『いろはきいろ』タイトルバーナー 『いろはきいろ』

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#055[世界]15先生とA(05)「聡明な彼」

//「即座に」
 『蜘蛛の糸』(A)の「御釈迦様」は、何をしたかったのかな。要するに、したいことをしたんだろうね。それは、亡者釣りのキャッチ・アンド・リリース。
 『杜子春』(A)の「仙人」は、子春と、どんな遊びをしたつもりかなと思った。『杜子春』の原典(李復言『続玄怪録』)では、仙人になることの難しさが描かれているが、Aの異本では、仙人に「なれなかったことも、反って嬉しい」(『杜子春』6)なんて、無駄な仕事した喜びの歌になっている。「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」(同)って言うんだけど、実際、何になるつもりだろうね。「人間らしい、正直な暮し」なんて、利いた風な言い回しを、どこから、頂いて来たものか。
 Aの異本で、「仙人」は、「もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ」(同4)と言う。ところが、後では、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」(同6)と言う。[合格すれば、殺される。不合格なら、只の人]というのは、割に合わない試練だ。「仙人」は、試験に落第させるために、子春に受験をさせたらしい。
 原典では、[親が子を思う気持ちは、幻だ]ということを看破し得なかったために、子春は仙人試験に落第する。Aの異本は、[子が親を思う気持ちは、どのくらい、強いか]なんて、試験する必要もないような、水臭いことを試験して、[命が助かって、良かったね]という、お話にならないような話だ。
 お話にならない理由は、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」という、「仙人」の発言に隠されている。もし、子春が、「仙人」の思惑を越えた能力を持ち、すべては「魔性の悪戯」(同4)と看破し、沈黙を守っていたとしたら、どうか。その場合でも、子春は殺されなければならないのか。「仙人」には、子春の沈黙の理由が、不孝のゆえか、優秀なせいなのか、判断できるのだろうか。
 だが、そんな質問は、無効なのだろう。なぜかって? うふふ。あのね、「仙人」は、子春を殺しませんよ。「仙人」は、「即座に」殺すと言っているけど、「即座」って、何秒のことかな。[「仙人」が子春を嬲るのに飽きたら、「即座に」]とでも言ったつもりかな。
 普通、[何かをしたら、即座に]という言い方はしても、[何かをしなかったら即座に]という言い方はしない。だから、「仙人」のいう「即座」という言葉は、口調が激しいだけで、何の働きもしていない。「即座」という言葉は、嘘を隠蔽するためにある。
 ここに、どんな嘘が、隠されているのか。[「仙人」には、子春を殺す気はなかった]ということだろうか。惜しい。[作者は、「仙人」が子春を殺す可能性を、検討していない]ということだ。「仙人」は、子春を殺さない。なぜなら、子春が沈黙を破らないと、物語は先へ進めないからだ。物語は、[子春が沈黙を破るまで、親達は打たれている]という状態で、行き止まりになっている。
 「畜生道」(A『杜子春』5)に落ちて醜く変形した親が残酷に扱われる様を描く作者に孝心を想像する読者は、よほどの慌て者だろう。「鞭を受けている父母を見ては、黙っている訣には行きません」(同6)という理詰めの物言いは、どうだ。「畜生道」に落ちているだけなら、子春は「黙っている」ことができたというわけだ。子春は、[自分の親は、「畜生道」に堕ちても、当然の人間だ]と信じているらしい。子春がそう思うのは彼の自由だが、なぜ、彼がそう思うのか、その理由を、語り手は明かさない。
  母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打
 たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を
 言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有
 難い志でしょう。
                               (同5)
 ここで、語り手が子春の思いを代弁しているのだとすれば、子春は、「大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない」ような、「世間の人たち」といっても、かなり悪質の人々と比較して、やっと、「母親」を「有難い」と思えたわけだ。
 一方、「母親」は、「怨む気色さえも見せない」が、その代わりに、余計なことを言ってくれる。「私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね」(同5)
 もし、「母親」が、もっと深く、「息子の心を思いやって」いて、[こんなことを口にすれば、子春は沈黙を破らざるを得なくなることだろう]と予想していたら、子春とともに沈黙を守っていたろう。また、子春も、せっかくの「母親」の言葉を無にしたのだから、大いに後悔すべきなのだが、「反って嬉しい気がする」(同6)などと嘯いている。子春は、あたかも、「母親」の言葉に含まれた皮肉を悟ったかのように行動した。「仙人」も、その皮肉なドラマに参加している。あるいは、「仙人」こそ、この皮肉なドラマを設定した張本人なのかもしれない。誰かが仕掛け人だとすれば、作者もその一人であることに間違いはない。[親を捨てたら、そのせいで苦しみ続けるぞ]といった呪いを当然の前提として読まなければ、異本『杜子春』の結末を、すんなりと受け取ることはできない。
 『杜子春』の異本制作の動機は、原典にある[親が子を思う気持ちは、幻だ]という概念の隠蔽だった。Aは、この概念を自分が抱いているかもしれないと、誰かに疑われることを恐れた。原典を読んだという事実さえ封じ込めるかのように、あたかも、原典を誤読したかのように、異本を作成した。
 作者は、[保育者への愛を演じなければ、子供は恐ろしい目に合う]という心情を表出している。[フェイクによって、愛は維持される]といった、皮肉なテーマが暗示されているのではない。
  ソフィー、ぼく、とっても幸せなんだ、そしてね、自分の幸せに確信が持
 てたら、ママに知らせようと思ってたんだ。なぜって、ぼくといっしょに
 ママも幸せになってくれなきゃ、ぼくはもう幸せでいられないもの。
      (ジャン・コクトー『怖るべき親たち』鈴木力衛+大久保輝臣訳)
 [恐るべき親達]は、[体裁だけの愛情表現の裏にある、親達の気分を読み取って、あたかも自発的であるかのように、自分の「仕合せ」を諦めよ。さもなければ、殺す]と脅す仙人の姿で登場する。[真実は、後から知らされる]という設定によって、[脅かされて諦めたのではない]という言い逃れが可能になるわけだが、誰が言い逃れるのかと言えば、作者だ。[恐るべき親達]の意を酌んで[良い子ぶりっこ]をする作者。
 [子春が沈黙を破ったために、「畜生道」に落ちていた親が救われた]とは書いてない。子春は、親が畜生道で苦しんでいると知っていながら、「晴れ晴れ」(A『杜子春』6)としている。[親が「畜生道」に堕ちているというのは、「仙人」の作り出した幻だった]とは書いてない。作者は、[親というものは「畜生道」に堕ちて当然だし、子は孝行の真似事さえしていれば、親が苦しもうがどうしようが、知ったことではない]と思っている。そして、その思いを、必死で隠蔽している。子春は、親孝行など、何もしていないし、しようともしていない。この親子は、お互いに何もしていない。だから、この異本は、少しも道徳的ではない。勿論、不道徳ですらない。不合理なのだ。
 Aは、嘘をついているのか。「正直と変らない」(『河童』9)ような嘘をついているつもりか。孝心の大切さをテーマにしながら、[孝心なんて、勿論、嘘っぱちさ。だけど、ばれないように、お互い、用心しようね]と、幼い読者達に囁いているつもりか。
//「友だち」
 子春が、「母親」と比較するところの「世間の人たち」(『杜子春』5)は、「友だち」(同2)とも呼ばれている。
  わたしは二三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、嘘をつい
 たことは一度もなかった。彼等も亦嘘をつかなかったから。
                  (『侏儒の言葉(遺稿)』「わたし・又」)
 こういうのが、Aのお得意の嘘。幼稚だが、致命的な嘘。ある人が嘘をついたか、つかなかったか、神ならぬ身の誰が知り得よう。「友だち」は、[保育者]の対語に過ぎない。だから、本音は、[私には、「真実」を言えるような友人はいなかった。私は、私的なことで嘘をつかねばならないような境遇にあったので、なるべく、友人とは、お互いに、嘘をつかないでもいいような話題を選んで、慎重に会話をした。こうして、お互いに嘘をつくことのない人間関係は実現可能であることを暗示し、私に嘘ばかりつく肉親に対する当てつけにした]といったところか。
 『白』(A)では、「大の仲よし」(同1)という言葉が登場する。『白』は、『星の子』(オスカー・ワイルド)に、中国の小話(『列子』8-25、『韓非子』23)が趣向されたものだろう。ただし、テーマが、[傲慢の罪/親を捨てる](『星の子』)から[怯懦の罪/友を捨てる]に変えられている。作者は、[親を捨てる]という考えを塗り潰さなければならなかった。
  「おれなんか、絶対に、誰も愛してくれやしない!」
  それと同時に、ルビック夫人が、しかもあのすばやい耳で、唇のへんに
 微笑を浮かべながら、塀の後ろから、物凄い顔を出した。
  すると、にんじんは、無我夢中で附けたす─
 「そりゃ、母さんは別さ」
              (ジュウル・ルナアル『にんじん』岸田国士訳)
//「復讐の神」
  いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感
 じながら。
                             (『歯車』2)
 エリニュスは、正義と復讐の女神達。親殺し、兄弟殺しなど、血族の絆を破るものには容赦ない。復讐の女神に追われたものは、狂気になる。ローマ神話名のフリアイは、「狂乱」を意味するフロールが語源。あるいは、マニアイ、狂気を送り込むものの名で知られる。復讐の女神の住家は、ギリシア神話における地獄タルタロスにある。(以上、マイケル・グラント+ジョン・ヘイゼル「ギリシア・ローマ神話事典」西田実他訳、「エリニュエス」を要約)
//「子供になると」
  わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には白髪頭をしていたの
 だよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子供になったのだよ。
                            (『河童」16)
  この種族は、生まれたときは年よりで、年ごとに若くなっていき、子ど
 もになると死ぬのです。
            (オスカー・ワイルド『漁師とその魂』井村君江訳)
 Aは、[世故に長けた幼児]を空想する。それは、保育者(達)が少年Aに要求したキャラクタだ。子供が「子供になると」、つまり、子供らしく無邪気に振る舞うと、「死ぬ」、つまり、養育を拒まれる。
  ムヽ、ハヽ、ムヽヽヽ、ハヽヽヽ、ハヽヽヽヽ。ア出かしおりました。利口
 なやつ。立派なやつ。健氣な、八つや九つで。親にかはつて恩送り。お役に
 立は孝行物。
                        (『菅原伝授手習鑑』4)
//「考えたりした」
  彼は或郊外の二階に何度も互いに愛し合うものは苦しめ合うのかを考
 えたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
                             (『阿呆』3)
 「愛し合うものは苦しめ合う」と、誰が「彼」に教えたのだろう。なぜ、「二階の傾きを感じながら」「考えた」のだろうか。「考えたりした」ほかに、何をし「たりした」のだろうか。
 「愛し合うものは苦しめ合う」という文には、嘘があるはずだ。「彼」らの間に、「愛し合う」という関係が、言うほど、あったのか。[甘え合う]という関係なら、あったのかもしれない。「彼」らは、互いから[愛されたい]と願っていたのかもしれない。だからといって、[愛され合う]というのは、おかしい。[愛され合いたい]というのは、もっと、おかしい。[愛は、対象に好意を与えること]を、[恋は、対象から好意を得ること]を願う心理だとすれば、[「彼」らは、互いに恋い合った]とは言えそうだ。しかし、互いが互いから、[好意を得たい]と願えば、[奪い合う]ことになる。すると、「苦しめ合う」ことにもなろう。
 「彼」が「愛し合うもの」の仲間であるはずはない。では、何の仲間か。「愛し合うものは苦しめ合う」という嘘をつき合う仲間だ。
 「何か気味の悪い二階の傾き」という言葉は、どんな比喩なのだろう。いや、そもそも、これは比喩なのだろうか。ここで、作者が、[「彼」の家は、二階だけ傾いていて、一階は傾いていなかった]という事実を示す必要はないはずだから、通常の文でないことは確かだ。では、何を示したつもりなのか。
 「彼は或郊外の二階に」いて、「何度も互いに愛し合うものは苦しめ合うのかを考えたり」しながら、「何か気味の悪い二階の傾きを感じ」たりしながら、そのほかに、何をしていたのか。
 二階は、本当に傾いていたのか。本当に傾いていたとしても、通常は、気にならなかった。ところが、[あるとき、「二階の傾き」が異様に感じられた]と、作者は言いたいのだろう。
 あるときとは、どのようなときか。「彼」の肉体が傾いていたときだろう。そのとき、「彼」は横たわっていた。横たわる肉体は、普通なら感じないほどの僅かな「二階の傾き」を、敏感に感じ取る。彼の肉体は敏感になっていた。ところが、語り手は、横たわる「彼」の姿を思い出せない。だから、大きな肉体の「傾き」と僅かな「二階の傾き」の足し算で生じた感じを、「二階の傾き」としてのみ、表出する。「何か気味の悪い」という形容は、肉体の「傾き」を、作者が思い出せないことの表出だろう。
 「彼」は、「彼」らが「互いに」何をしているのか、知らなかった。ただ、苦しかった。「彼」らのしていること、[これは、「愛し合う」ことだよ]と、誰かが「彼」に告げた。「彼」は、[「愛し合う」ことは、苦痛を伴うね]と思った。苦痛のゆえに、「彼」は、「愛し合う」ことを拒んだ。すると、拒まれた人の顔が苦痛に歪んで見えた。そのとき、「彼」は、「愛し合うものは苦しめ合う」という物語を作った。拒まれた人の顔が苦痛に歪むのを目にするたびに、彼は、[「愛し合うものは苦しめ合う」のは、なぜか]と、理由を考える遊びをしながら、「彼」の肉体を傾けて「愛し合う」苦痛に耐えた。やがて、「彼」の肉体が傾かなくなっても、苦しめられるたびに、「何か気味の悪い」「傾き」を、「彼」は思い出すようになる。
//「語られぬ真実」
  私は不幸にも知っている。時には嘘に依る外は語られぬ真実もあるこ
 とを。
                      (『侏儒の言葉』「虚偽・又」)
 この「言葉」は、「真実」か、「嘘」か。「嘘に依る外は語られぬ真実もある」という文が真実であり、この文が自己言及するとすれば、[「嘘に依る外は語られぬ真実」はない]ことになり、自己矛盾だ。
 [嘘に依る外は語られぬ真実もある/という嘘に依る外は語られぬ真実もある/という嘘(後略)]≒[私は、幸か不幸か、知っている。ときには、真実めかした嘘を語るしかない不幸のあることを]
 そもそも、話題が「語られぬ真実」である限り、そんなものは、あるとも、ないとも、いくら、言ってみても、無駄だ。作者は、[「私」は「不幸」だ。しかし、その詳細は、明らかにできない]と韜晦しているのだろう。
 Aは、あたかも、病気や不徳義や「罪悪」(『歯車」2)に類する、公表を憚るような体験があるかのように語る。しかし、読者には、その内容を想像することはできまい。読者に届いた文書を見る限り、作者が表出しているのは、自分に起きたことについて語ること、そのこと自体の困難だ。
 少年Aは、無責任に物語ることを許されなかった。子供の言葉は、子供っぽいおとなを苦しめる。Aは、既存の物語に仮託し、[自分の物語]を語った。Aにとって、[世界]は不可欠だった。
 [世界]は、[人々が語る/私の物語]の代用をする。[私が語る/私の物語]は、[人々が語る/私の物語]によって、良くも悪くも固められる。[私が語る/私の物語]と[人々が語る/私の物語]が牧歌的に融合すれば、[私と人々の物語]が生まれ、[私達]が出現する。[人々が語る/私の物語/の中の/私が語る/(やがて)/私達の物語/の中の/私]として、社会化された[私]も出現する。しかし、[私]について語る[人々]の集団が複数あると、[私]は、[人々の語る/私の物語]群の中の、それぞれの[私]に分裂する。勿論、そうした状況は、どんな[私]にとっても不可避だが、そうした状況など存在しないかのように扱われたり、あるいは、無視するように強制された場合、[私]は、[この人々か、あの人々か、誰かが語る/私]という、不安定な存在のまま、さまようことになる。こんな状況を打開しようとして、[私が語っているのは、この私のことだ]などと、強く主張すれば、却って、[私が語る/私の物語]と[この人々か、あの人々か、誰かが語る/私の物語]の亀裂は深まるばかりだ。[あの人々でもなく、この人々でもない、誰かが語る/私(って、誰?)の物語]が始まるとき、物語の中で、[私]は、「伝説的動物」(『歯車』1)と似たり寄ったりの、いかがわしい存在になる。いかがわしい存在である[私]が、[私について語る人々]を跨ぎ越し、「譬喩」(A『続西方の人』13)として語られることを望むとき、いかがわしさは神々しさに偽装される。つまり、「みづから神にしたい」(『或旧友へ送る手記』)と願ったり、「仙人」(『杜子春』)になろうとしてみたり、とにかく、「偉くなる積もり」(N『こころ』73)になったりするわけだ。
//「冷笑」
  彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点
 は一つ残らず彼にはわかっていた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。
 しかしルッソオの懴悔録さえ英雄的な嘘に充ち満ちていた。
                            (『阿呆』46)
 [自分の「弱点」を知悉しているつもりでいるから、「阿呆」だ]と書いてあるのではない。[「弱点」を克服するために、本に頼るのは、狡い]と書いてあるのでもない。普通、どんな欠陥が、読書を無駄なものにすると考えられるか。読解力の低さだ。しかし、そういう意味のことが書いてあるのではない。
 誰でも分かるはずだが、だから、Aだって分かっているはずなのだが、[読書から得た知識が多すぎて、困る]というような事態はない。「精神的破産」は、読書体験以前に起きたものだろう。「冷笑」の主体は、そのときから、Aの隣にいて、チェシャ猫(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』)のように、本体は見えないのに、笑いだけを見せていたようだ。
 Aを「冷笑」するものは、「微笑」(『河童』14)する「近代教」(同)、もしくは、「生活教」(同)の「長老」(同)の姿を借りて、次のように語る。
  この聖徒は事実上信ぜられない基督を信じようと努力しました。いや、
 信じているように公言したこともあったのです。しかしとうとう晩年に
 は悲壮な嘘つきだったことに堪えられないようになりました。
                            (『河童』14)
 「この聖徒」は、いつから、「悲壮な嘘つきだった」のか。普通に考えれば、「信じているように公言した」ときからだ。しかし、なぜ、そのとき、「悲壮」だったのか。「信じようと努力」する姿は「悲壮」であるように思えるが、そのときは、まだ、嘘をついていない。[「悲壮な嘘つきだったことに堪えられない」時点では、「悲壮な嘘つきだった」と書かれているから、「嘘つき」ではなくなっていて、過去の所業を恥じていた]という意味か。違うようだ。[「努力し」てから「公言し」て、そして、「堪えられないように」なるまで、一貫して、「この聖徒」は、「悲壮な嘘つき」だった]と読むべきなのだろう。だが、そのような人物を想像することは、私にはできない。
 「ルッソオの懴悔録さえ英雄的な嘘」という表現と同様に、「悲壮な嘘つき」という表現は、私には雲を掴むようなものだ。[皮相な嘘]の変換ミスか。座布団、取っちゃえ。
//「物わかりがよさそう」
 子春に対する、「どこか物わかりがよさそうだ」(『杜子春』3)という「仙人」の言葉が呪文となって、子春を縛り付ける。この呪文は、[かなり、騙され易いタイプかもね]という意味の業界用語だろう。もともと、金を目当てに寄ってくるような「人間というものに愛想がつきた」(同3)などと、薄弱な動機で仙人志願をする子春を、「感心に物のわかる男」(同3)と評する「仙人」は、浅はかでなければ、嘘つきだろう。
 「立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな」(『杜子春』3)と、「仙人」は言った。その言葉が偽りでないとすれば、子春には仙人に成る方法があったはずだ。しかし、それはどんな方法だったか。ついに知れないまま、物語は終わる。
 思えば、「仙人」は、[お前を「立派な仙人」にしてやろう]とは、言わなかった。「仙人」は、何も約束しなかったようなものだ。マルチ商法の手口。
 『杜子春』で嘘をついているのは、誰なのか。子春か、「仙人」か、語り手か、作者か。おっと、忘れていた。「母親」もいたっけ。作者の想像する読者も、嘘つきなのかもしれない。
//「聡明な彼」
  彼は勿論彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っ
 ている。しかしその好意の為に、相手の人物に対する評価が、変化するな
 どと云う事は少しもない。これは聡明な彼にとって、当然すぎる程当然な
 事である、が、不思議な事には逆にその評価が、彼の好意に影響すると云
 う事も亦殆どない。だから彼は場合によって、軽蔑と好意とを、完く同一
 人物に対して同時に感ずる事が出来た。
                           (『戯作三昧』2)
 ここで、「聡明な彼」とは、[自分を「聡明」だと思い違いしている「彼」]という意味の皮肉ではないのかという疑問は払拭できないが、以下、皮肉ではないものとして考える。
 「彼は勿論彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている」という文を一読して、私は、[「愛読者」は、「勿論彼の」愛読する「著作の」著者「に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている」]の誤記ではないかと思った。[著者は、読者に好意を持つ]という考えは、私には理解できない。ところが、「勿論」とか、「それ相当」などと、強い調子で語られているから、困ってしまう。私は、私の愛読する著作の著者から「好意」を持たれているとは思わない。私には、どんな著者ともお付き合いがないから、当然のことだが、もし、お付き合いがあったとしても、[お付き合いがあるから、「好意」を持ってもらいたい]と思うのであって、[私は読者なんだからね、絶対、「好意」を持ってよ]などとは考えないと思う。
 Aは、なぜか、[著者は、読者に好意を持つべし]という前提で考えるらしい。『歯車』で、Aに声をかけた、自称「愛読者」(同2)が、実際には、どう思っていたか、知る由もないが、Aは、[著者は、読者から「それ相当な好意」を求められても、拒む権利がない]と思っているから、鬱陶しくなったのだろう。
 読者は著者に「好意」を持つが、その逆の場合はない。だから、[ありもしない「好意」のために、読者に対する「評価」が変化することなど、ない]のは、当然なのだが、ここはそういう話ではない。困ったことだが、ここは、[著者は、読者に「好意」を持つ]ものとして、読み進めることにしよう。
 さて、[読者は、著者に「好意」を持つ]としても、読者に対して持っている「好意」のせいで、読者に対する人物評価を変化させないために、著者は、「聡明」でなければならないのだろうか。そんなはずはない。そんなことは、「当然すぎる程当然な事」だ。しかし、ここも、また、そういう話ではない。
 語り手は、突然、「が、不思議な事には逆に」と語り始める。「その評価が、彼の好意に影響すると云う事も亦殆どない」という。[どうせ、誰にも「影響」のない話なら、もう、止めなよ]って言いたいとこだね。
 「その評価」という話題は、著者と読者の関係を離れているのではなかろうか。だとしたら、「その評価が、彼の好意に影響すると云う事も亦殆どない」のは、「不思議な事」のようだ。もし、この話題が著者と読者の関係から離れていないとしたら、語り手は、[著者が読者に対して持つ「好意」の幅は、極めて狭い]という意味のことを語っているように見える。
 ところで、ここらで、一応、確認しなければならないことがある。語り手が「愛読者」という言葉で指している人物は、純粋な読者ではない。不特定多数の読者から区別された、著者と何らかの交流のある、特殊な読者のことだ。こういう人物を、[著者と読者]という関係において語り続ける語り手の気が知れないよ。
 [著者は、自分が読者との関係において、常に優位な位置を占めることができる]と、「馬琴」は錯覚している。[その関係が壊れない程度には、著者は、読者に、多少の「好意」を下賜する習慣になっている。ところが、読者の中には、著者から拝領した「好意」によって、自分が著者と同じくらい、偉くなったと勘違いする輩がいるよ。そんなやつは、「軽蔑」だね。あ、でも、「好意」までは、取り上げないよ]ってな話なのかね。
 でも、読者に勘違いを起こさせた原因は、著者にもあるよ。「彼」が、著者として、通常ならあり得ないような「好意」を、読者に示したからだ。
 語り手は、「不思議な事」と記すのだから、[著者と読者]という関係から離れようとしない「彼」の態度が尋常でないとは、感じているのだろう。しかし、どのように尋常でないか、分かっていないように見える。
 さて、「だから彼は場合によって、軽蔑と好意とを、完く同一人物に対して同時に感ずる事が出来た」と続く。ここまで、語り手は、何やら、「影響」の薄さを強調して来たのだから、「軽蔑」といっても、そこそこだろうし、「好意」といっても限界がありそうだから、実態としては、どちらにせよ、淡白なもので、ほとんど、無関心と言ってもいいようなものだろうから、ここで、ことさら、「軽蔑」と「好意」を区別する必要はなさそうに思える。しかし、そうではないらしい。
 さあ、困ったぞ。語り手は、恬淡とした著者の像を形成したがっているようだ。ところが、「不思議な事」に、語り手が折角作ったその像を、作者が破壊していくらしい。どういう皮肉なのか。
 ちょっと振り返ると、「彼の好意に影響すると云う事も亦殆どない」と書いてあるのに気づく。「殆どない」というのだから、たまには、「影響する」というのだろう。では、どんな場合になら、「影響する」のだろう。この疑問を、語り手は、「だから」と、はぐらかす。何が、どうして、「だから」なのだろう。
 「彼は場合によって、軽蔑と好意とを、完く同一人物に対して同時に感ずる事が出来た」とさ。
 おやおや。この語り手は、あまり、聡明ではなさそうだぞ。
 「場合によって」とは、どんな場合かな。ここは、場合分けが必要な場合なのかな。「場合によって」という言葉は、「彼の好意に影響する」場合についての入り口になりそうなのに、ならないで、「不思議な事には逆に」「彼の好意に影響」しない「場合」へと展開する。そして、「完く同一人物」という、奇妙な言葉に行き着く。「完く」ではない「同一人物」がいるかのようだ。ここは、[一人の人間に対する印象が、「軽蔑と好意」とに分裂するので、「完く」別個の人間が一体化して「同一人物」になって現れたかのように「感ずる事」がある]というような文が隠されていると思わなければならないのだろうか。つまり、語り手は、一人の人物を[「軽蔑」の物語]と[「好意」の物語]とにおいて、「同時に」存在させているらしい。やっぱり、「不思議」だなあ。
 ええっと、こういうことかな。
 [彼は、彼の愛読者に愛されるときを待ち焦がれている。しかし、愛読者の愛が生身の人間としての著者その人への愛であることは稀だと承知しているので、彼は、愛読者からの愛を期待するという愚行を犯さないように、日頃から注意している。ところが、やがては、焦れて、制御不能になり、彼の著作を愛しながらも、生身の彼を愛そうとしない読者に、怒りを募らせることになる。とは言え、彼は、その怒りを「軽蔑」という衣装に包むことができる。だから、駄々っ子のような振る舞いをせずに生きていられる。ワオ! このような心理操作に長けた彼を、「聡明」と讃えようぜ、皆様方よ]
 いやだ。
 「聡明」という語は、次のような文脈で用いられるのが適当だと、私は思う。
  「ほんとうに聡明で、知恵のある人物とは、まず沈着な性格と、強靭な精
 神を、そなえるべきだ。しかるのち、はじめて聡明と知恵を運用すること
 ができるのだ。そうでないものは、たんに焦りと脆さにすぎない。だから
 わしは、そなたをまだ幼稚だというのだ。」
  王子はこの話をきき、夢からさめたような思いで、頼みこんだ。
  「どうか、わたしに沈着な性格と、強靭な精神がもてるよう、お助けくだ
 さい。」
  隠士はにっこりして、
  「半分は自分の決心が必要、あとの半分が他人の助け、その両方があって
 こそ、はじめて成功するというものだ。」
            (田海燕編『チベットのものいう鳥』君島久子訳)
  Aの明晰は欲望の欠如に基く。私のは過剰の結果だ─たぶんこれだ
 けが本物といえるだろう。もしも錯乱の否定にすぎないのであれば、その
 明晰さは徹底した明晰さであるとはいえず、最後まで行き着くことにた
 いする恐怖の域を脱しておらず─それが倦怠のかたちに、すなわち過
 剰な欲望の対象にたいする侮蔑のかたちに置換えられたまでのことであ
 る。
           (ジョルジュ・バタイユ『不可能なもの』生田耕作訳)
//「云いようのない寂しさ」
  馬琴は腹が立ったから、すぐに手紙を書いた。そうしてその中に、自分
 の読本が貴公のような軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だという文句
 を入れた。
                           (『戯作三昧』9)
 さて、後に、「馬琴」は、めげる。
  馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情無さと、彼自身
 に対する情無さとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれは又彼
 を、云いようのない寂しさに導いた。
                               (同)
 使用されている文字は、全部、見知っている。でも、理解できない。いま、ここで、Aの読者である私達は、「A先生」(『歯車』2)に「軽薄児」呼ばわりされないためには、そして、「一生の恥辱」や「情無さ」や「云いようのない寂しさ」などと無縁でいていただくためには、どのような読者になるべきなのだろう。
 前提として、[著者と読者の間には、愛に似た何かが通うはずだ]という文があると思われる。そして、[愛に似た交流が損なわれるせいで、「云いようのない寂しさ」という感情が生まれる]とでも言いたいらしい。しかし、この前提が、その当否は、ともかく、情報として提示されていないので、「寂しさ」という言葉が浮いてしまう。
 一般的に言って、愛読者とは、『ミザリー』(スティーヴン・キング)を思い出すまでもなく、「著作」を愛する人のこと、あるいは、「著作」の[世界]を愛する人のことであり、著者個人を愛する人のことではない。私達が[書くこと/読むこと]を選ぶ、主な理由は、[直接的な人間関係を成り立たせずに、情報の交通だけは成り立たせようとする]ところにある。だが、ある種の人々にとって、[書くこと/読むこと]という一方通行の伝達が、[話すこと/聞くこと]という、双方向の交流の疑似的行為であるのかもしれない。
 『戯作三昧』作者には、[世界]があるようだ。その[世界]の原典には、[「聡明」な人間だったら寂しがるものだし、その「寂しさ」を分かってくれる「愛読者」は存在する]というように語られている。その原点は、『こころ』(N)として知られているものだろう。
 Nが「先生」(『こころ』)という登場人物を通してしか得られなかった、「私」(同)という、「先生の遺書」(同)の「愛読者」のような受信者を、『戯作三昧』の頃のAは、現実に得られると期待していて、その期待と失望を「馬琴」のものとして表出しているのだろう。そうとでも考えなければ、『戯作三昧』という、このナンチャッテ時代劇が出現する理由は、特にないように思われる。
   私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我
 慢したいのです。
                           (『こころ』14)
 『こころ』では、「覚悟」(同)として表明されているらしい何かが、『戯作三昧』では、挿話として引き伸ばされているのかもしれない。
  彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。
 彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
   「何と云ふ人生のもの寂しさ、……」
                       (『或阿呆の一生』草稿)


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