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#056[世界]16先生とA(06)「ぼんやり」 //「書き残し」 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは 自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであ ろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと 思っている。 (A『或旧友へ送る手記』、以下、A) 私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語 り得るものではないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努 力は、人間を知る上に於て、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労で はなかろうと思います。 (N『こころ』110、以下、通し番号のみ) //「ぼんやり」 自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないで あらう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少く とも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼ んやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないで あろう。 (A) 私を理解し得ないために起るぼんやりした希薄な点が何処かに含まれ ているようでした。 (108) //「風のように」 しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、 僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。従って僕は君 を咎めない。 (A) 私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私の自殺 する訳が明らかに呑み込めないかもしれませんが、もしそうだとすると、 それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は個 人の有って生れた性格の相違と云った方が確かも知れません。 (110) 私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、 折々風のように私の胸を横過り始めたからです。 (107) //「道学の余習」 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持っている。(僕は僕の 将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の 中に大体は尽しているつもりである。唯僕に対する社会的条件、─僕の 上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかった。 なぜ又故意に書かなかったと言えば、我々人間は今日でも多少は封建時 代の影の中にいるからである。 (A) 比較的自由な空気を呼吸している今の貴方がたから見たら、定めし変 に思われるでしょう。それが道学の余習なのか、又は一種のはにかみなの か、判断は貴方の理解に任せて置きます。 (83) //「衣食住の心配」 それから僕の考えたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕 の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と 僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺 した為に僕の家の売れないことを苦にした。従って別荘の一つもあるブ ルヂョアたちに羨ましさを感じた。君はこう云う僕の言葉に或可笑しさ を感じるであろう。僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じている。 が、このことを考えた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到 底避けるわけに行かない。 (A) 私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。 (110) //「血の色を見せない」 僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないように自殺したい と思っている。 (A) 私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せ ないで死ぬ積りです。 (110) //「妻」 そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それ は誰も一しょに死ぬもののないことに絶望した為に起った為ではない。 寧ろ次第に感傷的になった僕はたとい死別するにもしろ、僕の妻を劬り たいと思ったからである。 (A) 同時に私だけが居なくなった後の妻を想像して見ると如何にも不憫で した。 (109) //「こっそり」 最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないように巧みに自殺す ることである。 (A) 妻の知らない間に、こっそり此の世から居なくなるようにします。 (110) //「矛盾」 唯自然はこう云う僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しい のを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。 (A) 私はこういう矛盾な人間なのです。 (55) //「落ち付いて」 けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。(A) これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の 人と比べたら、或は多少落ち付いていやしないかと思っているのです。 (57) //「私の秘密」 どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給え。 (A) 私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられ た私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」 (110) //「頓死したと思われたい」 僕は或は病死のように自殺しないとも限らないのである。 (A) 私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。 (110) //「偉くなる積り」 僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古 いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、みづから神としないも のである。いや、みづから大凡下の一人としているものである。君はあの 菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えて いるであろう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だった。 (A) 然し我々は真面目でした。我々は実際偉くなる積りでいたのです。(73) |