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#054[世界]14先生とA(04)「機械的」

//「黙る外はなかった」
  「悪魔を信じることは出来ますがね……」
  「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずに
 はいられないでしょう?」
  「しかし光のない暗もあるでしょう」
  「光のない暗とは?」
  僕は黙るより外はなかった。彼も亦僕のように暗の中を歩いていた。
 が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕等の論理の異るのはこう云
 う一点だけだった。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違い
 なかった。……
                             (『歯車』5)
 相手は、「影を信じるならば、光も信じずにはいられない」と言ったのであって、「暗のある以上は光もある」と言ったのではない。語り手は、「影」と「暗」をすり替えている。「影」の原因は「光」だが、「暗」に原因はない。「光」という言葉の置かれた文脈が異なるから、「光」について、「論理の異る」「一点」なるものは、あり得ない。「異なる」のは文脈だ。
 もともと、趣味や信仰の「溝」を「論理」で越えてみても、どうにもならない。Aは、相手がキリスト教の文脈で語っているのを承知していながら、相手の文脈を活かそうとしない。かといって、自分の文脈を提示しようともしない。早晩、「黙るより外なかった」という状況に陥ることは、明らかだ。
 文脈が違うというのは、例えば、[私達は、算数をしている。私が2+2=4と言うと、彼は2×2=4と言う。私が2+3=5と言うと、彼は2×3=6と言う。5と6の差は1だけなのに、その差は「越えられない溝」だ]と言うようなものだ。
 語り手Aは、[自分達は、別のことを話している]と承知していながら、[大まかには同じことを話しているのだから、どこかに接点はあるはずだ]という、嘘の前提で問答を続ける。
 語られるAは、キリスト教の「論理」と自分の「論理」とが拮抗すると思い上がっているのか。違う。[キリスト教は、Aにとって無効だ]という考えを伝えるために、議論形式のお芝居を演じている。だとしたら、語られるAは、なぜ、その考えを、さっさと相手に告げないのか。その理由は、簡単だ。語られるAは、「彼」に何かを伝える気など、さらさら、ないからだ。
 「誰か」(『歯車』6)に何かを伝えたがっているのは、語られるAではなく、語り手Aだ。語り手Aの聞き手は、作品の中にはいない。語り手Aの聞き手Xは、どこかに実在していたのかもしれないが、Xが「誰か」、私は知らない。
 語られるAは、話の種になりそうなことをやっている。語られるAは、語り手Aが語りやすいように生きている。[『歯車』はフィクションだ]という意味ではない。勿論、フィクションではないとは言えないが、フィクションではないとしても、個体としての作家Aは、あたかも、自分が誰かに語られているかのような行動を取っている。つまり、[作家Aにとって、日常生活そのものは、お芝居だった]ということになる。だから、実際に起きたことを記述したとしても、普通の意味では、事実とは言えない。後から嘘をつくのではないが、嘘をつきやすいように、前以て、用意してやったことだ。つまり、やらせ。
 とは言え、こうした非難は、作者にとっては折り込み済みらしい。作者は、『歯車』で、お芝居が日常的であるような生活の苦しみを示したのだろう。しかし、また、そうした弁明そのものが、お芝居に決まっている。そして、どのような弁明もお芝居同様になってしまう生活を、作者は記した。と、このようにして、私も、また、作者の罠に落ちるわけだ。
 作者が隠蔽しているのは、「黙る外はなかった」という状況に、Aが、わざとのように陥る、その性癖の由来の物語だ。
//「経験」
  僕はこの一二年の間、僕の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。
 が、彼から妻子に伝わり、僕も亦母のように精神病院にはいることを恐れ
 ない訣にも行かなかった。
                             (『歯車』5)
 「彼」は、語られるAの「秘密」(同)を知っている。そういう「彼から妻子に伝わ」るという危惧は、ほとんど、無用であるはずだ。しかも、[「妻子に伝わ」れば、「精神病院にはいる」]という展開には飛躍があり、また、「精神病院にはいる」ことを恐れる理由の一つに、「母のように」という要素を挙げるのも、異様だ。
 語られるAが、自分の「経験」を語る相手として、最も信用して良いはずの「彼」さえ、不適格者だと見做した理由は、「彼も亦親和力の為に動かされていることを発見した」(同)からに違いない。語られるAが、「この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じ」(同)るのは、このためだ。
 「親和力」という言葉は、「『罪と罰』と云う言葉」(同)を経由して、『暗夜行路』(同)という作品に描かれた出来事に寄り道し、『赤光』(同)の中にある歌のどれかに繋がるような文脈を形成するはずだ。[「親和力」を避け、『罪と罰』から出発し、『暗夜行路』を歩き、『地獄変』に苛立ち、『赤光』に怯える]といった、クイズみたいな[世界]遍歴が語られている。こうした遍歴こそが、語られるAの「経験」の中身なのではないか。
 語られるAは、あたかも、語り手Aのように、[Aの物語]の[世界]を捜し回る。語り手Aは、あたかも、[Aの物語]の[世界]を捜し回るAのように、語る。そして、作者は、[世界]遍歴を「経験」と名付ける。このとき、「経験」は、幻想的でもなければ、病的でもない。この「経験」には、中身がない。この「経験」は、言うなれば、「譬喩」(『続西方の人』13)的なものだ。
 「経験」が「譬喩」なら、「経験したことを彼に話したい誘惑」も「譬喩」でないとは言えまい。別の場所では、「懴悔したい欲望」(『歯車』5)と記され、そして、すぐに、「この欲望さえ真実かどうかは疑わしかった」(同5)と、手のひらを返すようなことを書く。
 [自分の経験を誰かに話したい]という気持ちが語られるAにあることは、確かだろう。しかし、その気持ちが、自分の素朴な「欲望」なのか、誰かに「誘惑」されて生じた「欲望」なのか、語り手Aには判断できないらしい。
 「誘惑」だとしたら、語り手Aの想定する「誘惑」者とは、誰だろう。「悪魔」(同)か。しかし、この「悪魔」も「譬喩」だろう。「悪魔」的な何かが、Aを「誘惑」した結果、あるいは、「悪魔」的な「欲望」に駆られた結果、[語られるAが自分の「経験」を誰かに話してしまうと、語られるAは、「精神病院にはいる」ことになり、そして、「死ぬこと」(同)になる]と、語り手Aは語っているらしい。
 この文脈は理解しがたい。「精神病院にはいること」と「死ぬこと」との間に、因果関係はない。もし、あるとしたら、その病院の院長は、カリガリ博士なのだろう。そもそも、語られるAが精神病だという確証はない。精神病だったとしても、精神病院に入れてもらえるとは限らない。逆に、精神病でなくても、「精神病院にはいること」はあろう。
 「精神病院にはいること」は、何かの比喩だと思われる。少なくとも、比喩の要素を多分に含んでいるはずだ。そして、「死ぬこと」も、また、比喩だろう。
 [「精神病院」から「死」]という文脈そのものが、「親和力」という言葉を含む文脈の比喩なのではないか。作者は、「親和力」に類する何かを、しつこく暗示している。作者のやっていることは、「懴悔」と大差がないように思えるのに、語り手Aも、語られるAも、「親和力」を含む文脈を拒むかのように振る舞う。作者は、「懴悔」の「誘惑」か「欲望」か何かに負けているはずだ。ところが、語り手Aも、語られるAも、負けていないふうだ。どういうことか。
  僕はヒステリイの療法にその患者の思っていることを何でも彼でも書
 かせる─或は言わせると云うことを聞き、少しも常談を交えずに文芸
 の誕生はヒステリイにも負っているかもしれないと思い出した。
                   (『文芸的な、余りに文芸的な』35)
 「文芸の誕生」に立ち会う作者が「ヒステリイ」になってしまったので、語り手Aが作者の文脈を拒んでいるのだろうか。
//「機械的」
  「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスと云う鳥の
 ……」
  この名高い漢学者はこう云う僕の話にも興味を感じているらしかった。
 僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破壊欲を感じ、尭舜
 を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずっと後の漢代の人だっ
 たことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少し
 も僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るように僕の話を截り離した。
  「もし尭舜もいなかったとすれば、孔子は嘘をつかれたことになる。聖人
 の嘘をつかれる筈はない」
  僕は勿論黙ってしまった。それから又皿の上の肉へナイフやフォオク
 を加えようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いていた。蛆
 は僕の頭の中にWormと云う英語を呼び起こした。それは又麒麟や鳳凰の
 ように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。
                             (『歯車』1)
 Aは「黙ってしまった」わけだが、そのことを、語り手は、なぜ、「勿論」という言葉の後に記すのだろうか。
 普通なら、ここで、Aは謝罪する。そして、「漢学者」が度量を示す。
 逆の展開もある。「もし尭舜がいなかったとすれば、孔子は嘘をつかれたことになる、聖人の嘘をつかれる筈はない」(同)という意見を逆転させ、[「聖人の嘘をつかれる筈はない」というのなら、「孔子は嘘をつかれた」のだから、「聖人」ではない]と、はっきりと言い返す。この意見こそ、Aが最初から明らかにしたかったもののように、私には思える。そして、この意見が公言できないので、Aは沈黙したかのように思える。しかし、必ずしも、そうではないらしい。 黙るのが癖だから、「勿論黙ってしまった」という書き振りだ。
 なぜ、Aには、黙る癖があるのか。彼が「寿陵余子」(『歯車』3)だからだ。「寿陵余子」とは、[複数の集団に属しながら、その集団間の齟齬を解消しないまま、受け入れようとする]態度を擬人化したものだろう。幼少期、齟齬を解消しようとして語り始めるたびに、おとなに制止され、「黙ってしまった」という体験の積み重ねによって、黙る癖がつく。こうした悪癖は、その持ち主の沈黙によって自分達の秘密を守ることを希望した人間(達)を、背後に想像させる。
 ここで、Aは黙るのではなく、「此の時に方りて、尭は安くにか在る」(『韓非子』36)とでも嘯いてみせたら、仲良くインテリ漫才を楽しめたろう。しかし、Aに、そんなゆとりはない。Aは、古くからある問題を、近代の問題として、あるいは、Aの独創的な問題として偽造したいという欲望を抱いていたからだ。Aは、大したことのない話題の裏側に、何かを隠していて、その何かを、隠したままで相手に伝えたがっている。あるいは、「病的な破壊欲」の対象は、「聖人」などではなく、[「漢学者」と自分との隔て]だったのかもしれない。
 Aは、「漢学者」のAに対する「興味」の度合いを計測する。Aは、彼に甘えたかった。「機械的にしゃべって」みて、どこまで許容されるか、試した。駄々を捏ねた。「機械的」な言動だから、自分の意志では制御できない。制御できないようなことを、Aは、したくなる。赤ちゃん帰り。しかし、人の許容度には、必ず、限界がある。その限界を知ろうとすれば、いつか、きっと、相手を怒らせることになる。わざわざ、人の忍耐力を試すようなことをするのは、「病的な破壊欲」だと言えなくもない。言語の「機械的」使用自体は、「病的」ではない。ただし、私達は、一人きりか、気を許した相手といるとき以外、そんな真似をしないように、心掛けているはずだ。
 一方、「漢学者」も、「殆ど虎の唸るように」云々というのだから、子供じみている。この二人は、意外に、お似合いだったのかもしれない。いや、Aだからこそ、こんな子供じみた相手を選んでしまうのかもしれない。
  彼は丁度獅子のように白い頬髭を伸ばした老人だった。のみならず僕
 も名を知っていた或名高い漢学者だった。
                             (『歯車』1)
 この「のみならず」の機能が、分かりにくいのは、この「漢学者」を話し相手に選んだ理由を、Aが自覚できていないことの表出なのかもしれない。「獅子のように白い頬髭を伸ばした老人」も、また、「或伝説的動物を意味している言葉」の一種だろう。Aは、相手に「或伝説的な動物」の役割を期待した。それは、父親の役割だ。Aは、実在の父親から受けなかった庇護を、この父親的な人物に期待する。ところが、同時に、実在の父親に対する不満を、この父親的人物に投射してしまう。「破壊欲」の対象は実在の父親だが、ここでは、その相手を間違っているから、「病的」に見える。
 Aは、[父親は、子供を庇護する]という「伝説」を信じられない。信じられないものが目の前にあると落ち着かないから、「破壊」したくなる。すると、相手は、当然、不快になる。Aは、頭ごなしに叱られた子供のように、竦む。Aは、「漢学者」のAに対する「興味」そのものを「破壊」してしまったと感じる。「興味」とは、愛情や庇護に発展する感情だろう。
 ここで、「勿論」という言葉を、Aは、[癖だから、考える暇もなく]といった気持ちで使っている。「機械的」と同じような含みだ。Aは、「機械的に」しゃべっていて、うまく行かないと、「機械的に」黙ってしまう。なんとも、情けない。気の弱い人間なら、この一件だけでも、首を縊りたくなることだろう。だが、Aの脳は、首縊りの映像を作らず、別の映像を作り出す。
 Aが黙る。すると、言語の「機械的」な運動に急ブレーキが掛かり、言語の自動車に乗っていたAの意識が外に投げ出される。意味を失った言語の残留物である気配のようなものが、行き当たりばったりに映像を、頭の中にではなく、頭の外側にあるものとして、偽造する。それが、この場合は、「蛆」だ。
 対象を失った嫌悪感が、「蛆」という対象を偽造する。嫌悪感は、相手にも、自分にも向けるべきだが、一度に両方に向けることは難しい。[自分ではなく、相手]と[相手ではなく、自分]を合成すると、[自分でもあり、相手でもある]か、[自分でもなく、相手でもない]の二つの文ができる。前者は困難だ。後者では、振り出しに戻る。振り出しに戻った、もやもやした気分が、対象を探して、映像を偽造する。
 ところで、この「蛆」が、「病的」な幻覚なのか、何かの錯覚なのか、比喩なのか、私には判断できない。「パンの神の額の下には赭い鉢に植えたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしていた」(『阿呆』5)というとき、「パンの神の額」が何を示すのか、私には分からないが、そうした記述に似ている。ただし、『歯車』では「暗合」(同6)として語られるようなことが、『阿呆』では思わせ振りな修辞として記されている。その都度、『阿呆』ではエピソードがぶつ切れになるが、その代わり、個体としての作家Aに意識が有る限り、「涎」(同51)を垂らすように書き続けることのできる文体になっている。
 異変として語られていることが、実際の出来事か、語られるAの表出としての幻覚の類いか、あるいは、語り手の表現としての修辞なのか、その区別をすることは、重要ではない。重要なのは、[異変、幻覚、修辞などが、どのような物語の帰結として引き寄せられるか]という問題であるはずだ。
//「いつの間にか」
  「この頃は死体も不足してね」
  彼の友だちはこう言っていた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意
 していた。─「己は死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをする
 がね」 しかし勿論彼の答は心の中にあっただけだった。
                             (『阿呆』9)
 恐怖小説の何かを[世界]にしたか、「機械的」(『歯車』1)に、「いつの間にか彼の答を用意していた」のは、自覚的な「彼」ではなく、その場限りの、無責任な作者だ。『阿呆』の作者ではない。「彼の答」の作者だ。Aの用語では、「神経」というのかもしれない。『阿呆』の語り手は、語られている「彼」が、「心の中にあっただけ」の「彼の答」のせいで、幻の聞き手から徳性を問われると勘違いしているようだ。しかし、もし、徳性というようなことを問題にするのであれば、「死体も不足して」などと不謹慎な発言をした「友だち」について、先に問題にしなければならない。もともと、「彼の答」は、「友だち」によって「誘惑」(『歯車』5)され、「用意」されたものだ。だから、「彼」が、もし、そのことに気づいていたら、「彼の答」が「心の中」から外に出てしまったとしても、[「友だち」は、学生っぽいユーモアと解して、許容してくれなければならない]と思ったろう。
 ところが、語られる「彼」は、「友だち」の発言を非難したいのと同時に、そのような発言を軽々と口にできた「友だち」の大胆さを羨むので、混乱してしまう。ちょうど、「半日自動車に乗っていた」(『阿呆』5)という話を聞かされて混乱したときのように。
 Aは、「誘惑」されると、混乱し、黙り、そして、「心の中」で言語の暴走を許し、ときには、ありもしない映像や音響や異臭を作り出す。だから、作者は、こうした自分の性癖を、読者にも共有してもらいたいらしい。そのために、いろいろと仕掛けを施してくれる。読者は、混乱したくなければ、読書を放棄すべきだ。しかし、放棄し損ね、つい、混乱してしまうと、「いつの間にか」、「心の中で」、ありもしないものを作り出してしまう。それが、私の言う[異本]だ。
 私がAの言葉を読むとき、私の作りつつある異本を、Aが読みつつある。そんな気配がする。私が、Aの作品を読んでいるのではない。Aが、私の異本を読んでいる。私は読まれている。Aの言葉を読むとき、作者と読者の関係は、転倒する。こうした転倒に喜んで応じる「誰か」(『歯車』6)が、Aの「カリカチュア」(A『三つのなぜ』3)になる。


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