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#053[世界]13先生とA(03)「わからないのか」

//「誰も知らない」
 『羅生門』の結末が、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」(「羅生門」所収)から、「下人の行方は、誰も知らない」(「鼻」所収)と書き換えられたとき、原典を内包する異本が生まれた。
 [物語がここで終わるのは、語り手が「知らない」からであって、この先に語るべきことがなくて頓挫したのではない]といった含みだ。しかし、本当に、そうだろうか。『羅生門』のその後の展開は、不可能なのではないか。この物語自体が不合理なのではないか。作者は、作品の欠陥を、[語り手の無知]という煙幕によって隠蔽したのではないか。
 「下人」は、[悪を正当化する人物に対する加害/の正当化]に成功しただけなのだから、例えば、悪党の上前を撥ねる義賊気取りとか、被害者に難癖を付ける説教強盗のような、変な強盗にしか、成れないはずだ。また、強盗許可証を、「老婆」は発行しなかったし、発行したとしても、無効。[泥棒なら、泥棒されても、怒るべきではない]などというのは、屁理屈。
 「下人」は、あるいは、個体としての作家Aは、善悪を問わず、自分の生き方を根底において承認してくれる人物を求めていた。『羅生門』は、その欲求を表出したものと考えられる。だが、その面から見れば、「老婆」は、キャラクタとして、十分に機能していない。
 ここで、[「守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめ」(同)て、「わざわざ二階へ挨拶に行ったら、いきなり頭を長煙管で打たれた」(A『点鬼簿』1)]という文が復元できそうだ。「下人」は、「老婆」に「いきなり」苦しみを教えられただけのことで、何の指針も与えられなかった。
 「下人」は、その後、どうなったか。「老婆」から盗んだものを消費し尽くすと、また、羅生門の下に座り込む。そして、悩む。「梯子」を上り、再び、「老婆」に会い、同じ問答を繰り返し、「老婆」の戦利品を掠め取る。要するに、「下人」は、「老婆」の臑噛りになる。
 『羅生門』発表後、作者は、[この物語は、袋小路に入りそうだ]と気づきはしたが、作品を引っ込める気にはなれず、語り手を引っ込めることにした。[作者の能力不足]を[語り手一般の能力の限界]に偽装し、作品の欠陥を隠蔽した。
 作者は、[自分は、何かを書き得た]と自負していたのではない。[読者は、何かを読んだ気になる]と、高を括った。
 作品を異本として提出する技法は、『地獄変』で完成の域に達する。誤解のないように付け加えるが、[異本]という言葉は、[『地獄変』の素材である、実在する古典(群)に対するものとして、この『地獄変』が異本として存在する]といった文脈において用いているのではない。『地獄変』の原典は、実在しない。
 『地獄変』は、実在しない原典の[異本]として、提出されている。だから、読者は、実在しない原典を推理や想像で構成し、それとの比較によって、この『地獄変』を読解しなければならない。
 『地獄変』の語り手は、[噂という異本]に対して、[真実という原典]を知る者のように振る舞う。ところが、この語り手の語りも、また、眉唾もののようで、これも[真実めかした異本]らしいと分かる。語りは幾重にも疑わしいものとなり、読者は翻弄される。が、こうした事態は、『地獄変』では、逆説的に、うまく機能している。読者の疑いが持続する限り、読書の緊張も、また、持続し、通俗的な場面さえ、含蓄や奥行きと錯覚され、孤独な人間の心底は「誰も知らない」という印象を残すかのように語り終えられる。
 だが、落ち着いて考えてみれば、芸術家の内奥は、実は、不快なほどに不可解で、無限に深いのやら、同じ名を持つ猿程度のものやら、見当も付かない。主人公の気持ちが分からないのではない。本当は何が起きているか、知れない。
 [真実の物語は、ある。しかし、それを「誰も知らない」]というふうに語るために、語りの真実味を意図的に固定しない技法は、『薮の中』で自己解体する。そこでは、何が起きたのか、当事者を含め、「誰も知らない」のだから、読者は戸惑うのみ。『地獄変』では、気持ちがいいのかもしれないような、くすぐったい感じが、『薮の中』では、ちくちく、痛い感じとして、読書を妨げる。やがて、自分の人生を素材にした、その全体を「誰も知らない」に決まっている物語に、この技法が適用されると、当然、完結できず、やがて、「人生」という原典を完結させるための物語、『歯車』に至ることになる。
//「美しい退屈」
  わたしは、よくこんなことを考えます─もし生活をもう一ぺん初め
 から、しかも、ちゃんと意識してやり直せたら? とね。すでに費やしてし
 まった生涯は、いわばまあ下書きで、もう一つほかに、清書があるとした
 らとね!
              (アントン・チェーホフ『三人姉妹』神西清訳)
 「古い薪に新しい炎を加える」(A『河童』11)とか、「古い炎に新しい薪を加える」(A『西方の人』19「ジアナリスト」)といったようなことについて、Aがどれほど正確に考えようとしていたか、私は疑う。
  フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことであ
 る。
                    (『侏儒の言葉』「フロオベル」)
 「退屈」なのは、登場人物達が[世界]に凭れ掛かるばかりで、[世界]を積極的に有効利用する気配を示さないからだろう。
  自分はある霊妙不可思議な世界にはいろうとしている。そこではすべ
 てが情熱であり、恍惚であり、狂乱なのだ。ほのかに青い広い世界が自分
 をとり巻いている。感情の山の頂きが彼女の思念のもとにかがやいてい
 る。日常の生活は、はるか下の方、山々のはざまにこめる闇のなかにほの
 見えるばかりだった。
  そのときエンマは、かつて読んだ書物の女主人公たちを思い出した。こ
 れら不義の女の合唱隊はどれも姉妹のように似かよった声でエンマの記
 憶の中で歌いはじめた。その声がエンマを恍惚とさせた。エンマ自身まぎ
 れもなくこうした想像の一部と化していた。かつてあれほどに羨望した
 恋をする女の典型の中に自分を見ることによって、エンマは娘の頃の長
 い夢をここに実現したのである。のみならず、エンマは復讐の満足を感じ
 ていた。もう十分苦しんだではないか! 今こそ自分は勝った。長い間おさ
 えていた恋心が、歓喜にたぎり立って、一度に湧き出たのだ。悔いもなく、
 怖れもなく、もだえもなく、彼女はその恋を味わった。
             (フロベール『ボヴァリー夫人』2-9、杉捷夫訳)
 [惨めな生活に「復讐」するために、「霊妙不可思議な世界」に入り、「典型の中に自分を見る」]というモチーフは、Aにとっては習慣的なものなので、そんな話を読まされるのは、「退屈」だったらしい。密かに、[私の方が、もっとうまくやれる]と、Aは思っている。誰より、うまくやれる気だろう。フロベールか、エンマか、「中産階級のムッシウ・ボヴァリイ」(『歯車』3)か。
 [立派な男なら、文学少女の古漬けに付き合わねばならない]と、Aは考えているのだろうか。
//「ひやひや」
       ひやひやと壁を踏まへて昼寝かな
  「壁をふまへて」と云う成語は漢語から奪ってきたものである。「踏壁眠」
 と云う成語を用いた漢語は勿論少くないことであろう。僕は室生犀星君
 と一しょにこの芭蕉の近代的趣味(当代の)を一世を風靡した所以に数え
 ている。
                         (A『続芭蕉雑記』1)
 私は、「踏壁眠」という句の出典を知らない。証人にされた「室生犀星君」は、どうかな。[優れた表現には、原典があるはずだ]という思い込みのせいで、Aは、原典を幻想の中で発見してしまったか。原典を知っているのなら、一個でいいから、挙げてみたらどうか。「勿論少くないことであろう」などと、どっちつかずのもの言いをする必要はない。
 Aは、『奉教人の死』や『きりしとほろ上人伝』で、原典を偽造した。原典偽造そのものは、文学的なお洒落の一種だろうが、Aには、もっと切実な動機が潜んでいたはずだ。
//「索引」
  彼はジャアナリストであると共にジャアナリズムの中の人物─或は
 「譬喩」と呼ばれている短編小説の作者だったと共に「新約全書」と呼ばれ
 ている小説的伝記の主人公だったのである。我々は大勢のクリストたち
 の中にもこう云う事実を発見するであろう。クリストも彼の一生を彼の
 作品の索引につけずにはいられない一人だった。
                        (A『続西方の人』13)
 「クリスト」の「人生は、落丁の多い」(『侏儒の言葉』「又」)『旧約聖書』なのだろう。
 作文。[Aは、語り手であるとともに、Aによって語られる人物でもあった。Aは、『歯車』という短編小説の作者だったとともに、『歯車』という自伝的小説の主人公だった。そして、『歯車』の語り手Aは、[歯車、あるいは、A先生の遺書]という、書かれざる傑作を[世界]化しようとして、言葉にアステリスクのような傷を付けずにはいられなかった。書かれざる傑作、いや、書かないことによって傑作となる[Aの自叙伝]という作品のための索引のような異本を構想せずにはいられなかった]
//「わからないのか」
  「きょうは半日自動車に乗っていた。」
  「何か用があったのですか。」
 彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
  「何、唯乗っていたかったから。」
 その言葉は彼の知らない世界へ、─神々に近い「我」の世界へ彼自身を
 解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
                             (『阿呆』5)
 「解放」に際し、「歓び」よりも早く、「無残にも折れ」(A『西方の人』36「クリストの一生」)てしまう「神経」(同20「エホバ」)の「痛みを感じ」ない読者に、Aの言葉は伝わらない。
  「どうしてお前たちはわからないか?」─それはクリストひとりの歎声
 ではない。後代にも見じめに死んで行った、あらゆるクリストたちの歎声
 である。
                         (『続西方の人』15)
 [どうして、分からないか]だって? こっちが聞きたいよ、[私達が分からない理由を、どうして、「クリスト」ともあろう存在が、分からないのか]と。
 他人に分かってもらえない苦痛が嘆きの種になると、なぜ、Aは思うのか。まず、原因不明の苦痛がある。原因不明だから、その苦痛を、うまく表現できない。表現できないから、理解されない。他人から理解されないという苦痛が、自分でも理解できない、最初の苦痛と、混同される。最初の苦痛は忘れられ、あるいは、隠蔽され、最後の苦痛のみが提示される。そのとき、提示された苦痛は、偽の苦痛になっている。提示された苦痛で苦しんでいる人は、実は、どこにもいない。どこにもいない人の言葉は、理解されない。
 Aの言葉は、誰にも「わからない」はずだ。第二のAにも、第三のAにも、分かるまい。彼の「言葉を理解したと信じている」(A『十本の針』10)ものは、「幸い」(同前)なんだろう。
//「復活」
 結局、[原『歯車』]を復元できる者はいない。作者にも、できまい。[原『歯車』]復元の困難さがAの人生の困難さの比喩として好意的に理解される時代を、Aは夢想する。
  クリストを十字架にかけた彼等は何世紀かの流れ去るのにつれ、シェ
 クスピイアの復活を認めるようにクリストの復活を認め出した。
                          (『西方の人』35)
 「復活」するのは、誰彼の思想ではない。作品でもない。自分の人生の物語を含む、あらゆる原典を、「永遠に超えようとするもの」(同前)だ。「クリストの復活」という『旧約聖書』の預言を成就するためにイエスの死が不可避だったとしたら、『歯車』の自己[世界]化のためには、Aの死が不可避なのではないか。
  わたしは今は、或郊外に妻と一しょに暮らしている。近所にいる小説家
 のK・Hもいつか可也評判の善い新進作家の一人になりはじめた。わたし
 の画もたまには売れないことはない、わたしは妻やK・Hとあのモデルを
 使っていた頃の精神状態を話す度に、多少の羞しさを感じている。
  「もう今では大丈夫だろうね?」
  K・Hはパイプへ火をつけてはいつもこう言って笑っている。未だにア
 トリエの隅に敷いた、薄赤い絨毯へ目をやりながら。
                      (A『人を殺したかしら?』)
 小康を得た「わたし」を想像することは、容易だ。幻想文学の作家として復帰したAを想像することも、さして困難ではない。だったら、[自殺未遂の後、幻想文学の作家として復帰したA]を夢見るAを想像することは、どうか。
 狂言という言葉を[尋常でないパフォーマンス]という意味で用いれば、Aの自殺は狂言だ。なあんてことを言い出せば、[あらゆる自殺は、失敗した狂言だ]ということにも、なりかねない。堂々巡り。「今何か起れば、それも忽ちその夢の中の出来事になり兼ねない心もちもした。……」(『夢』/『人を殺したかしら?』)といった含みを残しながら。


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