣末な異変/の物語]は、[運命的な異変を体験しつつあったA/の物語]に作り替えられる。
 語り手Aは、聞き手に、物語の全体の流れから目を逸らさせ、語られるAに注目させる。そして、その間に、作者は、怪しげなことをしている。語られるAは、物語の中で、聞き手を捜し求めるが、適当な聞き手には、ついに出会えない。一方、語り手Aは、どこからか、聞き手を調達している。
 なぜ、生活するAには聞き手が存在しないのに、ものを書くAには、聞き手が存在するのか。この問題が無意味に見えるのだとしたら、問題の立て方が悪いのだろう。
 なぜ、Aは、自分の体験を語ることによって、実在の誰かと、幻想としての生活を共有しようとはせず、書くことによって、聞き手を確保したかのような生活の幻想に入り込むのか。
 こう問えば、身も蓋もないのだろうか。
 身も蓋もないような結論の一歩手前を、語られるAは、さまよう。語り手Aは、[語られるAの語り得ぬ物語]が、聞き手の不在によって、生まれたものであるかのように語る。しかし、語り手Aの行き詰まった場所は、作者の目的地だった。語られるAが聞き手を確保できないという状況を示す間に、語り手Aは、自分の聞き手を調達してしまう。あるいは、そのような錯覚を、読者と共有する。失敗は成功の元。
  わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを
 作り出すであろう。
                   (『侏儒の言葉(遺稿)』「民衆・又」)
 「わたしを造り出したもの」とは、何か。「わたし」の両親ではあるまい。では、日本の社会か。そんな雰囲気だが、雰囲気に巻き込まれてもね。
 「わたしを造り出したもの」とは、[「わたし」の物語]作者のことだ。[「わたし」の物語]の作者は、その異本を「作り出す」ことができる。「わたし」は、「誰か」となり、文学の伝統の中で、永遠に生き続ける。複製可能な「わたし」こそ、[失敗者Aの物語]が[世界]カタログに登録されるための、重要な要素だ。
 『歯車』の語り手Aは、彼自身に代わって、「この先を書きつづける力を持って」(同6)いると「錯覚」(A『文芸的な、余りに文芸的な』39)できるような「誰か」を募集している。語り手Aを殺すことができるのが、この「誰か」だ。
  僕の書いた言葉はたとい僕が生まれなかったにしても、誰かきっと書
 いたに違いない。(中略)僕はこう考える度に必ず妙にがっかりしてしま
 う。
                 (A『続文芸的な、余りに文芸的な』2)
 では、なぜ、Aは、「誰か」を求めるのか。
  それは彼の目のあたりに彼のカリカチュアを見たかったからである。
          (A『三つのなぜ』3「なぜロビンソンは猿を飼ったか?」)
 なぜ、ロビンソンは、フライデーに言葉を教えたか。「目のあたりに彼の」何を「見たかったから」か。
  おれたちはいま一生けんめい本を読んでる。こんなむつかしい本はは
 じめてだ。それはロビンソン・クルーソーの本でそいつはム人島へ島なが
 しにされた。そいつは利口でいろんなものをかんがえだして家も食べ物
 も手にいれたしそいつは泳ぎもタッシャだ。ただおれはそいつが一人ぼっ
 ちで友だちがいないのでかわいそうになった。だけどきっとほかにもだ
 れかいるにちがいないと思うというのはへんてこなアマガサをもって足
 あとを見ている男の画がついているからだ。そいつが友だちをみつけて
 一人ぼっちにならないでいるといいな。
        (ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』稲葉明雄訳)


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